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著者名の「近道行者」は誤りで、正しくは「近路行者」。
背表紙


古今奇談 英草紙 」 目 次


 解 題           ( 関根正直 )

 一  後醍醐帝ごだいごてい 三たび 藤房ふぢふさいさめ折話くじくこと

 二  馬場求馬ばばもとめ しづめ樋口ひぐちむこ成話なること

 三  豊原兼秋とよはらかねあき いんききくに盛衰せいすゐ知話しること

 四  黒川源太主くろかはげんだぬし 山にいつみちたること

 五  紀任重きのたふしげ 陰司いんしに至り 滞獄くじわくこと

 六  三人の妓女ぎぢよ おもむきことにして おのおの 名を成話なすこと

 七  楠弾正左衛門くすのきだんじやうざゑもん 不戦たゝかはずして てきせいすること

 八  白水翁はくすゐをう売卜直言まいぼくちよくげん を示すこと

 九  高武蔵守かうのむさしのかみ いだして なかだちをなすこと


袖珍名著文庫
近路行者・著、藤岡作太郎・校訂
古今奇談 英草紙」


 冨山房。 明治43(1910)年7月。
 縦15.3cm、横10.2cm。 クロース装。 本文 188頁。

 現在のいわゆる文庫本は、そのほとんどが、「古典的価値ある書をきわめて簡易なる形式において逐次刊行」することを標榜して昭和2(1927)年に創刊された、岩波文庫のスタイルに倣ったものであるといってよい。
 しかし、岩波文庫の創刊以前から、ある限られた分野などを対象にした、小型の量産廉価本が存在した。
 冨山房が明治時代後期に、国文学における短編(分野は小説・脚本・随筆・史伝・詩歌等にわたる)を対象に刊行した「袖珍名著文庫」も、そうした先行文庫本の一種である。
 現在の文庫本とほとんど同じサイズであるが、しなやかなクロース装で、なかなか丁寧に造られた美本である。

 本書は、その「袖珍名著文庫」の第37編として出た、9篇からなる短編小説集である。 江戸時代中期の読本作家・都賀庭鐘(筆名:近路行者、生没年不詳)の著作で、寛延2(1749)年に刊行されたもの。 (正式な書名は「古今奇談 英草紙はなぶさそうし」であるが、以下の記述では、単に「英草紙」と呼ぶことにする。)
 その後の各種古典全集などに繰り返し収録されているが、活字本となったのはこれが最初と思われる。

 「英草紙」の内容構成・特色等については、本書巻頭の「解題」で適確に述べられているが、その解題は関根正直が執筆している。
 本書の校訂者は藤岡作太郎であるのに、通常 校訂者が執筆する解題を 関根が執筆した理由は、解題の最後の段落の記述で明らかにされている。すなわち、本書刊行直前の藤岡の死により、関根が代わってこの解題を執筆したのである。
 さらに、藤岡は、「英草紙」をこの名著文庫の1冊として刊行したいという意志は有していたものの、実質的な校訂作業には着手していなかったようである。
 それにもかかわらず藤岡が校訂者になっているのは、おそらく、次のようないきさつによるものである。

 藤岡作太郎(号:東圃、1870~1910)は、金沢の第四高等中学校を経て、明治27(1894)年に帝国大学文科大学国文科を卒業。 その後、大阪府立第一中学校、京都大谷派真宗中学校、同大学等の教職を歴任し、30(1897)年には第三高等学校教授となった。 この間、京都・奈良などの古美術品調査に没頭し、その成果の一部は「近世絵画史」(明治36(1903)年刊)に結実した。 しかし、そうしたエネルギッシュな活動が、持病の喘息を悪化させることにもなった。
 33(1900)年、東京帝国大学大学文科大学助教授となってからは、ひたすら研究に打ち込み、「国文学全史平安朝篇」「国文学史講話」などの精緻な著述活動に専念した。
 しかし、その後病状はますます進行したようである。 自宅は比較的大学の近くであったが、講義のある日には、講義の前に身体を疲れさせないために人力車に乗って行ったという。(佐佐木信綱「明治大正昭和の人々」)
 明治43(1910)年2月3日に死去したとき、40歳の若さであった。

