うつせみ 
2002年 2月28日 3月11日改定               出航

 正5時に汽笛がボーと鳴って、Bahama船籍33千tの米船Seven Seas Navigator号は静かに夕もやの晴海埠頭を離れた。いよいよ2ヵ月半の旅の始まりだ。今は愛妻と共に旅することが無性に楽しく思えるが、2.5ヶ月のうちには鼻につくようになるのだろうか。  晴海からは我々二人と、香港まで行く6人の日本人グループが乗船した。電光スティックを配って出航を見送ってくれたのは、半分は客船見たさに来てくれた息子と、接岸を誘致した東京都港湾局職員だけだった。

 東京タワーと並ぶ東芝ビルの窓のほとんどに、競うようにまだあかあかと照明がついているのを見て、ふと一片の後ろめたさが心をよぎった。いまさら会社に特別な郷愁がある訳ではないが、そこで一生懸命働いているはずの仲間の顔が思い浮かび、俺だけ遊びに行くことの後ろめたさである。なに構うものか、今あそこで働いている人の誰よりも俺は長く働いたし、これからも多分働くだろうからな。一旦暇が出来てまだそれほど耄碌していない今でないとこういう奥さん孝行はできないからな。

 実は物好きなことに昨日この船の入港を見に来た。レインボーブリッジをくぐって船が入ってくると、消防船が高々と放水して出迎え、和太鼓とミス中央区3人が和服で歓迎した。ミス東京などと違って中央区だと応募者が少ないのだろうか。丁度横浜大桟橋が今春完工を目指して大改装中なので東京が誘致に成功したのかも知れない。

 昔仕事に疲れた時の気分転換に、東芝ビルから晴海埠頭をよく眺めた。とんがり帽子の旅客ターミナルが晴海に建設されてからは時々巨大客船が晴海に接岸するようになったが、それでも伝統の横浜には一歩を譲る。横浜大桟橋の近くには税関も入管も常駐ビルがあるが、晴海には常駐事務所は無いらしくいつもガランとしている。2月に晴海に接岸する客船は実はわが船1隻だけだ。1月も3月も大小・内航外航で十隻前後の客船接岸があるのに2月はニッパチで冬枯れか。東京都港湾局はわが船の寄航を喜んでマスコミにプレスリリースを流し船内の取材見学会を催した。日本語の通じる旅客は少ないだろうから手軽に取材対象にされてしまうリスクを感じ取り、念のため連絡するつもりだった船会社の日本代理店には電話も掛けず、万一何か言われても見送りを装おうとワイフと口裏を合わせ、取材時間を避けて、取材関係者30-40人とすれ違うように乗船した。

 荷物には頭を使った。私にはパソコンやプリンタやCD-Rは勿論だが、テスタ(例えば電池の良否)やラジペン(例えばイヤリング修理)のない2.5ヶ月の生活は考えられないから勿論持ち込んだ。ワイフは源氏物語と衣装一式だけで2週間旅行用のスーツケースを一杯にしてしまった。結局5個の大小スーツケースになったのでマイカーには載らない。トヨタレンタカーなら晴海で乗り捨てられることを発見してバンを借りた。帰路は下船数日前から運送屋が乗船して来るというから安心だが。日本の船で出掛けた人の話では、荷物は取りに来て運び込んでくれたそうだ。

 大浴場つきの日本船で数百人の日本人と日本社会を引きずって旅行しても刺激が少ないから米船を選んだのだが、おかげで旅行準備は結構忙しく大変だった。慣れない6カ国のビザ取得は体力と知力が必要だったし、買い物や予防注射には金と時間を要した。米船会社や代理店とのemail主体のやりとりは詐欺の杞憂と隣り合わせでスリルがあった。特に直前に旅客の減少で別の船会社が潰れる騒ぎがあって心配したが、1月20日に確かに船はLos Angelesを出航して世界一周が始まったと知ってやっと胸を撫で下ろした。幸い良心的な代理店に恵まれた。

 船の速度は20 knot=37 km/hrだそうだ。世界的旅客減少でこの船も定員490人に対して217名ほどらしい。空いていてもっけの幸い。早速昼食は船内のレストランに行った。ホテルの高級レストランでメニューで注文するのと同じだが、食べ終わって支払いもサインもチップも要らないという経験が新鮮だ。食べ過ぎないように気をつけよう。

 陸の灯が遠くなった。明日一日は太平洋を行き、明後日の朝長崎に入港する。 以上