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「文芸春秋」 第十三年 第四号

 昭和10 (1935) 年 4月 発行、 文芸春秋社。
 菊版 (A5版よりやや大)、 本文 432頁。


 「文芸春秋」は、大正12(1923)年に、菊池寛により文芸雑誌として創刊された。 さまざまな立場の執筆者を配した開放的な傾向と、広範な読者層を意識した親しみやすい編集によって、順調な発展を遂げ、大正15(1926)年には誌面を拡大して、総合雑誌としての体裁をとるに至った。

 本号「第十三年 第四号」は、総合雑誌となって9年、企画も充実して上記の頁数となり、厚さは2.5cmにも達している。
 内容は、種々雑多な記事で満たされ、玉石混淆であるが、当時の情勢に関する史料的価値に富むものや、今も文学的生命を保っていそうな佳品なども存在する。
 しかし今回は、全般的・通覧的な紹介は一切省略し、ただ一つの文、
   斎藤阿具 「二文豪其他の名士と私の家」
に注目することとしたい。


 森鴎外 (文久2(1862)年〜大正11(1922)年) と夏目漱石 (慶応3(1867)年〜大正5(1916)年) は、わが国近代文学の双璧であって、論説されること、はなはだ多い。
 しかし、二人の直接的関係はかなり希薄で、その面での話題は乏しいようである。
 そういう関係の中での意外なエピソードとして、この二人が、時を隔てて同じ家に住んだ、という事実がある。
 鴎外が明治23年10月から25年1月にかけて1年余り住み、千朶山房と称した家と、漱石が明治36年3月から39年末まで4年近く住み、「吾輩は猫である」 を執筆した家とは、同じだったのである。

 これはもちろん偶然のことで、二人の生活環境の親近性が感じられる程度のことに過ぎないが、時おり文学エッセイなどのネタになっている。 ただ、きわめて断片的に語られるだけであるのは、詳しい状況がよく知られていないためであろう。
 ここに取り上げる斎藤阿具の文は、このエピソードについての、最も明確・具体的な記述であると考えられる。

 斎藤阿具 (さいとう・あぐ : 明治元(1868)年〜昭和17(1942)年) は、日蘭交渉史を専門とする歴史学者で、第二高等学校教授、第一高等学校教授を歴任。 文学博士。 著書に、「ズーフと日本」、「ズーフの日本回想録、フィッセル江戸参府紀行」、「西洋文化と日本」 などがある。
 夏目漱石とは、東京帝国大学文科大学での同学で、在学中から交際があった。
 明治26(1893)年、英文科の漱石と同時に、史学科を卒業、大学院に進んだ。 その大学院生時代、東京・千駄木に自宅を購入・入居し、その家屋に森鴎外が先住した事実を知ったが、詳細を確認したのは後年のことである。
 明治30(1897)年、仙台の第二高等学校教授となり、途中数年の欧州留学も含め、39年(1906)末までその任にあった。 この9年ほどの間、持主の居なくなった家は、4名(4家族)の人々が順次借り受けて、移り住んだ。 その最後が漱石で、彼は、家主の斎藤阿具が第二高等学校から第一高等学校に転任すること、つまり東京に帰ってくることを知り、転居先を探して、立ち退いたのであった。

 こうしてみると、斎藤阿具は、途中からこの家屋の所有者となった人であり、漱石の友人でもあって、このことを記述するには最適の人であることがわかる。
 この文章 「二文豪其他の名士と私の家」 は、鴎外・漱石以外の人々のことにも及ぶとともに、関連する事情の説明も行き届いていて、興趣ある読物になっている。
 かなりの長文であるが、全文を後に掲げる。

