うつせみ 
2002年 4月 5日
           Zululand

 Zulu族という名前だけは知っていたが、そのZululandを訪れることができた。南アフリカ共和国(南阿)の歴史は米国に似ている。南端のCape Townに移住してきたオランダ人は、後にBoer人(英の用語)、Afrikaner(自身の用語)と呼ばれるようになったが、奥地つまり北に北にと開拓を続けた。特に1836年には、新たな英国支配を嫌ったAfrikanerの大移動があった。Zulu族は、今でいう南阿の東北沿海部の比較的肥沃な土地で農業と牛の牧畜をしていたが、移住者および英軍と最も激しく戦い、善戦したが1879年に遂に敗れた。つまりZulu族は米国のApache族に例えられる。南阿は英連邦に所属したが、政府を初めとする運営はAfrikanerに任された。過去10年の間に人種隔離政策Apartheitが崩壊し、Mandela大統領による黒人政府が成立し、今はZulu出身のMbeki大統領が引き継いでいる。

 我々の船はZululandの玄関口Richard's Bayに入港した。埠頭ではZulu族の男女若者が伝統衣装でダンスを披露し、Zululandに来たという雰囲気を盛り上げた。私共は他の約50名ほどの船客と一緒に、飛行機で20分ほど北Phindaの地にある世界遺産の野生動物保護区に一泊旅行してきた。船旅の決心そのものが遅かったためにPhinda行きの申込みが遅くWaiting Listにされたが、乗船後にOKを貰った。当日分かったのだが、人数制限のボトルネックは飛行便だった。飛行機が15人、10人、3人乗りの3機しかなく、それらが片道30分のピストン運行をしても運べる人数は知れている。我々Waiting List組はいつも最終便だった。

 我々十名余がPhindaの滑走路に降り立った時、草原に疎らな樹木のある荒地にWildebeestと現地で呼ぶ野牛の一種が遊ぶ絵葉書のような風景に丁度真っ赤な夕日が沈むところだった。2台のジープに分乗して保護区の中を動物を探して行く。残照が漆黒の闇に変わる頃、とある水辺で一対のライオンに出会った。刺激せぬよう赤いサーチライトで照らせば、数十米先で時々頭をもたげたり浅く眠ったりしている様子だった。

 ワイフが「あっOrionが」と言った。初めて見る真っ黒な夜空に天の川が鮮やかで、その外れにOrion座が美しかった。アレッ、Orion座が上下逆だ!! 何時も南天に見慣れたOrion座がここでは北天に見えるんだろう、だから逆なんだ、と推察した。するとそれより南側の星座はほとんど初めて見る星座のはずだ。天の川に沿ってOrionと相対する位置、つまり南と思われる方角に幾つかの明るい星が見える。暗くて持参の磁石も見えないが、あれが音に聞く南十字星ではないかと、その中の四ツ星に注目した。後でレインジャに聞いてみたらやはりそうだった。南十字星を見たぞ!!

 保護区北端の闇の野原にロウソクとアセチレンランプを多数点して、一行揃ってバーベキュー式の夕食をとった後、1時間も南にドライブして、岩山に作られた6部屋12名定員のRock Lodgeに我々Waiting List組は宿泊した。ArizonaはScottsdaleの砂漠の高級ホテルを思わせる造りだった。  翌日は6:30amから9amまで動物を求めてまたジープで探索した。多くの動物と出会えたが、ハイライトはじっと休息中のCheetah一家を数十米先の木陰に見たことだった。宿に戻って朝食をとっていると、向こうの山に十頭余の鹿が見えたと思って宿の人に確かめたらImpalaだと教えてくれた。Chevy車の名だ。部屋のトイレの壁一つが面白いことに全面透明ガラスになっていたが、その直ぐ外に一対のImpalaが遊びに来た。近くの別のMountain Lodgeで遅い昼食をとり、最終便でやっと夕方に船に戻った。

 Conservation Corporation Africaという1990年設立の公共目的の営利団体があって、アフリカ南部数カ国で観光開発を行い、観光リソースとしての自然保護と現地の経済発展を目指している。その最初のプロジェクトとして、農地と牧場で虫食い状態になっていたPhindaの荒地を以前の姿に戻し、絶滅寸前だった動物を移入保護し、自然破壊を最小限化したLodgeを運営して観光客を呼んでおり、我々もその恩恵にあずかった。

 埠頭で船に向かって無心に踊るかに見えたZuluの若者の心理がふと気になった。いつかこういう船に乗ってやるぞ、と思うだろうか、無縁の世界と思うだろうか、そんなところに紛争の種があるのではないかと。 以上