らんだむ書籍館


表紙



目 次


T 緒説

U 生家・少年時代

V 大学時代
   《研究生活への第一歩》

W ベルリン慈恵病院時代
   《細胞生理学新分野開拓》

X 伝染病研究所及び血清研究所時代
   《免疫学の研究、側鎖説の提唱》

Y 実験治療研究所時代
   《化学療法学の開拓・完成》

Z 晩年

[ エールリッヒの業績
   《回顧と展望》

   年 譜
   参考文献
   人名索引

志賀潔 「 パウル・エールリッヒ その生涯と業績 」


 昭和27 (1952) 年 4月 発行、 冨山房。
 B6版、フランス装。 本文 305頁。

 志賀潔 (明治3(1870)年〜昭和32(1957)年) は、赤痢菌の発見者として名高い医学者・細菌学者。
 赤痢菌の発見は、伝染病研究所(所長:北里柴三郎)に勤務していた明治30(1897)年のことで、志賀の名を世界にまで広めた。
 志賀はその後、明治34(1901)年秋からの3年間と、大正元(1912)年秋からの半年間の2回、ドイツのフランクフルトの実験治療研究所に留学し、その所長である医学者・パウル・エールリッヒ (Paul Ehrlich, 1854〜1915年) の許で実験研究に従事した。 1回目のときは、エールリッヒの創始した化学療法を確立するための実験研究に参画し、2回目のときは、その応用・発展としての結核の化学療法の実用化を進めたのである。 これらの従学を通じ、エールリッヒの学識・研究態度・人格に対する傾倒を深め、彼を「生涯の師」 と思い定めるに至った。
 この深い敬愛が、本書を成さしめたのである。

 表紙にはないが、扉には、標題 「パウル・エールリッヒ」 と副題 「その生涯と業績」 の間に、 「第一部」 の表示がある。
 「まえがき」 に述べられているように、著者には、本書を第一部とし、 「第二部 人としてのエールリッヒ」 、 「第三部 学術的評論」 を継続刊行して、三部作とする構想があったのである。
 結局、この第二部と第三部は、刊行されなかったようである。 本書刊行のとき、著者はすでに82歳であり、5年後には亡くなっているので、高齢と健康状態のために、執筆の継続は無理だったのかもしれない。 しかし、その意気は、壮とすべきである。

 「T 緒説」 には、エールリッヒの生涯と業績の大略が述べられている。
 記述はいくつかの段落により構成されているが、それぞれの段落がほぼ後続のU〜[章に対応していて、各章の内容の的確な要約となっている。 そして、エールリッヒが自主的な研究を進めて業績をあげた時期を扱った、W、X、Yの3章については、それぞれの時期を第一期、第二期、第三期と名付け、研究主題や業績を特徴づけて記述している。
 さらに最後の段落では、エールリッヒと日本の学界との関係が記述されている。 すなわち、学友としての北里柴三郎との親交、門弟としての秦佐八郎および筆者・志賀潔との関係、についてである。

 「U 生家・少年時代」 では、その家庭 (とくに祖父と両親) と、出生(1854年)からギムナジウム卒業の18歳(1872年)までの時期を扱っている。
 エールリッヒは、ドイツ東南部・シレジア州の町シュトレーレンの、裕福でしかも教養豊かな家庭に生まれ育った。
 10歳で入学した中学(ギムナジウム)では、理科とくに化学が好きで、自然科学方面に進む希望が芽生えていたという。
 恵まれた環境の中で、きわめて自然にその才能を伸ばしていった  多くのヨーロッパの知性に共通するような  過程が述べられている。

 「V 大学時代」 では、ブレスラウ大学に入学した18歳 (1872年)から、ドクトルの学位を得た24歳(1878年)までを扱っている。
 ブレスラウ大学は、郷里に最も近い大学であったところから選択したのであったが、まもなくその課程に失望し、従兄の勧めに従って遠方のストラスブルグ大学に転じた。
 このストラスブルグ大学で、病理解剖学者・ワルダイエル(Waldeyer)から病理学を学び、その実習指導を受けたが、実習を通じて生命現象の研究に化学的方法をもってすることの重要性を確信したことが、以後のエールリッヒの方向をほぼ決定づけた。
 ところが、少壮気鋭の病理学者・コーンハイム(Cohnheim)がブレスラウ大学に赴任したことから、再びこの大学に戻ってコーンハイム教授に就き、さらに同教授の転任を追ってライプチヒ大学に移り、ここで論文をまとめてドクトルの学位を得た。

