内藤湖南
「玉石雑陳」
昭和3(1928)年、 私家版。
線装。 縦25.1cm、横14.8cm。 14葉。
内藤湖南 (本名:虎次郎、慶応2(1866)~昭和9(1934)) は、大正15(1926)年7月に京都大学を停年退職し、翌8月、京都市内からかなり離れた南郊の地・瓶原(みかのはら。 現在は、京都府加茂町瓶原)に隠棲した。 本書は、その2年後に刊行されたものである。
湖南の隠棲は、世間とのわずらわしい関係を断って、研究・著述に専念することを意図したものであったが、本書が誕生したのは、皮肉にも、世間との関係を断ち切れなかった結果だったようである。
「玉石雑陳引」の記述によれば、本書の成立経過は次のとおりである。
湖南は、それまでしばしば依頼されていた揮毫の依頼も、隠棲を機に、すべて謝絶するつもりであった。 しかし、博文堂主人と寸紅堂主人の2人(筆者には共に不明)が、最後の頼みとして100幅の書の揮毫を依頼したので、湖南は100篇の漢文・漢詩を選んで揮毫したのであった。 ところが、この2人はさらに、湖南の選定した原典を一書にまとめることを希望したので、これにも応じるハメになり、その漢文・漢詩を整理・刊行したものが本書である。
初志を翻して2人の依頼に応じたのは、停年退職と山荘への転居により、古典や自作の詩を選んで揮毫することを楽しむ気持が生じたからであろう。
100篇のうちの80篇は、中国古典のアンソロジー(名文・名詩集)ともいうべきもので、経語(四書・五経などの文)、子史語(諸子および歴史書の文)、宋賢語(宋代の優れた人物の文)、清賢語(清代の優れた人物の文)、文心雕龍史通(梁の劉勰の著「文心雕龍」と唐の劉知幾の著「史通」の文)、先唐詩(唐より前の時代の詩)、唐詩、唐後詩(唐より後の時代の詩)の8ジャンルから選ばれている。 各ジャンル10篇で、計80篇である。
残りの20篇は、湖南の「自製詩」である。
すべてが七言絶句であるのは、唐詩と唐後詩がそうであるのに、合わせたのであろう。
自作の詩を入れるのは、玉に石を混ぜるようなものであるとして、書名を「玉石雑陳」としたようである。
本書の版心には「中華書局聚珍倣宋版印」とある。
中華書局は、現在も存続している中国古典書籍を専門とする出版社である。 この当時は、宋版本の書体に倣った独自の大型活字(ここでいう聚珍倣宋版)を使った線装の古典書籍を多く出しており、「四部備要」という叢書がとくに知られている。
湖南がこの出版社に印刷を依頼したのは、倣宋の活字が気に入っていたからであろう。
湖南は、王義之を研究して独自の書風を創始したといわれ、近代の名筆と評価されている。
このとき揮毫された100幅の書は、さぞかし見事なものであろうと思われるが、これがどうなったかについても、筆者は知るところがない。
以下には、序文「玉石雑陳引」と、自製詩」20首のうちの4首のみを紹介する。
この「引」の内容は、すべて上の解説の中で利用したので、ここには訓読文のみを掲げる。
余、臨池(習字)に於て得る所無きも、頻年(毎年毎年)、来りて余の書を索むる者滋多きを以て、瓶原に卜居(転居)せしより後は、尽く之を謝せんと欲す。 博文堂主人と寸紅堂主人(筆者には共に上明)、余に謂ひて曰く、請ふ、先づ余等が為に百幅の箋を書せ、然る後に一切を謝絶するとも未だ晩からじ、と。 因りて、勉強(大いに努力する)して之に応ぜり。 書する所は、経語十条、子史語十条、宋賢語十条、清賢語十条、文心雕龍・史通十条、先唐詩十首、唐詩十首、宋後詩(本文では唐後詩)十首、計八十条にて、並に評語有り。 自製詩廿首を以て媵(添)へたるは、碔砆(玉に似た石)を玉に混ずるものにして、慙靦(恥じて赤面する)の至なり。 両主人、其の録する所の稿本を取り、刊印して冊と為し、以て当日(揮毫した日)の興会(興趣)を存せんと欲す。 因りて、亦勉強して之に応じ、名づけて玉石雑陳と曰ふ。 已に成る、乃ち其の縁起を簡端(書物のはじめ)に書すと云ふ。
