於大の方

徳川家康の生母 於大の方 伝通院

Last Update 1999/08/12(1998/11/03)

緒川城主5代(於大の方の兄)6代(弟)7代(甥)のお墓

567代墓


 緒川城主5代には、天文12年(1543年)「於大の方」の兄信元がついた。 信元の時代、主城であった刈谷城の他に、緒川城等6城、24万石を領有した。

 4代忠政が没した後、嫡子信元は織田信長に属した。1560年5月19日、信元は 桶狭間の戦いの時には、大高城にあった徳川家康のもとへ奇襲の連絡をした。

 そして天正3年、敵方の美濃岩村城武田方秋山に塩5駄を販売したことが、 敵の兵糧を助けたとの誤解を招いた。このことが冤罪となり、天正3年(1575年)12月22日、 織田信長の怒りに触れ、信長の命により悲しくも徳川家康は信元を生害斬首した。 信元の嫡子長男元茂も緒川城において生害さる。さらに次男茂尾もまたこの冤罪のために 難を逃れて松山城に下った。

 そこで後継になるはずであった、信元の次ぎの弟信近はこのとき桶狭間で戦死して 今は無く、その弟であり「於大の方」のすぐしたの弟忠守が6代緒川城主を継ぐ こととなた。しかし、忠守も織田信長によって山形城に移封されてしまった。

 さらに、忠守の弟忠勝は駿府城にて今川氏真に殺害される悲劇に逢う。次の弟忠分は 織田信長に従い有岡城にて戦死をとげる。ために、忠分(ただちか)の嫡子分長(ちかなが) が7代緒川城主を継いだ。しかし、慶長11年(1606年)忠分は新城城主に転封となり、ここに緒川城の 歴史は終わる。(戸田純蔵の研究・江戸300藩「藩主総覧」より)

 緒川城の歴史とは別に、一族は徳川幕府に将軍家康の姻戚として大いなる重用を されることになる。明治維新を迎える迄に7人8回の老中を排出する。これは松平家 に次ぐ異例の多きにある。

本尊にお参りし、本堂左手から監雄堂に登ると、左に立派なお墓がまつられている。
写真は右から、戦乱を生きた5代信元、6代忠守、7代分長のお墓である。

四代緒川城主・刈谷城主
  忠政(下野守右衛門太夫)
   │緒川・刈谷・大高・西尾等6城主
   │10万石領有
   |
 ┌┬┼┬─┬─┬─┬─┬┬┬┬┬┬─┬─┬┬┬┐
 |│││ │ │ │ ││││││ │ ││││ 
近守|│於上│ │ │忠勝││女││ │忠近│││
 忠貞│ 信近 │ │  女│ 女│ │ 忠則│女
   │    │ │   女  │ │   女
5代緒川城主  │ │      │ │
   信元  於大 │      │ │
 24万石領有 │6代緒川城主  │ │
        |忠守     忠分 忠重
 岡崎城主   │        │
  松平広忠  |        │
    └┬──┘     7代緒川城主
     │          分長
     │
     │
    将軍
   徳川家康
  (岡崎城主)
          


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