 「W ベルリン慈恵病院時代」 では、1878年(24歳)から1888年(34歳)までを扱っている。
 ドクトルとなったエールリッヒは、ベルリンの慈恵病院(Charite - Hospital)に招かれて内科主席医員の地位を得、院長フレーリックス(Frerichs)教授のもとで研究生活を続けた。
 これが彼の研究の第一期をなすもので、主要な業績として、(1)血液内細胞、特に白血球の構造、機能および病理に関する研究、(2)生物体の各組織における酸素需求の問題を中心とした研究、がある。
 こうした業績を挙げていた最中の1882年、ローベルト・コッホ(Robert Koch)と相知った。 コッホの結核菌に関する研究は、エールリッヒの結核菌染色法によって促進されたという。
 また、その翌年の1883年には同郷の名家の女性ヘドウィッヒと結婚、まもなく二人の娘に恵まれた。
 順調で充実していたこの時期の生活は、彼の研究を理解し庇護してきたフレーリックス教授の急逝によって、終わりをつげた。 後任の教授は狭量で、臨床勤務以外のことに時間を費やすことを許さず、研究の継続が困難になったからである。
 失意の彼は健康を害し、急性肺結核に罹ったため、職を辞し、国外の温暖の地で静養につとめた。

 「X 伝染病研究所及び血清研究所時代」 は、1889年(35歳)から1899年(45歳)までの10年間を扱っており、この間の研究が第二期に位置づけられている。
 イタリー、エジプトでの約1年にわたる静養で健康を回復したエールリッヒは、ベルリンに戻り、まずここに自費で小研究所を設けて細胞生理学に関する実験研究を再開した。
 まもなく、ローベルト・コッホに招かれて伝染病研究所の客員となり、またベルリン大学の員外教授にも迎えられた。
 伝染病研究所は、ドイツ政府によって設置され、コッホが主宰した研究所である。
 この伝染病研究所でエールリッヒは、病原微生物に対する生体の反応、すなわち免疫現象の解明に取り組んでその本質を明らかにし、そのことを説明するための側鎖説という独創的な学説を提唱した。
 当時、伝染病研究所には、コッホ門下の2人の研究者、ベーリング(V.Behring)と北里柴三郎がおり、エールリッヒは彼等に対するアドバイザーの役割も果たした。
 まず、北里の研究については、後年日本に来遊したコッホの回想談話が掲げられているが、この談話は著者がコッホから直接聞き取ったもので、史料的価値が高い。 特に、ベーリングの研究成果が北里の研究に導かれたものであることを明言している点が、注目される。
 … ある日北里は自分の部屋に来て、破傷風菌の純粋培養を成し得たと言って一本の試験管を示した。 しかしこの問題は、老練のフリユッゲル等が、数年間苦労したが遂に成功しなかった問題であるから容易には信用出来なかった。
 然るにまもなく北里は破傷風菌のゼラチン培養を持って来て、研究成績を告げた。 自分は半信半疑であったが、北里の作った培養菌で動物実験をしてみたところ、疑いもない破傷風固有の症状を呈した。 自分は直ちに北里の部屋に至ってその成功を祝したが、この時の自分の喜びは非常なものであった。 今日当時の事を追憶するだに愉快に堪えない。 次に北里の研究方法と経過を聞くに及んで、自分は彼の非凡な研究的頭脳と、不屈の精神とに、いよいよ驚いたのである。
 私は引きつづき破傷風毒素の研究を勧めたが、彼は遂に免疫血清を作り上げた。 その頃はまだ伝染病に対する原因療法はひとつもなかったのであるが、実に北里の研究によって血清療法が創始されたのである。 当時自分の許でベーリングがジフテリアの研究を続けていたが、常に北里の破傷風研究に導かれて漸次進捗した。 今日有効な血清療法があるのは北里の研究に基づいている。 これ北里の破傷風研究が近世治療医学で一新紀元を画したものと認められる所以である。 …
 そして著者は、エールリッヒと北里との関係については、同じ免疫の問題を、一方はその要素的・基礎的な面から追及し、他方は血清療法という応用面から研究していたのである、と解説している。
 また、ベーリングについては、次のように述べられている。 ジフテリアの免疫血清の研究を続けていたものの、充分な治療効果が得られず、遂に窮してエールリッヒに協力を求めた。 これに対してエールリッヒが、その血清作成方法の欠点を指摘し、効果を挙げるための方策をアドバイスするとともに、自らも血清の免疫力の測定単位を確立するなどの側面的援助を行なった結果、ベーリングのジフテリア血清は実際の治療に供せられるに至った、と。
 エールリッヒの免疫血清に関する研究業績への評価が高まり、それが一般社会にも喧伝されるに至って、1896年、時の政府は彼のために、ベルリン郊外に血清研究所(「国立血清検定及び血清研究所」)を新設した。 エールリッヒは、この研究所を主宰し、国内の各血清製剤所で作られた治療血清の検査・検定、民間会社に対する技術指導などを行なった。

