青いバラ

高野敦志



 真夜中、トオルは目を覚ましました。病室の中には月の光が射し込み、他の子供たちの寝顔がぼんやりと見えます。部屋の空気はむっとして、パジャマはじっとり汗ばんでいます。腕を伸ばして窓を開けましたが、風は少しも入ってきません。しかし、夕方雨が降ったせいか、外の方が幾分涼しいようでした。
お姉さんはあした、見舞いに来てくれるかな。
 トオルには十近く離れた姉の他、血のつながった家族はありません。生まれてまもなく、両親は事故で亡くなったからです。また、二人を育ててくれたおばあさんも、昨年の冬には世を去っていました。
 コオロギが一匹、窓のすぐ下のくさむらで鳴いています。それが歌うのを止めると、辺りはすっかり静まり返っていました。ベット脇の箪笥の上には、トオルの好きな絵本が数冊置いてありました。でも、この薄暗さの中では、とても読むことは出来ません。目は冴えてしまったので、外が明るくなるまで、どう過ごしたら良いか、トオルは途方にくれるのでした。
――面白いことはないかなあ。
 窓の外を眺めると、花壇には赤や白のバラが、昼間と変わらぬ表情で咲いています。何だ、つまらない、と思い、目をそむけようとした時、囲いの石の傍らに珍しい花を見つけました。それは形こそバラと同じでしたが、一輪だけ青い蕾を開き、月の光を受けて回りに白い光を放っているのでした。
――夜になって咲いたんだな。
 トオルにはその花が余りに可憐で、真昼の強い日射しには耐えられないような気がしました。それにしても、どうして青い花なんか咲かせたんだろう。不思議に思ったトオルは、そのわけを花に尋ねてみたくなりました。
――でも、おまえには口がないからなあ。
 トオルが天井を向いた時、窓の外から人がささやくような声がしました。驚いて首を窓の外に出しましたが、人の姿など見当たりません。気のせいかと思って、枕に頭を戻すと、また自分の名前を呼ぶ声がします。
――ぼくがどうして青いのか、聞きたいんだね。
 どうやら声の主は、先程見つけた青い花のようでした。でも何でこちらの気持ちが分かったんだろう。トオルが黙って眺めていると、そのバラは微かに花びらを動かし、甘い香りを放ちながら、話を続けるのでした。
――ぼくが口がきけるのは、ね、君がぼくと話したい、と思ったからなんだよ。
 なるほど、とうなずいてみたものの、なぜ花がしゃべったのかは、どうしても合点がいきません。そこで、声を出して尋ねようとした時です。
――だめだよ。他の子が起きてしまうからね。
 それならば、とトオルはバラを見つめたまま、心の中で次のように問いかけました。
――教えてほしいんだ。何でこちらの気持ちまで分かるんだい?
――君がそれを望んだからさ。この世界で思い通りにならないことはないんだよ、それが素直な心から発したものである限り、ね。ぼくが青い花を咲かせたわけから、先ずお話しすることにしよう。ぼくの親兄弟は皆、赤や白の花びらをしている。バラの木は一本一本、希望を持っているんだ。どんな花を咲かせて、鳥や虫たちに愛されようか、ってね。赤い花をつけた木は、太陽のように燃える心がほしかったんだ。でも、毎日それが照り続けると、トゲで身を守ったぼくたちでも、喉がからからで干上がってしまう。そこで日照りが続くと、まだ蕾をつけていない弟たちは思うんだ。早く雨が降らないかなあ、あの強い光をさえぎって、少しは日陰でお休みしたい……。その願いが通じて、弟たちは上に浮かんだ雲みたいな、真っ白い花で身を飾ることになったんだよ。
――でも、どうして君だけ、青い花を咲かせたんだい?
――ぼくは一生同じ場所で身動き出来ないのが、我慢ならなかったからだ。ぼくの真上には青い空が広がっている。それはどこまでも、続いている。ぼくの知らない世界の上にも……。あの青い空がほしかったんだ、ぼくは。だけど、青い蕾をつけるのは、容易なことではなかったよ。バラの体の中には、空の色を出す細胞が、もともとはなかったからね。そこで、人間に研究してもらい、科学の力でぼくみたいな、変わった花をつける木も現れたわけさ。
――この部屋から早く出たい。
――立ち上がってごらん。
――でも、長い間足は使っていないから動かないよ。
