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頼 山陽 「浙西六家詩評」

 嘉永2(1849)年、京都・聖華房 刊行。3冊。

 頼山陽は、天保2(1831)年に広島へ帰省したとき、「浙西六家詩鈔」という書を携えていき、閑暇には それを読んで過ごした。
 この書は、清の中頃に呉応和という人が編集した、浙西六家と呼ばれる詩人達の作品のアンソロジーである。その浙西六家とは、清初(18世紀頃)に浙江省西部の地を中心に活躍した、厲鶚(号は樊榭)、厳遂成(号は海珊)、王又曽(号は穀原)、銭載(号は蘀石)、袁枚(号は簡斎、のち随園)、呉錫麒(号は穀人)の6人である。この順序で、1冊に2人ずつ割り振られている。

 山陽は、旅行中この「詩鈔」を読みながら、かごの中でも旅館でも、批評を書き入れていたという。
 書き入れの中には、批評だけでなく、「いつ・どこに着いた」というような簡単な旅の記録も見られる。その日付は前後しているので、1回の通読で全部を書き入れたのではなく、繰り返し読みながら書き足していったものであることがわかる。

 この「浙西六家詩評」は、原書の「浙西六家詩鈔」を、山陽の書き入れとともに翻刻したものである。
 この書には、友人・篠崎小竹(1781~1851)の序と弟子・後藤松陰(1796~1864)の後叙が添えられている。 後藤松陰が編集・刊行の責任者であったようで、後叙にそのいきさつが記されている。






 篠崎小竹の序

 小竹がこの序文でもっぱら論じているのは、浙西六家中の最大の詩人である袁枚(1716-1797)と山陽との関係についてである。
 山陽は、その活躍していた当時、袁枚に似ていると言われ、日本の袁枚と言われることもあったようである。また、山陽自身も、袁枚からの影響を自覚していたことであろう。そうしたことが屈折して、袁枚への強い反発となり、酷評となって示された。
 しかし、山陽は袁枚を否定していたわけではなく、むしろ詩文にわたる改革者としての能力を高く評価していたはずである。小竹のこの文は、山陽のそうした微妙な姿勢を、はじめて指摘したものとされている。
 なお、小竹がここで論じている山陽の袁枚評には、本書の書き入れのほか、別著の「書後題跋」中の「書随園詩話後」なども含まれるようである。
 (この序文では、袁枚は、号の随園または字の子才をもって称されている。)

  山陽、清人の詩文を評するに、抑ふるもの有り、揚ぐるもの有り。随園に至りては、則ち抑ふるの殊に甚だしきものなり。予、其の意を察するに、随園を悪むに非ず、亦た随園が為にするにも非ざるなり。随園の才学、能く当時を圧し、其の議論・著作は悉く陳腐を脱せり。意表に出入し、古今に凌轢リョウレキ(無理に筋道をつける)して、自ずから一家を成す。観る者、爽然(ぼんやり)とし、敢てせま(迫)るものし。 山陽 以て、子才を実の才子と為し、然るに亦た太だ傲慢なりとす。因りて其の疵瑕を索め、指摘してのこさず、随園をして芸圃に専権を得ざらしむ。乃ち史筆を詩詞に移し、新意を詠懐に発す。自ずから其の家を成し、一時之を仰ぐ。亦た、近世の随園なり。学者にして世に名を欲する者は、随園・山陽の志無かるべからず。… 浙西六家詩の山陽 評するところ、褒貶 的確にして、流滑を以て茶翁(菅茶山)を引き、険渋を以て杏翁(頼杏坪)を証とするごとき、皆な後学の指南たり。我が輩 宜しく其の説に従ひ、以て詩の正道を進むべきなり。必ずしも、別して山陽を可と為すにはあらざるなり。






 山陽の評語

 もともと欄外(本文上部の空白部)への書き込みであるから、評語はきわめて簡潔である。

 右に示すのは本文の冒頭であるが、上部にある小字4行が山陽の評語である。
 ここは、詩人毎に掲げられている小伝部分で、最初の詩人・厲鶚レイガク(号・樊榭ハンシャ、1692-1752)の紹介がなされており、同時代の沈帰愚や王蘭泉からみた厲鶚観が添えられている。


 山陽の評語は、この詩人に対する全体評価ということになるが、王蘭泉の人物評の一部分をふまえて (これが山陽の巧知なところであるが)、
 「宋元以来の稗説に熟せるは、厲の根柢なり。詩、其の中より生ず。うべなり、小家の数たるを免れざること。」
と、きわめて辛辣なものとなっている。 (「小家」とは、大家の反対で、つまらぬ人物を意味する。)

 詩人としての全体評価とは別に、個々の作品に対する批評があるのは当然で、厲鶚の場合も、高くあるいは低く 両様の作品評価がなされている。 例えば、五律 「晩歩」 に対する評語は 「白描能事(スケッチがうまく)、これを唐賢の什(唐の名家の作品)に混ずるにわきまふべからず(見分けがつかない)。樊榭たる所以ゆえん。」 と称揚しているが、中ほどの七律 「南湖秋望」 のところでは 「以下十数首、七律はみな繊褊(細かすぎて弱弱しい)るに足らず。」 と、ひとからげに斥けている。






