らんだむ書籍館


表紙カバー

中央に配置された写真については、カバーの
内側に、小穴隆一による次のような解説がある。
「 田端の玄関の格子にさがつてゐたことの
あるこの忙中謝客は、大正十五年四月十五日
以後、東北・北海道・新潟(十一巻参照)まで
での間のものと思ふ。 第一回全集(昭和二年)
のときに、誰れがとつておいたのかと感心した
もので、いつもこれが格子にぶらさがつてゐた
といふ次第では決してない。 」
*スペース*


内  容


 芥川龍之介の生涯と芸術   吉田 精一

 芥川文学の魅力       中村真一郎


 〔各時代の芥川観〕

 「鼻」           夏目 漱石

 「秋山図」         豊島与志雄

 「河童」         「新潮」合評

 芥川の事ども        菊地  寛

 芥川龍之介を憶ふ      佐藤 春夫

 芥川龍之介         福田 恒存

    他 23 篇


 芥川龍之介と現代作家(座談会)
   梅崎 春生  佐々木基一  寺田  透
   三島由紀夫  安部 公房  野間  宏
   中村真一郎


 参考文献


中村真一郎・編 「芥川龍之介案内」

 昭和30 (1955) 年10月 第二刷、 岩波書店。
 (昭和30年8月 第一刷)
 新書版、クロース装。 本文 302頁。


 岩波書店は、昭和29 (1954) 年から30 (1955) 年にかけて、新書版サイズの普及版 「芥川龍之介全集」 を刊行した。
 全集の本体は、第1巻〜第19巻の19冊であったが、さらに20冊目としてこの 「芥川龍之介案内」 が出た。 奥付には、「第二十回配本」 とあって、全集中の1冊として扱われている。
 同書店からは、この 「芥川龍之介全集」 に先立って、やはり同サイズの普及版 「二葉亭四迷全集」 および 「啄木全集」 が刊行されたが (いずれも昭和28−29年)、両全集にはそれぞれ 「二葉亭四迷案内」 ・ 「啄木案内」 が付属していた。 「芥川龍之介案内」は、これらの例に倣って制作されたのである。

 本書の目次はかなり詳細であるので、カバーの裏表紙に示された 「内容」 を、右下に掲げた。
 少し補足すると、「各時代の芥川観」 と 「座談会」 の間に 「外国人の見た芥川」 という論文があり (筆者は斎藤襄治)、「座談会」 の後には 「参考文献」 (雑誌・新聞記事と単行書) が掲げられている。
 「各時代の芥川観」の部分は、実際には 「T 同時代の批評」、「U 追憶」、「V 現代の批評」 の3部分に分かれており、これらが本書全体の大部分を占めている。
 編集者の中村真一郎は、日本流の私小説偏重の視点を西欧的意味での「小説」に移し、その新たな視点から、芥川作品の開拓者的意義を評価した人である。

 最初に置かれた吉田精一「芥川龍之介の生涯と芸術」 は、本書のために書き下ろされた文章のようである。 「案内」 と銘打った本書のさらに導論的部分をなすものであるから、芥川についての親切な解説文のように思われるが、読んでみると全くそうではない。 生涯に関しても作品に関しても、それまで充分に論じられていない点などに絞って、かなり専門的な考察が行なわれている。
 これは、編集者の意図に対応していないのではないかと思われるが、このようになった理由は、文末の筆者の注記に示されている。

 「私は既刊の拙著「芥川龍之介」(三省堂・河出書房)その他と成るべく重複せぬやうに心がけた。 それをも参照されれば幸ひである。」

 吉田の研究者としての誠実さが、こうさせたわけである。
 作品についての考察部分の中に、62作品(創作順)の 「材源」 すなわち出典が列挙されている。 個々の作品について、その材料や典拠が指摘・論述されることはあるが、このように一覧として提示したものは本篇のみで、今日でも資料的価値は高いと思われる。

 中村真一郎「芥川文学の魅力」 も書き下ろしの文のようであるが、この文の方が、本書の導入部にふさわしい。
 はじめに、芥川は在世当時から現在(この文の執筆時)まで、文壇内では批判にさらされることが多かったことを述べ、それにもかかわらず、相変わらず多くの読者を獲得していることを指摘し、その読者側の反応から芥川文学の魅力を引き出すべきである、としている。
 そして、芥川の作品について、「別世界」 「唯美的」 「モザイク」 「意識の多層性」 という特徴をとらえ、それぞれの面から魅力の探索・把握を試みている。

