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カバー

口絵写真 (内田銀蔵博士)



「近世の日本」  目次


   一  江戸開府

   二  幕府権力の確立

   三  鎖国

   四  文教の興隆

   五  新井白石

   六  徳川吉宗

   七  新気運の勃興

   八  松平定信

   九  天保の改革

   十  開国

   十一 幕府の衰亡


日本文化名著選
内田銀蔵 「近世の日本」


 昭和13 (1938) 年10月 発行、 創元社。
 B6版、函入り。 本文 173頁。


 内田銀蔵 (明治5(1872)年〜大正8(1919)年) は、歴史学者。 京大教授。
 明治29(1896)年、東京大学国史科を卒業。(同期に、黒板勝美、喜田貞吉、幸田成友がいる。)  日本経済史研究の開拓者で、独自の史料分析に基づく実証的な研究を展開した。
 「日本近世史」、「日本経済史の研究」、「日本経済史概要」、「経済史」などの著がある。


 本書は、大阪の懐徳堂で、大正7(1918)年1月から6月にかけて11回にわたって行なわれた公開講演の筆記を、著者自身が補訂して一書としたもので、初版は大正8年(すなわち著者の死去の年)に冨山房から発行された。
 ここに紹介するのは、「日本文化名著選」というシリーズに加えられたことによる、再刊本である。

 著者は、当時の一般的な時代区分観に基づいて、江戸時代を日本の近世としているので、本書 「近世の日本」 の全体の内容は、江戸時代の通史になっている。
 そして目次を構成する11の章が、この江戸時代をさらに区分しているわけであるが、これらの章名はもともと各回講演の主題として設定されたものであるから、自ずと、それぞれの時期における顕著な傾向や主要な政策を、簡潔かつ的確に表現するものになっている。

 本書の大きな特徴は、幕府によって立案・実行された政策を中心に、叙述されていることである。 このため、社会現象的な事がら、たとえば江戸時代についての書物が必ず取り上げる町人文化 (歌舞伎、俳諧、浮世絵、…) などには全くふれていない。 そのかわり、幕府の政策と深くかかわった儒学に関しては、主要な学者の業績も含めて割合ていねいに記述されている。 小冊子の限られたスペース (元をただせば講演時間) 内に、約280年も続いた時代の全体について説明するのであるから、このような叙述にならざるをえないであろう。
 説明が詳細を尽くさない点を補うかのように、文中に参考文献が豊富に紹介されていることも、本書の特徴と言えよう。 これは、懐徳堂という伝統ある教育施設での講演であり、向学心旺盛な聴衆のための配慮であったのだろうか。

 最後に文章表現について言えば、講演の口調がそのまま残っていて、やや冗長・緩慢であるが、要点が整理されているため、論旨は明快である。



 「本文の一部紹介」 には、「九 天保の改革」 の章を掲げる。  天保の改革は、性急に過ぎて失敗したので、本章の記述はその失敗原因の説明が主体になっている。 これは、この改革の一般的な評価と共通しているが、他書といささか異なるのは、この改革を独断専行した水野忠邦という人物を、かなり好意的に見ていることであろう。
 また、章の後半は、記述の重点が、改革を離れて対外関係に移っており、動物学者 ・ 渡辺庄三郎の論文を利用したロシア人の日本近海進出の事情の考察など、内田らしい独自の論旨が展開されている。



本文の一部紹介

     九  天保の改革


 天保の改革と云ふことに就きまして申述べます。 此の天保の改革と申しますのは、御承知の如くに 水野忠邦と申す人が主として遣(や)りましたのでござります。 其のことは曩(さき)に 『経済大辞書』 の 「水野忠邦」 と申す項の中に記して置きました。 今 申述べますことも、大体それに書いて置きました事と同じ様なことに自然ならうかと存じます。 尚ほ委しくお調べになります方には、此処に参考書及び論文の第一に掲げて置きました 『丕揚録』 それから三番目の 『大阪市史』 などを御参考になつたら宜しからうと存じます。 唯 『丕揚録』 は写本で存して居る丈であつて、未だ版にならぬと存じます。 且 其の写本と申しますものも、未だ世間に流布して居るまいと存じます。 依てそれを御覧になる事は難いと存じますが、其の内容の大体は二番目の幸田成友氏が曩に 『史学雑誌』 に掲載されました 『丕揚録解題』 によつて之を察する事が出来ます。 此の書は水野家の大体の事を書きましたもので、十冊ござりますが、第九冊及び第十冊目に忠邦の事蹟が彼是記してござります。 それから 『大阪市史』 は御承知の如くに、大阪市で幸田氏を主任として、多年かゝつて作られました立派な書物でござりまして、本文とそれから資料、町触と云ふ様なものが其の中にござりますが、本文の中の第二冊目に、此の天保の改革の事が頗る委しく記してござります。

