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            表 紙

  書名の下の文様(古代ギリシアのコイン)は、立体的に
  型押しされている。






 目 次


   第一章  第十八世紀末に至る迄の古代
        美術品に関する吾人の認識

   第二章  ナポレオン時代

   第三章  希臘国土の回復

   第四章  エトルリヤの墓地と古代の絵画

   第五章  東方に於ける諸発見

   第六章  希臘の神域

   第七章  古代都市

   第八章  先史時代の研究と希臘の太古

   第九章  古典的諸国に於ける単独諸発見

   第十章  外方諸国に於ける単独諸発見

   第十一章  発見と学術


浜田耕作・訳
ミハエリス氏 美術考古学発見史」


 昭和2(1927)年 1月、 岩波書店。
 菊版(縦22cm、横15cm)。  本文 629頁。 索引 24頁。 挿図 50葉。

 訳者の 浜田耕作 (号:青陵、明治14(1881)年~昭和13(1938)年) は、考古学者、京大教授、総長。 著書に、「考古学通論」(1916年)、「希臘紀行」(1918年)、「百済観音」(1926年)、「考古遊記」(1929年)、「東亜文明の黎明」(1930年) 等がある。

 本書の概要や特徴については、浜田による「訳者序」できわめて適確に紹介されているので、少し長いうえに文語体で読みにくいけれども、下にその全文を掲げることにする。
 なお、この「訳者序」とこれに続く「訳者例言」は文語体であるが、「原序」や本文の訳文は口語体である。




本書の概要 : 「訳者序」の全文紹介





 本書の原著は独逸ストラスブルグ大学教授故アドルフ・ミハエリス(Adolf Michaelis)博士が『第19世紀に於ける考古学的発見』(Die archäologischen Entdeekungen des 19ten Jahrhunderts)と題し、萊府ライプチヒゼーマン書店より1905年初版を出だし、次いで1908年増訂改版の上、『美術考古学発見の一世紀』(Ein Jahrhundert Kunstarchäologischer Entdeckungen)と改題して出版せるものにして、之に何等の省略を加へずして其の全文をば可及的忠実に翻訳せんことを期せるものなり。
 而かも本書の英訳本(A Century of Archaelogical Discoveries)は増訂版と同年ベッチナ・カーンワイレル(Bettina Kahnweiler)女史の手に由り、牛津(オックスフォード、Oxford )大学のパーシー・ガードナー(Percy Gardner)教授の長序を附し、マレー社より発行せられたるものあるを以て、余輩は其の翻訳に際して、此の英訳本を利用せる所少なからず。
 たゞ英訳本中往々省略に附せられ、若しくは誤訳と認めらるゝ部分は独逸の原著に依拠したること勿論なりとす。

 アドルフ・ミハエリス教授は1835年7月23日独逸のキール(Kiel)に生れ、有名なる考古学者オット・ヤーン(Otto Jahn)の甥なりしかば、夙に其の感化を受け、斯学に興味を有し、伊太利、希臘、倫敦、巴里等に旅行したる後、キール、グライスワルド(Greiswald)、チュービンゲン(Tübingen)両大学に於ける考古学の教職を経て、1872年より1907年に至る迄、ストラスブルグ(Strasburg)の新設大学に在つて、考古学教授となり、其の研究所ゼミナールを設け、又優秀なる模型博物館を完成して学生の研究に資する所あり。
 教授は其の著述少なからず、特に古文献を用ゐて、公平なる見地より、独逸のみならず、各国学者の研究を助け、其の功績最も多し。
 就中価値ある著書は、1871年出版の『パルテノーン』(Der Parthenon)を推す可く、此他『大英国所在の古代大理石彫刻』(Ancient Marbles in Great Britain)、スプリングル氏『美術史綱要』(Springer, Handbuch der Kunstgeschichte)第1巻中希臘羅馬の部分、及び本書の原著『美術考古学発見の一世紀』等を挙ぐ可し。
 なほ文献的研究に関しては、パウサニアス(Pausanias、ローマのアントニヌス皇帝時代の人で、ギリシァ旅行案内記の作者 )の記事中『アクロポリス』に関するものを考証せるものを始めとし、タキツス(Tacitus)の『雄弁家論』(Dialogus de oratoribus)、ソフォクレース(Sophokles)の『エレクトラ』(Elektra)、アプレイウス(Apuleius)中にある『サイケとクピード物語』(Psyche und Kupido)等の本文を批評し出版せるものあり。
 又た1873年にはヤーンの『希臘図絵年代記』(Griechische Bilderchroniken)を完成する所あり。
 羅馬に於ける独逸考古学院の会長等に挙げられ、其他学会に関係せること一々枚挙に遑あらず。
 又た英国学会に於いても頗る尊敬せられ、牛津、エヂンバラ大学等の学位を授けられたり。
 1910年8月12日 年75を以て歿す。
 蓋し教授は考古学的遺物と古代文献とを相並行せしめて研究するを唱道せるオトフリード・ミュラー(Otfried Müller)及びオット・ヤーンを以て代表せらるゝ考古学界に於ける一大学派の驍将と目せられし人なりき。

