らんだむ書籍館


目 次


  万葉集研究  折口信夫

     万葉詞章と 踏歌章曲と
     万葉集の大歌
     ふり くにぶり うた
     うたの時代
     相聞
     東歌
     律文における漢文学の素地
     代作詩
     創作態度
     万葉学に一等資料のないこと

     万葉びとの生活
       君皇子尊
       女君中皇命
       かむながら
       巫女としての女性
       妹の魂結び
       魂はやす行事
       霊の放ち鳥
       すめみま
       をとめ・をとこ
       大臣・庶民


  万葉集研究  沢潟久孝


  万葉集鑑賞  土岐善麿



新潮文庫
折口信夫・沢瀉久孝・土岐善麿 「萬葉集研究」


 昭和17(1942)年7月、8刷。
(昭和13 (1938) 年1月、 初版)
 縦 16.5cm、横 10.5cm。 143頁。
 新潮社。

 新潮文庫の戦前の版には、「研究・評論」というジャンルがあって、書目から判断すると、書き下ろしの論著が 収められていたらしい。 本書も その1冊である。

 本書には、次の3篇が収められている。
  折口信夫 「万葉集研究」
  沢潟久孝 「万葉集研究」
  土岐善麿 「万葉集鑑賞」
 全体を通じた序跋や 編集趣旨を記した文などは置かれず、各篇の内容にも連携が見られないので、各著者が全く独立に執筆した論考が、単純に集められて 一冊をなしたもののようである。

 本書の目次としては、この3篇の標題・著者名が掲げられているのであるが、ここでの目次(→ 右下)は、折口信夫の「万葉集研究」についてのみ、文中の見出しを抽出して掲げ、本文の概要をある程度 把握できるようにした。 (ただし、原書では、最後の「大臣・庶民」の見出しが 「万葉びとの生活」と同レベルのものになっているが、記述内容からみて「万葉びとの生活」下の小項目であることが明らかで、編集の際に 見出しの位置づけを誤ったものと考えられるので、ここでは右のように訂正した。)
 沢潟久孝の「万葉集研究」について 同様にしなかったのは、沢潟の文の見出しは、単に万葉集の巻名(「巻一」〜「巻二十」)を順に掲げ、3個所ほど数巻をまとめた見出しとしているのみであるため、掲出する意味がないと判断したことによる。
 また、土岐善麿の「万葉集鑑賞」は、分量が少ないため見出しもなく、「万葉集を一冊の叙情歌集として、断片的な印象をならべてみるだけのことである」 と述べているので、目次は不要のものである。

 3篇の中で、最も特色があるのは、折口信夫「万葉集研究」であろう。
 全篇、独自の発想で貫かれていて、かなり刺激的な読み物となっているからである。
 折口信夫(おりぐち・しのぶ、明治20(1887)年〜昭和28(1953)年)は、国文学者、民俗学者、歌人。 (歌人としては、釈迢空の名で知られる。) 文献研究の傍ら、柳田国男の指導を受けて 民俗学研究に従い、その両者を結合させた、独自の国文学研究を展開した。

 本書の内容は、「万葉詞章と 踏歌章曲と」から「万葉学に一等資料のないこと」までの前半部分と、後半の「万葉びとの生活」との、2つの部分に分れている。 前半部分では、万葉集の成立事情を通して 詩歌文学の発生・展開の過程が考察され、後半部分では、歌の制作に関わった人々の 古代的な意識構造が考察されている。
 万葉集の成立に関しては、古今集の仮名・真名の両序の記載などから、平城天皇の時代(在位:806〜809 …平安時代初め)であるとし、宴遊・賀筵などの宮廷行事で誦された歌である「大歌」を中心にまとめられた、とする。 大歌のもつ性質として「鎮魂(たましづめ)」が強調され、それが宮廷行事としてどのように行なわれたのかが、「ふり」「くにぶり」「うた」などの語との関連で、具体的・詳細に 説明されている。
 万葉びとの意識構造に関しては、まず、「君」は神自体であり、その神のいます宮廷に仕える女性は、したがって、すべて巫女であったとする。 そもそも、成人した女性はすべて 巫女たる資格が具わっており、その呪術能力を示すことの一つが「妹の魂結び」であり、また、旅行者の魂を木の枝などに分けて祀(まつ)っておく、「はやし」でもあった。 これらそれぞれについて、詳細な説明があり、更なる古代的な意識の説明もなされている。

