百景

92.登龍峠の展望と八丈島物語

所在地:八丈町三根
交 通:船・飛行機

百景


案内
登龍峠(のぼりりゅうとおげ)頂上からは右から 神湊(向う)、底土港(手前)、八丈富士、八丈小島が一望できる 一大パノラマの体である。


地図


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八丈小島                八丈富士火口


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海岸風景                  三原山


 羽田を飛び立ち約40分もすると眼下に八丈島が現れる。1999年3月 23日朝、まばゆいばかりの南の海の輝きのなかに緑の島影がとても新鮮であった。 飛行機は八丈小島を取り囲むようにして高度を下げる。

 その昔、鳥も通わぬ流人の島といわれた八丈島。伊豆七島の最南端に位置し 東京から287kmの距離にある。島は西山(八丈富士・854.3mの休火山) と東山(三原山・700.9mの死火山)が島の両側にそびえ、中央部に 空港がある。

 西山は7号目まで車が利用できる。この山は赤茶色の火山礫でおおわれている。 東山は山が深くヤブで暗く地元の人もあまり登らないという。 両山では地質や植物の分布など自然が異なっている。

 島の中央部にある「八丈植物園」は、昭和32年に国および八丈町から約 7haの用地を借り受けて整備が開始され、同37年8月29日に約9ha が開園された。八丈町の温暖な自然特性を活かして国内外の様々な植物を 集めるとともに、それらを紹介する場として整備が進められ、平成6年度には 約22haが開園された。
(東京都教育委員会資料より)



豊臣秀吉の五大老「宇喜田秀家」流転の生涯

 五大老の一人となった宇喜田秀家は豊臣秀吉の厚い信任を受けていた。 秀家は8才のとき豊臣秀吉のもとにきて後、養女の豪姫と結婚して名実共に 秀吉の養子となった。豪姫は前田利家の息女で幼少にして秀吉のもとに養女 として来て秀吉に大層可愛がられた。

 五大老といえば徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といった戦国時代を 代表する武将達である。この中の一人に宇喜田秀家が加えられた理由は秀吉亡き あとの秀頼の将来を託しての思いがあったからではないか。

 このような秀吉への忠誠心の固まりでもあった宇喜田秀家は、関ヶ原の合戦 のとき石田三成に組して西軍の総大将となって先陣をきって東軍の主力であった 福島正則軍に真っ向から挑んだ。しかし、不運にも小早川秀秋の東軍への寝返り もあって戦局は一変して敗退する。小早川秀秋も秀吉の養子の一人であり よもやの反逆であったいわれる。小早川秀秋は其の後発狂して若くして命を 絶ってしまう。

 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康軍は将軍としての地歩を固めた。 この合戦で宇喜田家は滅び、秀家は薩摩の島津家に逃れるが、島津家もやがて 徳川幕府に降伏し秀家の存在が露呈することになる。西軍の主将の多くは、 石田三成、小西行長はじめ京都の三条河原に首をさらされるが、宇喜田秀家 は島津家および豪姫の実家である前田家の嘆願によって斬首は免れた。

 宇喜田秀家の流転の人生は更に続き、久能山での幽閉ののち江戸から290km も離れた流人の島「八丈島」に遠島となる。44才のことである。 秀家は八丈島で苦難に満ちた生活を送るが、本土からは秀家を慕ってお米など 生活物資が送られたとも。一方で都のエリートとして、文人歌人としてこの島 に与えた影響は計り知れないものがあろう。

 この八丈島で人生の半分約40年を過ごし、明暦元年冬84才で生涯を閉じる ことになる。この間に豊臣秀頼も徳川家康も今はなく、徳川将軍はすでに4代 家綱の時代となっていた。宇喜田秀家は流転の生涯を最後は流人として送ったが 、この時代の多くの有名な戦国武将の誰よりも長生きをしたのである。 まことにその人生における奇異と感慨深いものを感じずにはいられない。
(参考資料「豊臣家の人々」司馬遼太郎著)


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Last Update 2001/05/31(1997/09/22,1999/06/08)



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