 ミハエリス教授の最後の大著たる本書は、其の原序に見ゆるが如く、元と一般学生の為めに、幻燈を用ゐて講演する所を底本として編述せるものにして、敢て専門学者の研究に寄与せんとせるものに非ざれど、此の希臘美術考古学の耆宿が、其の全生涯を通じて直接間接に蓄積せる発掘に関する豊富なる知識を自由に傾倒して、同情を以て綜合的記述を試み、其の間幾多の興味ある挿話をも引用し、読者をして自から其の発見の時処に在る思あらしむるのみならず随処に提供せられたる暗示と教訓とは、青年学者をして感動せしむる所決して鮮からざるを想はしむ。
 其の学術的見解中往々学会全般の承認を得ざるものあり、其の叙述時に一方に詳しくして他を省略するの欠点なきに非ざることは、ガードナー教授等の指摘せる所なるも、同時に其の知識の深甚にして皮想的に非ず、単に乾燥なる要綱の羅列に非ず、始終最大の興味を以て一切の発掘を注視せる著者が、発掘と研究の絵巻物を漸次開展し行く態度は、著者の博識に由ずんば到底之を能くするを得ず。 特に其の個人的要素を混入せる点に於いて、一層読者の興味を惹くものありと評せるもの頗る肯綮に中れるを覚ゆ。
 又た『希臘学研究雑誌』(Journal of Hellenie Studies)の記者が、此の『賞歎すべき書』(admirable book)の著者が、考古学の発達に大なる貢献をなせる諸家の多数と親密なる交際あり、又た自ら親しく之に寄与する所少なからざることは、綜合的同情的精神を以て之を取扱ふに特に適当せる資格なるを云ひ、又た先入主と誇張とより脱して、能く斯くの如き概観を吾人に提供し得る考古学者の他に殆ど求むること難しと云へるは、本書の特質の存する所を最も適切に言明せるものと謂ふ可し。
 たゞ懼る、余輩の訳文の拙劣は終に原著の妙趣を破壊して、一個の廃墟と化せしめたる無からんことを。

 余輩は本書の翻訳に際して、自から個人的感想の深甚なるを回想せざるを得ず。
 実に本書の初版は余輩が明治43年(1910年 )秋京都帝国大学に来任するの時、其の最初に読了せる一書たりしことなり。
 当時英訳文未だ出でず、漸くにして購入し得たる本書の解釈に、其の疑義を解く能はざりしもの甚だ多かりしを白状せざるを得ず。
 而かも其の興味ある叙述は、余輩をして遂に全文を読破して巻を掩ふを忘れしめたるのみならず、其の後親しく希臘羅馬の故址に身を置くの日あるに及んで、曾て本書に由つて得たる知識が、如何に多大なる興味と利益とを余輩に与へたるものあるかを思はざるを得ざりき。
 今自ら其の翻訳を出版するに際して特に感臆一層なるを覚ゆ。

