聖なる文体

高野敦志



 バタイユの作品が持つ、あの恍惚と苦痛の入り混じった文体の効果は、一体どこから来るのだろうか。またそれは彼の思想との関連から、そもそも考えられることなのだろうか。この問題を扱うに当たっては、アンドレ・ブルトンによるバタイユ批判を読むことが、それを解く鍵を与えてくれるように思われる。そこで以下に『シュルレアリスム第二宣言』から一部を引用してみることにしよう。
「バタイユ氏は、この世で最も卑しく、最も意欲をそぎ、最も腐敗に満ちたものしか考えたくないと表明し、限定された何ものに対しても役に立つのを避けるために、『目をふいにとろんとさせて、恥ずべき涙をため、蠅よりも汚く、床屋よりも悪徳に満ちて悪臭のする田舎の幽霊屋敷の方へ、彼とともに不条理にも走っていくよう』人間に促すのだ」 (1)
「バタイユ氏が、汚れた、老いぼれた、すえた、下劣な、みだらな、ぼけた、といった形容詞の気違いじみた乱用をしていること、これらの言葉が耐え難い事物の状態を非難するのに役立つどころか、彼の歓喜を最も抒情的に表現していることに、注目しなければならない」(2)
 先ずブルトンの主張を、正確に把握してみる必要がある。彼の言い分の中には、シュルレアリスム運動をめぐる、バタイユとの確執があるのは事実である。ただし、感情的な批判の内に、彼の文体の特徴を鋭くとらえてはいないか。バタイユが偏執狂のように、おぞましいイメージを描き続けたことは本当である。『シュルレアリスム第二宣言』が出た当時には、バタイユの重要な著作は、『眼球譚』しか出ていない。しかし、ブルトンの指摘は後の『青空』や『C神父』にも当てはまるのではないか。「限定された何ものに対しても役に立つのを避ける」というブルトンに指摘された態度は、確かに誇張されてはいるものの、後年のバタイユの思想、すなわち「企て」「労働」「隷属」にたいする否定的な見解や、『呪われた部分』における「生産」よりも「消費」の重要性を説いた態度と、妙に符合しているかに思えるからだ。「形容詞の気違いじみた乱用」は、後年の「C神父」でも認められる。その典型的な表現を引用してみよう。ロベールの顔の描写に注目して頂きたい。
「レオン十三世のような、リスを思わせる顔! 齧歯類動物みたいに離れた両耳、あから顔で肉は汚辱にまみれて、分厚く汚くぶよぶよしているのだ! 柔らかく澄んだ言葉は対照的に、余りに繊細だが重々しくたるんだ突飛な顔を下品なものにしていた。いたずらの場を取り押さえられておどおどした子供だった……」(3)
 ブルトンの指摘が見当違いのものではないことが、これでお分かり頂けたのではないか。そこでバタイユがなぜこの種の表現を好んだか、という点に思いを致さねばならない。ここからバタイユの精神的なゆがみを感じたブルトンと、同じ帰結を持ち出すわけにはいかない。勿論、『眼球譚』の終わりに触れられた父の狂気が、彼の精神に深い影響を与えたには違いないが。それというのも、バタイユの父は梅毒病みで盲目となり、用便にも不自由をきたす有様だった。第一次大戦の時には、病人は置いてきぼりにして母とともに避難した。父を見殺しにしたという罪悪感が、精神的な外傷となっていたということは、十分に考えられるからである。
 ここでまた、バタイユにとっての基本的な問題に立ち返って、考えなおさなければならない。つまり、「理性」によって把握できないものに、いかに対処すべきかという問題に。現代社会は「役に立たない」ものを、存在価値のないものとして排除する。とりわけ、おぞましいものは、我々の目に触れぬ処に隔離してしまおうとする。バタイユはなぜここまで「形容詞の気違いじみた乱用」をするのか。いくら「理性」がその存在を認めまい、としたとしても、死や腐敗は現実に存在するのは事実である。それを排除してしまったら、現実の全体像をつかむことは出来なくなる。非日常的なものとして「聖なるもの」を考える時、我々は一般に、神聖なものや美を想起しがちだが、現実から乖離された存在としての「聖なるもの」は本来、美と醜の両極面を持っているはずである。教会が神の国に信者を引き寄せるのに、地獄や悪魔の存在を語ることで、恐怖心をあおり立てていたのも事実である。これに関するバタイユの見解を、講演「二十世紀における聖なるもの」から聞いてみることにしよう。
