らんだむ書籍館 |
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表紙 (こげ茶色の模様は、前の持主が不注意 で付けたと思われる油のシミで、本来は 全体が地のクリーム色のはずである。) |
目 次
昆虫の音楽者 草ひばり 餓鬼 蝉 とんぼ 蛍 蝶 蟻 安芸之助の夢 編者解説 (田部隆次) |
クサヒバリは ― アサスズとも、ヤブスズとも、アキカゼとも、コスズムシとも言はれるが ― 昼間歌ふ虫である。 非常に小さな虫で、 ― ヤマトスズを除いて、こ れが虫の合唱者中最も小さなものであらう。と説明されていた。 本篇では、
自分の身体よりも遥か長い、そして日に透かして見なければ見分けられぬ程に細い、一対の触覚をそなへた尋常の蚊の大いさ位の蟋蟀を想つて見給へ。 クサヒバリといふのが彼の日本の名である。と記されている。 蟋蟀(という訳語)は鳴く虫の総称であるから、ここでは別名の列挙などをせず、印象的な特徴だけを説明しているわけである。
… 日が暮れるといつも、彼の無限小な霊が目覚める。 すると、言ふに言はれぬ美はしい微妙な霊的な音楽で ― 非常に小さな電鈴の音のやうな、微かな微かな白銀のやうなリリリリンと震ふ声音で ― 部屋が一杯になり始める。 暗黒の深くなるにつれて、其の音は層一層美はしくなり ― 時には家中がその仙楽に振動するかと思へるまで高まり ― 時には想ひも及ばぬこの上もなく微かな糸の如き声音に細まる。 …(この記述は、「昆虫の音楽者」での「昼間歌ふ虫である」という説明に合致しないが、文献ないし人から得た知識が自らの観察結果と違っていた、ということであろう。)
… 実際、私は再び人間となつて再生する事をこの上もない恩沢とばかり考へる事ができない。 もしかう考へてかう書く事が来世の因縁をつくるものならそれなら私の望みはかうである ― 私は杉の樹に上つて日のあたる所で極めて小さいシムバルを震動させたり ― 或は紫水晶と黄金の色の翼を音もさせずに飛ばせて、蓮池の貴く静かなあたりを往来したりする蝉か蜻蛉の生涯にせめて生れ変りたい。
出来ればこの自分の随筆の前書きに何か昔の日本文学からとつたものを ― 感情的な或は哲理的な物を 置きたかつたのである。 が、此の題目に就いて自分の日本の友人達が見つけることの出来たものは ― あまり価値の無い僅かの詩を除いて ― 凡て支那のものであつた。この記述に、八雲が作品を制作するのに採用していた、うまいやり方が示されている。 つまり、執筆意図を呈示して、「日本の友人達」にその材料を集めてもらうわけである。 この「蟻」ではうまくいかなかったが、先の「蝉」ではこのやり方が成功して、友人(達?)は「和漢三才図会」から「蝉の五徳」を見つけ出し、八雲の脳中にあったギリシヤの詩人の思想に合致させることができた。 「和漢三才図会」など、八雲には思いもよらない書物であったろう。 (これを見出したのは、他ならぬ大谷正信ではないだろうか。) また、この方法は、八雲の作品の多くについて用いられたことであろう。
本文の一部紹介 : 解 説 |
小泉八雲の昆虫愛はその趣味でもあり、又その哲学でもあつた。 もとより昆虫ばかりでなく、猫、小鳥等の小動物から昆虫に及んで更に植物に至る一切の生物に及んでゐるのである。 これは彼の生れつきの素質に加へてスペンサーの哲学や仏教の感化によつて一層強化されたのである。 普通の虫類でヘルンの愛しないものはなかつた。 蝿や蚊は払ふだけで殺した事のないのは東京時代ばかりではなくニユ・オルリアンス時代からであつた。 その頃のニユ・オルリアンスは今日のやうに衛生の設備もよくなく、細かい金網の窓をつける事も行はれない頃であつた。 しかも戸や窓を開いて置かねばならぬ程暑いニユ・オルリアンスでは蝿も蚊も多かつた。 ことに蝿は非常に多かつた。 しかし彼はたゞそつと払ふだけであつた。 蟻に対しても同じであつた。 食卓の脚から上つてヘルンの砂糖壷に達したものだけはそつと取つて床の上に置いた。 自分の都合や便利のために他の生物を苛めるのは不正である。 蝿も蚊も皆同じやうに生存の権利があると彼は考へたのであつた。 たしかにこの考は彼の仏教の研究から来たのであつた。 下宿の主婦コートネー夫人の食堂で食事の後、何時間となく手に頭をのせたまゝ俯してゐる事があつた。 コートネー夫人は心配して側へ行つて見ると彼は一所懸命に蟻の行列を珍しさうに見てゐた。 「御覧なさい。 蟻は私共人間よりも高等動物です。 互に喧嘩したり、欺き合つたり、悪口を云つたりしません。 人間が蟻のやうに利己主義を忘れて公共のために働いたらもつとよい世の中になるのですが」 と云つた。 それから娘のエラを相手にこんな小動物や虫の話をした。