 本書の翻訳は大正12年(1923年 )2月以来雑誌『歴史と地理』誌上に連月分載せるものにして、初め友人梅原末治君と協同事に従はんことを約せしが、其の後同君の多忙支障によりて、両三章を除くの外全部余輩の手に委せらるゝことゝなり、爾来年を閲すること3年、回を重ねること20余、其のうち第9、第10の両章を割愛して、漸く本年2月完結に達したりき。
 其間或は怱々筆を呵して訳出し、文章辞句の推敲を経ざるものあり、行文訳語前後相一致せざるものあり、或は時に誤訳の罪を冒せるもの鮮からず。
 此等は今ま一書を成すに当りて可及的に補正修訂せんことを期せしも、尚ほ及ばざるものあらんことを恐る。
 たゞ此の全訳を完成し得たるは、一に『歴史と地理』誌上に、其の訳文の連載を承諾せられ、読者の久しきに亙りて之を認容せられたる寛恕の結果に外ならず。
 是れ余輩が特に同誌の編者と読者に感謝措く能はざる所なり。

 本書の原著は其の増訂版の巻首に、チャールス・ニュートン(英国の考古学者 )の肖像を1葉挿入するのみにして、全く挿図を欠き、其の参照をミハエリス博士自ら編纂に与れるスプリンゲル氏の美術史等に求めたるものあれど、英訳本には新に約30葉の挿図を加へたり。
 元来美術考古の学たるや、実物若くは其の写真図画を参照するに非ずんば、其の了解に困難なるもの鮮からず、仮令僅に之を理解し得たりとするも、其の鮮明なる印象と深切なる興味とに至りては到底之を希求す可からず。
 されば余輩は他に適当なる参考図本の乏しき本邦読書界の為に、英訳本よりも更に多数の挿図を増載して、多少此の欠陥を補はんと欲せるも、本書の体裁等よりして遂に其の充分なるを期すること能はざりき。
 読者宜しくスプリンゲルの美術史其他適宜の美術史書の挿図と参照する所あらんことを望む。
 又た挿図は現時の写真よりも、往々発掘者の原著より其の描画の類を採択したるは、曩時の印刷製版を追想し、発掘者の苦心と趣好とを看取せしむるもの多きを思へるを以てのみ。

 大正15年(1926年 )3月     浜田青陵




内容の一部紹介




 以下の紹介は、筆者が とくに興味を覚えた部分についてのものである。


「古美術品収集や遺跡発掘の経緯に関する記述」



 浜田は、「親しく希臘羅馬の故址に身を置くの日」に、本書の知識から「多大なる興味と利益」を得たことを述べている。
 筆者が本書の中でまず興味を引かれるのも、自ら接した美術品や遺跡 ―― ローマ・ヴァチカン美術館の古代彫刻、アテネのパルテノン神殿、パリ・ルーブル美術館の「ミロのヴィーナス」、ポンペイの都市遺跡など ―― に関する記述である。

 ヴァチカン美術館(本書では、ヴァチカノ博物館)については、権力者達による古代美術品愛好の風潮の中でそのコレクションが形成されてきたこと、パルテノン神殿については、その荒廃は悠久の時の流れよりも19世紀初頭の人為的な災厄によるところが大きいこと、ポンペイについては、好事的な発掘から科学的な発掘へと進んだ発掘調査の過程で「発育しつゝある都市」の姿が現われてきたこと、など。 関連する多くのことを知ることができ、現地で得た印象が一層豊かなものに再構成されたように思う。

 ここでは、とくに「ミロのヴィーナス」について、本書の記述をみていくこととしたい。
 筆者は、ミロのヴィーナスには、早く昭和39(1964)年に日本に来たときに、東京国立博物館の表慶館の大混雑の中で出会っているのだが、「見た」という記憶しか残らなかった。 30年後、初めてのヨーロッパ旅行で訪れたルーブルで再会したときは、静かな雰囲気の中で、心ゆくまで鑑賞することができた。

