漁 火(いさりび)


高 野 敦 志




 僕はその春、モラトリアムを止めた。大学での研究は投げ出して、人並みに職に就こうとしたのである。しかし、会社勤めは一週間と続かなかった。上司との喧嘩によりそこを飛び出してからは、気儘(きまま)なアルバイト暮らしを続けている。暑い季節が巡ってきたので、一ヶ月の休暇をもらい、手元にある財産をリックに詰め込み、学生気分で旅に出た。
――こんな呑気な奴も珍しいだろう。
 自分はすでに二十六だ。仕事の上での付き合いはないし、嫁さん探しに躍起になる気もさらさらない。大学時代の仲間と酒を酌み交わすことも、最近では滅多になくなった。ただ、何処か遠い所へ行きたかった。
 目指す先は日本海に浮かぶ金と流人の島、佐渡であった。信濃川河口近くの船着き場から、フェリーに揺られること二時間半。幕末に開港した島の中心地、両津の歴史を感じさせる町並みが、夏の強い日射しの中から姿を現わした。港の中にはターミナル以外に、際立って高い建物は見当たらない。岸壁に沿って軒を並べる家々は、傾斜の急な屋根に灰色の瓦が重たげに載っている。この町が平たく奥行きがないのは、背後に湖が控えているからである。港に到着した後は、少し時間の余裕があった。そこで、小高い丘の上まで足を運ぶことにし、牡蠣(かき)養殖の筏(いかだ)が浮かぶ加茂湖の光を、心行くまで眺めていた。
 両津からバスに乗り、国中平野を横切って約一時間半、その日の宿が取ってある佐和田の停留所で下りた頃には、暑い日も西に傾き、時折涼しい風も吹き始めていた。史蹟が集中する真野までは五キロちょっとだが、無理をして今日回るのは止めた。
 翌日は先ず、真野にある朱鷺(とき)の郷に寄った。そこで目にしたのは、薄汚れた剥製となった鳥の哀れな姿だった。すぐに博物館から出てしまうと、目の前の道を進んで、くねくねした坂を登っていく。順徳院の御火葬塚はその先にあった。承久の乱で北条義時のためにこの地に流された院は、柵で仕切られた地所の奥で荼毘(だび)に付され、御骨となって京にお戻りになられた、と案内板には記されている。
 院が生前お過ごしになった配所は、この近くであったと、一般には信じられている。ところが、それはここから相当離れた菱池という、今はない小さな池のほとりにあったのだそうだ。しかも、この御火葬塚自体、江戸初期の延宝七年(一六七九)に築かれたもので、それ以前ここは田畑であったとのことだ。これは偶然その場に居合わせた郷土史研究家から耳にした話で、何でもロマンチックに色づけしたがるガイドの口からは、決して聞くことは出来なかったことだと思う。
 日が中天に差し掛かる頃、日蓮上人の消息を伝える阿仏房妙宣寺を訪れた。五重塔の下で慌ただしくお握りを頬張り、バス停まで駆けていった。前日泊まった旅館の前を過ぎてから、約三十分で相川営業所に着く。そこから佐渡金山までは歩いても行けたのだが、そろそろ足が痛くなってきていた。次のバスが出発するまで待合室で休むことにし、ガイドブックを読み返していた。
 丸太で組まれた坑道を、数珠つなぎで下りはじめると、地の底からひんやりした風が吹き上がってきた。脇の下の汗も引いて、まくり上げていた腕に、さっと鳥肌が広がっていく。ランプから放たれた柔らかな光が、一番奥の窪まった一角を照らしている。そこには江戸時代の採掘当時の状況が再現され、ちょん髷を結ったロボット達が、金の鉱脈を鶴嘴(つるはし)で打ち砕いていた。唐箕(とうみ)で穴の先端に風を送り、酸欠になるのを防ぐ一方で、湧き出した地下水は、水上輪という内側が螺旋状になった筒を回すことで、上の方に汲み上げられていく。その隣りの部屋では、これからどう掘り進めていくべきか、測量をしている者もいる。見張りの役人は辺りを見回すように首を振り、「手を休めるな。もうすぐ飯だ。頑張れ」と、きつい調子で叱咤(しった)している。
 ここで思い出したのは、かのルソーが晩年綴(つづ)った『孤独な散歩者の夢想』の一節である。彼はこの地球に隠された富が、人間の欲心によって掘り出され、それに伴い地上でのささやかな幸せを見失った人間が、いかに堕落していくかを、次のような言葉で記している。

「かれ(人間)は大地の内部を掘り返し、その奥深くに、生命の危険をさらし、健康を犠牲にして、かつてまことの財宝を楽しむことができた時代には大地はひとりでにそれを提供してくれたのに、いまはその代用の架空の財宝を捜しに行く。人間は太陽を避け光を避ける。かれはもうそれを仰ぎ見る資格がないのだ。かれは生きながらに地中に埋もれる。がそれでよいのだ。もう日の光に照らされて生きるにふさわしくなくなったのだから」