 菊地寛「芥川の事ども」 は、「文芸春秋」 の昭和2(1927) 年9月号に掲載された文章であるから、芥川の死 (同年7月24日自殺) 後まもなく書かれたものである。
 このため、盟友としての立場から、その自殺についての深い理解と同情を示すことが主体となっている。 熱血漢らしい率直な筆致で、芥川に対する真情が吐露されている。

 佐藤春夫「芥川龍之介を憶ふ」 は、「改造」 の昭和3(1928) 年7月号に掲載された文章で、芥川の死の1年後に書かれたものである。
 芥川との十年あまりに及ぶ交流を綴りながら、菊地の文よりも文学の内容に深く入り込んだ、好篇である。 二人は、文壇的交遊を越えた、緊張感のある友情で結ばれていたようで、その時々の、それぞれの事情にからんだ接触や葛藤などが、率直に述べられている。
 佐藤の 「処世術」 という小品文について、芥川はその中に出てくる人物が自分ではないかと、「白刃を閃かし」 たように言ったという。 読んでいる方も、ハッとさせられる。
 芥川の最後の作品 (遺稿) のタイトル 「歯車」 は、原稿を読んだ佐藤が提示した案を芥川が受け入れたもの、という話も興味深い。

 芥川龍之介およびその作品を研究する立場からは、他にも参考になる論述がありそうだが、読者の立場からは、あまり興味を引くものはない。
 審判者が下すような口吻での辛辣な批評が多いのに驚かされるが、その筆者ないし発言者 (…多くは既に埋没しているが) の自己顕示が感じられて、むしろ滑稽である。



 今回の 「一部紹介」 には、菊地寛「芥川の事ども」 を掲げる。



本文の一部紹介

芥川の事ども*スペース*

菊地 寛*スペース*


 芥川の死について、いろ  な事が書けさうで、そのくせ書き出して見ると、何も書けない。

 死因については我々にもハッキリしたことは分らない。 分らないのではなく結局、世人を首肯させるに足るやうな具体的な原因はないと云ふのが、本当だらう。 結局、芥川自身が、云つてゐるやうに主なる原因は 「ボンヤリした不安」 であらう。

 それに、二三年来の身体的疲労、神経衰弱、わずらはしき世俗的苦労、そんなものが、彼の絶望的な人生観をいよ  深くして、あんな結果になつたのだらうと思ふ。

 昨年の彼の病苦は、可なり彼の心身をさいなんだ。 神経衰弱から来る、不眠症、破壊された胃腸、持病の痔などは、相互にからみ合つて、彼の生活力を奪つたらしい。 かうした病苦になやまされて彼の自殺は、徐徐に決心されたのだらう

 その上、二三年来、彼は世俗的な苦労が絶へなかつた。 我々の中で、一番高踏的で、世塵を避けようとする芥川に、一番世俗的な苦労がつきまとつて行つたのは、何と云ふ皮肉だらう。

 その一の例を云へば興文社から出した 「近代日本文芸読本」 に関してである。 此の読本は、凝り性の芥川が、心血を注いで編輯したもので、あらゆる文人に不平なからしめんために、出切るだけ多くの人の作品を収録した。 芥川としては、何人にも敬意を失せざらんとする彼の配慮であつたのだ。 そのため、収録された作者数は、百二三十人にも上つた。 然し、あまりに凝り過ぎ、あまりに文芸的であつたゝめ、沢山売れなかつた。 その印税も編輯を手伝つた二三子に分たれたので、芥川としてはその労の十分の一の報酬も得られなかつた位である。 然るに、何ぞや 「芥川は、あの読本で儲けて書斎を建てた」 と云ふ妄説が生じた。 かうした妄説を芥川が、いかに気にしたか。 芥川としては、やり切れない噂に違ひなかつた。 芥川は、堪らなかつたと見え、「今後あの本の印税は全部文芸家協会に寄付するやうにしたい」 と、私に云つた。 私は、そんなことを気にすることはない。 文芸家協会に寄付などすれば却つて、問題を大きくするやうなものだ。 そんなことは、全然無視するがいゝ。 本は売れてゐないのだし、君としてあんな努力を払つてゐるのだもの、グズ  云ふ奴には云はして置けばいゝと、私は口がすくなるほど、彼に云つた。 彼が、多くの作家を入れたのは、各作家に対するコムプリメントであつたのが、却つてそんな不平を呼び起す種となり、彼としては心外千万なことであつたらう。 私が、文芸家協会云々のことに反対すると、彼はそれなら今後、印税はあの中に入れてある作家に分配すると云ひ出したのである。 私は、この説にも反対した。 教科書類似の読本類は無断収録するのが、例である。 然るに丁重に許可を得てゐる以上、非常な利益を得てゐるならばともかく、あまり売れもしない場合に、そんなことをする必要は絶対にないと、私は云つた。 私が、さう云へばその場は、承服してゐた様であつたが、彼はやつぱり最後に、三越の十円切手か何かを、各作家の許に洩れなく贈つたらしい。 私は、こんなにまで、こんなことを気にする芥川が悲しかつた。 だが、彼の潔癖性は、かうせずにはゐられなかつたのだ。

