らんだむ書籍館 |
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表紙 |
目 次
T 緒説 U 生家・少年時代 V 大学時代 《研究生活への第一歩》 W ベルリン慈恵病院時代 《細胞生理学新分野開拓》 X 伝染病研究所及び血清研究所時代 《免疫学の研究、側鎖説の提唱》 Y 実験治療研究所時代 《化学療法学の開拓・完成》 Z 晩年 [ エールリッヒの業績 《回顧と展望》 年 譜 参考文献 人名索引 |
… ある日北里は自分の部屋に来て、破傷風菌の純粋培養を成し得たと言って一本の試験管を示した。 しかしこの問題は、老練のフリユッゲル等が、数年間苦労したが遂に成功しなかった問題であるから容易には信用出来なかった。そして著者は、エールリッヒと北里との関係については、同じ免疫の問題を、一方はその要素的・基礎的な面から追及し、他方は血清療法という応用面から研究していたのである、と解説している。
然るにまもなく北里は破傷風菌のゼラチン培養を持って来て、研究成績を告げた。 自分は半信半疑であったが、北里の作った培養菌で動物実験をしてみたところ、疑いもない破傷風固有の症状を呈した。 自分は直ちに北里の部屋に至ってその成功を祝したが、この時の自分の喜びは非常なものであった。 今日当時の事を追憶するだに愉快に堪えない。 次に北里の研究方法と経過を聞くに及んで、自分は彼の非凡な研究的頭脳と、不屈の精神とに、いよいよ驚いたのである。
私は引きつづき破傷風毒素の研究を勧めたが、彼は遂に免疫血清を作り上げた。 その頃はまだ伝染病に対する原因療法はひとつもなかったのであるが、実に北里の研究によって血清療法が創始されたのである。 当時自分の許でベーリングがジフテリアの研究を続けていたが、常に北里の破傷風研究に導かれて漸次進捗した。 今日有効な血清療法があるのは北里の研究に基づいている。 これ北里の破傷風研究が近世治療医学で一新紀元を画したものと認められる所以である。 …
六〇六号の成功が喧伝されて、エールリッヒ・秦の名が一般社会の間にも広まった頃のある日、フランクフルトでは市主催でお茶の会が催されました。 市の紳士淑女が会合して、この二人の口から六〇六号の話を聞こうというのであります。 エールリッヒは簡単な挨拶をしただけで、説明や実験供覧は秦に任せました。 それはもとより秦に対する好意からでありますが、エールリッヒの謙譲な態度には、学者としての奥床しい気持が偲ばれるのであります。 筆者に送られた手紙の中で秦君は当日の情景を次のように報じております。… 昨日は先生と一緒にお茶の会に招かれた。 その席上先生の命令で、フランクフルトの紳士淑女を前にして実験供示をする光栄を持つ事になったのさ。 全く私には一世一代の光栄だったよ。秦博士はこの翌年の春、学錦に輝く晴れの帰朝をされたのでした。
― ダーメン、ウント、ヘルレン、この家兎を御覧なさい。 ちょっと見ると大変かわいい子兎に過ぎませんが、このように潰瘍ができています。 五週間前にスピロヘータを植えたのです。 今これに六〇六号を皮下か、静脈に注射しますと、二、三週間で潰瘍は小さくなり、乾燥し、遂に全く治ってしまいます ―。
皆は物珍しそうに、仰向けにくくりつけられた兎が、腹を出しているのを見入っている。 そのうちに一人の美しいお嬢さんが ― ドクトル・ハタ、スピロヘータはどこに植えたのですか ― と聞くのだね。 勿論ホーデンに植えてあるのだが私は ― ここのところのホホー ― と言ったまま、顔を赤くして吃ってしまった。 ホホーと言ったきり、その後のデンは遂に出んでしまい、口の中で噛みつぶししてしまったと言うわけさ。
先生はシガにも、もう一度来てもらえないかと言っておられる。 君の論文の別刷は先日落手拝見した。 北里先生も相変わらずお元気なようで結構だ。 例によって時々大雷が落ちる事だろう。 ドイツに来てから三度目の秋を迎えて、私も望郷の思い切なるものがある。