(今野一雄 訳)

 ルソーの抱いた嘆きは、金銀財宝に心を奪われた人間全体に向けられているのだが、ここ佐渡の金山の場合は、事情は更に悲惨なのである。ここで働かされていたのは、江戸や大坂、長崎などの無宿人や、軽い罪を犯した者達であった。厳しい年貢の取り立てに耐え切れず、五人組などの相互監視システムの稀薄な都市へ、命からがら逃れてきた農民も、すぐに職が得られたわけではない。宿もなくその日口にする物も事欠いた流れ者には、乞食をするか、物取りになるかぐらいの道しか残されていない。治安を維持する、という目的もあったのだろう。幕府は仕事を斡旋するように見せて、ほとんど強制的に彼等を佐渡へ送り込んだ。自由を求めて都市に出たというだけで、封建社会に於いては、秩序を乱す罪を犯したことになる。その後には地獄が待っている。ささやかな幸せを願っていた者が、贅沢(ぜいたく)三昧の暮らしをしていた武士や豪商の欲を満たすべく、薄暗く夏でさえ凍える地下深くで、一日の大半、奴隷の如くこき使われていたのである。
 その日僕は、坑道に三十分足らずしか止どまっていなかった。が、靴底から伝わってきた冷えは足首の感覚を奪い、体の芯から体熱を運び去ってしまった。
 めぼしい旧蹟は見てしまった。早くも旅程の半分は過ぎており、翌日は両津に戻ることになっていた。初めに立てたスケジュールはこなしたので、あとは海でも眺めながら、ぶらぶら時間を潰すことにした。観光客の多い尖閣湾は避けて、そのすぐ手前、姫津の停留所でバスを降りた。坂道を下った右側に見える旅館に寄り、空き部屋があるか聞いてみた。運よくキャンセルで部屋が一つ空いているという。リックを受付に預け、夕食は外で取るからと断わり、日暮れが迫りつつある港の方に駆けていった。
 人影のまばらな岸壁を歩いていると、数メートル先の屋台から、醤油の香ばしい匂いがしてくる。その前を通ると、六十半ばほどに見えるおばちゃんから声をかけられた。
「そこのお兄ちゃん。一つ食べてってよ」
 鉄板の上を見ると、イカの肌は黄金(こがね)に色付き、庖丁で入れた切れ目から、白い肉が覗いている。思わず生唾を飲み込んだ所を見られてしまった。おばちゃんはすかさず、串に刺した丸焼きのイカを差し出す。
「今、焼き上がったばかり。炭火使っているから、軟らかくておいしいわよ」
 僕はそれを手に取り、ポケットから小銭を出すと、看板にある「ポンポン焼」という文字を眺めていた。
「ポンポンって、漁船のエンジンの音?」
「ここに来るお客さん、みんなそう言うけど、違うのよ。炭火で焼くでしょ。すると、イカの紫の皮があちこち膨らみ、ポンポン音を立ててはじけるの……」
 イカにかぶりつきながら、僕は水面で戯れる光の動きを、そっと目の奥深くへ引き入れた。それは瞼の内側を熱していき、真っ赤な火の幻を生み出そうとする。
「ほら、ご覧なさい……」
 背後から先程のおばちゃんの声がした。
「若い者(もん)が漁の支度を始めたわ。それ、そこの船、電球がたくさんぶら下がっているでしょ」
 その声には振り返らず、船尾で網の点検をしている浅黒い顔を、飽きもせずに見詰めていた。向こうは仕事に精を出しているので、こちらの視線に気づく心配はない。岸壁に立つ煙管(きせる)を吸った老人と、何やら話をしている様子だ。
 僕は小高い丘の上に立ち、まさに海へ沈まんとする夕日を眺めていた。闇は静かに背後の山並みから伸びて、白く輝く海面へ覆い被さるように広がっていく。輪郭をくっきり浮かび上がらせた赤い太陽には、もはや迫り来る夜の波を撥(は)ねのける力はない。真昼には灼熱の光で直視することを許さなかったのに、今や老いた好好爺(こうこうや)みたいに、優しい目でこちらを見ている。そして、今日の太陽はまもなく死ぬのだ。凪(な)いだ白い鏡は翼を広げる巨大な蝙蝠(こうもり)に抱(いだ)かれ、海中にゆっくり吸い込まれていく。その半円の鏡の中央を、一艘(いっそう)の漁船が、細い筋を残しながら藍色の海へと消えていく。