 この事件と前後して、この事件などとも関連して、わずらはしい事件が三つも四つもあつた。 私などであれば 「勝手にしやがれ」 と、突き放すところなどを、芥川は最後まで、気にしてゐたらしい。 それが、みんな世俗的な事件で、芥川の神経には堪らないことばかりであつた。

 その上、家族関係の方にも、義兄の自殺、頼みにしていた夫人の令弟の発病など、いろ  不幸がつゞいてゐた。

 それが、数年来萌してゐた彼の厭世的人生観をいよいよ実際的なものにし、彼の病苦と相俟つて自殺の時期を早めたものらしい。

 さう云ふ点で、彼の 「手記」 は、文字通り信じてよく、あれ以上いろ  臆測を試みようとするのは、死者に対する冒涜である。 あの中の女人が、文子夫人でないとしても、その女人との恋愛問題などがある程度以上のものである筈なく、たゞあゝした女人も求むれば求め得られたと云ふ程度のものだらう。 あの「女人云々」について、僕宛の遺書には、その消息があるなどと、奇怪な妄説をなすものがあつたが、さう云ふ妄説を信ずる者には、いつでも自分宛の遺書を一見させてもいゝと思つてゐる。 僕宛の遺書は僕に対する死別の挨拶の外他の文句は少しもない。

 芥川の 「手記」 をよめば、芥川の心境は澄み渡つてゐ 落付き返つてゐ、決して生々しい原因で死んだのでないことは、頭のある人間には一読して分るだらう。 芥川としては、自殺と云ふことで、世人を駭すことさへも避けたかつたのだ。 病死を装ひたかつたのであらう。


 芥川と自分とは、十二三年の交情である。 一高時代に、芥川は恒藤君と最も親しかつた。 一高時代は、一組づゝの親友を作るものだが、芥川の相手は恒藤君であつた。 この二人の秀才は、超然としてゐた。 と、云つて我々は我々で久米、佐野、松岡などと一しよに野党として、暴れ廻つてゐたが、僕は芥川とは交際しなかつた。

 僕が芥川と交際し始めたのは、一高を出た以後である。 一高を出て、京都に行つて夏休みに上京した頃、初て芥川と親しくしたと思つてゐる。 その後、自分が時事新報にゐた頃から、親しくなり、大正八年芥川の紹介で大阪毎日の客員となつた頃から、いろ  親しく往来したと思ふ。 最近一二年は、自分がいよ  俗事にたづさはり、多忙なので月に一度位しか会はなかつた。 最近最も親しく往来した人は小穴隆一君であらう。 小穴君は、芥川に師事し日として会はざる日なき有様であつた。

 芥川と、僕とは、趣味や性質も正反対で、又僕は芥川の趣味などに義理にも共鳴したやうな顔もせず、自分のやることで芥川の気に入らぬことも沢山あつただらうが、しかし十年間一度も感情の阻隔を来たしたことはなかつた。 自分は何かに憤慨すると、すぐ速達を飛ばすので、一時 「菊池の速達」 として、知友間に知られたが、芥川だけには一度もこの速達を出したことがない。