東京でも同じであつた。 庭で蟻の穴を見れば必ず土の上に坐して令息達を集めて蟻の出入を見ながら説教した。 夫人は新聞紙を携へて来て土の上に敷いた。 かくして家族一同時として数時間そのまゝ見つめる事もあつた。 或る時枯葉のやうな奇怪な形の虫を発見して動物学の書物をさがして名を求めたが分らなかつた。 そこで自ら 「アマノジャク」 と命名して書斎の楓樹にとめて毎日のぞきに行つた。 蛙も好きであつた。 青蛙でも書斎のガラス戸にとまれば大騒ぎして、夫人の如何に忙しい時でも呼んで、これを見よと云つた。 蜘蛛の網を張る毎に、珍らしさうに必ず終りまで佇立して見てゐた。
人の飼ふ虫たとへば鈴虫、きりぎりす、松虫、えんまこほろぎ、くつわ虫、かねたゝき、かんたん、かじか、馬追、きんひばり、くろひばり、くさひばり、凡て彼の愛養しないものはなかつた。 彼の手廻りにある物には悉く昆虫の模様があつた。 茶器コーヒー器には虫の模様があつた。 久しい間外国へ出す封筒も日本風の細長い物を使つたが、それには蜘蛛の巣の模様があつた。 百本に近い長短のきせるの大部分は虫。 ペン皿、文鎮等の模様も虫。 根つけ類もあつたが、悉く虫に関する物であつた。 彼の著書殊に晩年の物に虫に関する篇の多い事に驚く人は先づ、彼が虫を深く愛した事と、その理由とを理解し置く事が必要である。 著書ばかりでなく東大に於ける講義にも虫に関する物がある。 「虫に関する古ギリシヤの詩」 「虫に関する英詩」 「虫に関するフランスの詩」 等である。 彼はこれ等の講義に於て 「虫を愛するギリシヤ人は、日本人に似て居る。 ローマ人は円戯場を作つて人間と猛獣とを格闘せしめた程に性質残忍だから、虫を愛するやうな優美なところがない。 キリスト教では魂を有する物は人間ばかり、其の他動物の生存は一切人類のためと教へる程だから虫の如き微小な物は顧みられない。 英国の詩人は鳥について歌つてゐるが、虫については殆んど歌つてゐない。 虫類を真に愛する人種は日本人と古代のギリシヤ人だけである。 古代のギリシヤ人も蝶を人の霊魂の離れた物と考へた」 といふ趣意を述べてゐる。 『草ひばり』 の一節に 「生命の大海ではこの一微細の小虫にうちに動いてゐる魂も自分の魂も同じ」 である事を述べたところに、彼の大同情が現はれてゐる。 『餓鬼』 のうちにも彼は来世は再び人間と生れてくるよりも寧ろ蝉かトンボとなつて再生したいと述べてゐる。 一切の生物も人類のために造られたのではなく、程度は違ふが人類と同じく進化の階段にあると見る進化論と仏教の輪廻の説とは同じやうに彼を動かしたのであつた。
かういふ考の小泉八雲が来朝して始めて縁日で虫や虫籠を見たときの驚きと喜びは想像に余るのである。 日本は昆虫の多い国である。 彼の祖国である英国には昆虫の種類も少く、数も少い。 蝉などは全くゐない。 米国では一般の人は昆虫などには無関心である。 首府ワシントンの街路樹の間にも、ハドソン河に近いニューヨークの町にも蛍が無数に飛んでゐるが、往来の人は子供でさへ見向きもしない。 日本人の鳴く虫を愛養してゐることを発見してひどく感心したが、蛍狩りは先づよいとして、トンボつり、蝉とりなどのもち竿を携へての悪童の小動物虐待ぶりはさすがに彼は喜ばなかつた。
小泉八雲の昆虫に関するものを九篇こゝに収めた。 編者の訳したもの二篇、残りの七篇は故大谷正信(繞石)君の訳にかゝるもの。 故大谷君は松江の人、明治三十二年東大英文科を出て、四高・広島高校等に歴任した人であつた。 松江中学と東大に於て小泉八雲先生の教を受けた。 相当長期に亙つて小泉先生の助手をしてゐた。 これ等の論文のうち、大谷君が材料を提供したものも少なくない。 たゞこれ等の翻訳は約二十年前のものであるために、文学用語などを改むべきものが多い。 編者はそのために大谷君の訳文にも敢て手を加へたことを一言詫びておく。
昭和二十三年五月 田部 隆次
終