 これより 水野忠邦の経歴の概略を申述べたいと存じますが、此の忠邦と申します人は、肥前の唐津の城主の水野忠光と云ふ人の第二子でございます。 寛政六年即ち西暦千七百九十四年に江戸で生れました。 其の法名を英烈院殿と申しまする所から、或は英烈院とも云ふのでございます。 文化九年封を襲ぎまして唐津六万石を領し、和泉守と申しました。 時に十九歳でございました。 それから同じく十四年に二十四歳で寺社奉行に任ぜられまして、左馬将監と改名致しました。 此同じ年に封を移されまして、浜松の城主となりましたのでございますが、これは忠邦自ら乞うて此の事があつたと云ふ事であります。 即ちこれに拠つて他日老中となるべき素地を作つたのであります。 それから或は忠邦のことを浜松侯と申します。 文政八年に大阪の城代となり、其の翌年には京都所司代に転じ、そして名を越前守と改めました。 それから忠邦は水野越前守として 世に知らるゝ事になつたのである。 十一年に西丸老中となりまして、世嗣を補佐し、天保五年に老中となり、八年に御勝手御用掛に任じまして、幕府の会計を処理する事になりました。 御勝手御用掛と申しますのは、専ら財政の事を掌るのであります。 此の年に将軍家斉 即ち文恭公は退隠されまして、世嗣の家慶が将軍に任ぜられましたが、其の後でも家斉の在世中は猶 大御所と申しまして多く大事を決して居りましたから、忠邦は未だ其の手腕を延ばし、其の抱負を実現致す機会を得ませぬでした。 然るに天保十二年、西暦千八百四十一年家斉が薨じまして それから致しまして 忠邦は意の如く政治上の改革を断行する事が出来ましたのでございます。 天保十二年に忠邦は年四十八歳でございましたが、これから行ひました所の改革が 所謂 天保の改革であります。

