うつせみ 
2002年 3月 23日
            微笑の国

 タイThailandは争いを好まない微笑の国とよく言われる。近隣諸国と比べてそれは納得できる。だが歴史的に見ると微笑ばかりではなかったことも分かる。1939年まではSiamと呼ばれていたこの国は、そもそもAngkorを都とするKmer王国の支配から13c前半に独立を闘い取ったSukhothai朝に始まる。Sukhothai朝は同時にSri Lankaから仏教を受け入れている。

 Thaiと20世紀以降呼ばれているタイ人は、ラオス人やベトナム人と同様南中国から南下してきた人種とされ、単音節の単語という特徴が中国語と共通する。その前には、トルコからインド、東南アジア、中国江南地方、韓国、日本に同一語族があったとされている。そこにインドには印欧族が侵入し、東南アジアにタイ人ラオス人ベトナム人が入り、漢民族が江南地方にも進出し、分断されてしまった。しかし今もって身体語など基本的単語がトルコ語、インド南端のTamil語、カンボジアとベトナム高地のKmer語、韓国語、日本語に途切れ途切れに残っている。

 1351年にAyutthayaの町を中心にAyutthaya王朝が興り、Sukhothai朝を併合し、1432年にはAngkor朝をも滅ぼしてしまった。川船を利用した中国朝貢貿易で栄え、琉球貿易も始まり、17cには山田長政などの日本人街が出来て国際都市となった。17cにVersailles宮殿に使者を送っている。しかし王位継承者がなくなり国が乱れた隙に1767年にビルマ軍に襲われ、Ayutthayaの都は破壊された。観光で一度行ったが確かに何も無かった。

 1782年にAyutthaya朝の将軍がRama I世を名乗ってChakri朝をより下流のBangkokに興し、Ayutthaya時代への復古を掲げた。1851年に45歳で即位した4代王Mongkutは、明治天皇と時期も業績もおよそ重なるのだが、開国して国の近代化に努め、外人を多数顧問として欧州文化の吸収を図った。その顧問の1人が皇太子の家庭教師となった英国のAnna Leonowensで、彼女が後に書いた体験記が元になって米国で1951年にミュージカル「王様と私」が出来たという。私は映画で楽しく見た。王は26年も僧職にあった経験から仏教の復古改革を行った。5代目王Chulalongkornは、益々強まる英仏の圧力を、Laos, Cambodia, Malayの領土を割譲しつつ凌ぎ、初めて絶対君主制による集権的近代国家建設に励んだ。しかし7代目王の代で世界恐慌に直面して失政があり、1932年の人民党によるクーデタが起こって絶対君主制は崩壊した。人民党では元砲兵士官Phibunがリーダシップをとるようになった。彼は1939年には国名をSiamから「自由」という意味のThaiに改め、第2次世界大戦に乗じて日本軍に協力して英仏から失地回復を図ったが、日本の敗戦で失脚した。その後再び政権を掌握したが陸軍の造反で日本に亡命した。タイ政府は日本軍に協力したが、それをよしとしないタイ人が海外で自由タイという亡命政権を作って連合国に協力したため、敗戦国と見なされることなく戦後を迎えた。

 その後民主化を求める学生の蜂起と、保守派を代表して軍が強権を発動することが繰り返され政治は混迷したが、常に王が国民的人気を背景に事態を収拾してきて今日の安定政権に至っている。

 20世紀初めにアジアで植民地化を免れた独立国は2.5ケ国と言われる。日本とタイと、租界や不平等条約で半独立の中国だった。なぜ日本とタイが独立を保ち得たかを考えると、非常に共通点があることに気づく。(1)ともに英仏の勢力争いの狭間にあって一方が植民地化することを他方が許容しない均衡があったことと、(2)ともに賢君に恵まれ絶対君主制で国内を掌握しつつ微妙な外交のよろしきを得たこと、であったろうと思われる。日本人とタイ人とは似た所があると思う。外人から見れば日本も微笑の国かも知れない。ともに争いを嫌い何とか妥協策はないかと考える。王のような権威に比較的従順な国民でもある。

 タイのバスに乗ったとき運転席の頭上に国王の写真が張ってあった。タイは日本と違って国王の権威を制限する動きが戦後に無かったため、今世界で最も国民から尊敬されている王室である。

 我々がタイに旅行してインドやベトナムとは異なる安らぎを感じるのも故なしとしない。                     以上