うつせみ
2006年11月21日              流刑地

 Australiaの南東部にある島がTasmania州である。北海道と同じくらいの大きさで、南北の違いはあれ同程度の緯度だ。ここに北海道の1/10の人口50万人が住み、鉱業、牧畜、観光で暮らしている。もっともAustralia全土でも人口は20百万人に過ぎない。オランダ東印度会社のAbel Tasmanが1642年に発見し別の人の名を付けたが、世間はTasmaniaと呼んだ。当初はオランダが支配したが、18世紀後半以降の産業革命で力を付けた英国が1800年頃Tasmaniaを支配し、1825年に正式に英植民地を設立した。

 産業革命は英国を豊かで強力な国にしたが、社会の階層化が進み犯罪が急増した。英国は当初重犯罪人を死刑または米国に流刑としていたが、1776年の米国独立以降はAustraliaを流刑地とした。最初の流刑植民地がSydneyに開かれたのが1788年である。しかし流刑後の再犯者や反逆者、凶悪犯など特に悪質な犯罪者は南の地の果てのTasmaniaに送ることとした。こうして1830年から1877年までの半世紀、Tasmaniaに流刑植民地が置かれた。網走と同様に、受刑者はTasmania送りになることを恐れたという。

 因みに「Convicts=受刑者の子孫であることは誇なのか恥なのか?」と現地人に聞いてみたところ「昔は恥だったが今では誇だ」とのこと。古い家柄である証拠だし、昔の犯罪は、社会の歪みで餓死か犯罪かを迫られて支配層を襲ったものが多いと今では皆が知っているからだと。

 Tasmaniaの10万人の州都Hobartから道路距離で100km南東に行ったTasmania島のTsamania半島の先端近くにPort Arthur Penal Station=刑務所の跡があり、今では公社が運営する国立公園になっているのを訪れた。Tasmania半島は、2箇所で100mほどの幅に細くくびれている。その一方には運河が掘られていて交通の便を図ると同時に逃亡防止になっている。もう1箇所には獰猛な犬が配置されていたということで、今でも犬の銅像が立っている。そんなことをしても泳いで逃げれば...と考えたのだが、この辺の海にはサメが居て、うっかり泳げないのだそうだ。入港した船は全て帆とオールを取り上げて預かるシステムだった。そういう仕組みで塀のない刑務所が成り立ったのだ。或る時受刑者の1人がkangarooの毛皮を着て逃げる途中に、本当のkangarooと間違えた監視員が狩猟のために撃ってきたので降参したという逸話もある。

 丘と平地から成る広大な敷地は、今は美しい芝生になっており、所々に樫や栃=マロニエ=Horse Chestnutなどの大木がそびえている。そのあちこちにレンガ造りの建物の廃墟がある。平地の中央には4階建の大きな監獄跡があり、周囲の丘に付属設備があった。これらの樹木も、建物も全て受刑者が植え、建てたものだという。この刑務所は受刑のあり方を変えたそうだ。元はムチ打ちなどの厳しい刑があったが、ムチ打ちしても憎しみが募るばかりで再生には結びつかないという理論が生まれ、この刑務所では「悪漢を正直者にする」ことを目的に壮大な実験が行われた。即ち悪いことをした受刑者には身体的罰ではなく心理的罰として、お面をかぶせて独房で沈黙を守らせたという。この方法で反省する確率が高まったそうだ。一方では模範囚には日々の建設工事に従事させ、あるいは造船、製靴、縫製、家具製作、石工、煉瓦製作などをさせて職業訓練を施した。また模範囚は各地の支所をベースに遠隔地の仕事をすることもあった。1840年には受刑者、監視官とその家族を合わせて2千人がここで生活した。受刑者とは対照的に、監視の兵士や管理者は家族連れで優雅な生活を送り、パーティーやボート競走も行われ、子供は学校に通った。

 長い刑期の間に精神異常を来たした受刑者を収容したAsylum=精神病院と、重犯者を独房に収容する別棟監獄とは並んで建っていた。病気の受刑者を収容した病院の跡もあった。Ireland独立を指導して服役したSmith O'brienが特別待遇で収容された一戸建てもあった。また丘の一角には、中世の城のような円筒形の塔を備えたGuard Towerと、兵士の居住空間があり、その隣には司令官の官舎Commandant's Houseがあった。幾つもの部屋があって司令官はなかなか恵まれた生活を送っていたことが判る。

 流刑から始まったと言われるAustraliaの歴史の一端に触れた。 以上