 天保の改革と申しますものゝ、大体は曩に述べました享保年間八代将軍の致しました所の政治 並に 寛政中の松平定信の改革を手本に致しまして、風紀を振粛し、倹約を励行し、浮華を去つて質朴に帰り、奢侈を斥け、淫卑惰弱の弊風を一洗すと云ふのであつたのでございます。 此の改革の趣意と云ふものは、天保十二年五月十五日を以て発表致されましたが、其の中に
「御政事之儀 御代々之思召(おぼしめし)は勿論之儀、取分(とりわけ) 享保、寛政之御趣意ニ不(たがはざるやう) 思召候ニ付、何レモ厚ク相心得(あひこころえ)相勤(あひつとむべきこと)、」
と申渡し、又 老中からの申渡しの中に
「分テハ享保、寛政之御政事向ニ相復シ候様トノ御儀」
と云ふ事がございますのによりましても、先づ其の大体の方針を察する事が出来ます。 併しながら 大体に於きましては享保・寛政の時に帰ると云ふ事がございましたけれども、其遣り方の一々の細かい点を見ますと云ふと、享保は享保、寛政は寛政、天保は天保と、それぞれ必ずしも同じからざる所がございます。 此の天保の改革は、殊に急激でありまして、そして又極端な事を試みた訳であります。 其の改革を試みた期間は誠に短い、即ち天保十二年の五月からして、同十四年の閏九月、忠邦が職を免ぜらるゝに至ります迄、約二ケ年半の間行はれましたのでございまして、天保年間ずつと通して行つたと云ふ訳ではございませぬ。 期間は短いけれども、急激に中々色々の事を致し、従つて其の治績は頗る注意すべきものがあり、其の当時の人々に甚だ大なる印象を与へたのでございます。 先づ第一に行つた事は即ち倹約令、奢侈を厳禁致し、倹素に帰らしむと云ふ為に、随分極端な事を令したのであります。 それから風俗矯正の為には 劇場・寄席・遊郭等を厳重に取締り、富籤の興行を停止すると云ふ事を致しました。 官紀の振粛(引き締め)と云ふ事には頗る意を用ゐ、又武事を奨励し、文教を起すと云ふ方にも意を用ゐたのでございます。 それから此の外に経済上の施設(施策)と致しましては、独占の弊害を除きまして、物価の騰貴を防ぐと云ふ為に、問屋仲間の組合の廃止を断行致しました。 それから農本主義と云ふものは 当時行はれて居りました所の思想でございますが、忠邦は矢張り其の思想を採りました。 当時人口が大都会に集中致します傾向がある。 田舎の百姓が段々と都会の方へ集つて、耕作を止めて安逸の生活を貪らうとする傾があると致しまして、それを防ぐ為に、江戸への移住出稼の取締を厳重にした事などがございます。 此の問屋の仲間組合と云ふものを悉く廃止し、冥加金(豪商から幕府への献納金。 実態は、幕府からの強要によるものであった)の上納を止めまして、何人も商品売買自由たるべしと云ふ令は、天保十二年十二月十三日を以て発布せられたものであります。 それから其の次にまた十三年三月の令を以て、問屋と云ふ名称を止めさせまして、米屋は米屋、炭屋は炭屋とばかり命じ、従来卸売ばかりして居つた仲買に、卸売ばかりでなく、小売を専にして、品物が払底した場合は、卸方を見合せても小売に差支のないやうにと申渡した事でございます。 之は当時商業上に独占即ち専売の弊害がありまして、当時物価の騰貴と云ふものは、主としてそれが原因となると云ふ考から致しまして、其の弊を矯めまして、売買の上の制限をなくして、何処から出た品であつても、素人が直売買を勝手次第にさせると云ふ事に致しましたならば、問屋が勝手に値段を高く致しまして、過分の利益を貪ると云ふ弊を救ふ事が出来て、社会の利益になるだらうと云ふ考から致したのでございますが、世間で色々恨言を放ち、非議する者も多く、又 物価も予想の如く下落致しませぬものでございますから、暫くは其の儘でございましたが、嘉永四年に再興(改革前の状態への復帰)を見るに至つたのであります。 それ等の事に就きましては、茲に引いて置きました 『徳川時代商業叢書』 の第三冊目の収められてゐる 『諸問屋再興調』 に載つて居ります。 それなども当時の事情を察する上に参考になると思ひます。 尚ほ 『徳川時代商業叢書』 と云ふものには、堂島の米売買に就いて記述した 『堂島旧記』 でございますとか、或は徳川時代の初期に於きましての生糸の輸入貿易 並に堺の港の沿革などを記しました 『乱糸記』、其の他京都の町人の事を書きました 『町人考見録』、江戸の町人旧家の事蹟を知る上に参考になる 『町方書上』 と云ふものなどが収められてあります。 それぞれ参考になると存じます。 是は序に申述べて置く事でございます。

 江戸への移住出稼の取締と云ふ事に就き、またそれに伴ひまして、江戸の人別改めと云ふ事に就いては、随分細密な令達を致したのであります。 それは天保十二年三月の事である。 此の事に就きましては、『徳川禁令考』 の巻六十に出て居るのを御参考になつても宜しからうと思ひます。 尚ほ天保年間の人別改めに就いても、幸田氏は先般 『三田学会雑誌』 に特別の研究を発表されました。

 談は前後申しますが、天保の改革の事に就きましては、前に申しました 『大阪市史』 などの外に、例へば 『東湖遺筆』 や 『匏庵遺稿』 の中にも、参考すべき記事があつたやうに思ひます。 又近頃のもので 『偉人叢書』 の第十五巻に工藤武重氏の 『水野越前』 といふものがあります。 それから 『浮世の有様』と云ふものが 『国史叢書』に収められて出版になりましたが、これは天保の改革及び其の前後の事を 色々記述したものであります。

 其の他に政治上・財政上の施設と致しましては、或は江戸大阪附近十里四方上知 (江戸・大阪の十里四方の地を全て幕府領とし、入り組んで領有されていた大名領や旗本領を返上させる、という命令) の事を令し、或は印旛沼開鑿の完成を計画したこともございます。 けれども 是等に就きましては大分非難がございまして、何れも目的を達する事が出来ませず、彼自らも為に其の位置を失ふやうになりました。 即ち天保十四年閏九月十三日に、彼は御勝手取扱につき不行届があつたと云ふ廉を以て、老中職を免ぜられたのである。 其の後忠邦は天保十五年、即ち弘化元年の六月に、再び老中に任ぜられまして、閣老の首班を占めましたけれども、間もなく二年二月に職を罷められました。 爾来彼は引続き失意の境遇にあり、嘉永四年、西暦千八百五十一年を以て没しました。