 海へ沈む夕日を目にしたのは、大人になってからはこれが初めてだったかもしれない。子供はメルヘンの世界に生きている。丸くて赤いお日様に、今日の出来事を語りかけ、砂浜を駆けっこしながら、また会おうよと手を振ったりする。日暮れ時に漂う物寂しげな空気を感じるには、子供は余りに希望に満ち溢れているのだ。それを感じるようになるのは、人生のうちの大切な何かが、掌から逃れていってからである。そして、僕の青春も終わりに近づきつつある。信仰心のない自分でさえ、あの弱々しい光を見詰めていると、西方に阿弥陀如来の浄土を思い描いた古代人の魂が、理解できるような気がしてくる。
 阿弥陀如来は、またの名を無量光如来、という。つまり、限りなき生命の光を、仏として人格化したのである。仏には本来、形などありはしない。物質に縛られた存在ではないからだ。沈みゆく太陽を我身と重ね合わせ、死という闇から逃れるべく、その柔らかな光に、自己の魂を溶け込ませようとする。僕がイメージとして抱く浄土教は、このように少しペシミステックだが、『観無量寿経』(無量寿如来は阿弥陀如来のもう一つの別名)という経典には、この仏に対する信仰の意外な側面が説かれている。

「まさに想念を起し、正坐し、西に向いて、日を諦観すべし。心をして堅住ならしめ、想いを専らにして、(他に)移らざれば、日の没さんと欲して、(その)状懸鼓(かたちけんく)のごとくなるを見よ。すでに日を見おらば、目を閉じるも開くも、みる。(日没のかたちを)明了(めいりょう)ならしめよ。これを[日観]とし、名づけて[初観]という」

 目を閉じた後も、瞼の裏では夕日は依然輝いている。外界の太陽と、心の内で微笑む太陽との間に、不可思議な照応関係が築かれる。『観無量寿経』では、この[太陽の観想]に続いて、水や氷、青玉、大地と、次第に複雑な観想法を行っていく。その修行を通じて、心の世界は外界と変わらぬ迫真性を帯びてくる。両者をつなぐ照応関係は、今度は心の内に育まれた極楽を外界に投影し、この世をそのまま浄土に変えてしまう。
 日はすでに海中に没した。夜の闇は島全体を包み込み、わずかに水平線のみがすみれ色に光っている。その残光に照らされてか、目を凝らせばさざ波が微かに、岸に向かって打ち寄せてくるのが見える。僕が求めてきた安らぎの時が、ようやく訪れつつあるのを感じた。
 ふいに、パッと足元が明るくなった。手前の草原に自分の影が映った。背後の螢光灯が点ったからである。崖の先まではよく見えるようになったが、かえって沖の方は墨で塗りつぶされてしまった。眼下に広がっていた港も、幾つかの電柱の明りを残して、夜の底に沈み込んでいた。僕が日暮れ前「ポンポン焼」を買った屋台は、恐らくあの辺りにあったのだろう。もはやこの目で確かめられなくても、心の内を覗き見るだけで、岸壁からそこにつながれていた漁船の配置まで、つぶさに思い描けそうだった。
 山の端(は)から月が昇ってくると、一転して空は深い青に染まった。クレーターまでくっきり見える天体の傍らで、棚引く薄雲は異様に白い光を放っている。今夜は明る過ぎるのかもしれない、天の川を目にするには。せめて螢光灯から逃れようと、草の株をよけながら、崖の縁ぎりぎりの所まで進んだ。その時風が起こり、急な斜面に生えた灌木(かんぼく)の枝は一斉にしなった。それは潮の呟きではなかった。海は平らな面(おもて)に月の光を受け、静かな寝息を立てている。沖の方でちらちら、穏やかな橙の目がしばたたくのが見えた。まさか海上に狐が住みついている訳でもあるまい。出漁していくのを見たイカ釣り船の一艘も、あの中に含まれているに違いない。
 視線を再び、先程の漁港の方角へと移した。すると、電柱の明りのすぐ上、と言っても数十メートル上の丘が、白い光を受けて浮かび上がって見える。そこはちょうど丘の中腹を切り崩した部分で、三方を林に囲まれた平地には、数多(あまた)の石柱が生き物のように、なまめかしく冷ややかな餅肌を、月の光にさらしているのだった。
 ようやく僕は、立ち並ぶ白い柱の群れが、この地で生きた人々の墓地であることに気がついた。そこからは、人間臭さがいささかも感じられない。恨みを抱いて死んだ魂も、霊妙な光と潮の香りを浴び、今や清らかな眠りについているようだった。あそこで目覚めているのは、白い墓石(ぼせき)の集まりだけだ。それは夜風を面(おもて)に受けながら、毎晩沖に現れる漁火を、冷たい石の内側から見詰めているのではないか。
