らんだむ書籍館


表紙カバー



「修訂 人物論叢」 目次


    1  聖徳太子 *

    2  伝教大師と其時代 *

    3  菅原道真

    4  平清盛論

    5  源頼朝について *

    6  明恵上人 *

    7  歴史上より観たる親鸞 *

    8  日蓮の元寇予言について *

    9  花園天皇 *

   10  一休和尚 *

   11  大久保忠隣の改易

   12  片桐且元論 *

   13  柳沢吉保の一面 *

   14  竹内式部と其時代


辻 善之助 修訂 人物論叢」

 昭和23 (1948) 年11月 3版、 雄山閣。
 (昭和22年12月 初版)
 A5版、 本文 276頁。

 巻頭の扉に続く頁に、次の一文が小活字で5行に印刷されていて、「修訂」と称した意味が示されている。
 本書は、さきに大正十四年、阿母喜寿の記念の為め出版し、ついで版を重ねたのであったが、昭和十六年、故あつて絶版の厄に遭つた。 今や時局転換し、こゝに版を新にせんとするに当り、内容に多少の添刪を加へ、題して修訂 人物論叢といふ。


 辻 善之助 (明治10(1877)年~昭和30(1955)年) は、歴史学者。 東大教授、史料編纂所長。 日本仏教史を中心に、実証的研究を展開。
 「田沼時代」、「海外交通史話」、「日本仏教史」(全10巻)などの著がある。

 本書には、右の目次に示される14人の歴史上の人物に関する論考が収められている。
 上掲の短い文の他に、著述の意図を表明した序跋などはないが、各人物論の文末にカッコ書きで置かれた初出記録から判断すると、折にふれて寄稿し、または講演した人物論をまとめたもののようである。
 したがって、人物の選定についての基準などはないようで、記述のしかたも一貫していない。 そのかわり、古代から徳川時代中期までの広い範囲にわたる、多様な人物がとりあげられている。

 目次中、 * 印を付した人物(10人)については、その人物の肖像画の写真版頁が、本文中のそれぞれの個所に挿入されている。
 いずれも国宝・重要文化財級の由緒ある画像である。

 内容紹介は、始めの方の数篇の人物論について、各人物に対する著者の評価を主眼に行なうこととする。

 「聖徳太子」 は、太子の経歴と事業についての論述が主内容をなしているが、さらに余論として天寿国曼荼羅のことが述べられている。
 経歴については、後世に創作された伝説が多いため、それらの払拭に努め、推古天皇のときに摂政となるまでは、勢力のない一皇族に過ぎなかったとしている。
 事業については、暦法の制定、国史修撰、冠位制定、憲法制定、外交関係の樹立、仏法興隆、の各項目に分けて説明しており、憲法制定と仏法興隆に関する説明が特に具体的である。 十七条憲法は、道徳を基本とした訓戒的なものではあるが、我国の法律制度の起源をなすものであり、訓戒の内容も、当時の内政・外交政策の展開に必要なことが規定されている。 また、仏法興隆は、国家のため、文明発達のための、大陸文化の移椊の必要上、企てられたことである。 三経(勝鬘経、法華経、維摩経)の疏も、太子自らの著述であろうとし、才気煥発の新文化移入者としての所産とみている。
 そして、太子の仏教信仰との関連から、最後に天寿国曼荼羅の内容が議論されている。 天寿国曼荼羅は、太子の死後、その妃・橘大女郎から推古天皇への奏請により、太子を供養するために製作された曼荼羅で、亀甲の文様中に400字からなる銘文がちりばめられている。 ここで論じられているのは、銘文中で、太子が生まれかわった所を表す「天寿国」という語である。 著者は早くからこれを、当時の弥勒信仰に基づく弥勒浄土(兜卒天)であるとしていた。 これに対して、弥陀浄土(西方浄土)であるとする反論があり、その対立点が紹介されているが、著者は反論に再反論し、自説を維持している。 この議論は、当時の信仰対象の教義の変遷と関連するため、難解である。