一九一〇、一〇、一八 フランクフルトにて、 秦 生
本文の一部紹介 |
ま え が き
この書は題名の示すように、私の恩師パウル・エールリッヒ先生の生涯とその業績とについて述べたものである。 私は昭和十五年に先生の没後二十五年の記念として、《エールリッヒ伝》 と題する先生の伝記を冨山房から出版した。 その時は史料も十分に得難く、出来栄えも意に満たぬ所が多かったので、五版も重ねた後に 版を絶った。 この度のものは旧著とは全く関係なく、新たに稿を起したものである。
始めの構想では先生の生涯と業績の他に後篇として、先生の性格や研究態度、門弟の指導方針、趣味や家庭生活、即ち 《人としてのエールリッヒ》 についても述べるつもりであったが、前篇だけで相当な頁数になったので、これだけを先生の伝記の第一部として刊行することにした。 第二部の資料も大体整理が終ったので、引き続き執筆の予定でいる。 この方は私自身の見聞による資料もかなり多いから、読者の期待はむしろこの第二部にあるのではないかと思う。 私は更に学術的評論を第三部として刊行し、一九五四年の先生誕生百年記念までには、三部作として完成したい念願である。
この第一部の執筆に当って、幾たびか構案を更めた後、この様な形式内容のものになった。 本文は説話体にすることに定め、業績を述べるにも個々の研究内容を紹介するより、研究の筋道や思想の進展の跡を解説することに意を用いた。 そのため説明が冗長になるのを恐れず、前後を照応させつつ話を進めた。 同じ事を繰り返し述べた所もあるが、少しずつ視覚を変えて説明し、全貌が次第に明らかになるようにした。 これらの私の意図が、どの程度まで功を収めたかは読者の批判を待つより他はない。 ともかく私は一般の読者にも理解されるように、煩労を厭わずして解説につとめたつもりである。 このことは碩学パウル・エールリッヒ先生の生涯と業績とを、 ―― 先生こそは二十世紀科学最大の収穫と言われる実験的化学療法学の開拓者であり建設者であるばかりでなく、先生はまた細胞生理学、免疫学の分野においても、不朽の業績を遺された ―― 一人でも多く知っていただきたかったが故に他ならない。 学問的にみて意に満たぬ所は第三部において補うつもりでいる。 なおこの度の執筆に際して、私の次男の亮が資料の蒐集整理、原稿の浄書補筆に当って、私を援けてくれたことを特に附記しておきたい。
エールリッヒ先生と私との関係については、本文中にも折にふれて述べてある。 私は前後二回ドイツに留学し、五年の間先生の研究所に遊んだ。 私は先生から科学の手ほどきを学び、科学的精神を学び、学究者として努力し精進し修業すべきことを学んだばかりでなく、人間として身を処し、世に処するの道についても、道義的勇気と判断力とを与えられた。 先生はまことに私の生涯の恩師であった。 今度先生の伝記の改稿を思い立った直接の動機は、先年八十四歳で亡くなられた先生の夫人が、私の旧稿を読まれ、それを英訳してアメリカから出版したいと言われたことによるのである ―― この間の事情は私の随筆集 「吾が生涯を顧みて」 (岩波新書) に詳しい ―― 。 夫人の死後も令孫のシュベリン博士は、貴重な資料や参考書を送って私を励まされた。 もとより本書の刊行によってこれ等の御好誼に報い得たと思うものではないが、戦災で資料の一切を失い戦後の言い難き不都合と不如意な条件のもとで、ようやくにして、ここまで漕ぎつけることが出来た私と私の次男との苦労は、先生も夫人も令孫も諒として下さることと思う。
終りに私共のわがままな注文を快く容れて種々御配慮下された冨山房社長坂本守正氏と、編輯部の芳賀 定氏、永田君子さんに篤くお礼を申し上げる。
昭和二十六年仲秋宮城県坂元村 貴洋翠荘にて著者 しるす
終