らんだむ書籍館


表紙
(こげ茶色の模様は、前の持主が不注意
で付けたと思われる油のシミで、本来は
全体が地のクリーム色のはずである。)


目 次


  昆虫の音楽者

  草ひばり

  餓鬼

  蝉

  とんぼ

  蛍

  蝶

  蟻

  安芸之助の夢


   編者解説 (田部隆次)


文芸春秋選書
小泉八雲 「草ひばり」


 昭和23 (1948) 年 9月 発行、 文芸春秋新社。 B6版。 本文 229頁。



 小泉八雲 (Lafcadio Hearn, 1850〜1904年) の 作品集 ( 「異国情趣と回顧」 「骨董」 「怪談」 など ) から、昆虫に関する作品9篇を集めて、再構成した書である。
 編者の田部隆次 (明治8(1875)年〜昭和32(1957)年) は、英文学者で小泉八雲の研究者。 八雲の多くの作品の翻訳のほか、伝記「小泉八雲」や「小泉八雲研究」などの著書がある。
 訳文は、「餓鬼」と「安芸之助の夢」の2作品が田部のものであるほかは、大谷正信(号:繞石、明治9(1876)年〜昭和8(1933)年)のものが使われている。 大谷については、後掲の編者・田部による「解説」 の末尾に、簡単な紹介がある。

 「昆虫の音楽者」は、日本における「鳴く虫」について、欧米の読者に紹介している。 より明確にいうなら、日本人が昔から虫の音を音楽を聴くように楽しんできたことを、紹介している。 … 八雲は、実にいろいろな例を挙げて詳細・具体的にそのことを説明しているので、我々日本人は、逆に、我々のように虫の音を聴いて楽しむ人種が欧米には存在しないことを、知らされるのである。
 文は、社寺の縁日の情景 ― 外国人にとって不思議で、魅力的な情景の描写に始まるが、その中でも特に不思議な虫売りの小屋に焦点を移し、「虫が発する音色のために、虫それ自体が尊重されて居る」 ことが強調される。
 次いで、古典の引用によって、日本では古くから虫を飼育する習慣のあったことが語られ、さらに近世には虫の売買が行なわれるようになった話へと展開する。
 虫の商売の話は、なかなか詳細なもので、その起源、採集販売から飼育販売への発展、流通の仕組み、値段、飼育上の工夫、などに及んでいる。 八雲は、「祖先伝来の虫商売を今も営んで居る」 店の一人から、これらの話の材料を得た、と述べている。
 飼育や商売の話が一段落したあとは、虫の種類ごとの特徴 ― とくに音色、の説明になる。 取り上げられている虫は、次の11種類である。 松虫、鈴虫、ハタオリムシ、馬追、キリギリス、クサヒバリ、キンヒバリ、クロヒバリ、コホロギ、クツワムシ、カンタン。
 これらの虫ごとの説明には繁簡があり、半数位に引用されている和歌の、引用数による差が大きい。 また、これらの説明には、厳密に言えば問題のあるものがあるだろう。 虫の名は古来一定したものでなく、別の虫の名前に変化している場合があるからである。
 個々の虫を紹介した後は、「一般に夜の虫の声に就いて」 の和歌を引用し、虫および虫の音に対する日本人の微妙な感情( … 仏教の輪廻に関連した)を説明して、終っている。

