自由と死

高野敦志



 ジョルジュ・バタイユは一九三四年一月から、アレクサンドル・コジェーヴによる、ヘーゲルの『精神現象学』に関する講義に出席している。バタイユは『内的体験』をはじめとする著作の中で、しばしばヘーゲルに言及しているが、その理解はコジェーヴの解釈に沿ったものである。「主人と奴隷の弁証法」について、彼はその結論に否定的な見解を示さざるを得なくなる。というのも、「企て」によって目的を達成するために、人間は「労働」に従事しなければならないからである。
「まさに労働の定義が少なくとも、私の示したいことを垣間見せてくれるようです。労働とは典型的な企てであって、つまり、現在の態度が後の結果に従属した活動です。要するに労働の中には、求めている結果に対する人間の従属があるわけです」(1)
 ヘーゲル哲学を意味による厳密な体系と認めた上で、その限界に鋭いメスを入れることを忘れてはならない。バタイユが探究しているものは、哲学がその体系の中に収め切れぬ外部にある。
「ヘーゲルは曖昧な精神が当時頼りにした優柔な譲歩を退けたという点で、間違っていたのではなく、実存と労働(推論的思考・企て)を混同することで、世界を世俗世界に矮小化してしまったのだ。彼は聖なる世界(交感)を否定する」(2)
 ヘーゲルの思考に対し、バタイユは何に異議を申し立てているのか。「企て」「従属」を基本的原理とする「労働」が、ヘーゲルの弁証法では、奴隷の主人に対する勝利によって称揚されている点。それと同時に、この世俗世界を世界全体と混同し、既知の概念から既知の概念への、連鎖に過ぎぬ知の円環の内に止どまって、その外部にある聖なる世界を否定した点である。それについて確認するために、レーモン・クノー編によるコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』に、直接当たってみることにしよう。
 ヘーゲルよれば、人間は先ず他者がおのれの価値を認め、他者がおのれを自律した存在である、と承認することを求める、という。そのために生命を賭けた戦いが展開される。「さて、人間的現実は、認知をめざす戦いの中で、また、その戦いが意味する生命の危険によってのみ、作り出され構成されるのである」(3)
 その戦いの中で危険を顧みずに奮闘したものは「主人」となり、おのれの生命を危険にさらすのを拒んだ者は「奴隷」となる。この戦いの目的は「認知」であった。
「したがって、戦いによって敵を殺すことは、人間にとって何の役にも立たない。人間は敵を『弁証法的に』抹殺しなければならない。つまり、敵に生命と意識を残しておき、その自律性を破壊するに止どめておく必要がある。人間はおのれに対立し、おのれに逆らって活動する者としてのみ、敵を抹殺するのでなければならない。言い換えれば、敵を奴隷化しなければならないのである。」(4)
 ところで、主人は奴隷を道具として支配する。奴隷を人間として認めないことから、主人がおのれの価値を奴隷に「認知」させようと思っても無駄である。奴隷は主人にとっては、動物と変わりがないからである。主人は奴隷の媒介によって、世界に存在する事物と関わるようになる。
「努力の全体は奴隷によってなされ、主人はもはや奴隷の用意してくれた事物を、消費することで否定し破壊し、享受しさえすればよいのである」(5)
「それゆえ、他者(奴隷)の労働によってのみ、主人は自然に対して自由であり、したがって、自身に対して満足するのである。しかし、彼が奴隷の主人であるとは言えない。というのは、主人は純粋な威厳のための戦いの中で、おのれの生命を危険にさらし、(彼の)自然から、先ず解放されたからである……」(6)
 人間の特性は、与えられたままの自然な状態にある事物を、自らの役に立つように変えるところにある。主人は奴隷を支配することで、現状に満足してしまうのである。それによって、生命を賭けて戦った意義は失われていく。事物と乖離することで、主人は生きていくために、奴隷に依存するようになる。主人たる資格は、ここで失われるというわけである。
「というのは、先ず人間は、主人であれ、奴隷であれ、満足した人間が必然的に奴隷となるからである。より正確に言うなら、奴隷だった人間は奴隷の身分を経ることで、自身の隷属を『弁証法的に抹消』したのである」(7)
