らんだむ書籍館


表 紙


目 次


   新撰年表序 (藤田 彪)

   題言 (清宮 秀堅)

   皇統略図

   将軍世系

   漢土歴代伝統図

   西洋各国分立図

   和蘭小譜

   合衆国統領次第

   日曜

   輿図

   年号索引

   新撰年表 〔本文〕

   跋 (塩谷 世弘)




清宮秀堅  「新撰年表」

 安政2(1855)年刊(…推定)、 佐倉順天堂蔵版。
 木版印刷・線装。 1冊。 縦26.3cm、横18.1cm。 本文56葉。



 書名のとおりの年表で、1年を縦1行として、古代からの歴史上の事件が簡潔に記載されている。
 特徴は、各頁が縦に「皇国」・「漢土」・「西洋」の3段に分かたれ、それぞれの記事が同時対照されていることである。
 後掲・塩谷宕蔭の跋文では、「西洋」を加えたのは本書が最初であるとしているが、藤田東湖の序文では、水戸藩の学者・豊田天功の著書に ほぼ同じ構成のものがあるという。 いずれにしても、西洋に関する知識がかなり豊富に盛り込まれていて、当時の人々の世界観の広がりを示す書物である。
 ただし、1年1行では 具体的事件のきわめて簡潔な記述(の羅列)とならざるを得ず、歴史の大きな動きを見い出すことはもちろん、それら個々の事件の意味を理解することも困難であろう。 また、重大事件が輻輳した時期では、その選択が問題となるはずで、細かに見れば 実用上の不都合が存在することは 確かである。

 本書の著者・清宮秀堅ひでかた(字は子栗、1809~1879)は、幕末・明治初期の考証学者。
 下総・佐原村の人で、天保13(1842)年に佐原村を知行していた旗本・津田氏に出仕、以後20年余りにわたってその財政を管理して実績を挙げ、苗字・帯刀を許され、士席に列したという。 明治維新後は、印旛県、新治県などに出仕したようである。 その間、多方面の研究を行ない、「下総国旧事考」「北総詩誌」「三郡小誌」「古学小伝」「雲烟略伝」「日本外史箚記」など多数の書を著した。
 このように秀堅は、実務の傍ら学問に携わった市民学者で、それだけに自由な立場で各方面の研究を展開できたものと思われる。
 本書「新撰年表」は、上記の諸書と並行して長年月をかけて著述されたものと考えられ、嘉永7(1854)年6月(…同年11月に安政と改元)に完成した。 秀堅の代表作というべきものであろう。

 右に掲げた本書の扉には、著者名はなくて、校閲者の箕作逢谷の名が表示されている。 ふつう箕作阮甫みつくり げんぽとして知られている蘭学者(1799~1863)で、逢谷はその別号である。  本書刊行当時(安政2(1855)年)は、幕府天文方の蕃書和解御用掛に出仕していたが、翌安政3年に御用掛が蕃書調所に改称・拡充されるや、その教授となった。
 この前後には、嘉永6(1853)年に長崎に来航したロシア使節・プチャーチンへの応接、同7(1854)年に再度来航(神奈川沖)した米国使節・ペリーとの和親条約締結、安政5(1858)年における5ヶ国(米・蘭・露・英・仏)との修好通商条約の締結、などに参画している。
 清宮秀堅がこの箕作阮甫から直接教えを受けたことはないと考えられ、誰か知人を介して本書の校閲を依頼したものであろう。 校閲といっても名目的なもので、単に目を通してもらっただけのことのように思われるが、「西洋」の部分の記述について何らかの教示を得たかもしれない。

 書名の左側には「佐倉順天堂蔵版」とあるが、佐倉順天堂は、下総の佐倉藩主・堀田正睦に招かれた蘭方医・佐藤泰然(1804~1872)が、天保14(1839)年に開設した医学塾である。
 当時の代表的な蘭学塾として、しばしば大阪にあった緒方洪庵の適塾と対比されるが、適塾が蘭書の読解を主にしていて福沢諭吉のような医学志望でない塾生を抱えていたのに対し、佐倉順天堂は実践的な医療技術の教授に特化しており、適塾よりはむしろ、幕府が長崎に開設していた精得館と対峙する本格的な西洋医学校であった。
 このような学塾から本書が刊行されたのはやや意外な感もするが、ここに学ぶ塾生達にとっても有益な参考書として認められたからであろうか。

 本書には序文と跋文があり、それぞれの筆者がまた、当代一流の学者である。
 序文の筆者は、水戸藩の儒者にして勤皇思想家、いわゆる水戸学の代表的学者である藤田東湖(名はひゅう。1806~1855)である。 東湖は、藩主・徳川斉昭のもとで藩政改革を推進したが、一時失脚して幽閉、謹慎の処分を受けた。 この文は、既にその処分が解除され、再び藩政に携わっていた時の執筆であるが、この半年後には安政大地震で藩邸内で圧死しているので、最後の年の文ということになる。
 跋文の筆者は、塩谷宕蔭しおのや とういん(名は世弘せいこう。1809~1867)である。 当時は浜松藩の儒者であったが、この8年後の文久2(1863)年には昌平黌の教授に選任されており、江戸儒学の掉尾を飾る学者である。