 僕は自分の空想癖を嘲笑っていた。見上げると空は幾分暗くなったようだが、期待していた蕁麻疹(じんましん)みたいな星空は望むべくもなかった。視線を下ろした時、月の光を受けてか傍らの岩に黒い影が映っている。それは僕のものだろうか。こちらがじっとしていれば、そいつは動かないはずだ。僕は大きく伸びをする。しかし影はそのままの姿勢を保っている。驚いて振り返ると、目の前に薄汚れたワイシャツに、よれよれのズボンをはいた青年が立っていた。茶色く日焼けした肌に不精髭を生やし、ゴムの黒い長靴といった出で立ちである。この地区に住む漁師だろう、と思った。こちらが黙って観察しているので、向こうは初め怪訝な表情をしていた。しかし、こちらの視線を不躾(ぶしつけ)と感じたのだろう。皮肉っぽい笑いを浮かべて、じろじろ見返すと言った。
「あなたはさっきから、誰かと話していたみたいですよ」
「僕は海を見ているんですよ。そういうあなたこそ、いつここに現れたんですか」
「話がしたかったんですよ、あなたと、ね」
「へえ? お見受けしたところ、地元の方みたいですね。ついでにおうかがいしますが、今日は天の川は見られそうにありませんね」
「手をかざして、月の光を避けてごらんなさい。あなたの目は、明るい物しか見えなくなっている」
 言われるままに掌で光を遮ると、ものの一分も経たぬうちに、空はぐっと暗さを増し、今まで目に入らなかった北斗七星も、はっきり位置が確認できた。首をそらして頭上を見詰めていると、何やら靄(もや)に似た白い粒々が、海の彼方へ帯状に伸びている。それらの一つ一つは、ひとたび宇宙で嵐が起これば、果てまで吹き飛ばされてしまいそうだった。しかし、それらの星々は、僕が見ているか否かに関わらず、人には聞こえぬ水音を立て、船の明りが漂うあの海へ流れ込んでいる。
 青年は傍らで口をつぐんでいた。僕の胸の内に去来するものを、彼はこちらの顔の動きの中に読み取っていたのだろうか。相手がまだ誰であるかも分からないのに、僕は魂で感じたことをはばかることなく、彼に伝えることが出来るような気がした。
「あの光、イカ釣りの船の、でしょう?」
「そう。私はずっとあれを眺めてきた、この丘に立って、ね」
「漁をなさっているんですか」
「まあ、そういうことになるのかな」
 青年はにやりとすると、無理に口をつぐんでしまう。しかし、目は何か言いたげに大きく見開かれたまま。そして、こちらの肩に手をかけ、右手で海上に漂う橙の光を指差した。
「そろそろ網に入り込んでいるはずだよ」
「イカって馬鹿みたいですね。虫と同じだ、光があると寄ってくるなんて……」
「沖で漁をしていると、ね。さまざまな生き物が集まってくるんだ。蛾や蜻蛉(とんぼ)などの昆虫、それに鴎も……」
「どうして?」
「みんな光がほしいんだよ」
 僕は彼の顔を見た。恐らく僕と同い年ぐらいなのに、自分よりずっと多くの体験をしてきたに違いない。それは日焼けして荒れた肌と、遠くを見る時に現れる額の皺から、漠然と感じられた印象であるが。大学の研究室に籠もっていた僕と違って、彼ははるかに人生を知っているのだろう。
「動物たちには、ね。意識なんてものはないんだよ。いつも、半ば起きて、半ば夢を見ている。しかし、感づいているんだな、どうして自分がこんな姿になったのか。でも分からない……」
「それって、輪廻の思想でしょう?」
「そういうことになるのかな。その時、闇の中にパッと明りが点る。何かが見えるような気がして、近づいていってしまうんだな」
「人間は普通、そんなこと考えませんよね。自分が生まれる前は、どこから来たのかなんて」
「けれども、光を追い求めることが、必ずしも幸福に結びつくとは限らない。イカはそのために捕獲されて、命を落とすのだからね」
 青年はその場にしゃがみ込んだ。それっきり押し黙り、何か感慨に耽っているのか、時が経つのも忘れて、鮮やかさを増した沖の漁火を、見詰め続けているのだった。身を屈(かが)めて横顔を覗くと、彼の唇は時折笑みを浮かべたと思うと、無理に堅く閉じられてしまう。僕は青年の存在も忘れて、闇に瞬く謎の光が、自身の眼(まなこ)の内で輝き始めているのを感じた。
 ふと見上げると、先程まで二人を白いヴェールで包んでいた月は、小さな厚い雲にすっぽり覆われ、僕が待ち望んでいた蕁麻疹のような夜空が現れていた。もはや黒い海と空の境界はなかった。無数にきらめく星々は、みな宇宙に漂う船が、安全に航行するために点した明りのように思えた。
「何だか寂しそうに見えますよ」
 僕が声をかけると、青年はその場に腰を下ろしたまま、首を曲げてこちらを見上げた。照れ臭そうに頭を掻いていたが、しみじみと顔を見詰めるなり答えた。
「君に会えて、本当に嬉しく思っている。こんな話、聞いてくれる人は、今では誰もいないんだからなあ」