 奴隷だった者は、労働における事物との関わりにおいて、生命を賭けたことになる、というのがヘーゲルの主張である。労働を通してこそ、奴隷は主人をおのれに依存させることが出来る。
「無為な支配は袋小路に入っているが、勤勉な隷属はうらはらに、人間の社会的歴史的全進歩の源泉である。歴史とは働く奴隷の歴史である」(8)
 こうしてヘーゲルは、奴隷の勝利を必然的なものと考え、その「弁証法」を締めくくろうとするのである。
「したがって、労働によって、労働によってのみ、人間は客観的に人間として、自己を実現するのである」(9)
「奴隷のみが彼を形成し隷属の中に据えた世界を変形し、彼によって作られた世界を創造し、その世界で解放されるだろう。そして奴隷は、主人のために強いられ苦悩に満ちて実行される労働によるしか、そこに到達しない。確かに、この労働はそれだけでは、奴隷を解放しない。しかし、この労働によって世界を変形することで、奴隷はおのれ自身も変わり、こうして、新たな客観的環境を生み出し、それによって、最初は死に対する恐れによって拒んでいた、認知のための解放闘争を、再開することが出来るのである」(10)
 果たしてヘーゲルの「主人」は、生命を賭けて、つまり、死を覚悟して戦ったのだろうか。彼は当初、人間が自己を創造することと、その死が現実化することを、同一視していたという。
「しかし彼は、人間の実現は現実の死の中で、つまり、まさしく消滅によってしか完全に実現され得ないとは、もはや言わない。問題となっているテクストの中で、彼は明白に、人間存在を実現するためには、生命の危険だけで十分である、と言っている。自ら進んでおのれの生命を危険にさらしはしたが、死を逃れたものが、人間的に生きることが出来る。つまり、自然的世界のただ中において、経験的現実存在(現存在)の中で、人間として自身を維持するのである」(11)
 「死を逃れた者」でなければ、生きることが出来ない、と言うのは当たり前のことかもしれない。しかし、問題となるのは「人間的に生きる」ということである。ヘーゲルは人間の特性を、自然からの解放の内に見出だしている。「認知」という純粋に抽象的なもののために、生命を危険にさらすことの中に、彼は自然の秩序に対する違反を、見ていたのではなかったのか。実のところ、ヘーゲルの「主人」は死を恐れているのではないか。
 バタイユの視点に戻ることにしよう。彼は「労働」を称揚し歴史を「働く奴隷の歴史である」と規定するヘーゲル流の考えを批判する。というのも、「聖なる世界」を否定するその立場は、世界の全貌をとらえていない、と考えられるからである。さらに、「労働」とは現在を未来のために従属させることでもある。何故死を恐れるのか。死は「労働」と異なり、何らの報酬も与えてくれない。そして、その中に自己は消滅してしまうのである。しかし、そうした死の中にこそ、「人間的に生きる」ための鍵は潜んでいないだろうか。彼が弁証法に批判的であるのは、「企て」の典型たる「労働」の中に人間の意味を見出だそうとする、偏狭な価値観が認められるからである。
 「企て」に対するものとして、彼は「供犠」という概念を提出する。
「企ての反対は供犠である」(12)
 実際に死が訪れる時、人間は未来に対する配慮を失ってしまう。犠牲になるものばかりか、その儀式に参加している人々にも、人間の力を越えた死の持つ力が伝わっていく。
「そして、企ての中では結果のみが重要である時、供犠の中では、行動自体こそが自身の内に価値を集中させるのである」(13)
 こうした至高の瞬間をバタイユは好む。彼にとって大切なものは、現在を自由に生きることなのではないか。「労働」に対する批判も、それが人間を疎外に追い込み、隷属させているからであろう。彼の思考が極めて厳密である、ということは、お分かりいただけたと思うが、あくまで自由を求め、隷属性を逃れようとするとどうなるか。
「何かを求める時、それが何であれ、至高な生き方はしていない。我々は現在の瞬間を、それに続く未来の瞬間に従属させているのである。我々は恐らく、努力の末に至高な瞬間にたどり着くだろう。実際、努力は必要なのかもしれないが、努力する時と、至高な時との間に、否応なく断絶があって、それは深淵であるとさえ言えるだろう」(14)