 一体忠邦と申します人は頗る気概があつた人で、時弊を矯めやうと致しまして、奮然群議を排して改革を決行致しましたわけである。 此の人は漢学も国学も修めた人でございまして、学問は中々好きな人でありました。 それから事務の才もあつた人でありまして、『丕揚録』 の中に出て居る所によりますと、役所からして入り込みまする長文の伺書や申達書などが参ると云ふと、一寸サラサラと巻き返して見るやうな具合にして、粗雑に見るやうであるけれども、よく其の要点を明にして、それに対して指図をすると云ふ様な訳であつて、膝を埋めるばかりの文書も 其の日に埒が開いたと云ふ事で、随分裁決が早いと云ふ事であつた。 併し裁決が早いからと云つて、事を疎漏にするかと云ふと、さうではなくて、矢張り之迄の閣老などが多く下の方から持つて来ると、直ぐ宜しいとして居つたのを、忠邦はこれは何、これは何と、一々不審を立てゝ、これはどうかあれはどうかと聞き質してやつたから、人々皆これは油断がならないと云つて居つたと云ふ事であります。 中々精力家であつて、敏腕であつたに相違ない。 併しながら其の性質は急激であつて厳峻に過ぎ、且つ使はれて居た部下や世間の気受けが宜しくなかつた。 かう云ふやうな事がございましたが為め、人望を失しまして、折角の改革も思ふやうに行はれないで済んだ訳であります。 併しながら尚ほ一歩進んで考へて見ますと云ふと、単にその改革が急激であり、又厳峻に過ぎたと云ふ事と、使はれて居た人が其の人を得なかつたと云ふ以外に、尚ほ改革の旨く行かなかつた理由があらうかと存じます。 即ち天保の改革と申しますものは、大体に於きまして、前申しました如く、享保・寛政の改革を踏襲致しましたものでございまして、改革と申しますが、其の性質其の方針に於きましては、保守的、反動的のものであったのでございます。 而して時勢はと申しますと、享保・寛政の昔とは余程変つて居ります。 最初遣りました時と、二度遣りました時と、三度目となりますと、自然効果が薄くなつて来る上に、時勢も此の改革を行ふに一層都合が悪くなって来て居る。 さう云ふやうな事柄が、此の遣り方の宜しきを得なかつたと云ふ事と相伴ひまして、遂に失敗に終る事になつたかと思はれます。

 そこで、此の天保改革のことを述べまするに就きまして、同時に天保年間 其の前後の対外関係のことを少しく申しまして、此の次に開国と云ふ事をお話しする端緒を開いて置きたいと存じます。 此の事を調べまするに就きましては、前に挙げて置きました 『 通航一覧 』 並に 『 続輯 』 と云ふものが、根本的材料を捜索します上には 余程便利であります。 此の 『 通航一覧 』 並に 『 続輯 』 と云ふものは 根本史料其のものではなく、編纂物ではあるが、其の中に根本史料を多く其の儘引いて 輯録してあります。 但し 『 通航一覧 』 は 国書刊行会から出版になつて居るが、『 続輯 』 は 未だ版になりませぬ事は遺憾であります。 専門家でないお方が 一通りお知りになる為に、今日の所で 最も纏つて便利なものでは、先づ 前の大隈伯、今の大隈侯の著として出ました所の 『 開国大勢史 』 であらうと存じます。 『 開国大勢史 』 は 専門家に命じて 材料を集めさせて作られたものと見えて、直接開国の事を書いてあるばかりではありませぬ。 彼の西洋人が初めて日本に参つた頃からして、徳川時代の初期の外交、それから鎖国時代を経て、開国の顛末に及んで居る。 実は 『 近世日本外交史 』 と申すべき書物であります。 其の他色々 此の時代の対外関係に就いて 有益な参考すべき論文もございますが、其の中の一つで、頗る特色のあるものとして、渡瀬庄三郎氏が 『 史学雑誌 』 第二十七編第十二号に載せられた 「 毛皮の獲得と民族の発展 」 と題する論文を挙ぐることが出来ます。 渡瀬氏は 動物学者で 東京帝国大学理科大学の動物学の教授であります。 其の専門の方から致しまして、此の獣の皮を取る為に 如何に民族が遠方に赴いて活動したか、又 それが如何ばかり 世界の大勢の上に影響して来たか、又 それが日本の開国の上に 如何なる影響を及ぼしたかと云ふ事を、余程面白く説いて居られます。

