らんだむ書籍館


表紙

新釈和歌叢書
相馬御風 「新釈 良寛和尚歌集」



 大正14(1925)年 1月、 紅玉堂書店。 本文118頁。
 サイズは四六版(縦:約19cm、横:約13cm)のはずであるが、「アンカット製本」であるため、やや大きめである。

 右に掲げた表紙には単に「良寛和尚歌集」とあるが、扉と奥付では「新釈良寛和尚歌集」となっている。
 紅玉堂書店の新釈和歌叢書の第5冊目として、刊行された。

 著者・相馬御風の序文の初めの部分に、
 「本書は、拙著『良寛和尚詩歌集』(春陽堂発行)の訂正増補版(大正13年12月改版)に収録した短歌八百十数首のうちから、比較的特色の鮮やかなもの約百八十首を選んで、それに釈義と解説と多少の評語を加へたものである。」
とある。

 相馬御風(明治16(1883)年−昭和25(1950)年)は、明治・大正・昭和の3代にわたって活動した詩人、評論家、随筆家である。
 新潟県糸魚川出身で、本名は昌治。 早稲田大学英文科卒。
 はじめ、投書専門雑誌「文庫」への投稿家として出発。 ついで、新詩社に入って「明星」に短歌を発表したが、明治36(1903)年に脱退。 同時に脱退した岩野泡鳴・前田林外らと純文社をおこして雑誌「白百合」を創刊し、詩歌の革新を主張。 同38(1905)年、歌集「睡蓮」を出版。 同39(1906)年に早稲田大学を卒業した後は、「早稲田文学」の編集に当たり、自然主義文学推進の立場からの評論を書いた。 40(1907)年、三木露風・野口有情らと早稲田詩社をおこして詩の革新をはかり、口語による自由詩を創作、それらの作品は「御風詩集」(明治41年)にまとめられた。 大正元(1912)年に「黎明期の文学」、同3(1914)年に「自我生活と文学」などの評論集を出版、評論家としての地歩を固めた。
 大正5(1916)年には、心境の変化から、その頃勤めていた早稲田大学講師を辞めて、郷里の糸魚川に帰り、その記念として「還元録」を刊行した。 帰郷後は、再び短歌の創作にとりくみ、歌誌「木蔭」を主宰するとともに、良寛の研究に没頭した。

 御風は、早稲田大学校歌「都の西北」や童謡「春よ来い」の作詞者としては今もその名が記憶されているが、上記したような業績は過去の文学史の中に埋没しつつある。
 ただ、良寛に関する著述は、その良寛が不滅の歌人であるところから、今後も顧みられることがあるかもしれない。 御風の良寛に関する著書は、「大愚良寛」(大正7年)、「一茶と良寛と芭蕉」(同14年)、「良寛さま」(昭和5年)など20冊以上になるという。 本書は、もちろんその1冊である。


本書の特徴と、内容の一部紹介



 御風は、良寛の歌や生き方に共鳴していたことはもちろんであるが、同じ越後の人としての親近感も強かったようである。 そういう思いを基調にした記述が、自然で、好ましく感じられる。 とにかく、最近の評釈書のようにやたらと分析的でないところがよい。
 大体において、自分の解釈・自分の評価を貫いているが、例外的に斎藤茂吉の「短歌私鈔」における良寛解釈が何箇所か引用されている。 茂吉の解釈にはだいぶ感服していたようで、それぞれの引用には自分も同感である旨が付記されている。

 以下には、歌も良いし、評釈にも御風らしい特徴が出ているものを選んでみた。


 里べには 笛や太鼓の音すなり み山は さはに 松の音しつ



 【語義】 「さはに」は、「おほく」、「あまた」と同じであるが、こゝでは「さかんに」といふほどの意。
 【評言】 これは盂蘭盆の頃、しかも夜詠まれた歌であらう。 笛や太鼓の音は、おそらく盆踊りのそれであらう。 私は嘗て、新暦の八月下旬に数日間毎夜、良寛和尚の住んでゐたかの越後・国上山の麓にひらけた平野の間を歩いたことがあつた。 そして、毎夜あちこちの村で鳴り響く盆踊りの笛や太鼓の音を聞いたことがあつた。 月下の平野はいたるところ稲がふさふさと穂を垂れ、その上に露が緑色に光つて居た。 遠くを見渡すと、平野はまるで海のやうに見えた。 ところどころに黒く見える村々の木立は、さながら浮島のやうであつた。 さうした夢のやうな月夜の光景をおもひ浮べながら此の歌を読むと、さうした遥かあなたの人里の歓楽のどよもしを聴きながら、あの寂しい山中の草庵に孤坐してゐた人の心が、胸にしみ込んでくるやうな気がする。…