 この文章によって気付くのは、鴎外側の人々は、自分たちの住んだ家に漱石が住むようになったことを、かなり早くから知っていたらしいことである。
 引用されている森潤三郎の文に、 「母は後に夏目氏の著を読んで、家の様子は前と違つてはゐないやうだと云ふてゐた」 とある。 鴎外や潤三郎の母・峰子は、日ごろ文学作品に親しんでいたようで、「夏目氏の著書」 とはもちろん 「吾輩は猫である」 のことであろう。 峰子は、千駄木町五十七番地の家には同居していなかったはずであるが、最初の妻と離婚したばかりで、しかも二人の弟を同居させている鴎外の生活を気遣って、夫と暮らしていた千住の家からしばしばこの千駄木の家を訪れて、家事などを手伝っていたようである。 ( … 鴎外の妹・小金井喜美子の、大根を漬けていたという記憶も、これを証するものである。) したがって、この家の様子は熟知していたと思われる。 この文学好きの母親が、いち早く漱石のベストセラー作品を読み、その舞台となっている家のモデル(すなわち作者・漱石の家)が、自分の息子達がかつて住んだ家であることに気付いたのであろうか。
 一方、漱石の側では、この千駄木の家にかつて鴎外が住んでいたことを知っていたのかどうか、はっきりしない。 漱石夫人の回想録 (夏目鏡子述 「漱石の思ひ出」、昭和4年岩波版) には、「猫の家」 のことが、間取り図まで添えて詳細に述べられ、「今では斎藤博士が住んで居られます」 とも付記されているが、鴎外が先住したことは語られていない。

 斎藤阿具が仙台の第二高等学校教授に在任中、この千駄木の家を借りて住んだ人々として、漱石のほかに、菅原通敬、片山貞次郎、矢作栄蔵の名が挙げられ、それぞれ名士たるゆえんが説明されている。 ここに、片山貞次郎の妻・広子の名前も加えられるべきであろう。
 片山広子は、歌人・佐佐木信綱の門下で、信綱の主宰する「心の花」には、創刊以来作品を発表しているという。 (歌人として扱われる存在であるのかどうか、私には不明。) また彼女は、「松村みね子」というペンネームを持ち、この名前でアイルランド文学の翻訳を発表し、森鴎外・上田敏・坪内逍遥の賞賛を得たという。
 信綱は、その著 「明治大正昭和の人々」 (昭和36年) 中で、片山夫妻から千駄木の家に招かれたことを記し、その片山家は後に漱石が借りた家であったと述べている。

 最後に、鴎外・漱石、および当時の知名の士が住んだこの家が、現存していることを記しておかねばならない。
 昭和39(1964)年に、愛知県犬山市の「明治村」に移築され、保存されている。 保存状態は良く、内部も参観できるようであるが、私は一度も訪れたことがない。
 斎藤阿具は、この文の終わりの方で、自宅の周辺が時代に適合した新しい住宅に改築・改修されていく中で、旧態を保存するように努めていると述べているが、その努力によって、この家が今日まで伝えられたわけである。


全 文 紹 介

     二文豪其他の名士と私の家
斎藤 阿具


 今から四五十年前には、本郷の森川町(本多の屋敷)や、西片町(阿部の屋敷)や、曙町(土井の屋敷)などを通行すると、四方杉の生垣に囲まれ、二本柱の門の立てる平屋の邸宅があり、各々家屋の外に広く庭地を取つて、花園や菜圃のあるのを多く見かけたものである。 そして此等は大抵役人や大学の教師などの住宅であつた。 今日東京の新市区に見るやうな、豪壮な日本造り、奇怪なコンクリート造り、さては緑紅黒など色々の甍の交錯せる様などは見られなかつたが、一体に野趣に富んで落付があり、簡素であつたが、奥ゆかしく品位はあつた。 其頃千駄木町即ち太田の屋敷は、まだ余り開けなかつたが、一高の方から大観音の方に通ずる南北の道路の西側だけは、まばらに家が立並び、今私の居る屋敷も、型の通り二本柱の門で、表即ち東に面する方だけは黒板塀であつたが、南北は例の杉の生垣で隣地と境ひし、西方は其頃草津温泉の裏山(後には郁文館中学)であつたので、粗末な竹垣で仕切つたのみであつた。 そして家屋は四十坪足らずであつたが、構内は三百坪を越え、庭園に区切つた外は、畑か野原か分らぬ有様で、後年漱石時代でも「猫」に書いてある通りであつた。 其の時分、此の道路の東側一帯は太田家で貸さないので、全く雑木林の状態であつたから、人皆太田の原と呼んだ。 日清戦争の際、此の野原が地方から来た軍隊の馬匹の繋場になつたことは、今でも記憶に残つてゐる。