 前に私は 彼の露西亜人のラツクスマン及びレサノフが 前後相踵いで日本に来たことを申しましたが、レサノフの参りました事は 矢張り毛皮の獲得と頗る関係があります。 露西亜人が土地侵略の方向は 段々と東の方に進んで参つたのであります。 東に向ふのは 南に向ふよりは遥に容易であつたからである。 凡て南の方は 地理的恩恵が豊富であつて、従つて多くの種族が住んで居ります。 露西亜人が南下しやうとすれば、それ等の種族と衝突し、色々と面倒になり易い。 然るに 北の方は割合に人が少く、対抗する者がないから、北の方を通つて東進するのは 甚だ事が容易である。 さう云ふやうな次第で以て、露西亜人は 比較的短い間に、容易に東方に進み、広大なる面積を占領致しました。 即ち 西比利亜(シベリア)を略し、勘察加(カムチャッカ)をも取つたのであります。 それから ベーリングなど云ふ人の探検がありまして、更に亜米利加大陸の方まで進んで行き、アラスカの方まで参りました。 アラスカは 今は北米合衆国領でありますが、割合に近く迄 露領でありました。 其の辺でどう云ふ事をしたかと云ふと、獣を捕へて、其の皮を採ると云ふ事が 主なる仕事でございました。 ところが 其の獣皮採取の事業に従事致しますのに必要な物資を供給するには、陸路を馬で以て運びます事は 中々困難でありまして、費用も多くかゝり、時日も多く費へる。 然るに 勘察加(カムチャッカ) 又は其の付近の島から致しまして、支那の広東辺、或はバタビヤ、印度の方へ交通を開き、獣皮も広東などへ持つて行つて捌き、必要な物資も其の辺から供給を仰ぐと云ふ事にすれば 大変べんりである。 かやうな事を考へ、それを致しまするには 日本を中継に致す必要があるとした。 レサノフが参りましたのには、かやうな事情もあつたのであります。 レサノフは其の目的を達せずして 日本から帰る事になりましたが、其の後に露西亜人が江刺の方へ来つて 乱暴狼藉を致したと云ふ事がございます。 それは 其の当時は大袈裟に考へられまして、余程 人心の動揺を来した事でございます。 其の上 文化五年に 彼の英吉利人がフエトン号と云ふ軍艦に乗込んで、長崎へ来て 狼藉を致した事がございます。 それは 其の当時は大袈裟に考へられまして、余程 人心の動揺を来した事でございます。 其の上 文化五年に 彼の英吉利人がフエトン号と云ふ軍艦に乗込んで、長崎へ来て 狼藉を致した事がございます。 かやうな訳で 海防の忽諸(なおざり)にすべからざる事を、幕府の当局者が痛切に感ずるやうになつたのであります。 天保になりましては、其の頃は 已に米国の商人が支那の方に参り、商売を致す者がございまして、日本の漂民を送還し、同時に日本との交通を開かうと考へ、モリソンと申す船を派遣したのであります。 それは即ち 天保八年の事であります。 これより先き 日本での外国船の取扱方は どう云ふ事であつたかと云ふと、文政年間には余程厳重な令を出しまして、異国船は直ちに打払へ と令したのであります。 さう云ふやうになつて居ります所へ モリソン号が参りましたのでありますから、此の船が浦賀に参りましても、漂流民を送り届ける事も出来ず 解纜(出帆)致し、鹿児島でも思ふやうに参りませんで、遂に目的を達せずに 支那の方に帰つてしまつたのであります。 此のモリソン号の来ると云ふ事を 早く和蘭の方から報じましたが、当時の蘭学者は モリソンを人の名前と思うた。 それは兎に角、高野長英 ・ 渡辺崋山などの考では 一も二もなく打払ふと云ふ事は善くない としたのである。 崋山 ・ 長英の事は 往年 藤田茂吉氏が 『 文明東漸史 』 で特に之を論じ、今も人口に膾炙して居る事であります。 これも 水野忠邦の時代 即ち天保年間の事である。

 之を要するに ペルリの参りましたのは これより後の事でございますけれども、ペルリの参ります以前から致しまして、或は露西亜人が北辺に到り、或は米国人が支那からモリソン号を寄越した事があり、其の外 日本の近海には 捕鯨船などが出没する事がありまして、大分油断が出来ない時勢になつて来たと云ふ事は、当時の先覚者が気付いて居り、又 幕府に於きましても、断然方針を変へる所までは行かなかつたけれども、或る程度まで其の事に注意致しまして、警戒を致し、考慮して居つた事でございます。 忠邦の如きは どちらかと云へば海外の事にも注意致しまして、そして彼の西洋の砲術と云ふものゝ価値を認めて、砲術は日本でも奨励しなければならぬと云ふ事に 気付いた人でございます。




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