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目 次
万葉集研究 折口信夫 万葉詞章と 踏歌章曲と 万葉集の大歌 ふり くにぶり うた うたの時代 相聞 東歌 律文における漢文学の素地 代作詩 創作態度 万葉学に一等資料のないこと 万葉びとの生活 君皇子尊 女君中皇命 かむながら 巫女としての女性 妹の魂結び 魂はやす行事 霊の放ち鳥 すめみま をとめ・をとこ 大臣・庶民 万葉集研究 沢潟久孝 万葉集鑑賞 土岐善麿 |
本文の一部紹介 |
万葉集の大歌
記紀に見えた大歌 ―― 歌・振をこめて ―― と、万葉の一・二に残つた宮廷詩との差異は、下(以下)の二つである。 彼(その一)は、呪詞・叙事詩 ―― 物語 ―― から遊離又は、脱落したものが、其 母胎なる詞章の裏書きによつて呪力を持つてゐ、此(その二)は 其 原曲から独立した様式といふ 意識の上に立つてゐる事である。 伝来の大歌の改作・替歌でなくとも、威力は 自由に詞章の上に寓( るものと考へたのである。 尤(もっとも)、古物語を背景に持つたものもあるが、少くとも 其を引き放して考へることが出来た訳である。)
仁徳朝・雄略朝などの 伝説ある歌も載せてゐるが、大体に於いて、飛鳥末 即 舒明・皇極朝頃からの記録である。 此の時代に、大歌の転機があつた。 日本紀や万葉自身を見ても、宮廷詩人( ―― 秦大蔵造萬里・野中川原史満・間人連老 ―― らしいものが 出かけてゐる。 代作詞人の作物が 宮廷詩として行はれたものゝ記録を 採用したらしい。 而(しか)も、一・二を通じて、半数以上 境遇・地理・時代・作者の矛盾や錯誤の指摘が出来る。 後世の書き留めな事は明らかだ。 が、巻末の体裁に、「長皇子の手によるらしい様子を見せてゐる」 から、奈良朝の初期に成書となつて居たものと見られる。 恐らく 右の皇子の編纂に関係あることを示すのだらう。 そこに、奈良前の物を、大歌の本格と見てゐた事が察せられる。)
此 二巻に とりわけ明らかな事実で、万葉集全体に渉るものは、歌と鎮魂法との関係である。 鎮魂歌は 舞踊を伴ふ歌謡で、正式には ふり( と言ふべきであるが、宮廷伝来の詞曲には うた) ( と称へてゐる。 此 意味に於いて、此 二巻 は、宮廷人の信仰生活を、鮮やかに見せてゐる。)
三・四・六の巻は、古今集の前型とも言ふべき、古風・近様を交へ録したもので、此形が、私人 或は、其一族の歌集にも、其伝来 正しく、最 重々しい編輯法とせられてゐたのではないか。 して見れば、此は 大伴氏長の家の集であり、「大伴古今和歌集」とも言ふべきものであらう。 さうして出来た目的は、年頭朝賀の寿詞奏上同様、氏族の歌に含まれた鎮魂歌的効果を 聖躬に及ぼさうとしたのではあるまいか。 だから、三・四・六は、大伴氏に流用した宮廷詩の「大歌」古曲 及び、現代の族長の身辺の 恋愛・誓約・病災除却のすべて鎮魂に属する歌曲を 伝来久しい方から、此歌集を献ることが、服従を誓ひ、聖寿を賀する事になつたのであらう。 此両巻は、家持が、主上に献つたものと見てよい。 が、或は 皇太子傅としての位置から見て、其 後( み申した 早良) ( 太子 ―― 或は、他の男女皇子 ―― の為の指導者として上つたものとも、文学史的には考へられる。 平安の女房日記や、其歌物語が、宮廷貴族の子女教育に用ゐられたり、男子の手に書かれたものでも、倭名鈔や、口遊などが、修養書に使はれた類例の古いものではあるまいか。 かうして見れば、以前私の持つてゐた 大伴氏に繋る、両度の疑獄の為に、没収せられた家財の一部として、此等の巻 及び巻五 並びに、巻十七以下の四巻等が、歌?所に入つたものとする考へ方は 近世式な合理観である。 一説として採用して下さつた沢潟さんにはすまないが、潔く撤回してしまふ。 東宮坊の資料となつて残つたのが、第二の太子 安殿皇子の教材となり、平城天皇となられても 深く浸) ( みついてゐた「奈良魂」の出所は、此等の巻々などにありさうに思ふ。)