 本書では、「メロスのアフロヂテー」という名称で、1820年にメロス島の農夫によって発見されてからフランスにもたらされた経緯などが述べられている。 発見から収蔵に至るまでの経緯は、大体、今日各種の美術史などに掲載されている内容と同じである。 コンスタンチノープルの大使であったルヴィエール(Marquis de la Rivière)が、先約の買い手であったギリシアの僧侶を出し抜いて買い取り、ルイ18世に献上、王がルーブルに下賜したことなど。 ただ、著者は、前置きとして…其の「ロマンチック」な詳細な事情に至つては、今なほ暗黒の裏に葬られてゐる。 今日に至るまで各種の記録を熱心に漁つても、最も肝要な証憑物件が湮滅した為めに、未だ其の事実の真相を充分に闡明することが出来ないと述べている。 何か、意識的に隠蔽された事柄があったのであろうか。

 また、ルーブルに搬入された際には、台座に接合する別の石片があり、その前面にはメアンデル(Meandros)河畔アンチオキア(antiocheia)のアレキサンドロス(Alexandros)之を作るという記銘が刻まれていて、その記銘は書体から紀元前百年頃のものと推定されるものであった。 しかし、この石片は当時のルーブル館長クララック(Clarac)以外は見たことがなく、紛失してしまったという。 これも、不可解な事件で、収蔵時の杜撰な管理が想像される。 著者は、クララックの証言を信頼したようで、此の像がアレキサンドロスの作品であることに就いては、多く疑を容れる必要はないと述べている。

 しかも著者は、アレキサンドロスが独自にこの作品を作ったのではなく、前代の作品を複製したものだとしている。
 …無趣味な柱像と、メロス島の標章である林檎を附け加へたのは、アレキサンドロスであつた。 併し一方に於いて恐らくスコバス(Scopas)時代の優秀な原作の体躯と頭部とを、斯くも立派に複製した事に対して、我々はアレキサンドロスに向つて負ふ所あるべきである。
 ここにスコバスとは、紀元前3世紀頃の人とされる彫刻家で、その名が文献に見えるところから、ギリシア彫刻の代表的作家の一人とされているのであるが、確実にその作品と認められるものはないようである。 したがって「スコバス時代」とは、単にギリシア彫刻の成熟期の意味にとればよいと思われる。 複製とする根拠がとくに示されていないのは、ローマ時代にはギリシア彫刻の摸作や複製が数多く作られたという事実からの推論だからであろう。
 また、柱像というのは、さきほどの記銘が刻まれた石片には方形の孔があり、主体のヴィーナス(アフロヂテー)像に対して何か別の柱像が添えられていたと推定されることをいう。 そんな余計なものが、主像を引き立たせるとは考えられないから、「無趣味な」と評したわけである。 さらに、林檎というのは、メロス島から同時にもたらされた発見物の中に、林檎を持った手の部分があったことから、このヴィーナスは林檎を持っていたものと推定されたのである。

 そして、この彫像に対する評価に関しては、次のように総括されている。
 陸離として輝く原作の美と、其の体躯の主なる部分に於ける卓絶した手法とは、此像をして忽ち、「ミロの気高き女子」(Hohen Fran von Milo)として、特殊の位置を占め、又た其の実際の価値の充分にあることが認められるに至つた。

 さて、このように読んでくると、複製とする著者の見解が今日の学界ではどのように扱われているのか、林檎を持った手の石片は今もルーブルにあるのか、などの点を突きつめてみたい気もしないではない。
 しかし筆者は、得意の「あとまわし」戦略により、頭の隅に放り込んでおくことにする。 