 「Y 実験治療研究所時代」 では、1899年(45歳)から1910年(56歳)までを扱っている。
 血清研究所の施設はかなり貧弱であったので、その開設から3年後の1899年には、彼のための新たな研究所として、実験治療研究所がフランクフルトに設けられた。
 この研究所の第一の任務は、血清研究所以来の治療血清の研究と検定であったが、外部的事情から、癌腫瘍と溶血現象に関する研究に着手することとなり、そこから、いわゆる第三期に属する化学療法の研究が展開されることになる。
 第三期の化学療法研究の成果として、まず睡眠病の病原体・トリパノゾーマに有効な化合物(トリパンロ−ト)の発見・創製があり、次いで回帰熱や梅毒などの病原体・スピロヘータに有効な砒素化合物(606号)の発見 → サルバルサンの創製、がある。
 トリバンロートの創製は、化学療法の最初の成功を示すものであり、この功績によりエールリッヒは、1908年にノーベル医学賞を受賞した。
 これに続くサルバルサンの創製は、1910年のことであるが、エールリッヒの最大の業績とされるものである。 その成功は、実験協力者・秦佐八郎の貢献するところが極めて大きかった。
 秦は、北里柴三郎の伝染病研究所における著者の同僚(後輩)であったが、著者の後を承けてエールリッヒの許に留学し、この大成果を挙げた研究に参画したのであった。
 この部分をしめくくる次の記述は、秦から著者宛の書簡を引用していることもあって、実に生彩に富んでいる。
 六〇六号の成功が喧伝されて、エールリッヒ・秦の名が一般社会の間にも広まった頃のある日、フランクフルトでは市主催でお茶の会が催されました。 市の紳士淑女が会合して、この二人の口から六〇六号の話を聞こうというのであります。 エールリッヒは簡単な挨拶をしただけで、説明や実験供覧は秦に任せました。 それはもとより秦に対する好意からでありますが、エールリッヒの謙譲な態度には、学者としての奥床しい気持が偲ばれるのであります。 筆者に送られた手紙の中で秦君は当日の情景を次のように報じております。
 … 昨日は先生と一緒にお茶の会に招かれた。 その席上先生の命令で、フランクフルトの紳士淑女を前にして実験供示をする光栄を持つ事になったのさ。 全く私には一世一代の光栄だったよ。
  ダーメン、ウント、ヘルレン、この家兎を御覧なさい。 ちょっと見ると大変かわいい子兎に過ぎませんが、このように潰瘍ができています。 五週間前にスピロヘータを植えたのです。 今これに六〇六号を皮下か、静脈に注射しますと、二、三週間で潰瘍は小さくなり、乾燥し、遂に全く治ってしまいます 
 皆は物珍しそうに、仰向けにくくりつけられた兎が、腹を出しているのを見入っている。 そのうちに一人の美しいお嬢さんが  ドクトル・ハタ、スピロヘータはどこに植えたのですか  と聞くのだね。 勿論ホーデンに植えてあるのだが私は  ここのところのホホー  と言ったまま、顔を赤くして吃ってしまった。 ホホーと言ったきり、その後のデンは遂に出んでしまい、口の中で噛みつぶししてしまったと言うわけさ。
 先生はシガにも、もう一度来てもらえないかと言っておられる。 君の論文の別刷は先日落手拝見した。 北里先生も相変わらずお元気なようで結構だ。 例によって時々大雷が落ちる事だろう。 ドイツに来てから三度目の秋を迎えて、私も望郷の思い切なるものがある。
  一九一〇、一〇、一八          フランクフルトにて、   秦 生
 秦博士はこの翌年の春、学錦に輝く晴れの帰朝をされたのでした。

 「Z 晩年」 は、1910年(56歳)から、1915年(61歳)で逝去するまでを扱っている。
 今日からみると、彼の死は早すぎ、56歳以降を晩年とするのは不自然に感じられるが、当時にあっては平均的なことであったろう。
 晩年とはいうものの、この時期のエールリッヒは、決して成功者としての安楽な生活を送ったわけではなく、サルバルサンの実用化と化学療法の一層の完成に向けて、ひたすら努力を傾け続けたのであった。
 しかも、名声の高まった彼は、次第に世俗的な雑用が多くなり、研究のみに没頭することが許されない状況になっていった。 …サルバルサンに関する質問、問い合わせ、請求などのために、押しかける訪問者、殺到する書状など。 エールリッヒは、これらの一つ一つに親切かつ良心的に対応したために、生活は繁忙をきわめた。
 著者は、このような俗務のために貴重な時間が奪われるようになった状況を「塵労」と呼んで、エールリッヒのために心からそのことを惜しんでいる。
 エールリッヒが脳溢血の発作により61歳で世を去ったのは、この塵労と、青年時代からの強度の喫煙による、動脈硬化のためであったという。