 藤岡の第四高等中学校以来の親友・西田幾多郎の「寸心日記」によれば、2月6日に葬儀が行なわれた後、藤岡の知人や友人達は何度か会合して「後事につき相談」しており、その第1回は、葬儀の翌日、関根正直の自宅で開かれている。 おそらく、遺族の生活支援について、具体的な方策が立てられたのであろう。 そして、関根がその立案の中心だったように思われる。

 本書がこの年の7月に刊行されていることを思えば、藤岡を校訂者とすることで、その印税を遺族に受け取らせるようにした配慮が明らかである。 西田らと相談した支援策の一環かもしれないが、関根の全く個人的な行為のようにもみえる。 「同儕相謀りて校訂上版し」としているけれども、その前の部分で校訂の方針を具体的に述べていることから、実際上は関根が単独で刊行までの作業を行なったと考えられるからである。

 関根正直(1860~1932)は、国文学者・故実学者で、華族女学校、学習院などの教授を歴任。 生年からいっても、大学卒業年次(明治19(1886)年)からいっても、藤岡のだいぶ先輩であるが、藤岡の学識を認め、友人として隔てのない交際をしていたらしい。
 解題の文は、特別な思いやりなどは感じさせないように淡々と記されているが、かえって情誼に厚い人柄を想像させる。
 こうして本書は、藤岡と関根の友情の記念となっている。

 本書の内容紹介としては、まずこの 解題 の全文を掲げることとする。
 文中には藤岡作太郎の「国文学史講話」(明治41(1908)年刊)を引用し、藤岡への配慮を示している。

 次に、本文の一部紹介として、最初の篇「 一 後醍醐帝ごだいごてい 三たび 藤房ふぢふさいさめ折話くじくことを掲げる。
 藤岡(関根の引用)が指摘するように、この篇にも著者・都賀庭鐘の独自の道徳観が顕著に示されている。
 後醍醐天皇は、自らが主導して鎌倉幕府打倒、天皇親政を実現させたが、その一時的成功に慢心し、新体制が整わぬうちに、往時の宮廷文化復興の方面に心を動かしていった。 その結果、足利氏の台頭、南北朝対立などを生じさせてしまった。 本篇は、主に天皇の近臣・万里小路藤房の言行が描かれ、その失敗談、あるいは後醍醐天皇との知恵比べのような趣きがあるが、本来は後醍醐天皇の、統治者としての自覚の欠如に対する批判(のはず)である。 その批判が徹底しないのは、藤岡の言うように、天皇にも花を持たせたような、かなり「寛大」な書き方のためであろう。
 なお、原文には漢字の大部分について ふりがなが付されているが、ここでは必要な範囲にとどめた。


