J.新田川緑地
分倍河原古戦場跡
府中市
文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は
根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって
政権破滅の速度を早めた。
元弘3年(1333)5月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、
上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の
小手指ケ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(5月11日)、
さらに、久米川の戦で優勢に立った。
北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総師として新田勢を迎撃した。
新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために
焼失させられたという。
その後(5月15日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力
し、16日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め
22日に鎌倉幕府は滅亡した。
Last Update 1998/11/10
府中市
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