 わが待ちし 秋はきぬらし このゆふべ 草むらごとに 虫の声する



 【語義】 「きぬらし」は、「来たと見える」。
 【評言】 平凡な歌のやうで、しかもしみじみと胸にしみ入る力を持った歌である。 「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」などに比べると、遥かに実感味の切実さがある。 「このゆふべ」がよく利いてゐる。 ふと虫の音に心をとめた刹那の心の動きが、「このゆふべ」の一句でピタリと捉へられてゐる。 「このゆふべ」のおかげで、「来ぬらし」も活きてゐるのである。 「わが待ちし」「草むらごとに」などの表現も、吾々では容易に出ない言葉である。


 飯乞ふと われ来にけらし 此の園の 萩のさかりに 逢ひにけるかも



 【語義】 「来にけらし」は、「来たのらしい」又は「来たのであらう」。
 【大意】 俺は 今丁度うまく この園の萩の花ざかりに逢つた。 これはまあ 何といふ美しさだ、何といふうれしいことだ、それにしても 俺は ここへ物を貰ひに来たのだがなあ。
 【評言】 「われ来にけらし」は、力強い表現である。 「飯乞ふとわが来しかども」とか、「飯乞ふとわが来て見れば」とか、「飯乞ふとわが来し君が」など云つたのでは、何の妙味もない。 「来にけらし」だからいゝのである。 一切を忘れ果てゝ萩の花の美に吸ひ込まれた歓びを歌つたところに心を惹かれる。 生活の糧を求めて来たことも打ち忘れてひたすら自然の美に見とれた、その瞬間の心を捉へたところに動かされる。…


 露おきぬ 山路はさむし 立ち酒をしてかへらむ けだしいかゞあらむ



 【語義】 「立ち酒」は、客が帰らうとする時、その立ち際に出して飲ます酒のことで、越後地方の方言である。 此の地方では、客が訪ねて来るとすぐに「おつきの酒」と云つて先づ酒を出す、それから帰らうとする時にも「お立ちの酒」と云つて酒を出す、それが古来のならはしとなつてゐるのである。 ○「をして」は、「食して」で、食ふにも飲むにも通ずる。 ○「けだし」は、若しかくもあらんかと推し量りて云ふ語。 此の場合には、「さうしたらまあ」といふほどの意にとつて置いてよからう。
 【評言】 これは、作者がいづれかの家をたづねて帰らうとする際に詠んだ歌ともとれるし、又自分のところにたづねて来た客の帰らうとした際に客に向かつて詠み与へた歌ともとれる。 いづれにしても、打ちとけた、軽快な調子のうちに、環境の気分までが現はされてゐる。 「山路は寒し」の句と「立ち酒食して」の句とが、いかにもよく調和してゐる。 寒い感じと暖かい感じとが、快くもつれてゐる。


 いついつと待ちにし人は 来たりけり 今はあひ見て 何かおもはむ



 【語義】 「いついつと」は、「いつ来るかいつ来るかと」の意。 ○「何かおもはむ」は、何かおもはう、何ももう思ひ残すことはないの意。
 【評言】 これは、貞心尼が始めて最後の病床に横はつていた良寛を見舞うた時、彼の喜んで詠んだ歌である。 貞心尼は、『蓮の露』で、「かくしてしはすの末つかた俄に重らせ玉ふよし人のもとよりしらせたりければ、打おどろきて急ぎまうで見奉るに、さのみ悩ましき御けしきにもあらず、床の上に座してゐたまへるが、おのがまゐりをうれしとやおもほしけむ」と前書きが添へてある。 上句には、たまらない嬉しさが満ちあふれてゐる。 「来たりけり」でその嬉しさが絶頂に達してゐる。 そして、上句で一旦切れて更に下句でほつと安心した後に来る茫然に近い心の弛みがそのまゝ太息の如くうたはれてゐる。 心理作用のリズムがさながら一首の調子の上に現れてゐるではないか。