 「草ひばり」は、八雲の家で起こった、ある出来事を記している。
 まず、題名となっている「草ひばり」について。 上掲の「昆虫の音楽者」では、
 クサヒバリは ― アサスズとも、ヤブスズとも、アキカゼとも、コスズムシとも言はれるが ― 昼間歌ふ虫である。 非常に小さな虫で、 ― ヤマトスズを除いて、こ れが虫の合唱者中最も小さなものであらう。
と説明されていた。 本篇では、
 自分の身体よりも遥か長い、そして日に透かして見なければ見分けられぬ程に細い、一対の触覚をそなへた尋常の蚊の大いさ位の蟋蟀を想つて見給へ。 クサヒバリといふのが彼の日本の名である。
と記されている。 蟋蟀(という訳語)は鳴く虫の総称であるから、ここでは別名の列挙などをせず、印象的な特徴だけを説明しているわけである。
 この虫を、八雲は飼育していて、その美しい音色が非常に気に入っていた。
 … 日が暮れるといつも、彼の無限小な霊が目覚める。 すると、言ふに言はれぬ美はしい微妙な霊的な音楽で ― 非常に小さな電鈴の音のやうな、微かな微かな白銀のやうなリリリリンと震ふ声音で ― 部屋が一杯になり始める。 暗黒の深くなるにつれて、其の音は層一層美はしくなり ― 時には家中がその仙楽に振動するかと思へるまで高まり ― 時には想ひも及ばぬこの上もなく微かな糸の如き声音に細まる。 …
 (この記述は、「昆虫の音楽者」での「昼間歌ふ虫である」という説明に合致しないが、文献ないし人から得た知識が自らの観察結果と違っていた、ということであろう。)
 このように愛していた虫が、ある日突然死んでしまった。 八雲の家に同居し、ふだん実際に虫の世話をしていた学生が帰省し、その後を任された女中が給餌を怠ったためであった。
 この虫は、死ぬ前の晩にはひときわ高く歌っており、しかも死んだ時、自分の脚を噛んでいたので、その死は八雲の心を激しくゆさぶった。 彼は、しいて心を落ち着かせて 「 …神よ、我等凡てを ― 殊に女中のハナを ― 赦し給はん事を」 と記しているが、その落胆は長く尾をひいたことであろう。
 八雲の虫への愛着が、強く感じられる。

 「餓鬼」は、最も思想性の高い文章である。
 それは、「ミリンダ王問経」中の一節の引用から始まっている。 夜叉の存在に関するミリンダ王の問いに対する、名僧・ナガセナの答えは、夜叉の死後の姿が甲虫・蟻・蛇などになっている、というものであった。
 そのあとの文章は、まずは自らの思索の内容を述べている。 地上の生物はみな、光や風などへの感覚を共有している。 生物はすべて、自分の兄弟姉妹といえるのではないか。 また、光や風には始めもないし終りもないが、生物の生存状態も無限に続くものであるから、全ては一体のものではないか。
 この思索を仏教の輪廻の教義に接近させたとき、やや違和感を覚えたようである。 それは、現世の行為によって来世に存在する姿が決定されるということが、十分に納得できないから。 また、上記のミリンダ王問経に挙げられたような、不快な虫達に対する偏見もありそうだから。
 しかし、このような違和感は、来世では生まれ変わるという真理を、受け入れ難くさせるほどのものではない。
 … 実際、私は再び人間となつて再生する事をこの上もない恩沢とばかり考へる事ができない。 もしかう考へてかう書く事が来世の因縁をつくるものならそれなら私の望みはかうである ― 私は杉の樹に上つて日のあたる所で極めて小さいシムバルを震動させたり ― 或は紫水晶と黄金の色の翼を音もさせずに飛ばせて、蓮池の貴く静かなあたりを往来したりする蝉か蜻蛉の生涯にせめて生れ変りたい。

 「蝉」では、日本の蝉8種類ほどの鳴き声を主にした特徴と、日本の詩歌における蝉の取り扱いなどが述べられている。
 この篇は、導入部分が実に気の利いた内容になっている。 中国晋代の詩人・陸雲(AD.263〜303)の「蝉の五徳」と、ギリシヤの叙情詩人・アナクレオン(BC.563〜478)が蝉に語りかけた詩とを対比させ、蝉を清らかな生き物として見る意識が両者に共通しているとするのである。 ただ、八雲は日本人の意識と古代ギリシヤ人の意識の共通性を言いたいので、陸雲は日本人によく知られ、親しまれている存在として扱っている。 篇末の訳注によれば、「蝉の五徳」は「和漢三才図絵」の記載を材料にしたのであるという。