 私は、明治二十六年七月に大学を卒業したが、直に大学院に入つて日々大学の図書館に出入したので、引続き大学の寄宿舎に居た。 同寄宿舎は卒業生即ち学士でも、大学院で勉強する者には在舎を許したので、卒業後も尚数年留つた者もあつた。 文科では大西祝博士・大塚保治博士などは、最も長く在舎した方であった。 私も一年以上居たが、翌年の秋になつて家を持つことゝなつたので、本郷辺に家を探した。 其頃家屋土地の売買周旋を業とする三固商会といふのがあつたので、之に申込み、二三の家を検分した上、遂に駒込千駄木町五十七番地の一邸宅即ち現在の住家に決定し、十一月に売買の取引を済ました。 当時其家には建築請負業者とかいふ清水某が住んでゐたが、売主・買主・差配人などが交々懇請したため、十二月の末になつて立退いてくれた。 其時私は一時森川町に下宿してゐたが、是に至つて明治二十七年末に始めて此家に入つたのである。

 此家を建てた人は中島吉利といふ人であつたが、本人は牛込神楽坂下に商売を営み、千駄木の家は前記の清水某に貸してあつたのである。 中島氏は故医学士中島襄吉氏の父君で、襄吉氏は当時まだ角帽被つた医科大学々生であつた。 父君の言によれば、此家は後日襄吉氏が医業を開き得るやう間取りを考へて造つたとの事である。 襄吉氏は後産科婦人科の大家となり、大学病院や根津の春泉病院に勤め、後には小石川の新諏訪町に中島病院を開いて、診療に活動したが、先年病没された。 父君から此家を買受けた関係から、私の家では、娘等の出産の時など、幾度か同氏の世話になつた事がある。

