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表紙

見開き

兪樾の序

勝海舟の跋

竹添井井 「桟雲峡雨日記並詩草」

 上・中・下 3冊、木版。 明治12(1879)年3月 刊行。

 本書は、漢学者の竹添井井(名は 漸、通称 進一郎、1842~1917)が、北京公使館書記官であった明治9(1876)年に、3カ月半ほどかけて清国の陜西省・四川省・湖北省などを旅行した際の、漢文による日記と漢詩である。
 旅行から3年後の明治12(1879)年に、木版印刷の3冊本として、刊行された。
 右に示すように、3冊のうち、上・中が「桟雲峡雨日記」、下が「桟雲峡雨詩草」という構成である。

 竹添の旅行の経路を簡単に示せば、次のとおりである。

北京――保定――邯鄲――洛陽――西安――咸陽―(秦および蜀の桟道)―成都
――重慶―(以後、長江を下る)―宜昌――岳陽――武昌(武漢)――九江――上海
 「桟雲峡雨」という書名は、秦や蜀の桟道と長江の峡谷に因んでいるわけである。
 この経路には、名勝・史跡が多く、漢籍に親しんでいた江戸時代の教養人にとっては、憧れの地であった。 鎖国が解かれたのち、竹添が初めて旅行し、その記録を公けにしたのである。

 本書は、平凡社の東洋文庫の1冊として、岩城秀夫による現代語訳が出ている(2000年2月刊)。
 この訳書では、「桟雲峡雨詩草」の各詩篇(訓読文)は日記本文の対応個所に注の一部として挿入されているが、ほぼ全てが網羅されているようなので、完訳といってよい。
 訳文は読みやすく、注釈も周到であり、付された解説もまことに的確で、全体として読者にきわめて親切な書となっている。
 (ただし、ふつうこの種の書に必ず添えられている地図が付いておらず、目次も単純な日付区分になっていて、行程を把握しずらいのが、残念である。)
 内容についての拙い紹介を これ以上続ける必要はないので、原書のうち、この東洋文庫本に現われない部分について、紹介することとしたい。

 本書を開いて、まず驚かされるのは、題辞や序跋のにぎやかなことで、その一覧は右の 「見開き」頁 に示されている。 右側は日本人、左側は清国の人々の、執筆者リストである。
 自著をこうした序跋類で飾り立てて出すということは、当時においては、それほど奇異なことではなかったが、本書の場合はやや度が過ぎているようである。
 特に、名士のはじめの方に挙げられている三條実美、伊藤博文、副島種臣、長岡護美(いずれも爵位を有する人々)などの題辞は、貴顕のお墨付きという意味しかないのであるから、こういうものを並べ立てる感覚は 現代の人には理解できないであろう。
 本書が、なかなかの内容を持ちながら、従来、少なくとも文学作品として顧みられてこなかったのは、この悪趣味な飾りのためではなかったかと思われる。