 「とんぼ」では、日本の古名「アキツシマ」が「トンボの島」の意味であるとおり、日本はトンボ(蜻蛉)の楽園であるとして、その豊富な種類の説明と、例によって詩歌の紹介が行われている。
 種類としては、通俗的名称によって32種類が列挙され、それぞれの特徴が説明されており、これらを総括した霊的(仏教的)な見方が補足説明されている。
 詩歌の方は、絵画詩、蜻蛉と日光、蜻蛉の軽さ、蜻蛉と蜘蛛、などのテーマ別に整理・引用されている。
 最後に、「幾百年の間、日本の児童の好きな娯楽となつて居る」トンボ捕りについてふれ、捕獲方法のいくつかが紹介されている。

 「蛍」は、蛍の発光機構などに関する科学的説明(欧米に知られた生物学者・渡瀬庄三郎の説明を利用)に始まり、蛍の語源、蛍の種類(源氏蛍と平家蛍)、蛍の名所、蛍売り、蛍を使った薬、蛍狩り、蛍に因む伝説、詩歌と、万遍なく話題が網羅されている。
 蛍が身近な存在ではなくなった今、こうした話題は我々にとっても非常に懐かしいものである。

 「蝶」は、主に蝶に関する伝説を紹介しているが、雑然としていて、まとまりが悪い。
 初めの方には中国の話が多く、「胡蝶に関する日本文学の大半は、僅かの詩歌を除いて、支那起源のものであるらしい」という断わりが入っている。
 それから、日本文学の特徴を表わしたものとしての、俳句の列挙と、「虫諌め」という古書の紹介がある。 後者は、蝶への呼びかけを通して、社会生活での教訓を示したものである。
 最後に置かれた、高浜という人物の「浪漫的な恋」の話が、やや興味をそそる。 死人の魂が蝶に化して昔の恋人を誘う、という八雲好みの話であるが、八雲自身がその関係者から聞いた比較的新しい話のようである。

 「蟻」も、各種の書物から抽出された記事で構成されていて、そのうち特に、生態的特徴である集団生活に関して、人間の社会と対比させた感想が加えられている。
 この篇の初めの方に、八雲が次のように記しているのが注目される。
 出来ればこの自分の随筆の前書きに何か昔の日本文学からとつたものを ― 感情的な或は哲理的な物を 置きたかつたのである。 が、此の題目に就いて自分の日本の友人達が見つけることの出来たものは ― あまり価値の無い僅かの詩を除いて ― 凡て支那のものであつた。
 この記述に、八雲が作品を制作するのに採用していた、うまいやり方が示されている。 つまり、執筆意図を呈示して、「日本の友人達」にその材料を集めてもらうわけである。 この「蟻」ではうまくいかなかったが、先の「蝉」ではこのやり方が成功して、友人(達?)は「和漢三才図会」から「蝉の五徳」を見つけ出し、八雲の脳中にあったギリシヤの詩人の思想に合致させることができた。 「和漢三才図会」など、八雲には思いもよらない書物であったろう。 (これを見出したのは、他ならぬ大谷正信ではないだろうか。) また、この方法は、八雲の作品の多くについて用いられたことであろう。