 此家が何年に建てられたか判明せぬが、明治二十一年来附近に住んでる一老人の談によれば多分、二十三年らしく、早くも前年の秋頃であらう。 又此家ができてから私が入るまでの間、誰々が順次に住んだか、全部は分らない。 しかし其間に文豪森鴎外が一時僑居したことは明になつた。 私は往年三上参次博士から其事を承つたのが最初で、同氏は私の家が前に鴎外の住んだ家に違ひない、自分は其の当時鴎外を訪ねて上つた事があつた筈だと申された。 其後一学生が鴎外の書いたものに、其事を見たと言はれたから、私は鴎外全集中の日記を検閲したが、残念ながら之を見出すことができなかつた。 私は蘭学関係の事で、時々故呉秀三博士に出会したが談偶々此事に及んだ時、同氏は鴎外の令妹小金井博士夫人に問合せよと申された。 けれども私は一昨年まで多忙の職に在り、又未知の方を訪ねるのも億劫であつたので、遂々其まゝにしてゐた。 然るに或時同氏は、今度の 「文芸春秋」 に載つてゐる鴎外の令嗣於莵博士の随筆に其事が見えてると知らしてくれた。 依て早速之を手に入れて閲覧したが、是は昭和六年十二月号の 「垢に関する挿話」 と題する一文で、即ち其中に左の句がある。
 私のまだ物心つかぬ頃で、多分明治二十四五年頃、今の平野万里君の母の所に里子に行つてゐた時代である。 私の父林太郎の家(本郷区千駄木町五十七番地で、当時太田の原に面し、後に夏目漱石氏が「猫」を書き、次に斎藤阿具氏の住んだ家) に当時の文壇人が多く出入した中に、正岡子規があつた。
 そこで私は同氏に一書を呈して、詳細の報告を求め、且つ其事に関する父君の記録あれば、之を指示されんことを請ふた。 同氏は之に対して早速返書を寄せられたが、其の要所は次の通りである。
 千駄木町五十七番地に父の在住せし頃は、小生幼少にて覚え之なく候ニ就て、小金井叔母に尋ね候処、明治廿三年十月頃のよし。 小生は同年九月十三日に上野花園町十九番地の宅に生れ、その後間もなく移転したるにて、秋未だ深からざる頃にて、祖母が移転早々大根を漬けらるるを叔母覚え居る由、多分十月ならんと申居候、家の位置はたしかに現在の先生邸にて、当時何人の所有し居りしやは明ならず、一時の借宅として入りしものに有之候。 其後地所家屋を探し、千駄木町二十一番地(団子坂上) の小倉と申せし質屋の隠居所を譲り受け、一部新築してこれに移りしが明治二十五年にて、これが何月頃か、叔母の記憶には明ならぬ様子ニ候。又父がこの家につきて何か記せし事は、叔母も小生も心当りは有之候へども、只今一寸明にしかね候ニ付、後日判明次第、更に申上べく候。 (昭和六年十二月十九日付)。
 是で私の家に、前に鴎外の住居したことは余程明になつたが、近頃鴎外の令弟森潤三郎氏の著はされた「鴎外森林太郎」といふ書物によつて、更に明になつて来た。 即ち同書にも次の如く書いてある。
 九月長男於莵が生れると、間も無く妻赤松氏を離縁し、十月初旬次兄とわたくしとを連れ、車夫夫婦を従へて、本郷区駒込千駄木町五十七番地、その頃は家よりは原地が多く太田子爵の所有地であるため太田の原と呼ばれた処の借家に移つた。(中略)
 この五十七番地の家の間取りなどは、今記憶に残らぬが、母は後に夏目氏の著を読んで、家の様子は前と違つてはゐないやうだと云ふてゐた。 その頃南隣は車宿、その一二軒先に小さな癲狂院があつて、子供を亡くした女の患者が、夜悲鳴するのが聞えて、厭な感がした。 宅の真裏が中学郁文館で、わたくしは転居のため神田の錦城中学校からこの郁文館に転ずる事にした。 郁文館の前に草津温泉があつて、仕出し料理をするので、わたくし達は晩餐には度々取寄せ、客の時は必ず此処に注文した。 (三二〜三三頁)
 又其後に次の句が載つてゐる。
 三十一日団子坂上の千駄木町二十一番地に移転した。 (中略) 五十七番地へは牛込から夏目漱石氏が移られ、有名な「我輩は猫である」はあの家でかゝれたのである。 夏目氏の後へは、第一高等学校教授の斎藤阿具氏が来て、今も引続いて住んで居られる。 (四○〜四一頁)
 右の三十一日といふのは、明治二十五年の一月三十一日であることは、其の前後の文句によつて知られる。 尚潤三郎氏が明治文学談話会でなされた講話の筆記が、昨年十一月の「講演の友」といふ雑誌(五十三号)に載つてるが、是には左の如くある。
 それから二十三年に、兄に長男の於莵といふのが生れました。 その直後に、ある事情の為に妻を離別して、子供は乳母に預けて、兄弟三人だけ本郷駒込の千駄木町五十七番地に引越しまして、二十五年の五月にそこから更に団子坂の方へ移つたのであります。
 以上揚げたところによつて、鴎外は明治二十三年の十月上旬に今の私の家に入り、そして二十五年の一月末に団子坂上の観潮楼に移つたことが分る。 「講演の友」には五月に出たとあるが、鴎外の書簡に「三十一日いよいよだんご坂上に引こしまゐり候、千駄木町二十一番地也、今日の雪景色尤好し」 (「鴎外森林太郎」 四〇〜四一頁) とあつて、雪景色を賞する以上、五月の方はたしかに間違ひであらう。