 一部紹介としては、前半部分の 「万葉集の大歌」 および 「ふり くにぶり うた」と、後半部分の小項目たる 「魂はやす行事」を掲げることとする。






本文の一部紹介





万葉集の大歌

 記紀に見えた大歌 ―― 歌・ふりをこめて ―― と、万葉の一・二に残つた宮廷詩との差異は、下(以下)の二つである。 彼(その一)は、呪詞・叙事詩 ―― 物語 ―― から遊離又は、脱落したものが、其 母胎なる詞章の裏書きによつて呪力を持つてゐ、此(その二)は 其 原曲から独立した様式といふ 意識の上に立つてゐる事である。 伝来の大歌の改作・替歌でなくとも、威力は 自由に詞章の上にやどるものと考へたのである。 尤(もっとも)、古物語を背景に持つたものもあるが、少くとも 其を引き放して考へることが出来た訳である。
 仁徳朝・雄略朝などの 伝説ある歌も載せてゐるが、大体に於いて、飛鳥末 即 舒明・皇極朝頃からの記録である。 此の時代に、大歌の転機があつた。 日本紀や万葉自身を見ても、宮廷詩人○ ○ ―― 秦大蔵造萬里・野中川原史満・間人連老 ―― らしいものが 出かけてゐる。 代作詞人の作物が 宮廷詩として行はれたものゝ記録を 採用したらしい。 而(しか)も、一・二を通じて、半数以上 境遇・地理・時代・作者の矛盾や錯誤の指摘が出来る。 後世の書き留めな事は明らかだ。 が、巻末の体裁に、「長皇子の手によるらしい様子を見せてゐる」 から、奈良朝の初期に成書となつて居たものと見られる。 恐らく 右の皇子の編纂に関係あることを示すのだらう。 そこに、奈良前の物を、大歌の本格と見てゐた事が察せられる。
 此 二巻に とりわけ明らかな事実で、万葉集全体に渉るものは、歌と鎮魂法との関係である。 鎮魂歌は 舞踊を伴ふ歌謡で、正式には ふりヽ ヽと言ふべきであるが、宮廷伝来の詞曲には うたヽ ヽと称へてゐる。 此 意味に於いて、此 二巻 は、宮廷人の信仰生活を、鮮やかに見せてゐる。
 三・四・六の巻は、古今集の前型とも言ふべき、古風・近様を交へ録したもので、此形が、私人 或は、其一族の歌集にも、其伝来 正しく、最 重々しい編輯法とせられてゐたのではないか。 して見れば、此は 大伴氏長の家の集であり、「大伴古今和歌集」とも言ふべきものであらう。 さうして出来た目的は、年頭朝賀の寿詞奏上同様、氏族の歌に含まれた鎮魂歌的効果を 聖躬に及ぼさうとしたのではあるまいか。 だから、三・四・六は、大伴氏に流用した宮廷詩の「大歌」古曲 及び、現代の族長の身辺の 恋愛・誓約・病災除却のすべて鎮魂に属する歌曲を 伝来久しい方から、此歌集を献ることが、服従を誓ひ、聖寿を賀する事になつたのであらう。 此両巻は、家持が、主上に献つたものと見てよい。 が、或は 皇太子傅としての位置から見て、其 うしろみ申した 早良さはら太子 ―― 或は、他の男女皇子 ―― の為の指導者として上つたものとも、文学史的には考へられる。 平安の女房日記や、其歌物語が、宮廷貴族の子女教育に用ゐられたり、男子の手に書かれたものでも、倭名鈔や、口遊などが、修養書に使はれた類例の古いものではあるまいか。 かうして見れば、以前私の持つてゐた 大伴氏に繋る、両度の疑獄の為に、没収せられた家財の一部として、此等の巻 及び巻五 並びに、巻十七以下の四巻等が、歌?所に入つたものとする考へ方は 近世式な合理観である。 一説として採用して下さつた沢潟さんにはすまないが、潔く撤回してしまふ。 東宮坊の資料となつて残つたのが、第二の太子 安殿皇子の教材となり、平城天皇となられても 深くみついてゐた「奈良魂」の出所は、此等の巻々などにありさうに思ふ。
 第五巻は、族長としての宴遊詞・其他の鎮魂詞といふ意味から出て、文学態度を多くとり入れたものである。 憶良の私生活の歌詞の多いのも、此巻が憶良の手で、旅人の作物の整理せられたものと見てよい。 だから 序引の文詞は憶良の作で、歌だけは、恐らく旅人の自作と思へる。 さうした歌書を献る事が、長上に服従を誓ふと共に、眷顧を乞ふ所以にもなるのであつた。 「あがぬしのみ魂たまひて」 の歌に、其間の消息が伝つてゐる。 さうすると、巻五の体裁や発想法の上にある矛盾も 解けるのである。 巻五は、憶良の申し文ヽ ヽ ヽとも言ふべき ―― 表に旅人を立て、内に自らを陳べた 哀願歌の集である。 此巻などになると、二・三・六 其他には隠れた家集の目的が、露骨に出てゐると見てよい。
 かうして見ると、三・四には、全体として 諷喩鎮魂・暗示教化の目的が見えると言へる。 巻五には 魂の分割を請ふ意味が、家集進上の風と絡んでゐるやうである。 皆 形を変へても、鎮魂の目的を含まないものはない。