「発掘品の美術的評価」



 本書は、通常の考古学の書物(とくに日本の考古学書)とはかなり異なった印象を受ける。 それは、端的にいえば、「美術考古学」という立場からくるものであろう。
 「美術考古学」というものがどのように定義されるのかは知らないが、本書を見るかぎり、人間(古代人)の遺したものを美術的な価値を基準として、歴史的・地理的に整理するもののように思われる。

 そして、著者の美術的な評価の視点は、たいへん自由で純粋なもののように思われる。
 それは、たとえばエジプトの第5王朝時代の彫像についての、次の記述などに示されている。

 …我々は今ま「ルーヴル」所蔵の趺坐してゐる「書記」(Scribe)の像を指摘して、第五王朝の古帝国時代に於いて、斯くも生気に満ちた美術が存在してゐた事を証する驚く可き発見を回想するに止めて置かう。 是は実に埃及美術の最古期に於いて、今迄予期しなかつた新しい見界を開いたものであつて、後世の美術が型に陥つて、多くは建築の為めに束縛せられたものとは、其の選を殊にしてゐる。 固より此等も『前面主義』(Frontalität)の法則や、其れ自身特殊の様式を示してゐるのであるが、後世のものに比して、内面的には頗る自由に、外面的には大に独創的なる点を発揮し、鋭利なる観察に根拠を置き、驚く可き精巧なる技術を有するものであり、而かも斯くの如き美術が早くも紀元前3千年代の中葉に存在して居つたことを語るものに外ならない。 而して此の「書記」の像が唯一の例ではなく、やがて所謂「村長」(Dorfschulze, Sheik-el-Beled)の像が現はれて、一層世評を博することとなったのみならず、日常生活の各種の状態を示した生動的の彫像が多数出現するに至つた。

 この部分の図版としては、ここで詳しく解説されている「書記」ではなくて、終りの方で言及されている「村長」が掲げられている。 しかし、この図版を見れば、「書記」についての評価はすべて「村長」にもあてはまることがわかる。

 なお、著者の美術の範囲には、彫刻、陶器、絵画、建築はもちろんのこと、都市なども含まれる。 本書には「古代都市」の章もあり、そこには発掘成果から再構成されたいくつかの都市の景観が、眼前にあるかのように表現されている。

 ここで思い当たることがある。 美術考古学という立場は、「古代人の残したものは、なぜかくも美しいのか」という感慨にもとづいているのではないか、と。


「シュリーマンの発掘に対する評価」



 考古学的発見というと、過去の読書の記憶からは、ハインリヒ・シュリーマン(Heinrich Schliemann , 1822-1890)のことが浮んでくる。
 彼が、少年時代から、ホメロスの叙事詩「イーリアス」に歌われていて、一般には伝説にすぎないと考えられていた古代都市トロイ(本書ではトロヤ)、ミケーネ、ティリンス(本書ではチリンス)などの存在を確信し、立身して経済的成功を収めてから、その財力を基に自ら発掘した話は、なかなか感動的なものである。
 その話は、まずシュリーマンの自伝「古代への情熱」(村田数之亮訳・岩波文庫、昭和29年初版)でロマンチックな成功談として語られているが、ツェーラム(C.W.Ceram)の「神・墓・学者」(同じく村田数之亮訳、昭和37年)の中では、一層ドラマティックな発見物語にし立てあげられている。

 シュリーマンの業績は、本書では「先史時代の研究と希臘の太古」という章の中で、紹介されている。
 シュリーマンに対する毀誉褒貶は、今なほ全く止んでは居ない。 全然彼に反対する人々の声は巳に沈黙したとは言へ、一方特に考古学に関してよく知らない人々の側からは、なほシュリーマンを神の如く崇め、研究者の理想の如く考へて、謳歌するものゝあることを時々聞くのである。 併し今日となつては、彼の功績と欠陥とを秤量し、冷静に批評することが出来、又た考古学の問題に向つて学術的判断を試み得る人士の、同意を得る意見を発表し得るに至つたと信ずる。