解 題





 英草紙は都賀庭鐘の作なり、一種の短編小説集にして、その始めて出版せられたるは、寛延二年(1749年)なり。 その頃八文字屋本漸く衰へ、支那小説の頻りに喜ばれたる程とて、この草紙も同じ風潮にひかれて、出で来しなり。 曲亭馬琴の著と聞ゆる物之本江戸作者部類に、上田秋成、椿園主人と並べて庭鐘の名を掲げ、「この二三子は竊かに唐山の伝説を我が大皇国の故事に撮合してつゞれり。 その著筆浅井了意の剪燈新話を翻案して御伽冊子の一書をなしたるにおなじ。」とある如く、其の粉本の聊斉志異等にあるは言ふを須ひず。 その時好に投じたるは、続著として繁野話シゲシゲヤワ莠問冊ヒツジグサ(正しくは「莠句冊」)あるを以ても知るべし。 而してこの草紙が後の江戸の読本を発生するに与りて力ありしは、また疑を容れざる所にして、かの上田秋成の雨月物語も、これにならひて作れるなるべし。
 英草紙の小説史上における地位およそ此の如し。 その内容は、古今の異聞怪談にして或ものは時代物或ものは世話物風たる差こそあれ、怪を以て始まり異を以て終るは、みな同じ。 ただ怪を語るといふものの、荒唐無稽、人情を超絶せるが如きものならずして、飽くまで現世的色彩を帯ぶるは、さすがに徳川時代の産物なり。 徳川時代の産物は、またとかく道義観を含めたるもの多く、甚しきに至つては 作中の人物 直ちに忠の観念なり義の権化なり。 英草紙も多少この傾向を有すとて、故藤岡東圃は その国文学史講話に左の如く論じたり、
 英草紙は小説的事実を仮りて作者が道徳観を示せるものなるが如く、その道徳的批判は当時世上の偏僻論者が云為せるところに比して頗る寛大に、或は従来の歴史より見て当然悪人とせらるゝ人の上にも同情を注ぐを惜まず、或は悪人と思ふも自己の偏見より生ぜる錯誤の判断にして、実際においては然らざるものありなど、怪異を語りつゝも実は議論の筆を進めたるものならんか、而してその世間に対するも楽観的見地を以てしたり。
 と云々。 蓋し動かざるの説ならん。 東圃また同書に本書の文章を評して、
 唯その文余りに漢臭を帯び、わが国の習俗を写すにさへ、或は「手を挙げて会釈す」といひ、或は人を饗応するに「粥を煮せしめ」などいへる、無意義の踏襲随所に散見す。
といひて、慊焉(あきた)らざることを示しながらも、総括しては「遒勁なる辞藻」と推称せり。 しかり、庭鐘の文、奔放にして法格に拘はるなく、小巧を算せずしてよく人情の機微に触れ来るところ、また得易からざる天品といふべし。
 本書の原本は半紙判の六冊本なり、すなはち全九篇を五巻に分ち、終の第九篇ひとり一篇にて一巻をなし、五巻のうち第ニ巻にかぎりて上下ニ冊あり、毎巻一ヶ所乃至三ヶ所に図画を挿みぬ。 この画はた本文の妙を助けたり。 巻頭に掲ぐる閻魔庁の図は第三巻の前半に収めたる第五篇挿画中の一にして、奇趣概ねこの類なり。
 原本文字の用ひざま、頗る支那くさきも、亦支那小説より来りしを証す。 傍訓はた牽強に、送仮名も体をなさゞる所あれど、累を全文に及ぼすことなければ、大抵は原のまゝにして、強(あなが)ちに改めず、たゞ誰が目にも誤字と思はるゝ本字、及び仮名遣の誤のみを正したり。 御旨、九宵、蒹葭といふ語の右に「ぎよし」「きうせう」「けんか」と訓したる外に、更に左に「おほせのむね」「おほぞら」「よしのたぐひ」と注したる類こゝかしこにある、一つの特色なるべけれど、徒らに煩はしく且は蛇足の嫌なきにあらざれば、こゝにはすべて略しぬ。
 著者都賀庭鐘は大坂の人なり、通称六蔵、字は公声、千(近)路行者はその号にして、また莘荑館大江漁夫、ともいへり。 前に引ける物之本作者部類に明和安永に至りてとあり、諸書に寛政中歿すといへど、その年月、享年を明かにせず。 儒医を業とし、博物骨董に精しき蒹葭堂と親交あり、みづからまた物産学を修め、書画の技にも長じたりといふ。 繁野話、莠句冊の外、大江漁唱、莘荑館随筆、物産緒言、明詩批評、狂詩選、垣根草等の著あり。
 英草紙は亡友東圃が愛読書中の一つにして、予て本文庫中に収めんのあらましなりしかば、歿後其の志を空しくせじと、同儕相謀りて校訂上版し、己れ代りて開題をものする事となりぬ。 仍て聊(いささ)か其の由をも附記しつるなり。
  明治四十三年七月十八日     関根正直しるす