第五巻は、族長としての宴遊詞・其他の鎮魂詞といふ意味から出て、文学態度を多くとり入れたものである。 憶良の私生活の歌詞の多いのも、此巻が憶良の手で、旅人の作物の整理せられたものと見てよい。 だから 序引の文詞は憶良の作で、歌だけは、恐らく旅人の自作と思へる。 さうした歌書を献る事が、長上に服従を誓ふと共に、眷顧を乞ふ所以にもなるのであつた。 「あがぬしのみ魂たまひて」 の歌に、其間の消息が伝つてゐる。 さうすると、巻五の体裁や発想法の上にある矛盾も 解けるのである。 巻五は、憶良の申し文( とも言ふべき ―― 表に旅人を立て、内に自らを陳べた 哀願歌の集である。 此巻などになると、二・三・六 其他には隠れた家集の目的が、露骨に出てゐると見てよい。)
かうして見ると、三・四には、全体として 諷喩鎮魂・暗示教化の目的が見えると言へる。 巻五には 魂の分割を請ふ意味が、家集進上の風と絡んでゐるやうである。 皆 形を変へても、鎮魂の目的を含まないものはない。
ふり くにぶり うた
万葉や記紀に、「門中( のいくりにふれたつ …… 」 「下つ瀬にながれふらふ又はふらはふ」 「中つ枝に落ちふらはへ」 など、ふる の系統の語の 半分意義あり 半分はないと言つた用法を 類型的にくり返してゐるのは、何故であらう。 此は全く、たまふりの信仰から出来た多くの詞章が 其 ふると言ふ語の俤を、どこかに留めて居るのである。 たまふるを略して ふると言ふ。 此 ふる) ( と言ふ語は、外来の威霊を、身に、密着せしめると言ふ 用語例である。 内在魂の遊離を防ぎ鎮めると言ふ たましづめ の信仰以前からあつたのだ。 此 まな) ( ―― 外来魂 ―― 信仰は、邑々の君の後なる 族長・神主なる 国造等の上にもあつた。 其国を圧服する威力は 霊の「来りふる」より 起るとした。 其為の歌舞が、国の 霊) ( ふり歌 及び 舞 である。 此が くにぶり) ( と言ふ語の原義である。 同時に ふり) ( は、舞姿 或は、歌曲を 単独にいふ古語でなかつた事が知れよう。 霊ふり) ( には、歌謡・舞踏を相伴ふものとして、二つの行為を一つにこめ、ふり) ( の略語が用ゐられる様になつたのh、古代の事である様だ。 此 宮廷の直下に在る大和の外の地方は、宮廷直属の あがた に対して、くに と言ひ分けてゐた。 旧来の地方信仰によつて、其 地方の首長としての威力と、民とを失はないでゐる 半属国の姿を持ち続けてゐる。)
さうした服従者の勢力の、猶 残つてゐる土地としての くに( の観念は、大化の改新の時代まで 抜けきつて居なかつた。 かう言ふ国々の まな) ( なる威霊を献り、聖躬にふらしめる。 と同時に、其国を圧服する権力が、天子の内に生ずると言ふ信仰が 風俗歌の因である。 国々の鎮魂歌舞を意味する くにぶり) ( の奏上が、同時に 服従の誓約式を意味する。 かうして 次第に天子の領土は、拡つて行つた。 大臣・国造 奏賀の後、直会の座で、寿詞の内容と違うた詞章で言ひ直し、寿詞にあつたかも知れない誤を直し 改める 大直日神の神徳を予期する神事を行ふ。 