 本書の全体構成は右の目次に示すとおりで、藤田東湖の序文に続く巻首部分には、まず著者・清宮秀堅の「題言」があって、編集方針が詳細に述べられている。  その後には、「皇統略図」、「将軍世系」、「輿図」(世界地図)などの参考資料が付載されているが、いずれも入念に整理されたうえ、表示の工夫が加えられたもので、学識とプレゼンテーション能力を兼ね備えていた秀堅のセンスを感じることができる。

 本書にはさらに、大きな特色がある。
 木版の彫刻が極めて精密で、美しいことである。
 左に拡大して掲げた年表本文 (年表第1頁、「漢土」の記事の一部分) の文字は、縦:約3mm、横:約4mmで、ほぼパソコンの標準フォントサイズ(10.5ポイント)に相当するのだが、木版であることを全く感じさせない精密さである。
 特に、「大禹」に対する注釈(赤線部。右から左に)「姒姓」の2字は、それぞれ2mm角位で、しかも右側の「姒」字の女の横線が左側の「姓」字の生の横線の間に入り込んでいる。 これらの横線は、髪の毛よりも細いように思われる。 入神の技というほかない。
 彫刻師にとっても、もちろん自信作だったことであろう。 本書の巻末には、「彫刻 江川仙太郎」と、その名が記されている。
 この江川仙太郎は、葛飾北斎に信頼されていた彫刻師・江川留吉の弟子で、やはり浮世絵の彫刻を多く手がけ、名工とされた人であるらしい。 本書を担当したのは、このような凝縮した記事を扱うことで、文字彫刻の限界に挑戦する意味があったのではなかろうか。


 このようにみてくると、本書は、箕作阮甫、佐藤泰然、藤田東湖、塩谷宕蔭という当時の代表的な知識人達から価値を認められ、彼らの支援のもとに世に出たわけであり、しかも、名彫刻師・江川仙太郎の精密な技を利用することができた。 この時期の文化状況を実によく反映した刊行物であるといえよう。
 また、著者・清宮秀堅も、そのすぐれた資質にはもちろん大いに称揚すべきものがあるが、同時に人脈に恵まれた、幸運な人であったとみることができる。


 以下には、藤田東湖の序、塩谷宕蔭の跋、参考資料中の「輿図」(世界地図)、および 年表(本文)の一部を示すこととする。





藤田東湖の序






 神代、バク(はるかに遠い)たり。 敢てたやすく述べず。 橿原に都をさだめしは、今をへだつること実に二千五百十有五年。 皇統綿綿として、窮極有るし。 嗚呼、盛んなるかな。 漢土は、人文つとに開けしも、運祚(天子の位)しばしばうつり、年を卜すること甚だ永からず。 洋夷は、各国の興亡一ならず、一千八百余年を自称すといへども、唯其の教祖始生の年紀に依るのみ。 に神皇相承け、万世不易の域と年を同じうして語るけんや。
 下総の清宮子栗「新撰年表」を著すに、カクして三欄と為し、上に神州(神国たる日本)を掲げ、中に漢土をしるし、下に洋夷を列す。 ここに於て、異邦の興廃・存亡、歴歴として検すく、然る後、皇朝の宇内に冠絶する所以も一目瞭然、た言を待たざるなり。
 そもそも蟹文(横文字)の夷は、往往富強にして、火技(火薬を使う兵器の技術)・艦製(造船技術)いよいよ新にして、愈奇なり。 其の禍心(悪いたくらみ)を包蔵するは、ただに封豕長蛇(豚のように貪欲で蛇のように残忍)ならず(どころではない)。 治に乱を忘れずとはいにしへの善教にして、文ををさめ武をふるふは実に今の急務なり。 上に在る君子、なんぞ此を見る有りて、拮据綢繆(しっかりと備えをする)せざる。 一にて足らざれば、則ち此の書のごとく、亦必ずかんがふる所在り。 我が藩の豊田天功(1805~1864、東湖と並称された水戸学者)、嘗て「靖海全書」を著し、附するに観世年表を以てす。 体裁はの書と大同小異なるも、未だ精麤詳略(詳細なのか、簡略なのか)の如何を知らず。 しばらく書し、以て他日の参考をつと云ふ。 (「靖海全書」は刊行に至らぬままほとんど散逸し、付篇の「観世年表」も現存しないようである。)