 尤も右の 「講演の友」 は今其の抄録だけ私の手許にあるのであるから、私の誤写でないとは断言できない。 前に此家の建てられたのは二十三年ならん、早くも前年の秋頃であらうと申したが、いづれにしても、鴎外が此処に引越し来つたのは、此家の新築落成直後か、然らざるも竣工と鴎外の移入との間は幾らも隔つてゐなかつたに違ひない。 そして鴎外は此家に住んだ頃は 「しがらみ草紙」 や 「国民の友」 へ盛んに文芸や美術に関する評論などを寄稿したやうである。 私としては、後年になつて知つたのであるから、別に話の種子はない。 其後於莵博士に出会の機もあつたが、同氏よりも別に新しい事実は聞かない。 又森家の去つた後直に、既記の清水家が入つたものか、或は其間に誰が住んだものか、是も私には分らない。

 さて私は明治二十七年の末から此家の主人となり、約二年半程住んだが、三十年の五月に仙台の第二高等学校に赴任することゝなつた。 今の貴族院議員菅原通敬氏は、其頃たしか大蔵省に勤めてゐたが、宮城県人である為か、早く其事を知り、人を以て私の家を貸してくれと申込まれた。 かくて私が仙台に去つた後は、菅原氏が此処に住居したのである。 然るに同年十月に至つて、同氏は函館に転任するこことゝなつたので、其アトに入りたいといふ希望者が、何人も現はれた。 故芳賀矢一博士は其頃山川義太郎博士の洋行中其の弥生町の家に住んでたが、同氏も希望者の一人であつた。 しかし山川氏との約束に背いて、其の留守中他人に其家を渡しては、山川氏が帰朝の時に迷惑するからとて、自分は見合せ、今度は親類の潮田氏に貸してくれとの事であつた。 然るに潮田氏も急に家を手に入れたからといふので、つまり両方とも止めてしまつた。 其の仔細を述べた芳賀博士の書面(十二月二十七日附)は、今私の手許に残つてゐる。 又菅原氏が仙台の私の許へ送られた左の書簡でも、其辺の事情は大体知られる。
 小生も六十余日間出張、去十二日帰京候処、今般不図函館に転任する事と相成候ニ付、前日の御話合により、不取敢芳賀文学士の方に通牒し、又厳尊の方にも御照会致置候処、追々伝聞する所によれば、芳賀文学士と合議の上、松本源太郎君引移らるゝ事と相成候やに候。 小生方へも、村木逓信書記官及浜口大蔵書記官より借用方の紹介を依頼越来候。 (十月十八日附)
 之によれば、場合によつては、後の内閣総理大臣浜口雄幸氏も私の家に住むことになつたかも知れぬ。 此時は彼是交渉の結果、故片山貞次郎氏の家族が、十一月初菅原氏の後に入ることゝなつたのである。 私は片山氏とは一向交際はなかつたが、同氏は眉目秀麗且つ俊秀の評価高く、大学も首席で出た人で、此頃たしか大蔵省の役人であつた。 同氏は後年日本銀行理事となつたが、病のため割合に早く世を去られた。 同氏の父君は片山恭平と申し、函館の税務監督署長を勤めてゐたが、此時退職されたので、東京に帰つて一家私の家へ合住することになつたとか聞いた。

 片山家が此家を出たのは、明治三十五年の二月であるから、一番長く居たのである。 其後に入つたのは、私と同郷で、後に東京帝国大学教授になられた故矢作榮蔵博士である。 矢作氏も片山氏と同じく、経済学関係の者であり、大学卒業もも僅か一年違ひだから、互に知合つてゐたであらう。 又矢作氏と私とは、郷里が隣村で、同氏と私とは旧知の間柄であつた。 但し矢作氏が此家に入ることゝなつたのは、同氏の村に私の生家の親類があり、是が矢作家とも関係あつたから、其の仲介で両家の交渉が纏まつたものと見える。