其時に謡はれたものが、くにぶり) ( の根元である。 此が、伝来不明で、後期王朝に初つた様に思はれ易い、和歌会の儀式にもなつたのだ。 歌垣と同じ形式が 古く行はれてゐたと見えて、歌の唱和があつた。 此が 歌合せを分化して行つた。 歌の本末を、国々から出た采女の類の女官 ―― 巫女 ―― と、同国出の舎人とが かけ合ひする様になつて来たものと見るが 正しいと思ふ。 帳内資人など言ふ、貴族の家に賜つた随身の舎人の中にも 壬生の忠岑の様な歌人がでた。 大体 御歌合の召人として武官の加はる風は、遠因があつたのである。 王朝末になつて 宮廷仙洞の武官の中から、作者が頻りに頭を出したのも、やはり 此 舎人が国ぶりの歌舞に加はる旧習のなごりとするのが 正しいだらう。 和歌会は 神事であつた。 此 方面になると、歌の唱和や、論争が主となつて、舞は踏歌の方に 専ら行ふことになつた。 踏歌も、国ぶり演奏も、同時に行はれたものが、男女同演の歌垣から変じた痕跡を ふり棄てた。)
片哥の様式は、あまりに古風で、単純で、声楽的にも、内容から見ても、変化がない。 一・二の句の音脚を増して、一句の音脚を、大して変動をさせずに謡はれる歌詞が 可なり古代 ―― 記録の年代を信ずれば、神武天皇の高佐士野の唱和に見えてゐる ―― から発生しかけて居た。 其が 意識せられて、別殊の新様式となつたのは、飛鳥京の末から藤原朝へかけての事らしい。 其 完全な成立を助けたのは、長章の詞曲の末をくり返して 謡ひ乱( める形である。 此が段々 反歌として、本来の対立部分と 明らかに認められ出す機運と 時代とが 一つに来た。 影響が相互関係で、次第に細やかになつて来た。 そこに、今まで久しく無意識にくり返してゐた様式の成立と、声楽要素の変化が急速に現われたらしい。 長曲又は小曲でも、奇数の句で最後の句を「反乱」すると、三句の片哥の形である。 結んでゐるものは、其が、対句辞法が盛んに行はれる時代になると、最後の一聯と、結句だけでは不足感が出て来る。 そこで、二聯と結句とを、反乱する様になる。 人麻呂の長歌などは、殊に 其措辞法の上の癖から、結末の三句が、一つの完全な独立詞章 ―― 短歌と同形 ―― になつたのも多いし、なりかけてゐるのも沢山ある。 反歌はすでに、一つの様式として認められて居ながら、まだその発生器の俤が、長歌の結びの句に残つて居た。)
魂はやす行事
東国では、旅行者の魂を、木の枝にとり迎えて 祀る風があつたらしい。 此も 妹( のする事だつたらしい。 此を はやし と言ふ。)
あらたまの 塞側( のはやしに 汝) ( を立てゝ、 行きかつましゞ。 いを(も)さきだゝね)
上つ毛野 さぬ( のくゝたち 折りはやし、 我は待たむゑ。 言) ( し 来) ( ずとも)
きべ( 、村の外囲ひの 柵壘の類である。 あらたま) ( は枕詞。 遠江麁玉郡 辺で流行した為に、地名を枕詞にして き) ( を起したのだ。 きべ) ( は 地名説はわるい。 村境で、魂はやし の式を行ふのである。 山の木を伐り、其これに、魂を移すから はやしま) ( である。 処が、此 はやす には、分霊を殖) ( し、分裂させる義があるのだ。 旅出の別れの式に、妹よ。 汝) ( よ。 汝を立ち見送しめては、行き敢へまじ。 妹よ。 先ち還れ。 此に近い意だらう。 後の者は、上野の民謡 故、さぬ) ( ―― 又、さつ) ( ―― なる木を言ふ為に、地名の佐野にかけたのだ。 