( 本 文 )
一 後醍醐帝ごだいごてい 三たび 藤房ふぢふさいさめ折話くじくこと






 万里小路藤房卿までのこうぢふぢふさのきやう宣房卿のぶふさきやうの子なり。 いとけなきより このんで書をよみ博学強記はくがくきやうき、和漢の才にとみて、早く黄門侍郎くわうもんじらうとなる。 建武けんむみかど(後醍醐帝) 命じて尚書しやうしょを講ぜしめ給ふに、よく其むねとき得たりしかば、帝 深く其さいを愛し、常に左右にせしめ給ふ。 元弘げんこうの変に、帝 武家にとらはれさせ給ふ折りからも、藤房 是に従ひ奉る。 御開運ごかいうんのち つひに上卿じやうけいとなる。 此の時、速水下野守はやみしもつけのかみといふもの、もとは参河みかはくに住人ぢうにんにて、足助重範あすけしげのりが一族なるが、官軍没落してより東国ににげ下り、こゝかしこにせくゞまり、公家くげとうの時を待得て都に登り、万里小路藤房卿について天機てんきうかゞひしに、速水がさいはひにやありけん、何事なにごとにや 叡慮えいりようるはしき折りからにて 上便ふびんに思召れ、一ヶのしやう宛行あておこなはれ、一首の古歌こかたまふ。
   あづま路にありといふなる逃水にげみづ逃隠にげかくれても世を通す哉
 藤房 此歌を見て、博識はくしきの人なれども、いかゞしたりしや、此の歌をしり給はで、是 古歌なるとは思ひもよらず、みかど新製しんせいの歌なりと思ひ、逃水にげみづのことば ふしんはれず、かれがうぢよみ入られしとは見えたれども、逃水といふつゞき いかならん、其上 速水はやみはやの字ににぐるこころなし となんじたりければ、帝 大に御気色搊みけしきそんじ、次の日 藤房を召て、あづま歌枕うたまくら 見てこよとおひやり給ふ。 藤房 なにつみとはしらねども、叡慮えいりよにまかせてたびだちて、いつかへりいつあふさかのせきならん、しられずしらぬ旅の心ぼそく、ゆきゆきて むさしのゝはてなき道にかゝり、見わたせば、其ひろきことくもをしのぎ きりにへだてゝ、たゞめのおよぶ所にかぎれり。 春のすゑ草葉くさばのしげりしあひだ はるかむかふにながるゝ川あるは、かの調布てづくりさらす玉川にこそとおもへど、ふべき人なく、川を目につけてゆけとも、曠野くわうやの内 遠近も目当違めあてちがひて、ゆけどもゆけども 川ははるかむかふにありて、同じ程なるはいかにと思ふうち、からうじて一人の田夫でんぷ行逢ゆきあひたり。 やおれ、むかふに見ゆる流れは何とよぶ川ぞ とたづね給へば、此田夫云、此あたり 西は秩父根ちゝぶね、東は海北うんきた、南のむかふをか 都築つゞきはらより、北は河越かはごえにいたり、此のあひだを むさし野といふ、縦横たてぬき十郡にまたがれり、其内にたゞ三の川あり、玉川、久米くめ川、入間いるま川なり、年とらず川などいへるは あるにかひなき細き流れにて、節分せつぶんの夜はきはめて水ながれざる故、かくなづくるとなり、それゆゑ水にとぼしく、に出るもの 器に水をたくはへ持て かつをうるほす、此のあひだに 川も流れも目にさへぎることなしと答ふ。 藤房、むかふに見ゆる川よと指さし給へば、田夫 かへりみて 笑うて云、あれは川にてははべらず、あれこそ山峰にくもを出すが如くにて、地気ちきのなす所、いつとても春夏のあひだ 遠所ゑんじよより見る所 水の流るゝやうに見ゆれども、水にあらず、其所そのところゆけば見えず、ゆけどもゆけども むかふに行やうなれば、むかしより逃水にげみづと名づけぬといふに、藤房 心づきて、逃水にげみづ ふるき事にやと問給へば、此農夫のうふ云、年老としおいたるものどものかたり伝へしは、是も名所の内にて、あづま路にありといふなる逃水の と、古歌こかよみおかれしよし うけ給はりぬとねんごろにかたりて別れぬ。 