 「安芸之助の夢」は、上記の各篇と異なり、一つの物語である。
 自宅の庭で二人の友人と酒を飲んでいた安芸之助は、急に眠気を催して樹陰に横になった。 すると、美々しい行列が彼を迎えに来て、「常世の国」の宮殿に連れて行った。 その国王から要請されて姫の花婿となり、盛大な婚礼の後、都から離れた島の知事として赴任した。 島はよく治まり、姫との間に幸福な結婚生活が続いて7人もの子が生れたが、姫は病気で亡くなってしまった。 安芸之助は帰国することとなり、舟で海に乗り出したとたん、眠りから覚めた。
 安芸之助が眠っている間、二人の友人は、安芸之助の周りを飛んでいた蝶が樹の根元から出てきた蟻に穴の中に引きずり込まれるのを見た。 そこで、そこを掘ってみると、藁や粘土でできた、都会に似た大きな建造物があり、少し離れた所には姫の墓とおぼしき丘があり、中に雌蟻の屍骸があった。 …
 この作品が本書に収められたのは、先行する篇での、蟻の集団生活の話や蝶によって魂の働きが暗示される話に、関係あるものとみなされたためであろう。
 篇末の注記に、「支那小説の翻案と思はれるが出所不明」とある。 既に明らかにされていることであろうが、原典は唐の李公佐の伝奇小説「南柯大守伝」(いわゆる「南柯の夢」)である。 ただし、この原典には、蝶による暗示の記述はない。



 今回の「一部紹介」には、編者・田部隆次による「解説」を掲げる。
 小泉八雲の、虫との関わり(虫への親しみ・愛)を丁寧に説明することで、それが彼の思想の核心につながる性質のものであることを明らかにしており、その「虫」を主題にして編集された本書の意義を浮かび上がらせている。



本文の一部紹介 :  解 説


 小泉八雲の昆虫愛はその趣味でもあり、又その哲学でもあつた。 もとより昆虫ばかりでなく、猫、小鳥等の小動物から昆虫に及んで更に植物に至る一切の生物に及んでゐるのである。 これは彼の生れつきの素質に加へてスペンサーの哲学や仏教の感化によつて一層強化されたのである。 普通の虫類でヘルンの愛しないものはなかつた。 蝿や蚊は払ふだけで殺した事のないのは東京時代ばかりではなくニユ・オルリアンス時代からであつた。 その頃のニユ・オルリアンスは今日のやうに衛生の設備もよくなく、細かい金網の窓をつける事も行はれない頃であつた。 しかも戸や窓を開いて置かねばならぬ程暑いニユ・オルリアンスでは蝿も蚊も多かつた。 ことに蝿は非常に多かつた。 しかし彼はたゞそつと払ふだけであつた。 蟻に対しても同じであつた。 食卓の脚から上つてヘルンの砂糖壷に達したものだけはそつと取つて床の上に置いた。 自分の都合や便利のために他の生物を苛めるのは不正である。 蝿も蚊も皆同じやうに生存の権利があると彼は考へたのであつた。 たしかにこの考は彼の仏教の研究から来たのであつた。 下宿の主婦コートネー夫人の食堂で食事の後、何時間となく手に頭をのせたまゝ俯してゐる事があつた。 コートネー夫人は心配して側へ行つて見ると彼は一所懸命に蟻の行列を珍しさうに見てゐた。 「御覧なさい。 蟻は私共人間よりも高等動物です。 互に喧嘩したり、欺き合つたり、悪口を云つたりしません。 人間が蟻のやうに利己主義を忘れて公共のために働いたらもつとよい世の中になるのですが」 と云つた。 それから娘のエラを相手にこんな小動物や虫の話をした。

 東京でも同じであつた。 庭で蟻の穴を見れば必ず土の上に坐して令息達を集めて蟻の出入を見ながら説教した。 夫人は新聞紙を携へて来て土の上に敷いた。 かくして家族一同時として数時間そのまゝ見つめる事もあつた。 或る時枯葉のやうな奇怪な形の虫を発見して動物学の書物をさがして名を求めたが分らなかつた。 そこで自ら 「アマノジャク」 と命名して書斎の楓樹にとめて毎日のぞきに行つた。 蛙も好きであつた。 青蛙でも書斎のガラス戸にとまれば大騒ぎして、夫人の如何に忙しい時でも呼んで、これを見よと云つた。 蜘蛛の網を張る毎に、珍らしさうに必ず終りまで佇立して見てゐた。