ふり くにぶり うた

 万葉や記紀に、「門中となかのいくりにふれたつ …… 」 「下つ瀬にながれふらふ又はふらはふ」 「中つ枝に落ちふらはへ」 など、ふる の系統の語の 半分意義あり 半分はないと言つた用法を 類型的にくり返してゐるのは、何故であらう。 此は全く、たまふりの信仰から出来た多くの詞章が 其 ふると言ふ語の俤を、どこかに留めて居るのである。 たまふるを略して ふると言ふ。 此 ふるヽ ヽと言ふ語は、外来の威霊を、身に、密着せしめると言ふ 用語例である。 内在魂の遊離を防ぎ鎮めると言ふ たましづめ の信仰以前からあつたのだ。 此 まなヽ ヽ ―― 外来魂 ―― 信仰は、邑々の君の後なる 族長・神主なる 国造等の上にもあつた。 其国を圧服する威力は 霊の「来りふる」より 起るとした。 其為の歌舞が、国の たまふり歌 及び 舞 である。 此が くにぶりヽ ヽ ヽ ヽと言ふ語の原義である。 同時に ふりヽ ヽ は、舞姿 或は、歌曲を 単独にいふ古語でなかつた事が知れよう。 霊ふり ヽ ヽ ヽには、歌謡・舞踏を相伴ふものとして、二つの行為を一つにこめ、ふりヽ ヽ の略語が用ゐられる様になつたのh、古代の事である様だ。 此 宮廷の直下に在る大和の外の地方は、宮廷直属の あがた に対して、くに と言ひ分けてゐた。 旧来の地方信仰によつて、其 地方の首長としての威力と、民とを失はないでゐる 半属国の姿を持ち続けてゐる。
 さうした服従者の勢力の、猶 残つてゐる土地としての くにヽ ヽ の観念は、大化の改新の時代まで 抜けきつて居なかつた。 かう言ふ国々の まなヽ ヽ なる威霊を献り、聖躬にふらしめる。 と同時に、其国を圧服する権力が、天子の内に生ずると言ふ信仰が 風俗歌の因である。 国々の鎮魂歌舞を意味する くにぶりヽ ヽ ヽ ヽの奏上が、同時に 服従の誓約式を意味する。 かうして 次第に天子の領土は、拡つて行つた。 大臣・国造 奏賀の後、直会の座で、寿詞の内容と違うた詞章で言ひ直し、寿詞にあつたかも知れない誤を直し 改める 大直日神の神徳を予期する神事を行ふ。 其時に謡はれたものが、くにぶりヽ ヽ ヽ ヽの根元である。 此が、伝来不明で、後期王朝に初つた様に思はれ易い、和歌会の儀式にもなつたのだ。 歌垣と同じ形式が 古く行はれてゐたと見えて、歌の唱和があつた。 此が 歌合せを分化して行つた。 