 内容に踏み込んでいるようにみえる序跋にしても、お世辞や仲間褒めの類がほとんどであるが、やや特色のあるものとして、清国側の兪樾(号・曲園、1821~1906)の序文を取り上げてみる。
 右に示すように、典雅な書体で自書したものである。 文にいう。
  文章家が日記形式で紀行文を書くのは、後漢の馬弟伯の「封禅儀記」に始まるが、この書は岱山(泰山)に登ったという一事を記すにとどまっている。唐に至っては李翺の「南行記」があり、宋には欧陽脩の「于役志」があって、山道や水路の行程を順序にしたがって記録しており、文章の一体をなすこととなった。しかし、これらの書はすこぶる簡略で、旅行の跡をいささかとどめるにすぎず、山川の描写や事物の記録としては不満足なものである。我々が実際に北や南の地に赴こうとすれば、旅嚢を整えて朝早く出発しなければならないし、車で行くなら馬や騾馬にきずなや鈴をつけ、舟で行くなら帆柱の烏や水中の犬(いずれも盗賊)に気をつけなければならない。敷物をしいた広い家で、屋梁を見上げながら著述をするようなわけにはいかないのである。また、恵施のように五つの車に書を載せるようなことでもしなければ、訪れた所を十分に遊覧することもできず、漫然となにがし川やなにがし山をめぐって、宿場の子供や渡し守に訊ねたりするにすぎないであろう。そして、昔から今までのことを考察し、原因や結果を究めようとしても、困難であろう。…
 これはまだ前半部分である。日記形式の紀行文としては、欧陽脩の「于役志」のあとに陸游の「入蜀記」と范成大の「呉船録」が挙げられるべきなのだが、これらは竹添が本文中で言及しているので、わざと省いている。
 このように紀行文のことをいい、実際の旅行でそれを作ることの難しさをいうのは、竹添への賛辞につなげるためで、後半では、この国に生まれ育った人ではないのにこれだけの文をなすとは、と具体的に誉め称えている。(その部分は、岩城秀夫の訳書の解説中に引用されている。)
 竹添は、旅行の翌年(明治10年、1877年)の二度目の清国行きの際、兪樾を訪問している。まず兪が長らく学を講じていた杭州の詁経精舎を訪ねたが、そこでは会えなかったので、蘇州の自宅(春在艸堂)の方にまわって、そこではじめて挨拶を交わしたという。もちろん、このときに日記や詩稿を見せ、序文をもらったのである。好意あふれる、高い評価の文を得たのであるから、訪問した甲斐があったというべきであろう。
 このとき二人の間に、詩の唱酬があった。 それらは、「桟雲峡雨詩草」の付録の「杭蘇遊草」の部分に載っているので、ここで紹介しておく。

竹添井井が兪樾におくった詩



兪蔭甫太史に呈す
(原注 : 太史は西湖の詁経精舎の主講にして、著述、身に等し。)

霽月光風 講帷に満ち、
薫陶 自ら恨む 門に及ぶの遅れたるを。
漢唐以下 経学無きも、
許鄭の間 友師有り。
金印 終に経国の業にけ、
塵心 繋がず 釣魚の糸。
玉堂 若し 神仙をして老ゆしむれば、
辜負す 湖山晴雨の奇。


兪樾の和詩


井井詞兄の原韻に奉和す。即正。

東瀛の仙客 [巾+詹]帷に駐まり、
遊覧 都て忘る 帰計の遅るるを。
萬里の雲山 倶に画に入り、
一門の風雅 自ずから相師。
(原注 : 聞く、眷族を携えて同じく遊ぶと。)
青衫の旧恨 時局開き、
黄絹の新詩 色紙を闘わす。
自ら愧ずるは 迂疏章句の士たること、
君の欣賞に感じて 我の奇無し。