「この点について想起する必要があるのは、教会にとって神だけが聖なるものではない、ということです。悪魔は神同様に聖なるものです。勿論現代人はまだ、悪魔よりもまだ神は信じています。とはいうものの、悪魔の名だけで気違いじみた恐怖を引き起こした時代から隔たっている、というわけではありません。この恐怖は、こう言ってよければ、幾千となく、魔女を据えた薪の山に火をつけたのです。しかし正確には、悪魔によって吹き込まれた恐怖は、余りに純粋になった、とりわけ、それ程恐ろしくなくなった崇高な世界が少しずつ受けて来た貧困化を、埋め合わせて来たのです。
 悪魔とは恐らく、神が吹き込んだ恐怖の余波でしかありません。でも悪魔がいたということは、崇高なものが二つの部分に別れて、お互いを知らずに誤解し合っていた、ということを意味していました。純粋に崇高な部分は貧しくなったのです。さて、崇高で悪魔的なこの様相の全体を、同時に見出ださなければ、今日聖なる感情を思い描くことは出来ないと思います。聖なる感情を動かすのは恐怖です。この感情は現代人の弱さのために死ぬのです。恐怖ほど魅力のあるものはない、ということを、もはや知らないし、知りたいとも思わないのです。我々が最も恐れるのは死であり、聖なる感情の中では、実存と死は隣り合っています。ちょうど夢の中で、棺桶の方が我々を引き寄せるように。さて、死について考えるのを避ける者が考えているような意味だけを、死が持っているはずはありません。というのは、生命はぞっとする対立物との接触で、より激しい強さを持つからです。腐敗や消滅のイメージは我々を魅惑し、引きつらせ戦慄させるのです。このイメージのみが、我々をより荒々しい世界に投げ込み、その悲劇は、沈黙や悪寒にとらわれるけれども、一種の陶酔、高揚感、勝利をつかむ手段であり、その詩の荒々しさは思想をもたらし得るのです」(4)
 バタイユはなぜ、おぞましいイメージを好んで描き続けたのか。それには現代人の「聖なるもの」に対する誤解を考慮に入れなければ、理解することが出来ないのである。「崇高なもの」を純化しようとする余り、悪魔的なものを排除したばかりに、現代人にとって、聖なるもののイメージは力を失ってしまった。その力を文学作品の中で回復させるためには、おぞましいものが偏執的に描かれる必要があったのだろう。「聖なる感情を動かすのは恐怖」だからこそ、彼の作品では「聖なるもの」のうち、現代人が最も嫌悪するイメージが、ことさら強調されているわけである。ここで強烈な交感を打ち立てるのは悪である、というバタイユの主張に耳を傾けなければならない。キリスト教の成立には、キリストを殺害することが不可欠であった。血を流して死ぬキリストを見て、その場に居合わせた弟子達を崇高な感情が襲った。そのおぞましい場面を否定しては、キリスト教は力を失ってしまう。キリスト受難の場面を演じようとする、イグナチウス・ロヨラの弟子達の試みも、正しくそこにあったという。現代キリスト教にかつての勢力がないのは、おぞましいイメージを排除しようとして、「崇高な世界が少しずつ受けて来た貧困化を、埋め合わせて来た」悪魔的なものを、排除したためであったのだ。「聖なる感情」を動かすのが「恐怖」であることを忘れているのが、現代人が「聖なるもの」に関心を払わなくなった原因である。そこで宗教において失われた「聖なるもの」を、文学において復活させようとするのが、バタイユの使命の一つであった、と考えられるわけである。こうした観点に立たぬ限り、軽々しく癖の多い文体を批判することは出来ないはずである。