 これに続く記述において、著者はたしかに彼の功績と欠陥とを秤量し、冷静に批評しようとしている。
 まず、功績については、よく知られている彼の「発見」を総括的に整理し、次のような言葉を贈っている。
 学術は此の否定す可からざる、且つ計測す可からざる、大功績に対し、永久にシュリーマンに深く感謝しなければならぬ。

 これは最大級の賛辞といえるかもしれないが、これに対応する欠陥への批判も最大級のものである。
 シュリーマンの教養と才幹とは、学術的思索と方法とから全く遠ざかつて居つた。 …たゞ極く古い時代、好奇の心、漠然たる構想が彼の興味の凡てを形成してゐたのである。 それ故彼は全く一個の好事家(Dilettant)であつて、其の善意に於いては、美術の熱愛者として、犠牲を顧みない人であると同時に、他の意義に於ては、其の目的を追求するに適当なる方法と充分なる知識を有しない人であつた。 彼は建築的及び考古学的事物に於いて「好事家」であり、発掘においても「好事家」であつて、一の方法と確乎たる技術に就いて全く考ふる処がなかつたのである。

 そしてこの批判は、こうした総括的な記述から、個々の具体的は欠陥の指摘へと展開している。
 …彼はヒサリック丘に於いて古へのトロヤを認めたが、真のホメロス時代の城塞には殆ど注意せずして、彼の穿拡を深く丘側に掘り下げた。 かくて彼は最下から第二層の所謂「焼市」(gebrannte Stadt)に於いて、希臘人によつて破壊せられたトロヤを発見したと考へ、はじめて「発掘止め」と命じたが、実は此の層はそれよりも更に古く、一層原始時代の住居であつたのである。 ミケーネに於いては、浮彫墓碑がなほ地下深くない処に立つて居つたのであるが、シュリーマンは其の下の竪穴墓に達する為に「非常な困難を以て」此等を無方針に移動せしめた結果、其の位置や各箇間の関係は、全く記載せられずに終わつた。 チリンスに於いては、宮殿の城壁に於いて漆喰らしものを発見したので、多分羅馬時代或は中世のものと思ひ、将に破壊し去らうとしたが、丁度幸にもドョルプフェルドが其の際にやつて来て、此の貴重なる遺物を救ふことが出来た。 而して漆喰と思はれたものは、実は火に会つて変化した大理石板の残物なることが明かとなつた。

 さらに著者は、シュリーマンの報告書も「好事家」式で信頼できず、別の専門家、特に上文に名前の出ているドョルプフェルド(Dörpfeld)の報告を併せ用いなければ、学術的に使用できないと述べている。 ドョルプフェルドは、シュリーマンの死後にトロイの発掘をやり直し、ホメロス時代の城塞や都市の正確な位置を調査した人である。

 このあと著者は、発掘成果にもとづいてミケーネ文明を概観しており、その中で、ホメロス時代のティリンスについては、その宮殿の全容を部屋の配置に至るまで美しく再現している。 この記述ではもうシュリーマンを離れていて、用いられているのは「近年第一流の権威者たるヒュレストス・ツォンタス(Chrestos Tsountas)」の発掘再調査の結果である。 ティリンスを(シュリーマンの)破壊から救ったのはドョルプフェルドであったが、その遺跡について本格的な報告をしたのがツォンタスだったわけである。

 かくて、著者のシュリーマン評価は、冷静な前置きにもかかわらず、酷評に近いように思われる。
 トロイやミケーネなどの遺跡発見者として地位は否定し去ることはできないが、そのあまりに乱暴で猪突猛進的な発掘方法は学問的立場からは到底評価することができない、ということであろうか。
 本書には、地道な発掘調査や研究で学問的貢献をした多くの研究者の業績が紹介されている。 その中でシュリーマンを扱えば、このような評価になるのかもしれない。



本書の旧蔵者




 この筆者蔵本の旧蔵者は、日本画家の結城素明(1875-1957)である。
 蔵書印や署名はないが、書中に挿入されていた紙片によって、素明の蔵書であったことが知られる。