 本文を抜きにして、飾りの方だけを見ているが、さらに取り上げるべきものは、中巻の巻末に置かれた勝海舟(1823~1899)の跋文くらいであろう。
 これは、おなじみの奔放な書体である。
 竹添井井君は、天草の人である。若くして木下韡村翁の門に学び、神童と称された。弱冠にして熊本侯に仕え、抜擢されて儒官に列した。戊辰の歳(戊辰戦争・明治維新の年、1868年)、私の家を訪ねてくれ、国家の基本政策を論じ慷慨すること激切なものがあった。私はその卓識に深く感じたが、まもなく帰郷してしまった。第一線を退いて寂寞の境遇にあり、世にその才能・学識を知る者は少なかった。私は、これを惜しみ、書を寄せてしばしば東遊(東京に出てくること)を促した。乙亥(明治8年、1875年)の春、飄然とやってきて終日話しこんだが、その志は海を渡って遠く旅行することにあるようであった。そして遂に、森(有礼)公使に従って清国に渡航し、諸名公と交わった。丙子(明治9年、1876年)の夏、深く巴蜀(四川省)に入り、百日あまりも歩きまわって「桟雲峡雨日記」を書きあらわした。帰国するに及んで、それを持ち来たって示し、尾言(跋)を求めてきた。記すところはわずか二巻であるが、蜀中の山水・勝景について委曲を尽くしており、読み進むうち桟雲峡雨の中に逊遥する想いがした。しかも、水利、地質、産物、漕運、政治、民情、…などについて、明快に分析している。知識は透徹し、議論は適確であって、蔚然たる経世の文である。蜀山の霊が心中の奇(すぐれた発想)を助け、もってこの一大篇をなしたのではなかろうか。 ここにおいて私は、嘗て君の才学を賞したのは誤りではなかったと自ら信じ、もとより楽しんでこれを書した。
 明治11年初冬 海舟・勝安芳
 海舟は竹添と特別な関係があったので、初めの方でそのことを述べているが、やや抽象的である。
 竹添が維新後の新政府に出仕(当初は修史局御用係)することができたのはもちろん、北京公使館書記官になったのも海舟の推薦によるもののようであり、竹添にとって海舟は大恩人であった。海舟も、「海舟座談」(岩波文庫本、初版1937年)では、自分が大久保利通に薦めたのが竹添の立身のはじめであると、あけすけに語っている。
 この跋文は、そうした関係よりも、友人としての立場から竹添のひととなりと本書の意義を述べていて、好感のもてる内容になっている。しかし、「海舟座談」に付された巌本善治の「氷川のおとずれ」という文章によれば、海舟は序文などを頼まれると、依頼した当人にその文を書かせ、それをそのまま直筆で写して渡すことがあったという。 この文も、そうである可能性が高い。

 ネガティブな評価が多くなったので、最後に、好ましく思うことを一つあげておく。
 「桟雲峡雨詩草」には、「つまおもう」、「夜、岐山を発す。つまに寄す」という題の2首の詩がある。 (これら二首は、岩城秀夫の訳書の注に引用されている。)
 留守を守る妻に思いを寄せた詩は唐代からあり、竹添の作品もそうした先行作品に倣った、ジェスチャーだけのものではないかと思われそうなところであるが、竹添は実際に 相当な愛妻家であったらしい。
 まず、明治10年の清国への再遊の際は、夫人を同伴している。先ほどふれた 兪樾との唱酬詩を載せた「杭蘇遊草」の始めに、「丁丑三月、つまを携えて西湖の勝を探る…」と記されている。当時にあっては、奥さん同伴で海外旅行をするのは、大変珍しいことだったであろう。この時の旅行は、上海から船で杭州に行き、さらに蘇州へと回るものであったらしい。 兪樾への贈詩「兪蔭甫太史に呈す」の前におかれている「蘇州の閶門外に泊すに、雨大いに至り、賦して内人に示す」という七絶は、蘇州の城外に停泊したときのものである。詩の結句「蓬窓に燭を剪り、巴山を話さん」は、唐の李商隠がやはり妻に宛てた「夜雨、北に寄す」(→ 原詩)という詩を踏まえているが、「巴山を話さん」とは、前年の旅行の話をしてあげよう、というのである。なかなか情緒のある船室の一夜を過ごしたものである。こういう詩を示された夫人も、教養豊かな人だったのであろう。
 また、本書から離れるが、竹添の愛妻家ぶりを、勝海舟(前掲の「海舟座談」)は「ヨメ孝行」と表現し、夫人同伴でいるところを冷やかした話をしている。
 竹添サン、別品ならいいが、あんまり美しくもないものを連れて、一処に行くのはおよしと言うたらネ、細君も怒っていたよ。それは、どこへでも どこへでも一処に行くのサ。…
 こういう口の悪い人にかかってはたまらないが、どこへでも平気で連れ歩いた竹添は、なかなか立派である。
 このあとに登場してくる西欧思潮の影響を受けた近代文学者たち──女性の自立や地位向上に関心があったはずの人々──にしても、竹添のように、実生活で人生の伴侶を大切にし、対等の立場で行動した人は、少なかったのではないかと思われる。




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