 人の飼ふ虫たとへば鈴虫、きりぎりす、松虫、えんまこほろぎ、くつわ虫、かねたゝき、かんたん、かじか、馬追、きんひばり、くろひばり、くさひばり、凡て彼の愛養しないものはなかつた。 彼の手廻りにある物には悉く昆虫の模様があつた。 茶器コーヒー器には虫の模様があつた。 久しい間外国へ出す封筒も日本風の細長い物を使つたが、それには蜘蛛の巣の模様があつた。 百本に近い長短のきせるの大部分は虫。 ペン皿、文鎮等の模様も虫。 根つけ類もあつたが、悉く虫に関する物であつた。 彼の著書殊に晩年の物に虫に関する篇の多い事に驚く人は先づ、彼が虫を深く愛した事と、その理由とを理解し置く事が必要である。 著書ばかりでなく東大に於ける講義にも虫に関する物がある。 「虫に関する古ギリシヤの詩」 「虫に関する英詩」 「虫に関するフランスの詩」 等である。 彼はこれ等の講義に於て 「虫を愛するギリシヤ人は、日本人に似て居る。 ローマ人は円戯場を作つて人間と猛獣とを格闘せしめた程に性質残忍だから、虫を愛するやうな優美なところがない。 キリスト教では魂を有する物は人間ばかり、其の他動物の生存は一切人類のためと教へる程だから虫の如き微小な物は顧みられない。 英国の詩人は鳥について歌つてゐるが、虫については殆んど歌つてゐない。 虫類を真に愛する人種は日本人と古代のギリシヤ人だけである。 古代のギリシヤ人も蝶を人の霊魂の離れた物と考へた」 といふ趣意を述べてゐる。 『草ひばり』 の一節に 「生命の大海ではこの一微細の小虫にうちに動いてゐる魂も自分の魂も同じ」 である事を述べたところに、彼の大同情が現はれてゐる。 『餓鬼』 のうちにも彼は来世は再び人間と生れてくるよりも寧ろ蝉かトンボとなつて再生したいと述べてゐる。 一切の生物も人類のために造られたのではなく、程度は違ふが人類と同じく進化の階段にあると見る進化論と仏教の輪廻の説とは同じやうに彼を動かしたのであつた。

 かういふ考の小泉八雲が来朝して始めて縁日で虫や虫籠を見たときの驚きと喜びは想像に余るのである。 日本は昆虫の多い国である。 彼の祖国である英国には昆虫の種類も少く、数も少い。 蝉などは全くゐない。 米国では一般の人は昆虫などには無関心である。 首府ワシントンの街路樹の間にも、ハドソン河に近いニューヨークの町にも蛍が無数に飛んでゐるが、往来の人は子供でさへ見向きもしない。 日本人の鳴く虫を愛養してゐることを発見してひどく感心したが、蛍狩りは先づよいとして、トンボつり、蝉とりなどのもち竿を携へての悪童の小動物虐待ぶりはさすがに彼は喜ばなかつた。

 小泉八雲の昆虫に関するものを九篇こゝに収めた。 編者の訳したもの二篇、残りの七篇は故大谷正信(繞石)君の訳にかゝるもの。 故大谷君は松江の人、明治三十二年東大英文科を出て、四高・広島高校等に歴任した人であつた。 松江中学と東大に於て小泉八雲先生の教を受けた。 相当長期に亙つて小泉先生の助手をしてゐた。 これ等の論文のうち、大谷君が材料を提供したものも少なくない。 たゞこれ等の翻訳は約二十年前のものであるために、文学用語などを改むべきものが多い。 編者はそのために大谷君の訳文にも敢て手を加へたことを一言詫びておく。

  昭和二十三年五月                田部 隆次



「らんだむ書籍館 ホーム」 に戻る。