「御家族がおありでしょう? それに、好きな女性とか」
「自分はみなし子でね。この土地の網元に拾われて、小学校までは通わせてもらった。好きな女は……」
 そこまで言うと、青年はまた口をつぐんでしまった。彼の目はさっきと同じように、暗い海に浮かぶ蛍の上に注がれている。
「みんな死んでしまった……。自分にはあの頃、好きになった子がいてね。それは私を拾ってくれた網元の娘だった。母親が早く亡くなったせいだろう。着物の裾をまくり上げ、木の棒を振り回しながら、男の子とちゃんばらをしていたよ」
「随分変わった子が好きなんですね」
「いや、それは女学校に通うまでのことだよ。しかし、勘の鋭さと気性の激しさは、大人になってからも変わらなかったな」
「それで、お二人は兄妹(きょうだい)のように育てられたわけですか」
「私の方はあくまで、使用人の立場だったからね。小学校を出てからは、見習いとして陸揚げされた魚を箱詰にしたり、イカをさばいて日向(ひなた)に吊るしたり……。船に乗れるようになってからも、こき使われるのには変わらなかったがね。しかし、一年のうちで、どうしようもなく気持ちが沈むのは、やはり冬が到来する時期だな。秋も終わりに近づき、シベリヤから肌を刺す風が吹き出すと、海の彼方から分厚い雲が流されてくるんだ。童心に返って野良犬と浜を駆け回っていると、ほら、もう粉雪がちらちら舞っている。
 その晩、私は陰欝な小屋の中で、毛布にくるまって、窓から見える白い生き物に目を向けていたんだ。海は暗闇の中で不気味なうなりを発している。風が強まるにつれ、雪は小屋の板壁に激しく吹き付ける。天井から吊るされたランプは、屋根の梁(はり)がしっかりしていないせいか、何度手で押さえたって、すぐ左右に揺れ出してしまう。火鉢の炭はほとんど灰になっていた。
 一番年上の者が明りを消すと、小屋の中は真っ暗な世界になった。蒲団の中でもまだ震えていたが、一日の疲れのおかげで、あっと言う間に眠れるだろうと思った。暗闇で耳を澄ますと、海のうなりはひときわ鮮明になる。これでもか、これでもか、と押し寄せてくる大波は、平らな岸壁を洗い流し、磯の穴だらけの岩をも砕いて、泡立つはらわたに飲み込んでいく。それはやがて、小屋の土台にまで及び、建物を丸ごと夜の深みに沈めてしまう。
 一旦降出した雪は、数日なんかで止みはしない。港につながれた漁船は、見る見るうちに、白い防寒具で包まれてしまう。ふわふわした冬の虫は、働く人々の声ばかりか、生気までも吸い尽くしていく。
 ところが、皆の心が沈んでいるからこそ、まれに心を洗われるような瞬間が訪れたりもする。自然を超える存在が介入したかのように、数日来の凄まじい吹雪がぴたりと止み、西の空の雲間より黄色い弱々しい光が、凪いだ海の面(おもて)を白く照らすことがある。熱を発するという責務を忘れた太陽は、その時許されたわずかの明りで、希望が全て潰(つい)えたわけではないことを、我々に告げてくれているんだよ」
「その希望が、網元の娘さんだった、って言うわけですか」
「君には参ったな。私はお嬢さんと恋仲になったわけだが、あの人は初め、ほんの冗談のつもりだったらしい。私は使用人で、しかも親方に育ててもらった義理がある。到底結ばれる仲ではないのだが、それを十分承知した上で、挑発してきたんだな。こちらが拒みつつ、内心では引き付けられているのを、ちゃんと見通していたんだよ。苦しんでいる私を見て初めて、あの人は恋しく思ってくれたそうだ」
「それで、あなたの希望は実現しかかっていたんですね」
「二人の間では、ね。ただし、親方にはあくまでも内密にしていた」
「ところで、二人はどこで会っていたんですか」
「夜、浜で、だ。仲間がそろって飲みに出掛けてしまった後。あの忘れられない日も、お嬢さんは通りから人影が消えるのを待って、私のいる小屋の前までやって来たんだよ。こちらが戸を開けるなり、腕の中に飛び込んできた。悪戯(いたずら)っぽく笑っているところは、男の子を苛めていた小娘の頃と、たいして変わりはない。
『舟を出してちょうだい。今夜は新月でしょ。空が暗いから、きっと星がたくさん見えるわ』
 言われるままに、岸壁の端につながれた小舟にお嬢さんを乗せると、目の前の水面しか見えない中を、静かに櫓(ろ)を漕(こ)いでいった。その夜の空は吸い寄せられんばかりに深く、その淵には今まで見たことがない程の数多(あまた)の星が、月のいない自由を謳歌しているのだった。延々と続いている、黒く平らな鏡は余りに寡黙で、はるか上空できらめいている星のことなど、全く関心がないように見えた。舟は光のない巨大な水盤の上を、何の抵抗もなく滑っていく。