 なほざりに そとにでて見れば 日はくれぬ 又たちかへる 君がやかたに



 【語義】 「なほざりに」は、「深くこころを付けずに」、即ち「何の気なしに」。 ○「やかた」は、「館」で、「家」といふに同じ。
 【評言】 これも、阿部定珍に与へた歌である。 定珍の家に来てゐてまだ帰りたい気もないのだが、何といふことなしに外へ出て見たが日が暮れてゐるので又其家に立帰つた折に、それだけの事をそのまゝに詠んだのであらう。 ありのまゝを自由に率直に歌つてゐながら、情味がみちみちてゐる。…


 山かげの 岩間をつたふ苔水の かすかに我は すみわたるかも



 【語義】 上句を「かすかに」の序詞とも、亦「すみ」の序詞とも見ることが出来るが、さう片付けてしまふよりも、「苔水の」の「の」を「の如く」といふ風に解して、一首全体の上に上句を生かし響かすやうに解した方がよいと思ふ。 ○「すみ」は、「住み」とも「澄み」ともとれる。 おそらく、その二様の意味を含めてゐるのであらう。…
 【大意】 山かげの岩の間から沁み出て苔を伝つてゐる清水のやうに 自分は世にあらはれず見るかげもない、しかし 澄み切つた生活を営んでいることよ。
 【評言】 「山かげの岩間もり来る苔水のあるかなきかに世をわたるかな」と書いた墨跡もあるが、この方は調子も弱いし緊張も足りないから、おそらく直さない前の未定稿といつたやうなものであらう。 此の歌は、良寛が国上山の五合庵に入つてからの晩年に近い詠出にかゝるもので、良寛の歌の最も代表的な一首である。 彼みづからの心にしつかりと自己の生活の姿を攫み得た、最も澄み切つた心境から溢れ出た歌である。 微かな生活、しかし澄み切つた生活 − そこにこそ彼みづからの自己に対するつゝましやかな、しかし深みのある満足も安心もあつたのである。 「山かげの岩間をつたふ苔水」に自己の生の姿と心とを見出したところに、自然と人間との微妙な融会境が展開されている。 斎藤茂吉氏はそれを指して、「象徴であると云ひたい」と云つてゐる。 いかにもこれは象徴と見るべきであらう。…


 かしましと おもてぶせにはいひしかど このごろ見ねば 恋しかりけり



 【語義】 「かしましと」は、「やかましいと」「うるさいと」。 ○「おもてぶせ」は、「おもぶせ」と同じく、即ち「面伏」で「はづかしさうに」の意。
 【大意】 うるさいと 恥しさうに云つたけれど 此頃遇はないでゐると 恋しく思はれる。
 【評言】 此の歌は、「およしさにおくる」と詞書のあるのもある。 「およしさ」の何者であるかはよくわからぬが、或人の説に、それは良寛がしげく出入してゐた与坂町山田家の女中であると云つたのもある。 兎に角、親しい間柄の女性であつたにちがひない。 此の歌には、いふまでもなく一寸した戯れ心が交つてゐる。 又、此の歌は、万葉集巻三にある 「否といへど強ふる志斐のが強ひがたり此のごろ聞かずてわれ恋にけり」 から影響を受けてゐる事も明らかである。


 乙宮おとみやの 森の木下こしたに 我居れば ぬでゆらぐもよ 人来たるらし



 【語義】 「乙宮」は、越後・国上山の麓の国上村にある乙子神社を指す。 良寛は六十一歳の時、老衰の結果薪水の労に堪へなくなつた為に、山上の五合庵から此の乙子神社内の庵に移つたとの事である。 ○「鐸」は、大きな鈴で、他の地方ではどうだか知らぬが、越後では神社の拝殿の入口の上に大きな鈴を吊し、参拝者は先づその鈴を揺り鳴らすことになつてゐる。 此の場合も、それを指したのであらう。 ○「ゆらぐもよ」の「も」も「よ」も感嘆詞。
 【評言】 良寛が五合庵から乙子神社内に移つたのは、一つは薪水の労に堪へなくなつたからでもあらうが、一つは身に老衰を感ずることが切実になるにつれて、人なつかしさの情の募つたからでもあつたらう。 「乙宮の森のしたやの静けさにしばしとてわが杖うつしけり」などいふ歌もあるが、やはり人なつかしさの情に動かされずにはゐられなかつたのであらう。 さう思つて此の歌を味つて見ると、「人来たるらし」の結句が一層強く響くのを感ずる。…