 「伝教大師と其時代」 は、伝教大師すなわち最澄の、天台宗開宗の経緯とその意義を論じている。
 最澄は、留学生の空海と同時期に、還学生として入唐したために、空海と同様に唐の新仏教を導入して開宗したと説かれることが多い。 しかし、本章で論述されているところによれば、それ以前からの独自の着眼と研究により、着々と開宗の準備を進めていたもので、入唐は準備の一過程としての調査活動であったようである。 (著者は、「還学生とは蓋(けだし)今の出張巡回である」 と述べている。)
 最澄の独自の着眼と研究とは、次の記述に示されるようなものである。
 … 十九歳で叡山に上り、一の庵を結び修業を始めた。 この間に、起信論疏、華厳五教章等を披閲するに、此等の章疏、皆天台を以て指南として居ることを知つた。 是に於て、台教の書籍を渇望し、後に天台法文の所在を知る人に値(会)つて、法華玄義、法華文句疏等を写した。 是れは鑑真の唐より将来した本である。 此等の書を得て大に喜び、研鑽怠らかつた。 此等の書は、当時甚乏しかつたもので、延暦の末年にも尚稀であつたと見え、菅野真道が勅を奉じて之を東大寺に請求した文書が、今東大寺に現存して居る。 この天台の書を求めたのが、大師の目のつけ所の敏い所である。 奈良の旧仏教に対して、何か新しいものをと志したのである。 従来誰も考へつかなかつたもの、鑑真和尚の新に将来したものに向つて、研究の歩を進めたのが、他日の大を成した所以である。
 ここでの記述は簡略であるが、著者の専門とする分野であり、具体的な研究成果を総括したものであることが窺われる。
 文の後半では、最澄の天台宗開宗をもたらした、仏教をめぐる状況が述べられている。 その状況は、桓武天皇による平安遷都の意図とも密接な関係を有する。 すなわち、天皇・皇族の国費を傾けての仏教尊信に伴なう政治基盤の不安定化、隆盛した寺院における僧侶の腐敗・堕落、などである。 著者は、これら最澄出現前の史実をかなり具体的に記述しており、これによって最澄の開宗の意義を鮮明にしようとしている。

 「菅原道真」 の記述は、道真が藤原時平の讒言によって大宰権帥に左遷されその大宰府の地で没したという、周知の事実には及んでいない。 述べられているのは、この時平が左大臣、道真が右大臣に任ぜられた時(昌泰2年、1559年)までのことである。 結末は周知であるから、そこに至った過程が説明されているわけである。
 時平が道真を排除しようとしたのは、学問の家柄に出た道真が異例の出世を遂げて、門閥の中心たる自分と拮抗する勢力となったことに、危機感を深めたからであった。
 道真の立身のきっかけは、いわゆる阿衡事件の処理に関し、宇多天皇の信頼を得たことである。 阿衡事件とは、藤原基経を関白に任命する際の勅書に不適当な語があって、基経が任に就かず紛糾した事件である。 勅書を改作して一応は収まったが、当初の勅書を起草した文章博士・橘広相の責任追及に発展した。 このとき道真は、事態収拾の鍵を握る基経に書を送り、条理を尽くして広相追及の動きを停止するよう説得したのであった。 広相は、天皇が信任していた人物で、しかもその娘は天皇のもとに入内して親王を生んでいる、という間柄であったから、この事件の解決は天皇を安堵させた。 その結果、藤原氏の横暴を牽制する意味もあり、道真が抜擢・登用されることとなったのである。
 登用後の道真が行なった重要な献策として、遣唐使の廃止がある。 これは、道真自身が遣唐大使に任命されたことに、端を発するものであった。 この任命も、道真を敬遠・排除しようとした藤原氏側の画策によるものであったらしい。 これに対して道真は、諸公卿によって遣唐使派遣の是非を議論して決定するよう請求し、また、在唐僧からの書面によれば唐はすでに凋落傾向にあること、一方、従来の例から遣唐使の航海には危険が大であることを理由に、派遣停止を上書し、これを実現させたのであった。 著者はここで、遣唐使船が遭難した例や、遣唐使と副使が乗船する船をめぐって争った例などを挙げて、道真の上書の妥当性を証するとともに、「…之を国の大事独り一身の為ならずとして、在唐僧の書に因り停止の議を上(たてまつ)つた公の態度は まさに敵の裏をかくといふもので、如何にも巧なりといふべきである」 と評している。
 さらに道真の輔弼の見識が示されたのは、宇多天皇の譲位の際であった。 天皇が始め譲位を思い立ったときは、「天の時」あることを述べてその表明を思いとどまらせ、遂にその意思を固めたときは、他からの言説に惑わされずに実行すべきであるとして「石の如く転ぜざらしめた」という。
 宇多天皇の譲位を受けた醍醐天皇のとき、道真は右大臣に任ぜられ、藤原氏の警戒感が強まった。 道真の栄達を危惧した三善清行は、書を送って隠退を勧告したが、道真はこれに従わなかった。 著者はいう。 「…公は決して明哲保身の術を知らなかつたのではない。 其の身を以て天下の重きに任ずるが故に、敢てその位を去らず、禍の身に迫るをも顧みなかつたのであつて、是れ実に已むを得ざるに出たのである。 公は洵に誠実一貫、忠を致し節を竭すの士であつたのである。」