藤房 こゝにおいて 主上の速水はやみに賜りし歌は 古歌にて、逃水は古き歌名所なることを はじめてさとり、むさしのゝ草葉くさばがくれに行水の とある古歌にも思ひ合され、咏林えいりんのしげき、いまだ我覚えざる名歌多かるべしと、みづから まなこせばきことを恥て、歌まくら見よとの叡慮も これを思ひ知しめんためなるべしと、こゝよりみやこにかへりのぼり、父宣房のぶふさに此事をかたれば、宣房いふ、なんぢこれほどの麁忽そこつあらんや、其歌は俊頼朝臣としよりあそんの歌にて、近頃 去る家に深くせらるゝ扶桑ふさうといへるしふにも出たり と聞て、藤房 いよいよ我麁忽そこつをしり、内に参りて其あやまちくいるに、主上もかれに思ひしらしめん為なれば、今は とてゆるされにけり。 藤房かへり登る時、大内裏たいだいりすでに造営ざうえいをはじむ。 藤房 これをいさめ奉らんとすれども、事すでにとゞむべきにあらず。 これのみならず、帝 此時 太平たいへいに志 怠り給ひ、馬場殿ばゞどのを建て、逸遊いつゆう 度なく、女謁ぢよえつ 盛に行はれ、朝野てうや うらみを含むもの甚多し。 近頃 仏教うらみを信じ給ひ、僧徒そうとまた 禁宮きんきうに出入するもの少からず。 上のこのむことは しも ならふ ならはせなれば、士民ともに僧を信用し、村落の小院せうゐんまでも 説法壇せつぽふだんを設けて、法をとく。 後は 心よからぬ僧徒そうと多なりて、男女の席 みだれがはしく、よからぬ風俗多かりければ、藤房 諫を奉りて、異国本朝いこくほんてう ともに 仏教にいんして 国 あやふかりし故事を説出ときいだし、ことばをつくされしに、元より才学辨利なる帝 これを聴入きゝいれ給はず、却て藤房にむかひ、梁武帝りやうのぶていの仏にいんして 民膏みんかうついやし 国のおとろへとなりしは、仏教ぶつけうにかぎらず、いんする時は 皆がいがいあり、仏法も国の害になる程帰依きえせねば さはり有まじきことぞかし。 また仏家の方便ほうべんの国政にえきなきこと、儞が説をまたず。 彼僧徒 説法壇をひらきても、或は天下の害となるべきことをのぶる時は、いかに其儘に差置かんや。 まだも往古わうこ僧哲そうてつは 気性つよかりしかば、公政こうせいをも恐れず、今の僧徒は佞諛ねいゆのもの多く、猶以なほもつて国法を害することなし。 近世は僧に雅俗がぞくわかち出来りて、中にもとくある僧の弟子を指教しけうして、宗儀しうぎの深意をしやくし、仏語を表裏よりおしさとらしめ、終に仏身を成就じやうじゆするあれど、今の俗僧の俗男女ぞくなんによ説聞ときゝかしむる所は、理を浅説あさくとくをもつぱらとして、滑稽笑話の類なれば、二度ふたゝびわらはにかへりたる婆翁ばおう 理屈りくつばなしと同じ耳にきけば、たれか聞こんで発心するものもなく、説法者も聴者きくものも憚らず 書籍しよじやく膝前しつぜんひらきながら、目はひたすら 空焼そらだきのかたにむかふ。 壇上に躍狂をどりくるうて、法衣ほふえうでをかゝげ、雇れし寺の喜捨を募り、巧に自己おのれが衣料をこひ、観音の小像 をかけものにして福引するに至る。 此てい放下同然ほうかどうぜん仏説ぶつせつを聴もの、一人として大義のわきまへあるものなければ、人をたぶらかす程の邪智わるぢゑもなし。 儞が心のそこは、天下の人を皆 学者にもして、理に明らかならしめんと欲するならん。 左ある時は 僧徒の外に不耕たがやさずして喰ふもの多くなりて、其中には学問の理をりて非をかざるもの、或はおほやけの事につけて管見くわんけんの議論をなし、人民にんみんの心を迷すやからが出来る。 