歌の本末を、国々から出た采女の類の女官 ―― 巫女 ―― と、同国出の舎人とが かけ合ひする様になつて来たものと見るが 正しいと思ふ。 帳内資人など言ふ、貴族の家に賜つた随身の舎人の中にも 壬生の忠岑の様な歌人がでた。 大体 御歌合の召人として武官の加はる風は、遠因があつたのである。 王朝末になつて 宮廷仙洞の武官の中から、作者が頻りに頭を出したのも、やはり 此 舎人が国ぶりの歌舞に加はる旧習のなごりとするのが 正しいだらう。 和歌会は 神事であつた。 此 方面になると、歌の唱和や、論争が主となつて、舞は踏歌の方に 専ら行ふことになつた。 踏歌も、国ぶり演奏も、同時に行はれたものが、男女同演の歌垣から変じた痕跡を ふり棄てた。
 片哥の様式は、あまりに古風で、単純で、声楽的にも、内容から見ても、変化がない。 一・二の句の音脚を増して、一句の音脚を、大して変動をさせずに謡はれる歌詞が 可なり古代 ―― 記録の年代を信ずれば、神武天皇の高佐士野の唱和に見えてゐる ―― から発生しかけて居た。 其が 意識せられて、別殊の新様式となつたのは、飛鳥京の末から藤原朝へかけての事らしい。 其 完全な成立を助けたのは、長章の詞曲の末をくり返して 謡ひをさめる形である。 此が段々 反歌として、本来の対立部分と 明らかに認められ出す機運と 時代とが 一つに来た。 影響が相互関係で、次第に細やかになつて来た。 そこに、今まで久しく無意識にくり返してゐた様式の成立と、声楽要素の変化が急速に現われたらしい。 長曲又は小曲でも、奇数の句で最後の句を「反乱」すると、三句の片哥の形である。 結んでゐるものは、其が、対句辞法が盛んに行はれる時代になると、最後の一聯と、結句だけでは不足感が出て来る。 そこで、二聯と結句とを、反乱する様になる。 人麻呂の長歌などは、殊に 其措辞法の上の癖から、結末の三句が、一つの完全な独立詞章 ―― 短歌と同形 ―― になつたのも多いし、なりかけてゐるのも沢山ある。 反歌はすでに、一つの様式として認められて居ながら、まだその発生器の俤が、長歌の結びの句に残つて居た。




魂はやす行事

 東国では、旅行者の魂を、木の枝にとり迎えて 祀る風があつたらしい。 此も いも のする事だつたらしい。 此を はやし と言ふ。 

   あらたまの 塞側きべのはやしに を立てゝ、 行きかつましゞ。 いを(も)さきだゝね
   上毛野 さぬヽ ヽのくゝたち 折りはやし、 我は待たむゑ。 ことし ずとも

