於大の方

徳川家康の生母 於大の方 伝通院

Last Update 1999/08/12(1998/11/03)

「於大の方」の父忠政公と母華陽院

堅物堂


 毎年3月15日前後の日曜日、旧涅槃会、春祭りの際忠政公(向って右座す)像が公開される。 同時に、監物堂(写真)を建立した忠善公(岡崎城主:向って左座す)像も公開されている。

 戦略上の必要から忠政は天文2年(1533年)、主城を 刈谷金ケ小路に築き、城主家臣など皆この城(刈谷城・亀城)に移転した。

 忠政は、はじめ松平昌安の娘を妻としてむかえ、長子の信元と一女を 得ていたが、離婚して大河内元綱の養女であった「於富の方」をむかえた。 於富は世にもまれな美女と伝えられ、「於大の方」はこの母の2番目の 子として生れた。
「於富の方」は華陽院と呼ばれ、近信・忠分・忠重らを生んだあと 離縁となり、のち岡崎城主松平清康のもとへ嫁がせられた。 松平広忠にとっては義理の母にあたる。

 忠政が刈谷城主であった時、息女「於大の方」を岡崎城主松平広忠のもとに 天文10年11月に嫁がせた。「於大の方」は、竹千代こと後の徳川家康を 天文11年12月出生する。

そして勢力を拡大する中で、忠政は52才でこの世を去る。 天文12年(1543年)7月12日のことである。

 その後、一族は戦国時代を生き抜き、徳川時代となって、その子孫が活躍を 果たすことになる。天保の改革の「忠邦」もその内の一人である。



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