大原の光

高野敦志



 数年前に僕は京都の北、大原の里を訪れる機会があった。そこには平家滅亡後に安徳天皇の生母、建礼門院が隠棲していた寂光院(注 平成一二年五月九日に放火により焼失)がある。『平家物語』に登場する池も、戦乱の及ばなかったこの地には残っていた。ところで、今日僕がお話ししようとしているのは、その向かい側に位置するかの名高い門跡寺院「三千院」である。この天台宗の寺は八百六十年(貞観二)に承雲が比叡山の東塔南谷に築き、応仁の乱の後にこの地に移されたものだという。
 皇室の庇護の下にあっただけあって、「聚碧園」と名づけられた庭園の広さと豪勢な造りには目を奪われるものがある。中央の池の周りには、小山のように丸く刈られた庭木が植えられている。ところどころ石灯籠が配され、赤く色づいたもみじが池の面に映っている。襖絵には虹しか描かれていないのだが、池と向かい合った戸を開くと、もみじの赤がうっすらと襖の白い面に映る。脇のそれには蓮が描かれており、作者の横山大観はこの座敷を池になぞらえているわけである。その先にある「有清園」も勝るとも劣らぬ美しさで、もみじが散った水面の下で、大きな朱や黒の鯉がゆったりと泳いでいた。
 本堂の「往生極楽院」は恵心僧都源信ゆかりのものと伝えられる、入母屋造りでこけらぶきの阿弥陀堂である。その傍らを過ぎて弁財天像の横を通り、平成元年に建立された金色不動堂の前に立った。智証大師作と伝えられる不動明王像が祀られているのだが、その奥の観世音菩薩の立像の辺りまで登ってくると、観光客の姿もとぎれがちになる。ようやく心もくつろぎを得て、こんな山奥まで足を運んできたのか、という実感が湧いてきた。左手の小道をたどっていくと、小さな谷川を覆い尽くさんばかりに、赤く色づいたもみじが枝をいっぱいに伸ばしている。先ほどまで曇っていた空からしばし日が射して、無数の赤ん坊の手を思わせるもみじの葉を透かしている。するとその輪郭が溶けて黄色い光と一つになった。谷川には朱塗りの太鼓橋がかかり、その向こうには大きな石仏が見えている。その時いずこからともなく、鐘をたたく音が聞こえてきた。谷をはい上ってくるその響きは、耳を澄ましてもようやく聞こえるほどだった。力強く打たれた音のうねりは、ここに達するまでに拡散して、間延びしたようにぼやけている。それに続いて、木魚の鈍い規則的な音と、口をもぐもぐさせているとしか思えない読経の声が伝わってきた。僕はいても立ってもいられなくなり、今来た道を小走りで下りていった。
 読経は下の往生極楽院で行われていた。本尊は阿弥陀如来で、右方には観世音菩薩、左方には大勢至菩薩が控えている。その三尊の前で茶色の袈裟を来た五人の僧がお祈りをしていた。唱えているお経には独特の節がついている。これが中国伝来の天台声明なのだろう。お堂の正面の戸は天井まで引き上げられ、ちょうど村はずれにある能楽堂か何かを思わせた。木立に囲まれた藤原時代の建物は、僧の上げる経の言霊に千年来の命を取り戻し、取り囲む木立と同じ息づかいで呼吸をしていた。本尊の金箔がはがれていき、お堂の外壁が朽ちかけてきても、祈りが捧げられている限り、そこには得も言われぬ荘厳な自然が現出し続けるだろう。

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