 越路こしぢなる 三島みしまの沼に すむ鳥も はがひかはして ぬるてふものを



 【語義】 「越路」は「越の国」、ここでは越後を指す。 〇「三島」は越後の三島郡。 良寛の出身地 出雲崎も 遷化地 島崎も、共に此の三島郡に属する。 〇「はがひ」は「羽交」で、鳥の左右の翅を打ち交へたる所。
 【大意】 越後の三島郡の沼に棲んでゐる鳥さへも 雌雄翅を相交へて寝るといふのに、自分はまあ何といふ孤独な境涯にあるのであらう。
 【評言】 これは必ずしも、良寛が男女双棲の生活のみに思を寄せて、身の孤独を嘆じたのではないであらう。 けれどもまた、時にさうした悲哀を自らに対して感じたことがあつたからとて、決してそれは良寛の徳を傷けることなどにはならない。 若し かうした歌のあるのを以て 良寛に生臭いところがあつたなどゝいふ人があるなら、それはもうとてもお話にならぬ浅薄な心の持主である。 私達はむしろ かうした歌があるところに、良寛のいゝところがあるのだと思つてゐる。 かうした歌を純真にうたひ得たところに、むしろ良寛の心の清さが一層高められてゐるのではないか。 なほ 此歌を技巧の上から見る場合に、「越路なる三島の沼に」の二句の具体的な表現に 一首の生命のかかつてゐることを見のがしてはならぬと思ふ。


 春ごとに 君がたまひし雪海苔を いまより後は たれかたまはむ



 【語義】 「雪海苔」は、越後独特の呼び方かも知れない。 越後の海苔は、雪の降る日に殊に多く岩に着くと云はれてゐる。 荒れ狂ふ波間の岩に生えてゐる海苔を、越後の海女は雪の降る中を勇ましくも採るのである。 その採り方も変つてゐる。 即ち彼等は手に手にあはびの殻を持ち、それでガリガリと音を立て岩の面を掻きとるのである。 「雪海苔」の名は、さうしたことから来てゐる。
 【評言】 此の一首は、親しき人の死を悼んで詠んだのであるが、それが「雪海苔」といふやうな特殊な景物に寄せて歌ってあるところに、印象の鮮やかさが一層きはやかにされてゐる。…


 百つたふ いかにしてまし 草枕 旅のやどりに あひし子らはも



 【語義】 「もゝつたふ」は、「い」の音に続けた枕詞。 〇「いかにしてまし」は、「どうしやう」。
 【評言】 此の一首は、「この良寛法師歌集は、前宝塔院の住隆全法印のきけるまゝに書きおけるものなりとともに、一時の高徳なり可秘蔵もの也。百木園主人栄重記」 と奥書のある 解良家秘蔵の歌集によると、「やまひの床にふして いとたのみすくなうなりたまひけるとき ひとびとのとむらひまうできたりければ よみたまひしとなむ」 といふ 三首中の一首である。 説明するまでもなく、此の歌は 過去に於て 旅のところどころで出遇つた いろいろな人々を憶ひ出して、懐かしがつて 詠んだのである。 「子ら」とあるのは、「子どもら」とは 限らない。 かうした呼び方は 万葉などには少からずある。 しかし、「人々」といふよりも、「子ら」と呼んだ方が 遥かに親しみが深い。 此の歌は まことにあはれ深い歌である。 殊にそれを 臨終に程ちかい頃の吟詠であると知つて味ふと なほ更である。 生涯の大部分を漂泊の旅に送つた彼が、日に日に死に近づきつゝあつた病床中で、さまざまな所であつたいろいろな人を憶ひ出してなつかしがつてゐる心持は、全く哀切である。 「百つたふ」、「草枕」 といふやうな枕詞も、此の歌では決して無駄になつてゐない。 全体の情調が それによって一層しみじみとした味を加へられてゐる。


 また来むといふて わかれし 君ゆゑに けふもほとほと おもひくらしつ



 【語義】 「ほとほと」は、「殆ど」。
 【大意】 また来ませうと云つて帰つたあなたゆゑに 私は今日も殆ど終日 あなたの事をおもひつゞけました。
 【評言】 これはたしか 阿部定珍に贈つた歌の中にあつた一首だと 記憶してゐる。 兎に角 親しい人に贈つた歌であることは 一誦してわかる。 此の歌も 極めて淡々と歌はれてゐるが、それでゐて 却つて真情があふれてゐる。 「けふもほとほと」 などの言葉の調子には、たまらなくいゝところがある。…




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