戊辰(昭和3年、1928年)の春、湖南老人、恭仁山荘の漢学居に於て書す。
「自製詩」20首のうち、最後の4首(恭仁山荘四宝詩の一から四まで)は、吉川幸次郎「人間詩話」(岩波新書、昭和32(1957)年刊)で紹介されている。
ここでは、その前に置かれた4首を紹介する。
航欧舟中
石室紬書自馬班 石室の紬書(歴史の記述)は 馬班(司馬遷と班固)よりし
遡洄流別二劉間 遡洄し流別す 二劉(梁の劉勰と唐の劉知幾)の間
此生成就名山業 此の生 成就せんとす 名山の業(後世に残る著述)
不厭重洋十往還 厭はず 重洋(諸外国)に十往還するを
湖南は、大正13(1924)年7月、約半年に及ぶヨーロッパ旅行に出発したが、これはその船上での作である。 中国の歴史学の大きな流れを振りかえり、それに自らも関わって貢献しつつあることへの自負を示している。
承句がやや難解であるが、劉勰(文心雕龍)と劉知幾(史通)の「二劉」に代表される歴史評論の動きを、司馬遷と班固以来の記述的な歴史学の新たな展開と捉えているのであろう。 すなわち、各時代の歴史を通覧して評論するということが、あたかも川の流れを俯瞰するかのようなので、「遡洄し流別す」と表現したのではなかろうか。 この二劉の重視は、本書に「文心雕龍史通十条」が置かれていることにも示されているが、「支那史学史」(昭和24(1949)年刊)の「史記漢書以後の史書の発展」の章に、両者の歴史評論の意義が明確に述べられている。
恭仁山荘絶句・一
買得林園愜素襟 林園を買ひ得て 素襟(もともとの気持)を愜(満)たし
繞簷山水有清音 簷を繞る山水 清音有り
蕭然環堵無長物 蕭然たる環堵(さびしいほどの狭小な家)は 長物(余分な物)無きも
満架奇書一古琴 満架の奇書 一古琴
景勝の地に晩年を送る山荘を持つことのできた、満足感が示されている。
恭仁(くに)山荘の名は、天平12(740)年、聖武天皇によってこの地に一時的に営まれた恭仁京(くにのみやこ)に因んでいる。
この山荘には、湖南が苦心して収集した多くの貴重な書籍が運びこまれていた。 それらのうち特に「宝」と称すべきものを紹介したのが、後に置かれた「恭仁山荘四宝詩」である。
余生を楽しむための愛玩物として、さらに「一古琴」があった。 それがどのようないわれを持つものなのか、これまた筆者には不明であるが、古琴は、古来、隠者の生活を象徴する物である。
恭仁山荘絶句・二
遠水溶溶望欲無 遠水(遠くの川の流れ) 溶溶(はるかに続く)として 望 無からんとし
秋声薄檻愛蕉梧 秋声 檻に薄りて 蕉梧(芭蕉と青桐)を愛づ
眼前風景儘堪画 眼前の風景は 儘く画くに堪へ
一幅浮嵐暖翠図 一幅の 浮嵐暖翠の図
山荘の置かれた瓶原は、百人一首にある
みかの原わきて流るゝいづみ川いつみきとてか恋しかるらむ (中納言兼輔)
で知られる歌枕の地でもある。 遠くに望まれる川は、その「いづみ川」であろうか。
眺めやる人の傍らには、芭蕉や青桐などの木々があり、訪れる風が心地よい。
宛然たる一幅の画。 山水の広がりのどこかに、高みの家に憩う人物が描き込まれているはずである。
恭仁山荘絶句・三
午景明韶煙客筆 午景(昼の景色)は 明韶(明るく、のどか)にして 煙客(明末清初の画家・王時敏)の筆
晨光晻靄巨然図 晨光(朝の景色)は 晻靄(薄暗く、もやが立ちこめている)にして 巨然(五代~北宋初めの画家)の図
幽人無力購名迹 幽人(静かに暮らす人) 名迹を購ふの力無きも
有此江山聊足娯 此の江山有りて 聊か娯むに足る
前の詩にいう「浮嵐暖翠の図」のところが、より具体的に、名家の筆意になぞらえられている。
湖南は中国絵画にも造詣が深く、図版入りの「支那絵画史」の著(昭和13(1938)年刊)がある。
恭仁山荘から望まれる瓶原の風景が、昼は王煙客、朝は巨然の絵に似ているというのは、おそらく非常に適確な対比なのであろう。
終
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