かしこにもこゝにも理屈行れて、政道の害となれば、僧徒は物のかずならず、秦の始皇しくわうが儒者を埋殺うめころせしも深き心あるべし。 天下の上に立ものは 民百姓を怜悧発明れいりはつめいにあらしめんと思ふことは さらさらなし、ひとへ律儀りちぎにして、国法を奉じ、小善せうぜんといへども 為べき人柄ひとがらにあらせたく 思ふばかりなり。 今の俗僧ぞくそうとく所は、民百姓の悪発明わるはつめいにのみなり行を 愚なるかたに引もどす一助ともなるべし。 儞 今すこしく心を高して見るべしと、綸言りんげんべんずる所、いはれなきにあらねば、藤房 却て主上に説得ときえ られ、閉口へいこうしててうを退きぬ。 角理かくりあきらかなる君なれども、逸遊いついう日々にさかんなれば、此朝廷 治果をさまりはつべくも覚えず、折あらば再三折檻せつかんの諫を奉らんものをと 思ひくらされける。 一年ひとゝせ、雲州 塩冶判官ゑんやはんぐわんが許より 竜馬りうめなりとて 月毛つきげの馬を進奏す。 其形 くびにはとりのごとく、りように似て、四十二の攀毫はんもう 背筋に連なり、両の耳 すぐたちて 竹をそぐがごとく、さうまなこ すゞかけたるかとあやしまる。 今朝 こく 雲州富田とんだたつて、酉の刻 京ちやくす、其道 七十六里、鞍の上 せるがごとく、風邪をきつて走る故、眼 ひらきがたしと奏す。 すなはちく 左馬寮さまれうやしなはしめ、馬場殿ばゞどのみゆきなりて、此馬を叡覧あり。 本馬孫四郎重氏しげうぢめされて、曲馬きよくばちやくを乗らしむ。 乗人のりての心に応ずること 尋常よのつねならず、誠に天馬ともいふべし。 叡慮えいりょ悦ことたぐひなく、我朝わがてうに天馬の出ること ちんが世 是初なり、吉凶如何きつけういかんと御尋ある時、左右さいう皆云、是 嘉瑞かずゐくなり、しう穆王ぼくわうくの世 八疋の天馬来り、是にのつ天地てんちの間に周遊しういうすといへり、天馬は麒麟きりんたぐひなれば、是 聖明せいめいの徳のあらはるる所なりとぞ せられけり。 折しも藤房の卿 参られけるに、主上 天馬の吉凶を勅問ちよくもんある時、藤房 申されけるは、天馬の本朝ほんてうに来れる其ためしなければ、善悪はかんがへがたし、然れども此馬 吉事の用には立まじきか、かん文帝ぶんていの時 千里せんりの馬をけんず、文帝 是をうけず、帝王、吉にゆけば 日に三十里、けうに行ば五十里、鸞輿らんよ前に有り、属車しよくしやしりへに在り、われひとり千里の駿馬しゆんめ)にじようずとも、従者したがふものなくして 帝王 何国いづくにかゆかんやとのたまひけるとなり、周穆しうぼく 八駿はつしゅんして遠遊ゑんいうこのみ、明堂めいだうれいおこたりしは、周の世のおとろふるはじめなり、今、大乱たいらんの後 民費人苦たみついへひとくるしみて、天下いまだやすからざるに、人主じんしゆあやまりを正すべき執政しつせいもなく、群臣ぐんしん ことおもねつて 国のあやうきことを申さず、大内裏たいだいりつくり、馬場殿をたて、民に課役くわやくをかけ、宸襟しんきんやすめく奉りし功臣こうしんしやうじ給へども、恩賞おんしやうこうにあたらず、忠功ちうこう むなしく うらみふくむもの多し、他日たじつ天下に上慮ふりよの事あらん時、天子 此竜馬りうめして 南山北嶺なんざんほくれいさけ給ふとも、群臣ぐんしんしたがふことあたはず、只遠国ゑんごくきふつぐる時 用る所あらんのみと、是をよきついでとしていさめられければ、諸臣しよしん色をへんじ、旨酒ししゆ高会かうくわい無興ぶきようにして、主上 逆鱗げきりん気色けしきましまして、なんぢ 見浅けんあさくして天馬を上吉ふきつとす、儞かの穆王ぼくわうの八駿 ともに皆同じ馬なるや、或は其ののう 各異おのおのいあるか、何の書に是を出すことを知るや。 