小笠原の海

高野敦志



 僕が初めて小笠原へ行った時のことを話そう。
 午前中に東京の竹芝桟橋を出た船が、八丈島の沖を通過したのは、すでに太陽が水平線に近付く時刻だった。どこまでも海が続く眺めを見ていても、前方には新たな島影らしきものは現れない。無為のまま甲板に立っていた僕は、自ずと過去の歴史へと思いを馳せていた。近世までの日本人にとって、八丈島や三宅島は流人のための島であって、それより南方はほとんど未知の海域だった。小笠原の存在は江戸幕府には知られており、元禄の頃には詳細な地図まで作られてはいたのだが。
 ところが、無人のまま放っておかれた島々に、捕鯨で立ち寄ったアメリカ人やハワイ系住民が住み着いたのを知った幕府は、あわてて八丈島の島民らを移住させて、小笠原が日本人によって発見された固有の領土であることを主張した。ただし、諸外国からその領有が認められたのは、明治の初めになってからである。わが国の歴史の中で、長らく日本の支配が及ばなかった境界まで、僕は来てしまったことになる。しかし、まだ航海はその三分の一も済んではいなかった。
 真夜中に青ヶ島の沖を通過して、ようやく小笠原諸島の最北端、聟島列島が見えてきたのは八時半過ぎ。聟島に続いて針ノ岩、媒島、そして嫁島が見えてくる。父島の二見港に到着したのは午前十一時である。東京を出港してから早一日以上の時が経っていた。ここで語ろうとしているのは、実は父島での体験ではない。僕の人生観を変えかねないような世界を、垣間見せてくれたのは海そのものである。行きの航海で目にした聟島の周辺で、ドルフィン・スィムを中心としたツアーが開かれる、ということを船内で知った僕は、多少の不安を抱きながらも無線の電話で予約をしていたのだ。ドルフィン・スィムというと、ちょっと聞き慣れないかもしれないが、要するにシュノーケルを使ってイルカと泳ぐのである。
 その日は素晴らしい天候だった。純白の高速船、ミスパパヤ号に乗り組んだ僕らは、簡単な説明を受けて二見港内のとびうお桟橋を出港した。小笠原の海を見る前までは、沖縄の海と似たようなものか、と思っていたが、実際は全く異なったものだった。中国大陸から突き出ていた陸橋が、地殻の変動によって水没して生まれた沖縄では、周囲の海は遠浅で沖には珊瑚のリーフが発達している。浅い海は灼熱の光に温められ、いわゆるエメラルド・グリーンに輝いている。それに対して、海底火山の隆起によって出来た小笠原では、浜から数メートルも行けば、たちまち海は崖のように落ち込んでしまう。珊瑚もそれほど発達してはおらず、浅瀬にまれに見られるものは灰色で、花園といったイメージとは程遠い。小笠原の海の美しさといったら、とにかく海が青いことだ。藍よりも青くて光の具合では黒くさえ見える。言わば「黒潮」の直中にある、といった印象なのである。

 兄島瀬戸を抜けたところで、さっそくイルカの群れと出くわした。女の子たちが「ああ、かわいい」と叫び声を上げている。これほど多くのイルカが海にいて、人懐っこく船の左右や前方を泳ぎ回るのには驚いた。まるで船を先導しようとしているように、舳先でしばらく泳ぎ続ける者もいるのだ。「すごい、すごい」という声に応えてか、しきりにジャンプを見せてくれたりもする。こちらの気持ちを言葉が通じずとも察してくれているのだろうか。
 さて、少し行った辺りで船はエンジンを止めた。いよいよドルフィン・スィムの開始である。ところが、僕はまだこのスポーツのことを熟知してはいなかった。浅瀬でシュノーケルをするのとは大違いなのである。まず外海には波がある。その日は凪いでいたものの、五十センチぐらいのうねりがあった。だから救命胴着を身に着けていても、五秒に一回ほどは鼻の上まで海水が来る。その上、シュノーケルは多少の水が入り込むのが常だから、陸上のように息をしようと考える方が、そもそも間違っているのである。それを忘れていた僕は、溺れそうになったというのは大袈裟だが、船が難破して荒海に投げ出された人間の恐怖を、多少なりとも味合わされたのだった。
 それにはこつがある。何度か繰り返すうちに、ようやくその要領がつかめてきた。まず恐れや不安は捨て去ること。シュノーケルを着けたら、リラックスをして水中をイメージしてみよう。そして船縁から静かに海中へ。頭を上に出しているより、とにかく、水中眼鏡で下を見るようにすること。ゆっくりと二度息を吸い、長く深く吐いていく。少し疲れたら手足の動きを止め、しばらく海面を漂っていればいい。リラックスしながら緊張する、と言ったら矛盾するかもしれないが、緊張を解きながらも油断を怠らないことだ。その時から人間であることをやめ、別の生物に生まれ変わる気持ちになって。