茎立) ( ちは 草の若茎と考へられ易いが、木) ( の萌え立ちの心) ( の末になる部分だらう。 其を折つて 魂はやす のである。 ―― をる) ( は くり返す義か ―― 旅の人の伝言) ( よ。 其は此頃 来通はず。 かうして続くとしても、我は、魂はやし によつて、迎への呪術をして居ようよ。 かう説くのが、ほんたうだらう。 すると、「家場中) ( の あすは の かみ) ( に こしば) ( さし、我は 斎) ( はむ。 帰り来) ( までに」と言ふ こしば) ( も、神に奉ると言はぬ処から見ると、霊を対象にしたのだ。 あすは の神は竈神だから 竈の事にもなる。 竈に ―― 或は かまど) ( の 前方) ( にか ―― はやし の木柴(?)を立て定めて、旅人我の魂を浄め籠めて置かう。 帰り来る時まで ―― ひきよせられて還り来る様に の意か ―― 此歌、旅行者自身の歌と見ても 勿論 訣る。 此歌の意も、神を斎) ( ふと言ふ様にならないで よく 訣) ( る。)
又、幼稚だが、極めて近代的なと思はれてゐる
まつのけの なみたる見れば、いはひとの 我を見おくると、立( たりしもころ)
と言ふのも、道中に松の竝み木を見た歌として 鑑賞出来ぬ様になる。 竝而有( ではない様だ。 松の木の 靡き伏) ( すばかり、老い栄え木垂) ( るを見るに、松の木の枝の靡き伏す斎戸) ( に。 ―― 斎殿か、家人) ( 又は 斎人か ―― 旅の我を後見) ( る 家に残つた人の 遠方から守らうとして、立てたりし はやし の松の、其まゝの姿である。 家の魂の鎮斎処の、我が為の はやし の木の 勢盛んにある様の俤と信じられる。 さすれば、家なる我が魂は、鎮り、栄えて居るのだ。 かう言ふ旅人の「枕のあたり忘れかねつも」一類の不安は、旅泊の鎮魂の場合に 起り勝ちなのであつた。 もころ 男) ( は、同等・同格・同輩の男と言ふ風に 大和辺では固定して居る。 が、此は、卜の卦の示現する様式の一らしい。 将来の運命や、遠処の物や、事情現状を 其まゝ見る事と思はれる。 旅泊の鎮魂歌に、あたりの嘱目と、遠方の郷家の斎戸の様とを 兼ねて表してゐるもので、叙景と、瞑想風な夜陰の心境 望郷の叙情詩とが、此から分れ出ようとする複雑な、古代の発想法である。)
私は はやす と言ふ語について、別に言うて居る。 祇園林( ・ 松囃子 ・ 林田楽) ( などの はやし が、皆 山の木を伐つて、其を中心にした、祭礼・神事の牽き物であつた。 山) ( ・ 山車) ( の様な姿である。 此 牽き物に随ふ人々のする楽舞が すべて はやし と言はれたのだ。 囃し) ( など宛てられる意義は 遙かに遅れて出来たのである。 山の木を神事の為に伐る時に、自分霊を持つものとして、かう言うたのである。 「七草囃し」と言ふのも、春の行事を、嘉詞で表したのだ。 大根・人参の茎を、切り放すことを、上野下野辺で、はやす) ( と言ふのも、「さぬのくゝたち」の歌の場合の、古用例だとは言へないが、おもしろい因縁である。)
ふる の内容の深い様に、はやす も 木を伐り迎へ、鎮魂するまでの義を含んでゐた。 其が後世は、更に拡つて行つたのだ。 はやす わざは、初めから終りまで 妹がするのではない様だ。 が、大嘗祭の悠紀・主基の造酒児( なる首席巫女の、野の芽も、山の神木も、まづ刃物を入れるのを見れば、さうした形も、考へられないではない。)
終
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