 舳先(へさき)の方に腰を下ろしているあの人の顔は、頭に手拭を被(かぶ)っていたせいか、夜の底から浮かび上がった白い妖怪のように、その輪郭しか目に出来なかった。私は不思議でならなかった、というのも、あれほどせがんだ張本人が、海の上に出た途端に、夜の魂に心を奪われたのか、口を閉ざしたまま大人しくしているからだ。自分は櫓から手を離すと、足下に置かれた行燈(あんどん)に火を点し、お嬢さんの顔をそっと照らした。
 目を覚ました時みたいに瞬きをすると、梟(ふくろう)に似た大きな瞳が、じっとこちらを見詰めている。私は少しぎょっとしたが、気を取り直して声をかけた。
『ここまで来れば大丈夫でしょう。こんな小さな明りなら、浜からは見えるはずもない。漁に出ている船がないせいか、これほど海が広くて、自分がその中で生きているのを感じたことは、今までなかったんですよ』
 お嬢さんが手拭を外すと、結い上げた髪は少し乱れており、風もないのに数本の毛が揺れている。行燈の光に照らされ、顔にもようやく人間らしさが戻ってきた。頬をやや赤らめると、物言わず微笑んだ。
『どうしたんですか。今日はばかにお淑(しと)やかなんですねえ』
『だって、こんなこと、二度と出来ないかもしれないじゃないの。それを思うと、言葉が胸に詰まってしまったのよ。あんたは星空の方に夢中みたいだけどね』
 少し風が出てきたのだろうか。行燈の火は微かに震えている。私はうつむき、その淡い光の中に、自分達の関係がどうなるかが示されているように思えた。こちらが打ち沈むのと裏腹に、お嬢さんは陽気になり、星空を指差しながら、一つ、二つ、と数え始めていた。
『ああ、疲れたわ。こんなことしていたら、夜が明けるまでに勘定なんか、出来っこないわ』
『あの空はどこまで続いているんだろう。お嬢さんは、学校で勉強なさらなかったんですか』
『先生に聞いてみたことがあるの。宇宙には端があるのか、そして、もし端まで飛んでいったら、その先に何があるのか、って。そしたら、ひどく怒られてしまったわ』
『私は以前、夜空の星の数について、和尚(おしょう)さんにうかがってみたことがあります。一般に仏教では、宇宙は無限である、と考えられているそうです。しかし、一人が全ての星を数えることは出来なくても、子子孫孫まで続けていけば、いずれは数え終わる、っていう説もあるそうですよ』
『まあ、雄(ゆう)さんたら随分、学問が好きみたいね』
 岸の方に見えた明りも、いつしか一つ、また一つと消えていき、今では二・三の点を残すばかりになっていた。それとともに空は暗さを増し、星の光はますます勢いを得、ちょっと眺めていただけで、軽い眩暈(めまい)に襲われそうになる。それらの星々には、密かな親族関係があるらしかった。何も存在しないはずの空間に多くの線が引かれ、見る間にギリシャ神話に登場する神々や、それにまつわる動物たちが、黒いスクリーンに浮かび上がってくる。南の空にはいかめしい蛇使いが現われ、その日に焼けた固い掌の上を、黒と白の斑(まだら)模様の大蛇が、うねるように滑っていく。港の入口の方の闇には、天界の蠍(さそり)が漆で塗り固めた甲羅をガチャガチャ動かし、二本の大きな鋏(はさみ)と太い毒針の付いた尾を左右に揺らして、近づこうとする者を威嚇している。目をぱちくりさせた途端、それらの幻影は消え、星々はまた以前と変わらぬ光の呼吸を始めていた。
『あの星たちにも、きっと家族があるんだわ』
『そうですよね。お父さんもお母さんも、それに、友達や恋人もいるに違いありません』
『あら、流れ星!』
 それは乙女座の辺りから出て、数秒間白い光を発し、夜空に何の電光も散らさず、眠りこけた黒い海に落ちていった。もしかすると、それは天上で燃え尽きることが出来ず、下界へと転落して死ぬ間際に、おのれの存在を光の叫びで表現する、若い星の絶息の瞬間かもしれなかった。
『雄さん、流れ星に何かお願いした? ああ、あれが消えるのを見ていたら、何だか悲しくなってしまったの。きっとあの星にも希望があったんだわ。自分が十分に生きられなかったので、末期を看取ってくれた人に、自分が得るはずだった幸せまで、手にしてもらいたかったんだわ。でも、大半の星は誰にも看取られずに、海に落ちて溺れ死ぬのよ。その亡骸(なきがら)が真珠だった、っていう話、聞いたことある?