 袁枚への批判

 袁枚の「元遺山の論詩に倣ふ」という詩の一つを引いて、批判(というより罵倒)している。

 元遺山とは、金・元時代の代表的詩人・元好問(遺山はその号。1190-1257)のことで、彼には前代の詩の評論をテーマとした「論詩絶句」と題する30首の作品がある。
 袁枚も、この「論詩絶句」に倣って先輩詩人や同時代の詩人を論じた詩を制作したわけで、その一つ(38首中の第1首)が次の王士禎(士慎ともいう。号は漁洋また阮亭。1634-1711)についての詩である。

 とも菲薄ヒハク(徳が少ない)ならず 相に師たらず。
 公道に論を持すべきこと 我 最も知る。
 一代の正宗 才力 薄し。
 望渓の文集 阮亭の詩。

 その時代の権威者(一代の正宗)といったところで、冷静に評価してみればそれほど実力があるわけではない。古文の権威者とされる方苞(号は望渓。1668-1749) 然り、詩の権威者とされる王士禎然り…、
と言っているわけである。袁枚は、同じ趣旨のことをその「随園詩話」の中でも述べているらしい。
 そこで山陽は、次のように袁枚を酷評する。
 「是れ、其の詩話中に亦た云ふところ。蓋し、自らを才力厚しと謂ふならん。其の厚しと為す所以は、乃ち其の俗たる所以なり。かれ、嘗て阮翁を評して良家の女と為す。五官端正にして、名香を薫じ、錦繍をおほふも、仮動すること一時のみ。天仙化人、一見して人の魂をとかすには非ざるなり、と。是れにてようやく確かなりとす。然れば余、此の叟を評せんと欲す。曰く、随園は、カツ妓の姿色無しと雖も、善く妖媚の態を為し、少年子を眩惑するが如し、と。」
 容色衰えた年増芸者が媚をふりまいているようで、醜いことこの上ない、というのである。






 旅程の記事

 旅程の記事は、5か所にある。

 市島春城の「随筆頼山陽」(1925年)中の年譜によれば、天保2年の帰省のときは、11月3日に帰途につき12月5日に京都に着いている。 5か所の日付はすべてこの期間に含まれるから、帰路の記事であることがわかる。
 実は、市島春城は、この書の「山陽の文芸」*「紀行」のところで、すでにこの旅程記事に着目し、その興趣に富んでいることを指摘している。しかし、春城は日程には注意を払っていないので、改めて、順を追って紹介してみることとする。

 「仲冬十三日、舟にて鞆より笹岡に赴く。蓬窓に此の巻を読みて此に至る。」 (右の図)
 これは、巻末に書かれている。現在の広島県福山市の鞆から笹岡市に向かう舟の中で、少なくとも1回目の通読を終えたのである。
 春城は、「船中読書の図を見るの思ひがする」と述べている。

 「十一月十八日、岡山より片山に至る。轎中にて閲す。扛夫、揺兀し、字を成さず。其の撑筇トウキュウ(つえ)しばらやすむる時をち、疾く書するなり。」
 これは、厳遂成の詩に対する評語に続けた文。
 現在の岡山県岡山市から備前市片山町までは、かごで進んだ。揺れ動いて字が書けないので、轎舁きたちが小休止したときに急いで書き記した、というのである。

 「旅況は、其の境をむに非ざれば、其の妙を知らず。今夕、行宿の片島駅に到り、燈を挑げ、読みて此に至る。疑ふらくは、此の人、予て我が為に情を写すかと。辛卯十一月十九日。此の日、短く至る。」
 王又曽の「コウ道店にやどる」という詩に対する感慨である。
 片島駅というのは、現在の兵庫県揖保川町であろうか。前夜泊まったであろう備前市片山町からは、直線距離で30km位あるので、「短く」はないのだが。

 「十一月、仁寿山に宿る。酒おわり、吏生皆な退く。衾を擁すれども、眠れず。枕頭に就きて此の巻を閲す。厨人猶ほ語りて夜たけなはなり。」 (右の図)
 これは、厲鶚の「晩春感興」という詩に対する評語に続けた文。
 仁寿山は、現在の姫路市白浜付近にある低い山で、当時は仁寿山校という学校があった。姫路藩主酒井家の家老であった河合寸翁という人が開いたものという。山陽は、帰省の折にはここに立ち寄って特別講義をするのを例としたというから、このときも、そうしたのであろう。(春城は、やや詳しくその経緯を述べている。)
 吏生とは役人のことであるから、学校関係者との打ち上げの宴があったのであろうか。「厨人猶語夜闌也」の情感は、詩中の句のようである。

 「十二月二日、尼崎第一渡の舟中に在りて看るに、昨雨あがり、雪片たちまち飛ぶを識る。」
 現在の尼崎市まで帰って来ていて、舟の中に居る。(姫路から海路をとったのであろうか。)
 京都までもうわずかであるが、寒い季節に入って、雪がちらついている。




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