 爾来矢作氏は東京の私の家に住み、私は仙台にあつたが、偶然同時に欧州留学を命ぜられた。 そして出発も又同船となり、同氏も私も他の十人余りの新留学生と共に、明治三十六年一月下旬に丹波丸で横浜を出発した。 そこで矢作氏の家族は、三月頃に私の家を引払つたと見える。 夏目漱石は丁度私と行違ひに一月末に英国から帰朝したが、前任地熊本の第五高等学校に還るを欲せず、其のまゝ東京に落着くことにした。 依て貸家を探しに歩いてると、私の家が空家になつて居り、敷金も要らぬといふので、入ることゝなつたさうだ。 「猫」 にも 「家賃は安いが」 とあるが、家賃はたしか十五円だつたと覚ゆ。 漱石は元と私が此家に住んだ時、数回来訪し、是が私の家であることは、勿論承知してゐたが、之を借りるについては、在欧の私とは全然交渉なかつた。 常識的判断では、漱石と私とは学友であつたから、私の不在中漱石に貸して置いたやうに見ゆるが、事実は決してさうではない。 私は父の書面に、夏目といふ人が千駄木の家に入つたとあつたので、始めて之を知つた位である。

 さて漱石は三十六年の三月から此家に住み、東京帝国大学や第一高等学校の講師を勤めたが、其間 「吾輩は猫である」 を書出して、文名頓に高まつた。 私は漱石と私及此家との関係については、先年 「人文」 (第四巻第一号) に載せたことがあり、又昨年三月の 「現代」 に 「猫」 と此家との関係を主として書いたから、今は多く繰返さぬが、唯漱石が 「猫」 を書いた場所は、現在私の応接室になつてる玄関脇の一室であつて、漱石が記念のため私に贈られた 「猫」 の上巻の表紙裏にも、左の文が記してあるから、更に之を此処に掲ぐることゝする。
      斎藤学兄          夏目金之助
 此三巻は僕が君の家を拝借してゐた頃、玄関脇の書斎に立籠つて月々起稿して、遂に出来たものである。 僕が千駄木を引き払ふと同時に、君は僕に代つて又旧居に住を移されたに就いては、記念の為め一部を進呈したいと思ふ。 御受納下さい。
 実際 「猫」 の中には、此家の内外の模様が書かれてあるので、「猫」 と此家とは離れ難い関係を有つ。 漱石の 「猫」 の第八で、大分垣根や構内の荒れてる様子を描き、桐の木を切らぬを嘲り、「愚なるは主人にあらず吾輩にあらず家主の伝兵衛である」 といふてるが、私が生家の方で聞いたところでは、家主は近くに居らぬから、家賃は安くし、其代り些細の事は借主にやつて貰ふ筈にしたが、時々請求があるので、職人を向けたが、漱石は職人を見ては、怒鳴つたり馬鹿呼りするので、怖ろしがつて、誰も行くのを嫌がつたといふことである。 其頃漱石は頭の具合が最も悪かつた時で、夫人をも困らした時代だから、是も一方の言分にはなつたかと思ふ。