 至高な瞬間を求めること自体が、「求める」ことの意味によって隷属的になるのである。ただし、バタイユは至高なものの存在を、否定してしまったわけではない。彼は自らの厳密さによって袋小路に入っている。ここで押さえておく必要があるのは、彼にとって自由が、かけがえのないものである、ということである。

 自由について考えを掘り下げていこう。これは先に挙げた「人間的に生きる」という問題と関わってくる。自由を失ったという時点で人間は拘束され、その自律性は奪われてしまう。ここでふたたび、ヘーゲルの思想との接点を探ってみよう。それによって、「自由」と「死」の関係も明らかになるかもしれないからだ。ヘーゲルは人間の特性を、次のように考えている。人間にとっての現実は、永遠に同一のものではなく、時間的に前進する自己創造の行為である、と。
「この人間の自己創造は、(自然的・人間的な)所与の否定によって実行される」(15)
 人間は世界を変えることによって、自己を生み出していく。自然から与えられたものに満足しないところに、人間性の顕現を見るわけである。人間が自己を創造するものであるのならば、常に自身も変化し続けるはずである。永遠の生命や不変性とも無縁でなければならない。これは人間が自由を得るために、絶対見逃してはならない点である。
「さて、ヘーゲルにとって、『精神的』ないし『弁証法的』存在は、必然的に束の間の有限なものである。無限で永遠の精神、という、キリスト教的な考えは、それ自体で矛盾している。無限の存在は必然的に、『自然の』与えられ静止した存在、永遠に自身と同一の存在である。そして、生み出され、生み出す『力動的』で更には、歴史的ないしは『精神的』存在は、必然的に時間の内に限定された、つまりは本質的に死すべきものである。ユダヤ・キリスト教的伝統は、このことは都合よく納得してしまった。魂の不死を認めながら、神の世界の実在を認めたのだ。その神の世界は、人間の死ののち、人間にとって『自然の場所』となる。(この死は人間を、この世の自然的人間的な世界の構成要素としては消す)そして、ことの論理的な成り行きによって、キリスト教徒の思考は、不死の人間を、永遠で無限の超越的な神に従属させねばならなかった」(16)
 人間が自己を生み出し、世界を変える者として存在するには、永遠の神に従属するわけにはいかない。人間が本性を発揮するのは、「所与の否定」という自由を享受した時である。神の世界が仮に実在するとしたら、そうした自由は当然許されなくなる。自己創造という可能性も、否定されざるを得ない。人間は死においてこそ、絶対的な自由を確保するはずである。その自由のためには、神への従属を強いるような、死後の世界が存在しては困るのだ。ここで動物の死との違いが明らかにされなければならない。
「人間は本質的・自発的に死すべき者でなければ、自由ではあり得ない。自由とは所与に対する自律性であり、つまり、与えられたままとしての所与を否定する可能性である。そして、自発的な死(自殺)によってのみ、人間は実存におけるいかなる与えられた(=課された)条件の支配をも、逃れることが出来るのである。もし人間が死すべき者でなければ、もし『必要』がないとして、自らに死を与えることが出来なかったら、人間は存在 ーこの場合『神』と呼ばれるに値する存在ー によって与えられた総体性によって、厳密に規定されることを逃れることはないであろう」(17)
 つまり、人間が自然のもしくは神の秩序から、完全に自由になるためには、動物のような「自然な」死ではなく、「自発的に死すべき者」でなければならない。キリスト教において、自殺が厳しく禁じられているのも、それが神の秩序に対する反逆だからである。ヘーゲルにとって、人間の自由には「自発的な死」が不可欠である。後にヘーゲルは、この死を「生命の危険だけで十分である」と言い換えてしまっているが。生きて「所与を否定」する「自由」を得るために、人間は「労働」に従事しなければならなくなる。現実の死を恐れたばかりに、人間は「労働」という別種のものに、隷属しなければならなくなるのだ。
 バタイユにとって死とは何か。ヘーゲルの場合のように、バタイユの考えている死を、自然の秩序からの解放、という観点からもとらえ直すことも必要かもしれない。