 紙片の1つは、松竹の宣伝課が出した映画「夏子の冒険」試写会の招待はがきで、宛先部分には「結城素明殿」と名前だけが記されている。 その名前のところに、「素明」の雅印が2つ(2種類)捺されている。 作品に押捺したあと、印面をきれいにするために捺したものらしい。 そして、本書中の字句がいくつか転記されている。 このはがきは、しおりとして使ったものであろう。
 調べてみると、「夏子の冒険」は、昭和28(1953)年に制作された作品である。 その年には、素明は既に78歳であったはずであるが、その年齢でこのようなやや畑違いの学術書を読んでいたわけである。 …素明はこの年、『芸文家墓所誌』というかなりの労作を刊行しており、老いて益々壮んな人であったようだ。

 紙片のもう1つは、三越のダイレクトメールの封筒で、宛先部分には「文京区小石川林町六二 結城素明先生」とガリ版印刷されている(ガリ版式の宛名印刷)。 その封筒が切り開かれて、裏面がメモ用紙として使用され、鉛筆で本書の字句が抜き書きされている。 これは単なる抜書きで、素明自身の感想などは全く含まれていない。
 この封筒の裏紙の間には、もう1枚の紙が挟まれていて(これは、男性ホルモン剤の用法一覧表)、その裏面にも同様の抜書きがある。
 本書を通読していくと、未知の固有名詞や史実などが次から次へと出てきて、あとで振り返ると頭の中にはほとんど何も残っていないような気がする。 これは私のことであるが、素明は要所を書き出すことによって頭に入れようとしたのであろう。 その熱心な読書の態度に、感心させられる。
 下に示すのは、封筒の裏紙の方の抜書きである。








〈付〉 郭沫若・訳
   「美術考古一世紀」


 1951(昭和26)年 9月、 新文芸出版社。
 これに先立って、群益出版社版が1948(昭和23)年に出版されている。
 縦20.5cm、横14.5cm。  本文 377頁。

 郭沫若(1892-1978)は、中国の文学者、歴史学者、政治家。
 四川省出身。 日本に留学し、九州大学医学部を卒業。 留学中に、郁達夫らと「創造社」を結成して文学活動を開始。 北伐に従軍後、日本に亡命。 日中戦争開始とともに帰国し、抗日活動に従事。 中華人民共和国成立後は、国務院副総理、科学院院長などを歴任。

 「訳者前言」(1946年12月付)によれば、日本亡命中の1929(昭和4)年、中国古代社会に関する研究に着手。 その研究資料として、先秦の典籍のほかに、甲骨卜辞や青銅器銘文を扱ったことから、考古学の知識の必要性を感じ、本書(浜田訳)を閲読するに至った。 浜田訳を選んだのは、原著者に関する知識は皆無であったが、浜田博士は日本の考古学界の権威として信頼していたからであると。
 そして郭沫若は、この訳書が大変面白かったので、直ちに中国語への翻訳にとりかかり、1年経たぬうちにそれを仕上げて出版し、生計の足しにしたという。 その際、友人に頼んでドイツ語原書を取り寄せ、対照しようとしたが、原書の到着は出版に間に合わなかった。

 群益出版社版およびこの新文芸出版社版は、郭沫若が帰国後の再版本で、本来は初版の不備を修正すべきであるが、手元に浜田訳もドイツ語原書もない(日本に置いてきてしまった)ので、それもかなわなかったと述べている。

 簡易なくるみ製本で、浜田の訳書よりもサイズが小さく、厚さは約半分であるが、内容の省略などはなく、完訳といってよい。 ただし、巻末の「考古学発見年表」および「索引」がないことと、挿図が少ないことが、浜田の訳書と異なるところである。 挿図は、12葉のみが巻首にまとめて掲げられており、それぞれの図に対する「挿図説明」が付されている。



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