 トオルは起き上がって、ベットの端からゆっくり足を下ろしました。手でつかまりながら、ドアの前まで来ましたが、思い切って二本足で歩いてみました。痛みはほとんどないし、意外に軽やかに動くのです。有頂天になったトオルは、胸の病気のことも忘れて、すっかり元気になったように思いました。危うく廊下を駆け出そうとしたほどでした。立ち止まると、廊下はしんとしています。螢光灯のついた部屋をのぞくと、夜勤の看護婦さんが机の上にうつぶして、うつらうつらしています。トオルがガラスを隔てて見ているのに、気づきそうな気配は少しもありません。これならば、外に出てまたそっと病室に戻っても、とがめられる心配はないでしょう。
 外はやはりパジャマ一枚では、涼しすぎるみたいでした。しかし、トオルの頭の中は、あの青い花のことでいっぱいでした。見慣れたバラが咲き乱れる中、月の透明な光は花壇の手前、ちょうどあの花の回りにだけ下りていました。
――本当だね。ぼくはこうして立っている。
 トオルは青いバラの前にしゃがみこみ、その花びらのすき間にささやくように言いました。花はそれに答えて、風もないのに軽くおじぎをするのでした。
――ぼくのお願い、かなえてもらえるかな。
――それをかなえるのは、君自身の心なんだよ。
 立ち上がったトオルは、その場で目をつぶり、昨年亡くなったおばあさんの顔を、まぶたの裏に思い描きました。目を開けた時、星空の真ん中に、元気だった頃の生き生きとした表情が、映し出されているではありませんか。白い髪を後ろで丸く結い上げ、しわの寄った肌にうっすら化粧をしています。静かな目でこちらを見つめ、唇を微かに開いて、何かを語りかけようとしています。
――おばあちゃん!
 するとその顔は見る見る小さくなり、星空に現れた人々の輪の中に加わりました。そこにはつい先頃亡くなった隣りのおばさんや、幼稚園の頃死んだ犬や鶏の姿も見えました。その黄色い鶏には、苦い思い出が残っていました。庭に出るたびにつつかれていたので、トオルは「おまえなんか、焼鳥にして食べちゃうぞ」と言いました。ところが、そのすぐ後、その鶏は他の鳥にいじめられ、血だらけになって死んだのです。
――あれは皆、影なんだよ。
 青い花は言いました。輪となった人々や動物たちは、「かごめかごめ」をしているかのように、踊りながらゆっくり回っています。トオルは輪の中にいる顔を、一人一人見つめていきました。ところが、その誰とも目が合わず、表情一つ変えてくれません。踊りの輪は次第に速くなり、じっと見つめていると目が回りそうです。
――あれは針のない時計だよ、とバラは謎めいたことを言いました。あの中では時間は止まっている。おばあさんや動物たちには、過去もなければ未来もない。君に気づかなかったのはそのためだ。
――つまり、みんな永遠に一緒にいられる、っていうわけ?
――そう。
――ぼくもあそこへ行きたいな。
――行ってはいけない! もう戻ってこられないよ。
 トオルには花の言葉は耳に入りませんでした。星空の輪はますます回転の速さを増し、周囲に金色の炎を放っています。それは今までに見たことのない夜の太陽でした。
――何てきれいなんだろう……。
 うっとりして目をつぶった時、彼の足はすでに地面を離れていました。ふいに、あした見舞いに来てくれるはずの、お姉さんの顔が頭をよぎりました。まぶたを開くと、トオルの体はますます速く、金色の輪に向かって飛んでいきます。まるで自分がロケットに変わったみたいです。赤や青の光が辺りを飛び交い、やがて目は余りの明るさのため、見えなくなってしまいました。

         *

 次の日の朝、トオルは病院の庭で倒れていました。夏の強い日射しが照らしていましたが、起き出している人はまだ誰もいません。目を覚ましているのは、枝でさえずる小鳥たちだけでしょう。彼が冷たくなっているのも知らないし、どうしてそんな所にいるのかも、分からないに違いありません。しかし、トオルは不幸ではないのです。なつかしいおばあさんや動物たちに会えた喜びで、今も胸がいっぱいなのですから。その動かなくなった指の間に、一輪のバラがはさまっていました。青い花びらは強い光にしなびることなく、みずみずしい美しさを保っていました。


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