「不安をかきたてる死の性格は、人間が苦悩を持つことへの欲求を意味している。この欲求がなければ、死は人間にとって、容易なように思われる。苦しんで死ぬ人間は、自然から遠ざかり、幻のような、人間的な、芸術のために作られた世界を生み出す。我々は悲劇的な世界の中に、『悲劇』が完結した形である、作り物の雰囲気の中でくらしている。動物にとって悲劇的なものは何もない。動物は自我という罠の中に陥ることがないのだ」(18)
「苦悩を持つことへの欲求」こそ、人間を動物的な死と隔てるものだ。人間は「死」において「自然から遠ざかり」、「自我」の消滅という恐怖から目を逸らすために、「幻のような、人間的な、芸術のために作られた世界を生み出す」というのである。
「この悲劇的、人工的な世界の中でこそ、恍惚が生まれる。間違いなく、恍惚の対象全体は芸術によって生み出される。『神秘的認識』全体は、恍惚の啓示的価値に対する信仰によって成り立っている。逆に、その認識を虚構として、或る意味で、芸術における直観と類似したものとして、見なければならないだろう」(19)
 人間は苦悩の中に「恍惚」を見出だす。その「恍惚」を「啓示的価値」のあるものとして認めることで、「死」を動物的なそれとは異なるものに変えてしまう。「自然から遠ざか」ることで、「死」という絶対的で未知なものに、絶望的な抵抗をするのである。「死」はここでは、ヘーゲルの場合のように、「自然」という秩序から逃れる契機となり得るだろう。「恍惚」は芸術作品からも生み出されるが、死を前にした人間の「恍惚」自体が、芸術におけるように、虚構によって成り立っている。
「心とは反抗する限りで、人間的なものだ。『それは、人間であることは(法の前で屈しない)ということを意味する』」(20)
「詩人は自然を全く、弁護しないし、受け入れもしない。本当の詩は法の外部にある。しかし、詩は結局、詩を受け入れるのだ」(21)
 秩序に対する人間の反抗的態度は、芸術家、とりわけ、詩人において顕著に現れる。未知のことを見つめ続けることが出来ず、詩に甘んじてしまう、という限界を認めつつも、この抵抗は、「書く」という行為の中で、人間を自然に対する隷属から解き放つ「死」と結びつく。
「……終局に向かって書きながら、私は理解した、死ぬことへのノスタルジーを、法から無縁となり、おのれの名において行い、来るべき時とは何の関わりもない瀕死の者のように、自由になることへの、ノスタルジーを抱いていることを」(22)
 バタイユは人間の死を動物の死と峻別し、死ぬことの苦悩によってもたらされる「恍惚」の中に、「自然」の秩序からの、あらゆる隷属性からの解放を見、「書く」行為の内に、それを可能にする死への思いを抱いたのである。この人間的な死は、自然の秩序に逆らう「自発的な死」というヘーゲル的概念と、極めて近接した位置にありながら、終着点はかなり異なったものになりそうである。ヘーゲルは究極的な自由よりも、「人間的に生きること」を優先させるため、人間を「労働」に従事させる。一方、バタイユはあくまで「自由」を捨てずに、「死」という未知の対象に魅せられ続けるのである。彼が厳格におのれの主張を貫いた場合、もはやこの世界に生き続けることさえ出来ないだろう。ヘーゲルの考えるように、彼自身も生きるためには「労働」に従事しなければならなかったのだから。ここまで自分を追い詰めるところに、バタイユの思考方法の徹底した態度を見るべきだと思う。




(1) バタイユ全集第8巻
   (ガリマール社版)p.239
(2) 同第5巻 p.96
(3) アレクサンドル・コジェーヴ著
   レーモン・クノー編
    『ヘーゲル読解入門』p.19
(4) 同 p.21
(5) 同 p.23
(6) 同 p.24
(7) 同 p.25
(8) 同 p.26
(9) 同 p.30
(10) 同 p.34
(11) 同 p.570
(12) バタイユ全集第5巻
   (ガリマール社版)p.158
(13) 同第5巻 p.158
(14) 同第8巻 p.207
(15) アレクサンドル・コジェーヴ著
    レーモン・クノー編
   『ヘーゲル読解入門』p.532
(16) 同 p.537〜p.538
(17) 同 p.557
(18) バタイユ全集第5巻
   (ガリマール社版)p.88
(19) 同第5巻 p.88
(20) 同第3巻 p.217
(21) 同第3巻 p.218
(22) 同第3巻 p.51

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