 ようやく僕はイルカの写真を撮ることが出来た。ドルフィン・スィムではイルカに恐怖心を与えないために、基本的に手の使用は禁じられている。足のフィンだけを使って泳ぎ、手を差し出さないようにして、カメラも顎の下に引きつけたままで。数頭で群れを作る彼らは、水面に顔を見せた時の愛らしさとは、全くの別面を水中では見せる。筋肉の塊として流線型の魚雷のごとく、恐ろしいスピードで人間の追跡を軽く振り切ってしまう。
 けれども、イルカが見えるうちはまだ幸せだ。何も見えない海は寂しい。僕はエイズが発病して死んだデレク・ジャーマンが、その晩年に製作した「ブルー」という映画を思い出していた。スクリーンには青い色しか映し出されず、ジャーマンのモノローグが延々と続く。そこで彼はエイズと共存していこう、という世間の運動を糾弾する。そんな生易しいものではないのだと。孤独があるのだ、その深い青には。それが象徴するのは大空の虚無か、はたまた母なるものとして、そして難破した者を飲み込む深淵としての海か。とにかく僕が目にしたのは青だった。他に何も見えない静寂。時折どこから湧いてくるのか、ぷくぷくと泡が昇ってきた。どこまでも深く、そして底無しの世界。

 聟島に上陸して昼食を取った。ここは戦前には入植者がいたが、戦争末期に強制疎開させられてから、アメリカによる統治時代を経て日本に返還されても、無人島のままになっている。草むらの中にはただ一つ、開拓者の墓が残されていた。もはや親族が詣でることもまれなのだろう。この島を観光で訪れる若者が、ジュースの缶をいくつもお供えしていた。戦前に牧場があったとはいえ、この島には実に高木が少ない。というのも、人間に置き去りにされた山羊が野生化し、島の草木を食い尽くしてしまったからだ。海岸近くに蜘蛛の糸のような花を咲かせていたスパイダーリリーと、その枝に毒を持つという夾竹桃が、かろうじて山羊の貪欲な胃袋の犠牲にならずにいた。
 海岸から頂上の大山までは三十分足らず。そこには戦時中の日本軍の施設が、礎石のみを亜熱帯のまばゆい光にさらしていた。小笠原諸島の最北端、北ノ島から針ノ岩までがすっぽり、この地点を中心とした巨大な水盤の中に収まってしまう。十頭近くの山羊たちがメーメー鳴きながら、しばらく遠目でこちらの様子をうかがっていた。その他には島にはただ潮騒と風の音しかない。

 最後に泳いだのは嫁島のマグロ穴であった。船縁から海に次々と下りた僕らは、五十メートル先の切り立った崖がくぼんだ辺りまで泳いでいった。そこには素晴らしい世界が広がっていた。水深は十メートル以上あったと思う。海底のすり鉢状の岩がえぐられたみたいに同心円を描いていた。沖縄の座間味の海で発見された物に似ている。ちなみにそちらは海底遺跡ではないか、と騒がれているのだが。ここには確かにマグロがいた。小振りで体長数十センチのイソマグロである。それから立派な尾頭付きになりそうな鯛も数匹いた。僕が最も感動したのは、緑色の巨大な海亀の出現だった。そこに向かって泳ぎの巧みな青年が、人間とは思えぬしなやかさで潜っていき、そっと海亀に手を差し延べたのである。そのしぐさには深い愛が込められていた。
 リュック・ベッソンの映画『グラン・ブルー』のラストシーンを、覚えておいでの方はいらっしゃるだろうか。深海への素潜りに挑戦して命を落とした友が、死に際に洩らした言葉を確かめるために、主人公は同じ潜水病に冒された身でありながら、真夜中の海の底へと潜っていく。深い海の世界には愛があるという確信に応えるように、死を迎えつつある主人公の前にイルカが姿を見せる。それは幻に過ぎないのかもしれないが……。その感動のシーンと現実に目にした光景がオーバーラップしてしまったのである。気が付くと青年と海亀の姿は失せていた。
 次の瞬間、目の前は銀色の躍るうろこでいっぱいになっていた。数百数千のイワシの群れに取り囲まれた僕は、どこを見回してもうろこが放つ銀色の光に目がくらんでしまった。魚たちはまるで僕なんか存在しないかのように、勝手にそして自由気ままに泳ぎ回っている。そこには瞑想の世界が広がっていた。この体験は僕の生の中では一瞬に過ぎないかもしれないが、魂の中に深く刻み込まれるだろう。

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