 夜空にパッと光が見えると、貝達も幸せを授けてもらいたくて、星が落ちる方に向かって、必死に泳いでいくらしいの。そして幸か不幸か、それを貝殻の間にはさんで食べてしまう。ところが消化することは出来ないのよ。苦しくなって吐き出すことも、ね。しかし、若くして死んだ星の光が、自分の体の中でよみがえってくるのを、その貝は感じ始めているはず……』
『お嬢さん、このおつむのどこから、そんな突拍子もない考えが浮かんでくるんですか』
 その間、あの人の目は憑かれたように、今では一つきりになった港の明りに、引き付けられたままだった。ふいに何か冷たい物が背筋を走った。その場を満たしていた陽気さは霧散し、私は訳が分からぬまま、空に輝く星々にむなしく救いを求めたりした。あの人はまだ一人で夢を見ている。その証拠にほとんど瞳を動かさず、風に吹かれた髪が目にかかっても、一向に気に留めようとしない。
『お父(と)っつぁんは知っているのよ』
 まだ醒めぬまどろみの中で、お嬢さんの乾いた唇からかすれた声が洩れた。反射的に私はその白い手を捕らえ、着物の裾に隠れていた腕を手繰(たぐ)り寄せる。その黒く大きな瞳には、何の動揺の色も現れていない。
『お父っつぁんはあんたを殺す気だって。私は聞いてしまったの。手下の若い衆に金を握らせて、海の荒れそうな日に船を出し、後ろから突き落とす手筈まで、ね。私が生娘(きむすめ)ではなくなったのが、お父っつぁんには余程くやしかったらしいわ』
『みんな話してしまったわけじゃないんでしょう?』
『仕方がないじゃない。娘が夜こそこそ家を出るの、気づかない親がいると思って?』
『それでは、今夜のことも親方は……』
『そろそろ、大騒ぎになると思うわ。だから、一緒に逃げてちょうだい』
『水も食べ物もなくて。そんなことが出来ないくらい、分からなかったんですか』
『じゃあ、私と死ぬしかないわね……。あんたとあんな関係になって、今更他人の所に嫁ぐ気もないんだから』
 私は驚くべき話の展開に、ただ呆然とするばかりだった。袖の中から腕を抜くと、身を引き離そうとしたが、今度はあの人がこちらの袖をつかんでいる。立ち上がろうとして、舟は大きく左右に揺れた。のけ反る形で船尾の方に逃れようとすると、あの人はこちらの上にのし掛かって来る。赤い唇をびりびり震わせながら、口紅が付くほどに顔を近づけ、気違いじみた目で、こちらの顔を舐(な)め回すみたいに見ている。月のないその晩には、引き吊ったその面(おもて)ほど白いものはなかった。
『早く、私の首を締めるのよ』
 命じられるまま、わなわなと両手を差し出したが、その肌に指先が触れた途端、恐ろしさで気が転倒してしまった。そんな大それた罪が犯せるだろうか。両手を合わせて許しを請い、船底にうつ伏そうとする。
『この臆病者! そうよ、あんたは死ぬのが怖いのね。私の首を締めたところで死に切れず、おめおめと警察の厄介になるのが落ちだわ。一生暗く汚い部屋につながれて、朽ち果てるがいいわ』
 私の腕は力なく底に垂れていた。その時だった、女の手首が私の首に絡み付いたのは。すぐさま息が苦しくなり、私は手足をばたつかせた。今ならまだ、腹の辺りを蹴飛ばすなりすれば、巻き付いた手をこの首から離すことも出来るかもしれない。ところが、そうまでして助かりたい、とも思わなかった。まだ膨らんでいないお腹の中には、二人の命を分けた子が宿っているはずだったから。血が一斉に頭に上り、割れるような痛みが額を襲った。しかし、それも長くは続かなかった。気が遠くなるにつれ、苦しみは少しずつ和らいでいく。すると、遠くから何やら子守歌のような声が聞こえてきた。それは先程女が話していた、夭折(ようせつ)した星の物語らしかった。私は今や、故郷の夜空から真っ逆様に落ちていくところだった。その時、女の声の背後から、私の死を悼(いた)む星々のハミングが流れてきた……。私はついに息絶えたようだった。自分の体が女の手で海に流されるのも、舟の上から眺めていたのだから」
「あなたは、まさか!」
「いや、その時は死ねなかったのだ。でなければ、今に至るまでこうして、夜の浜辺を彷徨(さまよ)ったりせずに済んだだろう。海に流されて数分も経たないうちに、自分は息を吹き返してしまったのだ。頬にぴちゃぴちゃ、何やら冷たいものが触れている。突然、私は殺されかかっていたことを思い出した。あの甘美な夢は消え去り、恐怖が現実のものと変わっていた。夢中になって水中でもがいていると、鼻や口から容赦なく水が入ってくる。ようやく水面に顔を出すと、あの人が目をむき出して、こちらを見詰めているではないか。女は唇を神経質に震わせ、後ずさりしたはずみに、船底に尻餅をついてしまった。何を恐れているのだろう。女は櫓にしがみつくと、必死に舟を遠ざけようとしている。私は張り裂けんばかりの声で救いを求めた。あの人は櫓を舟から外すと、こちらの方に差し出した。これで助かる、と思った。
『魚にでも食われてしまえ!』
 櫓の先端がこちらの額を打ち砕いた。血で目が見えなくなっても、私は無我夢中でそれにしがみつこうとする。その度に容赦なく、私の頭は水中に沈められた……」
「すると、ここにいるあなたは……」