 「[ エールリッヒの業績」 では、、エールリッヒの研究業績全体が、「研究を一貫する意想」、「科学史的意義」、「研究の性格」という三つの視点から、改めて評価・総括されている。
 これらにおいて、著者が特に強調しているのは、化学療法の開拓者としての功績である。 生物学と化学とが相い接するところに、新しい科学の領域を切り開いたことは、彼のような選ばれた先駆者にして始めて可能であった、と。

 上述の 「V 大学時代」 から 「Z 晩年」 までの各章には、それぞれで扱う期間における年譜が挿入されているが、巻末の 「年譜」 は、改めて全生涯の年譜を示したものである。
 ていねいな階層的構成による記述が、本書の特徴であるが、この年譜の構成もその一環であり、著者の細心の工夫が示されている。



 今回の 「一部紹介」 には、本書執筆の意図が示された、「まえがき」 を掲げる。



本文の一部紹介

     ま え が き


 この書は題名の示すように、私の恩師パウル・エールリッヒ先生の生涯とその業績とについて述べたものである。 私は昭和十五年に先生の没後二十五年の記念として、《エールリッヒ伝》 と題する先生の伝記を冨山房から出版した。 その時は史料も十分に得難く、出来栄えも意に満たぬ所が多かったので、五版も重ねた後に 版を絶った。 この度のものは旧著とは全く関係なく、新たに稿を起したものである。

 始めの構想では先生の生涯と業績の他に後篇として、先生の性格や研究態度、門弟の指導方針、趣味や家庭生活、即ち 《人としてのエールリッヒ》 についても述べるつもりであったが、前篇だけで相当な頁数になったので、これだけを先生の伝記の第一部として刊行することにした。 第二部の資料も大体整理が終ったので、引き続き執筆の予定でいる。 この方は私自身の見聞による資料もかなり多いから、読者の期待はむしろこの第二部にあるのではないかと思う。 私は更に学術的評論を第三部として刊行し、一九五四年の先生誕生百年記念までには、三部作として完成したい念願である。

 この第一部の執筆に当って、幾たびか構案を更めた後、この様な形式内容のものになった。 本文は説話体にすることに定め、業績を述べるにも個々の研究内容を紹介するより、研究の筋道や思想の進展の跡を解説することに意を用いた。 そのため説明が冗長になるのを恐れず、前後を照応させつつ話を進めた。 同じ事を繰り返し述べた所もあるが、少しずつ視覚を変えて説明し、全貌が次第に明らかになるようにした。 これらの私の意図が、どの程度まで功を収めたかは読者の批判を待つより他はない。 ともかく私は一般の読者にも理解されるように、煩労を厭わずして解説につとめたつもりである。 このことは碩学パウル・エールリッヒ先生の生涯と業績とを、 ―― 先生こそは二十世紀科学最大の収穫と言われる実験的化学療法学の開拓者であり建設者であるばかりでなく、先生はまた細胞生理学、免疫学の分野においても、不朽の業績を遺された ―― 一人でも多く知っていただきたかったが故に他ならない。 学問的にみて意に満たぬ所は第三部において補うつもりでいる。 なおこの度の執筆に際して、私の次男の亮が資料の蒐集整理、原稿の浄書補筆に当って、私を援けてくれたことを特に附記しておきたい。

 エールリッヒ先生と私との関係については、本文中にも折にふれて述べてある。 私は前後二回ドイツに留学し、五年の間先生の研究所に遊んだ。 私は先生から科学の手ほどきを学び、科学的精神を学び、学究者として努力し精進し修業すべきことを学んだばかりでなく、人間として身を処し、世に処するの道についても、道義的勇気と判断力とを与えられた。 先生はまことに私の生涯の恩師であった。 今度先生の伝記の改稿を思い立った直接の動機は、先年八十四歳で亡くなられた先生の夫人が、私の旧稿を読まれ、それを英訳してアメリカから出版したいと言われたことによるのである ―― この間の事情は私の随筆集 「吾が生涯を顧みて」 (岩波新書) に詳しい ―― 。 夫人の死後も令孫のシュベリン博士は、貴重な資料や参考書を送って私を励まされた。 もとより本書の刊行によってこれ等の御好誼に報い得たと思うものではないが、戦災で資料の一切を失い戦後の言い難き不都合と不如意な条件のもとで、ようやくにして、ここまで漕ぎつけることが出来た私と私の次男との苦労は、先生も夫人も令孫も諒として下さることと思う。

 終りに私共のわがままな注文を快く容れて種々御配慮下された冨山房社長坂本守正氏と、編輯部の芳賀 定氏、永田君子さんに篤くお礼を申し上げる。

昭和二十六年仲秋
宮城県坂元村 貴洋翠荘にて
著者 しるす




「らんだむ書籍館 ホーム」 に戻る。