於大の方

徳川家康の生母 於大の方 伝通院

Last Update 1999/11/21(1998/01/01)

「於大の方」生誕地航空写真

航空写真


 「於大の方」が生まれた緒川城のあたりは、当時 織田と今川の境に位置し戦乱に明け暮れしていました。
 「於大の方」結婚の前年まで岡崎城と刈谷城は隣同士で戦をしており、 岡崎城主松平広忠は、この時代情勢まことにきびしい中にありました。

東三河は今川義元の勢力下にあり、西からは織田信長が迫っていた。 広忠はそこで刈谷城主右衛門太夫忠政の娘「於大の方」と 天文10年(1541年)に結婚、この連携によって独立を維持しようと しました。

 しかし、竹千代が生れた翌年に忠政が没すると、嫡子信元は織田信長に 属したため、広忠は今川義元に遠慮し、天文13年(1544年)に 「於大の方」と離別しました。
「於大の方」の時を見抜く賢明な処置だったともいわれています。

離別後「於大の方」は刈谷城下「椎の木屋敷」に一時住んでいました。 「伝通院画像」が廟所のある刈谷市楞厳寺(りょうごんじ)に所蔵されています。

 上空からこの辺りを俯瞰しますと、織田の居城である清洲城と緒川城・刈谷 城・岡崎城との位置関係がよく分かります。それだけに緒川城・刈谷城は、 戦略上の要衝でもあったと思われます。

 桶狭間の戦いは永禄3年(1560年)5月19日に、この地から目と鼻の 先で起こりました。まさに戦乱の世の最中の出来事です。


文献 写真提供;東京都 斎間 亨氏撮影


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