 漱石は此家に居たこと四年近くに及んだが、三十九年の末、私が第二高等学校から第一高等学校へ転任の交渉が起つた時、漱石は同校の講師で居たから、早く其事を耳にし、まだ決定しない内に、私が東京に来るなら他に移るから早く知らせろと申して来、決定後も私の方からは至急引越してくれなどと請求しなかつたが、早速西片町に一家を見付けて怱々移転してくれた。 漱石は心中永く此家に居たかつたらしく、其事は漱石が私に寄せた書面に 「出来る事なら此うちを以前の如く借りて居りたし」 (明治三十九年十二月五日附) とあるのを見ても明かであるが、私に対する好意で、先方から早く立退いてくれたのである。 其際漱石は友人等に葉書を出して、貸家探しを頼み、其中に 「僕の家主東京転任で僕は追出される」 (全集書簡集) などといふてるが、是は漱石一流の皮肉な筆法で、決して心中私を何とか思つてた訳ではない。 兎に角お蔭で私は十年振りに旧居に入ることができ、一時他に仮寓する煩累も生じなかつたので、深く漱石の好意を感謝した次第である。 漱石一家移転の時に返還した借家証文の保証人は、漱石にも私にも親しい大塚保治博士であつたと覚ゆ。 其時之を廃物として更めて貰受けて置いたなら、今日一寸面白い資料になつたらうに、惜しい事をした。

 大略以上述べたやうな径路で、再び私の住居となつたが、それから今日まで最早二十八年の長年月が過ぎた。 回顧すれば、此家の持主こそ一向映えないが、此処に僑寓した人はいずれも当代の名士であつた。 鴎外・漱石といふ明治の二大文豪は言はずもがな、菅原氏は大蔵次官を勤めたことあり、現に貴族院議員である。 片山氏は多分五十になるかならずに病没されたから、今の人には余り知られてゐないと思ふが、若くして日本銀行理事までなつた秀才である。 次に矢作博士は一昨年末急に仆れたが、農業経済の権威であり、帝国農会の会長をも勤めた人だから、まだ世人の記憶に新であらう。 望蜀の慾を言へば、後の内閣総理大臣浜口氏が居住して、更に一段の光彩を添へなかつたのが唯遺憾である。 欧州諸国を旅行して、古い都市を廻ると、曾て知名の士の住んだ家屋の壁に、誰が何年から何年まで此処に住んだなどと、銘記せるを往々見かけるが、若し私の家が西洋であつたなら、正に其の資格があると思ふ。

 今日の森川町や西片町や曙町などを廻つて見ると旧時の家屋は大概取毀たれて現代式に改築され、稀に旧式家屋の存するものがあつても、隅々の空地に家作が建てられて、窮屈さうなもの許り多い。 我が千駄木町も同様で、今日旧式の邸宅は少くなり、残存するものもマッチ箱式家作の間に平伏して日の目も拝めぬ姿である。 私の家も屋内の構造が現代の生活に適しないので、先年私は漱石が 「猫」 を書いた書斎の内部を改修して応接室とした。 古跡や史料に対する尊重心では、人後に落ちないと自ら信じてる私が、之を決行したのは、一家の生活上詢に已むを得ざるに出たものである。 其他増築した部分もあるが、是は旧態の変更といふ程でないから、別に弁解を要しまい。 又此邸の構内も、旧時に比すれば南面は余程狭くなり、又外構も全く変つたが、家屋は全部平屋で、割合に地坪を占むる上、旧市内の此の地区としては、尚周囲に空地を存する方で、千駄木の町内でも、まづまづ旧時の邸宅の面影を保てる代表的のものといひ得るであらう。

 斯く大方旧態を留め得たのは、第一に地主の太田家が寛大で、急に地代を上げない為である。 又私が之を破毀して自分の好きな邸宅を新営する余裕がなく、さりとて今までは旧態を維持し得ない程度でもなかつた為である。 けれども今日私は既に半ば隠退の身であり、地主の方針次第で、いつ此の現状維持ができなくなるか分らない。 私としては、已むを得ざる限り、自分の手でニ文豪殊に亡友漱石に縁りある此の家屋を毀つに忍びない心地がする。 とはいへ、之を手離して他所へ退くか、将た邸地の一隅に改築して、地面を経済的に使用するか、二者の内一を選ぶは、遠からず当面の問題とするを免れまい。 しかしこのやうな内緒話に墜ちては、ラヂオ放送なら、スウイツチを切らるゝに相違ない。 文芸春秋社とて、定めし良い顔はしまいから、此の辺で筆を擱くことゝする。


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