 後続の人物論のいくつかについても、簡単にふれてみよう。

 驕傲なマイナスイメージがある平清盛については、実行力に富んだ非凡な人物への修正がなされている。 まず、後白河法皇との関係では、軽挙妄動の多い法皇に対して断固とした行動をとらざるを得なかった、清盛の立場が説明されている。 次いで、当時の混乱した情勢(特に比叡山・三井寺・興福寺等の山徒の騒動)に対して指導力を発揮したこと、福原遷都や日宋貿易、厳島造営などの事業を敢行したこと、などを挙げてその非凡さを称揚し、頼朝に先立つ武家政治の創始者であるとしている。

 しかし、清盛およびその一族(平家)は 藤原氏に倣って公家風の栄華に耽り、その武家政治を定着させることは出来なかった。 源頼朝は、早くその弊に気づき、東国の鎌倉に幕府を開いて この地を離れず、京都の公家勢力に超然として、独特の武家政治を展開していった。 辻はまず、この点を頼朝の成功要因としている。 しかし、「この頼朝の主意も、時を経 世を代ふるに随うて、やうやう忘れられて、鎌倉の武士は京都の風をまねる者 漸く多く、つひに武家文明の色彩もやうやく薄らぐやうになつて、鎌倉幕府は亡びるのである。」

 花園天皇については、歴代天皇中まれに見る、学識豊かで人格円満な方であったとして、その日記や書簡を引用して具体的にそのことを説明している。 特に、後の光厳天皇が皇太子のときに授けた書面(誡太子書)については、長文の原文を全て引用し、その意味を丁寧に解説したうえで、次のように述べている。 「…この誡太子書ほどの大文章に於て、是だけ意味が通つて、而も預言者の如く天下の形勢を観察して、是だけの文章の書ける人が、日本全体、天皇といはず、臣下といはず、古今を通じて、幾人あるか。 …」

 一休は、弊衣粗食で、奇行の多かった人であるが、その生活信条から、僧侶としての形式を重んずる兄弟弟子の養叟と不和になり、互に非難し合うようになった。 一休からの攻撃の詩文は罵詈雑言を極めていて、泥仕合のような観を呈している。 一休は、決して 恬淡とした人物ではなかったのである。

 大久保忠隣は、徳川幕府創業における柱石の臣ともいうべき人物であるが、家康・秀忠から共に重んじられていた本多正信がこれに強い対抗意識を持ち、画策・讒言を行なったため 失脚するに至った。(その概要については、「常山紀談」にも記述がある。) 本論は その経緯を詳細に追ったものであるが、さらにその後のことにも及んでいる。 すなわち、正信の長男・本多正純は、忠隣が正信から受けたと同様の讒訴に基づき、同様の方法で失脚させられた(因果応報)というのである。



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