「幽霊なんだろうよ、たぶん。何とでも好きなように呼んでくれ。実を言うと、自分は君の前世の姿だったらしいのだ。私は肉体を失って以来、こうして海岸をうろつき、自分を殺した女のことを思わぬ日はなかった。そして、女というもの全てに憎しみを感じてきた。君がこの世に生を受け、私が存在する理由を失ってからも、ね。でも、君をここに呼び寄せて分かったんだ、君は私であって、すでに私ではない、ってことが、ね」
 そこまで言うと青年は立ち上がり、懐かしそうな目で不精髭を撫でている。その背後にある漁火は、日没の頃より輝きを増し、かえって空の暗さを引き立たせている。改めて顔を見詰めると、彼は恥ずかしげに下を向く。黄ばんだワイシャツのポケットからは、何やら写真らしい物が飛び出している。
 彼は黙って背を向けると、その場を立ち去ろうとした。僕はもう一度、その日焼けした顔を、この目で確かめてみたかった。それを察してくれたのか、彼はおもむろにこちらを振り返った。沖の光を背にしたまま、漁港の上にある白く光った丘を指差している。一つ一つの石柱は、何事にも動じない冷たさで、夜の大気を呼吸している。
「あそこへ行ってごらん。自分の墓はあの中にあるんだ」
 その時、崖の下の方から、風が吹き上がってきた。青年はいつまでもこちらを向いていたが、その姿は次第にぼんやりとして、輪郭が少しずつ崩れ始めた。やがて夜の霞と一つになり、林の中へと散っていった。そして、ものの一分も経たぬうちに跡形なく消えた。 僕は目をこすると、改めて周囲を見回した。すると、先程まで雲に隠れていた月は、再び沖の方に姿を現わし、澄んだ光で海の上を青く照らしている。ただ不思議なことに、彼の大きな長靴の足跡は、あの墓地の方へ向かって続いていた。
 死者達が眠る丘のずっと手前で、その足跡は途絶えていた。何か目に見えぬ力に寄り添われ、僕は地蔵菩薩の石像が並ぶ、その門まで導かれたのだった。林に囲まれているせいか、遠くから見た時とは異なり、その周囲は意外に薄暗い。ひょろ長い水色の電柱に、笠をかぶった白熱電球がただ一つ。そこには数匹の蛾と、クワガタが一匹たかっている。コウロギの合唱は聞こえたが、目に入る範囲での生き物の姿は、自分を除けば、その虫達だけだった。
 墓地の門に並んだ石像は、皆胸の前で合掌していたが、顔も指の一本一本も摩滅して、おのおのの区別はほとんど付かない。踏み固められた地面を歩いても、ほとんど靴音は立たなかった。日がとっぷり暮れた後、好んで墓場を彷徨うような趣味は、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類いでなければないだろう。ところが、こうして御影石の群れの間を縫って歩いていく感覚は、満更気色悪いものでもない。町中の古い寺院を夜歩く際の、あの陰惨な空気とは正反対のものが、ここの空気には漂っているのだ。掃き清められた通路の脇には、ツツジやカエデなどの灌木が、それぞれの区画を仕切るように植えられている。
 あの青年がかつて実在し、その骨の一部がこの地に埋葬されている、などということを、本気で信じているわけではなかった。ただ僕の耳底には彼の声が残っている。あの柔らかな飾らない物言いが、ずっと昔から自分に呼び掛けてきたという夢が、過去の記憶という形を取り、胸の内で結晶し始めていたのである。一つ一つの墓の下には、おのおのの時代を生きた人々の遺骨が納められているはずだった。にもかかわらず、そのいずれにも、不思議なほど人間臭さは感じられない。火で焼かれた骨までも、魂と一緒に地下の石室から消え去ってしまったような。僕はその御影石の肌に、人間からは得られない或る種のエロスを感じた。それには、人間の持つ我が儘(まま)な愛や偽善的な温かさを欠いた魅力がある。その石の表面に触れたい欲望を、僕はかろうじて押さえることが出来た。
 捜している青年の墓は、依然として目の前に現れなかった。早くも焦燥の念にかられ、僕は門の方へ戻ろうとした。ふと、脇の方を見ると、手入れの行き届いた区画から離れた場所に、ドクダミが我が物顔に群生している。人が余り立ち入らないせいか、道には腐り切らない落ち葉がへばり付いている。靴先が足下の小石に当たった。それは数メートル転がると、膝ほどの高さの苔むした石の手前で止まった。それが捜し求めていた墓だった。
 突然、言い様のない喜びに満たされた。それはただの興奮ではない。あの幻が語った事は全て真実だったのだ! 少なくても、その時の僕はそう信じた。半ば草に埋もれたその墓は、いかにもみすぼらしく、長い間詣でる者もいなかったらしい。しゃがみ込むと、石の表面を指でこすってみる。そこには彼が死んだ年月日が刻まれている。一部が欠けているので、大正五年という文字までは読み取れるのだが。享年二十六、とある。
 これで自分も本当に自由になれる、と思った。世間から逃れようとしていた謎も解けて。結婚して家庭を持つことへの恐れは、この夢のような体験とともに消えつつあった。しかしそれは、今まで僕の内部で囁(ささや)き続けたらしい、あの青年と永別することを意味するのだろう。この旅が終われば、僕は自分と性格を異にする人達と、生活をともにしていかなければならない。それに早く気づくようにと、僕はこの地に導かれたのかもしれない。彼に何か礼が言いたくなり、墓石の頭を指で撫でようとする。それに顔を近づけた時、唇の先端が冷たい石の表面に触れていた。