 きべヽ ヽ、村の外囲ひの 柵壘の類である。 あらたまヽ ヽ ヽ ヽ は枕詞。 遠江麁玉郡 辺で流行した為に、地名を枕詞にして を起したのだ。 きべヽ ヽ は 地名説はわるい。 村境で、魂はやし の式を行ふのである。 山の木を伐り、其これに、魂を移すから はやしまヽ ヽ ヽである。 処が、此 はやす には、分霊をふやし、分裂させる義があるのだ。 旅出の別れの式に、妹よ。 よ。 汝を立ち見送しめては、行き敢へまじ。 妹よ。 先ち還れ。 此に近い意だらう。 後の者は、上野の民謡 故、さぬヽ ヽ ―― 又、さつヽ ヽ ―― なる木を言ふ為に、地名の佐野にかけたのだ。 茎立くゝたちは 草の若茎と考へられ易いが、の萌え立ちのしんの末になる部分だらう。 其を折つて 魂はやす のである。 ―― をるヽ ヽ は くり返す義か ―― 旅の人の伝言つてごとよ。 其は此頃 来通はず。 かうして続くとしても、我は、魂はやし によつて、迎への呪術をして居ようよ。 かう説くのが、ほんたうだらう。 すると、「家場中にはなかあすはかみヽ ヽこしばヽ ヽ ヽ さし、我は いは はむ。 帰り までに」と言ふ こしばヽ ヽ ヽ も、神に奉ると言はぬ処から見ると、霊を対象にしたのだ。 あすは の神は竈神だから 竈の事にもなる。 竈に ―― 或は かまどヽ ヽ ヽ前方かみ にか ―― はやし の木柴(?)を立て定めて、旅人我の魂を浄め籠めて置かう。 帰り来る時まで ―― ひきよせられて還り来る様に の意か ―― 此歌、旅行者自身の歌と見ても 勿論 訣る。 此歌の意も、神をいは ふと言ふ様にならないで よく わかる。
 又、幼稚だが、極めて近代的なと思はれてゐる

   まつのけの なみたる見れば、いはひとの 我を見おくると、たりしもころ

と言ふのも、道中に松の竝み木を見た歌として 鑑賞出来ぬ様になる。 竝而有なみたるではない様だ。 松の木の 靡きすばかり、老い栄え木垂こだるを見るに、松の木の枝の靡き伏す斎戸いはひとに。 ―― 斎殿か、家人いへびと 又は 斎人か ―― 旅の我を後見みおくる 家に残つた人の 遠方から守らうとして、立てたりし はやし の松の、其まゝの姿である。 家の魂の鎮斎処の、我が為の はやし の木の 勢盛んにある様の俤と信じられる。 さすれば、家なる我が魂は、鎮り、栄えて居るのだ。 かう言ふ旅人の「枕のあたり忘れかねつも」一類の不安は、旅泊の鎮魂の場合に 起り勝ちなのであつた。  もころ は、同等・同格・同輩の男と言ふ風に 大和辺では固定して居る。 が、此は、卜の卦の示現する様式の一らしい。 将来の運命や、遠処の物や、事情現状を 其まゝ見る事と思はれる。 旅泊の鎮魂歌に、あたりの嘱目と、遠方の郷家の斎戸の様とを 兼ねて表してゐるもので、叙景と、瞑想風な夜陰の心境 望郷の叙情詩とが、此から分れ出ようとする複雑な、古代の発想法である。
 私は はやす と言ふ語について、別に言うて居る。 祇園林ぎをんばやし ・ 松囃子 ・ 林田楽はやしでんがく などの はやし が、皆 山の木を伐つて、其を中心にした、祭礼・神事の牽き物であつた。 やま山車だし の様な姿である。 此 牽き物に随ふ人々のする楽舞が すべて はやし と言はれたのだ。 囃しヽ ヽ など宛てられる意義は 遙かに遅れて出来たのである。 山の木を神事の為に伐る時に、自分霊を持つものとして、かう言うたのである。 「七草囃し」と言ふのも、春の行事を、嘉詞で表したのだ。 大根・人参の茎を、切り放すことを、上野下野辺で、はやすヽ ヽ ヽ と言ふのも、「さぬのくゝたち」の歌の場合の、古用例だとは言へないが、おもしろい因縁である。
 ふる の内容の深い様に、はやす も 木を伐り迎へ、鎮魂するまでの義を含んでゐた。 其が後世は、更に拡つて行つたのだ。 はやす わざは、初めから終りまで 妹がするのではない様だ。 が、大嘗祭の悠紀・主基の造酒児さかつこ なる首席巫女の、野の芽も、山の神木も、まづ刃物を入れるのを見れば、さうした形も、考へられないではない。



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