 安政乙卯(安政2年、1855年) 春分前一日 水戸・藤田彪 撰す。



塩谷宕蔭の跋






 史の年をあきら(明)むるは、なほ天の度をしるすがごときか。 周天百七万一千里、其の茫茫たるに任す。 何ぞ以て之を測らん。 智者思ひをいたして度を紀す。 数は乃ち歩す可し。 一元十二万九千六百年、終りてまた始り、窮極有るし。 中間の各国に王有り。 王、其の事を異にす。 其の要をかかげるにあらざれば、何を以てかこれを一目にあきらめん。 故に、年を表し、以て考索に便にするは、智者の次なり。
 我が年表の附すに漢暦を以てするは、世に其の書多し。 更に西洋を附すは、けだし此の書り始る。 試みに問ふ、世の之をる者、将に如何にんとするやと。 たとへば、不亀手方(ひび・あかぎれ予防薬の処方)の如きか。 すくなく之を用ゐれば、則ちわたおぎなふに過ぎず。 大いに之を用ゐれば、則ち三軍をすく(ひび・あかぎれの予防薬を用いて水軍による戦いに勝利したという「荘子・逊遥遊」中の故事)に足る。 或は大、或は小、ただ其の人の用ゐる所に在るのみ。
 嘉永甲寅(嘉永7年、1854年) 暑月(夏) 塩谷世弘、鵶林巷(烏森。現在のJR・新橋駅付近)の九里香園においあとがきす。




「輿図」(世界地図)




 これに対する説明は 次のとおりで、既に世界地図もかなり出回っており、人々の目にふれることも多かったようである。 (ただし、基づくところが西欧製であるところから、西欧が図の中心で、日本は右端になっている。)
 近日 輿図 日に精、月に詳。 然れども、或は精詳に過て 却て 大体を見るに迷ふに至る。 今 つとめて大綱を挙げて、読史者 指南の一助とす。





年表本文の一部 (その1)




 本文第1葉(前半)を、そのまま下に掲げる。
 「皇国」「漢土」「西洋」の各段とも、神話・伝説の記述で始まっている。
 この部分では、当然のことながら、各段での年代の対応はない。
 なお、上掲 彫刻の精密さの説明で拡大図示したのは、 部分である。





年表本文の一部 (その2)




 本文第3葉(後半)。
 1段目(皇国)、[甲寅]の「神武帝、中国のたひらかなるに居りて万機ををさめんと欲し、日向を発す。」の記事のところから、1行1年となって連続し、各段が対応している。
 なお、その6行ほど後の[庚申]、[辛酉]の記事がかすれて薄くなっているのは、精密な彫刻に摺りの技術が対応していない(墨が少なすぎる)ためである。 それぞれの記事は、次のとおり。
 [庚申] 「ひめ蹈鞴五十鈴たたらいすずを立て、皇后と為す。
 [辛酉] 「神武天皇、橿原宮かしはらのみやおいて即位す。 名は若御毛沼命わかみけぬのみこと
 2段目(漢土)の記事中への朱筆書き込みは、本書の旧蔵者・富士川游(後記)によるものと考えられる。
 3段目(西洋)の記事が無いのは、(著者が)年単位に表現できるような この時期の知識を欠いているからであろう。 これは当然のことで、同様の空白は随所に見られる。





年表本文の一部 (その3)




 本文第45葉(後半)。 最終頁である。
 1段目(皇国)が さらに2段に分れており、下の小段の方には幕府に関係した事項が記されている。 最後の[癸丑|嘉永六]の記事は、12代将軍将軍・家慶の死去と13代・家定の就任であるが、家定の就任(家定公を征夷将軍と為す)の方は朝廷の任命であるから、上段に置かれている。 (このような「皇国」の部分の2段構成は、文治2(1186)年の「源頼朝を惣追捕使と為す」の記事から始まっている。)
 嘉永2年の「春、小金原に猟す」は、遊興の記事のようにみえるが、猟(狩)は武家社会の共同性維持のための 重要な伝統行事であった。 大規模な準備が必要で、諸条件が整わないと開催できないので、徳川将軍による狩は 江戸時代を通じて4回(享保10年、同11年、寛政7年、嘉永2年)しか開催されていない。 この年表には、そのうち 享保10年を除く3回の狩が記載されている。 享保10年が記載されなかったのは、2年続きだったことと、同年の「白石卒」すなわち新井白石の死の方が重視されたためであろう。
 3段目(西洋)の最後の記事は、[五三](1853年)の「仏国ナポレヲン三世、帝を称す。 英将エルリングトン死す。」であるが、これらが当時の最新情報であろう。






「富士川家蔵本」の印。




本書の旧蔵者




 この「新撰年表」は、医学史学者・富士川ゆう(1865~1940)の旧蔵である。

 富士川游は、「日本医学史」(明治37(1904)年刊)および「日本疾病史」(明治40(1907)年刊)の大著で知られるが、これらの著述のために収集した医学書4,700点(9,017冊)は、生前、京都大学に寄贈された。
 それは今日、京都大学付属図書館の「富士川文庫」として研究者の利用に供されているが、日本古来の医学書がほとんど網羅され、貴重書が多いようである。
 また、この4,700点のうちかなりの部分は 順次電子化され、同図書館のWebページ「京都大学電子図書館」で画像が公開されているが、いずれの書にも本書の巻頭にあるもの(右に示す)と同じ「富士川家蔵本」の印が捺されている。

 思うに、本書「新撰年表」は、医学書ではなく一般参考書であったため、寄贈対象とならずに家に残され、富士川の死後、流出したのであろう。
 本文中にところどころ、朱筆による線引きや簡単な書き込みがあり、この碩学によってかなり利用されていたことがわかる。




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