藤房 一時 此こと思ひいでず、たゞ云、周家しうか本紀ほんぎ 是をしるさんのみ。 主上 かしららせ給ひ、八駿各 其能異のうことなること 拾遺記しふいきに是を出せり、周穆しうぼくの八駿第一を絶地ぜつちなづく、はせるにひづめ 地をふまず、第二を翻羽ほんうと名く、行こと飛禽ひきんこえたり、第三を奔宵ほんせうと名く、夜 万里を行てまよはず、第四を超影てうえいと名く、日の足をおうて行、第五を踰輝ゆきと名く、毛の色 光明ひかり炳輝かゞやく、第六を超光と名く、かたち一ツにして 十のかげあり、第七を騰霧たうむと名く、 くもにのりてよく走る、第八を挟翼けふよくと名く、身ににくつばさあり、穆王 此八疋の馬にたがひにのりて、天地の間に行ざる所なしとかき伝ふ、今 此一馬いちば かの八駿の能を兼たりとも、われいかんぞ是を遠遊ゑんいうために用て、朝政てうせいあやまらんや、名剣めいけんといへども てきり身をころすの吉凶たがひあり、皆 其用る人の禍福善悪くわふくぜんあくるものなり、儞のせばりやうを以て天下をなみすることなかれ、むかし任城王曹彰にんじやうわうそうしやう 駿馬しゆんめを愛して愛妾あいせうかへたり、後世美談こうせいびだんとして 楽府がくふせいして是をもてはやす、おもんずるものは馬を愛すべし、いまの時 馬を愛するは 武をわすれざるの時に当れり。 藤房 つねに 主上の准后じゆんこう美色びしょくまようて、政にがいあることをにくめば、帝のことおうじて云、主上 よく愛妃あいひを馬にかふることを得るや、馬に追風千里つゐふうせんりのうあり、美女びぢよ沈魚落雁ちんぎよらくがんかたちあり、恐らくはきみ 二ツながらすつることあたはざらんことを。 帝 藤房に心病しんびやう言当いひあてられ、心に深くはぢて、此時 只博識たゞはくしきを以て是をおさんと欲し、なんぢ 沈魚落雁の四字よじの出る所を知や、藤房 まをす、沈魚落雁の字は 唐の宋之問そうしもん浣紗篇くわんしやへんに云、鳥驚とりおどろき松蘿せうらに入、魚畏うをおそれ荷花かくわしづむえいぜしより出て、美人びじん魚鳥うをとりも是にかんずるを云り。 みかど 大に笑てのたまふ、儞 知らず、沈魚落雁を美人の佳称かしようとするは もとあやまりなる事を、此詞このことば 漆園氏しつゑんし(中国・戦国時代の思想家の荘子。 漆園の吏であったという。)の語に出て、毛嬙麗姫もうしやうれいきは人のよろこぶ美人なれども、魚は人のけはひだにすれば 深くかくれ、鳥も人だに近よれば高く飛んで去る、人は愛すれども 魚鳥うおとりは其差別しやべつなきことをいへることばなり、後世こうせい てんあやまりて 美人のしようとす、儞 故事こじを引てちんうごかさんとならば、今しばらく まどの下に年をつむべし、今日 此馬場殿ばばどの遊閑いうかんの地なるゆゑ、儞がつみ問定とひさだめず、朝廷てうていにありて此過言くわげんを出さば 罪を問うとふべきことまぬかれがたしと、詞おごそかのたまひて、其日の御遊ぎよいうは扨やみぬ。 藤房卿 てい(自宅)退しりぞきたんじていふ治世ちせいあゝ、やんぬるかな、いま主上、おごりに用ゐ、べんおほふる、下官不才げくわんふさいいひ うごかすべきにあらずと、つひ自官みづからくわんじして、北山のふもとさつてかへらず。 帝 驚き思召て、父の宣房の卿にみことのりして、是を求還もとめかへさしむれども、竟に其行所を知らずなり給ふ。




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