 バタイユは何も、おぞましいものばかりを描き続けたわけではない。「聖なるもの」の「恍惚」をもたらす光の部分にも、強い関心を抱いていたのである。バタイユは『文学と悪』の中で、ブルトンとの接点を探っている。「生」と「死」や、「現実」と「想像的なもの」といった、一般に対立したと考えられている概念が、もはや矛盾したものと感じられないような「或る地点」を信じるブルトンに共感を示しつつ、その地点の持つ属性として、以下のものを補足しようとする。
「私は付け加えよう、善と悪、苦痛と歓喜を。この地点を、強烈な文学と神秘的体験の荒々しさは互いに示している。方法が大切なのではない。唯一の地点が大切なのだ」(5)
  一見矛盾したように見えるものの一致。バタイユは「聖なるもの」が二分化した現象を解析してきた。「恐怖」をもたらすおぞましい部分を回復しなければ、「聖なるもの」の全体像は把握され得ない。バタイユが描く忌まわしいイメージは、その全体性を取り戻すことで、彼の書くものを「強烈な文学」に仕立て上げる。したがって、「聖なるもの」から美しいものを排除してしまったら、やはりその全体像はつかめないことになる。バタイユ自身、美しいものに惹かれてはいるはずだ。ただし、崇高な印象を与えるために、しばしば美しいものと醜いものが、隣り合わせで描かれているのである。そうした箇所の一つを「C神父」から引用してみよう。
「私は抗議しなかった。私は暗黙のうちに受け入れていたのだ! 傾いた陽の薔薇色の光は、菩提樹の下のこの場面に、別世界のような感じを与え、その光によって黒い服を着た婦人の顔は大きくなり、彼女の陰気な顔や気取った様子は、一種、天国の獣性を得ていたのだ。婦人は長々と通りを過ぎて道を外れ、ジェルメーヌは光の中で立ち尽くしていた。何も言わずに、シャルルは遠ざかり、我々は彼の入った家の前で、途方にくれて待っていた。
 この間、下水口から耐え難い悪臭が発していた……」(6)
 読者はこの場面で、彼方の「別世界」に対する憧憬を抱く。次の瞬間、「黒い服を着た婦人」が不吉な予感を与え、シャルルの押さえられた怒りを象徴する「耐え難い悪臭」が描かれている。美と醜をぶつけて、詩的な効果を上げる方法は、オクシモロン(撞着語法)に通じるところがある。相対立した言葉を、的確にぶつけ合うことによって、詩が生まれると考えるのである。例えば「氷のような情熱」などがその典型として挙げられよう。
 バタイユの語法を、こうした詩的効果という観点から考えることも可能である。そこに未知のイメージが生じるのは事実だからである。ただし、ここで忘れてはならないのは、対立するような言葉をぶつけ合って、意外な詩的効果が得られたとしても、それは現代人が、美と醜は全く相入れない、と考えているからに過ぎない。バタイユにしてみれば、その意外さは「聖なるもの」を純化し、おぞましいものを排除した結果に過ぎず、失われていた「聖なるもの」の全体像が、詩において再発見されたことになるのである。
 ここまでバタイユの文体の特徴を、「聖なるもの」との関わりから論じてきたわけだが、彼の描く文学作品がいかに退廃的であっても、そこに宗教色が強く感じられる理由もお分かり頂けたことと思う。世界の全体を描くという彼の意図を見落として、バタイユを批判した文学者も、彼の主張に真摯に耳を傾ければ誤解は自ずと解けたことだろう。


注 

(1)アンドレ・ブルトン全集第1巻
 (ガリマール版)p.824
(2)同 p.826
(3)ジョルジュ・バタイユ全集第3巻
 (ガリマール版)p.241
(4)同第8巻 p.188
(5)同第9巻 p.186
(6)同第3巻 p.245


主要参考文献(邦訳のあるもの)

アンドレ・ブルトン著

「シュルレアリスム宣言集」
(江原順 訳 白水社)

ジョルジュ・バタイユ著

『C神父』(若林真 訳 講談社)
『眼球譚』(生田耕作 訳 角川書店)
『青空』(天沢退二郎 訳 晶文社)
『文学と悪』(山本功 訳 紀伊国屋書店)
『内的体験』(出口裕弘 訳 現代思潮社)
『呪われた部分』
(生田耕作 訳 二見書房)
『非─知』(西谷修 訳 哲学書房)


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