 僕と芥川は、どちらかと云へば僕の方が芥川に迷惑をかけた方が多いかと思ふ。 しかし、それにも拘はらず、僕の云ふ無理は大抵きいて呉れた。 最近の 「小学生全集」 の共同編輯なども、自殺を決心してゐた彼としては嫌であつたに違ひないが、自分の申出を拒けて僕を不快にさせまいとする最後の交誼として、承諾して呉れたのであつただらうと思ふ。 彼が、自分宛の遺書の日付は、四月十六日であるから、もうその頃は、いよ決心も熟して居たわけである。

 今から考へると、自分は芥川に何も尽すことが出来なかつたが、彼は蔭ながら、自分の生活振りについて、いろ心配して呉れたらしい。 去年の十月頃鵠沼にゐた頃、僕のある事件を心配して注意をしてくれ、もし自分の力で出来ることがあつたら、上京するから電報を呉れと云ふやうな手紙を呉れた。 所が、自分はその事件などは、少しも心配してゐなかつたので、心配してくれなくつてもいゝ旨返事したが、芥川が神経衰弱に悩みながら、僕のことまで考へてくれたことを嬉しく思つた。 彼は、近年僕が、ちつとも創作しないのを可なり心配したと見え、いつかも、
( 「文芸春秋」 を盛んにするためにも、君が作家としていゝものを書いて行くことが必要じやないか )
 と云つてくれた。 それに対して、
( いや、僕はさうは思はない。 作家としての僕と、編輯者としての僕は、また別だ。 編輯者として、僕はまだ全力を出してゐないから、その方で全力を出せば、雑誌はもつと発展すると思ふ )
 と、云つて僕は芥川の説に承服しなかつたが、芥川の真意は僕が創作をちつとも発表しないのを心配してくれたのだらうと思つた。

 僕の最も、遺憾に思ふことは、芥川の死ぬ前に、1ヶ月以上彼と会つてゐないことである。 この前も 「文芸春秋座談会」 の席上で二度会つたが、二度とも他に人がありしみじみした話はしなかつた。

 その上、「小学生全集」 があんなにゴタゴタを起し、芥川には全く気の毒で芥川と直面することが、少しきまり悪かつたので、座談会が了つた後も、僕は出席者を同車して送る必要もあり、芥川と残つて話す機会を作らうとしなかつた。 たゞ万世橋の瓢亭で、座談会があつたとき、私が自動車に乗らうとしたとき、彼はチラリと僕の方を見たがその眼は異様な光があつた。 あゝ、芥川は僕と話したいのだなと思つたが、もう車がうごき出してゐたので、そのまゝになつてしまつた。 芥川は、そんなとき露はに希望を云ふ男ではないのだが、その時の目付は僕ともつと残つて話したい渇望があつたやうに、思はれる。 僕はその目付が気になつたが、前にも云つた通り芥川に顔を会わすのが、きまりが悪いのでその当時用事はたいてい人を通じて、済ませてゐた。

 死後に分つたことだが、彼は七月の初旬に二度も、文芸春秋社を訪ねてくれたのだ。 二度とも、僕はゐなかつた。 これも後で分つたことだが、一度などは芥川はぼんやり応接室にしばらく腰かけてゐたと云ふ。 しかも、当時社員の誰人も、僕に芥川が来訪したことを知らして呉れないのだ。 僕は、芥川が僕の不在中に来たときは、その翌日には、きつと彼を訪ねることにしてゐたのだが、芥川の来訪を全然知らなかつた僕は、忙しさに取りまぎれて、到頭彼を訪ねなかつたのである。 彼の死について僕だけの遺憾事は、これである。 かうなつて見ると、瓢亭の前で、チラリと僕を見た彼の目付は、一生僕にとつて、悔恨の種になるだらうと思ふ。

 彼が、僕を頼もしいと思つてゐたのは僕の現世的な生活力だらうと思ふ。 さう云ふ点の一番欠けてゐる彼は、僕を友達とすることを、いさゝか力強く思つたに違ひない。 そんな意味で、僕などがもつと彼と往来して、彼の生活力を、刺激したならばと思ふが、万事は後の祭りである。

 作家としての彼が、文学史的に如何なる位置を占めるかは、公平なる第三者の判断に委すとして、僕などでも次ぎのことは云へると思ふ。 彼の如き高い教養と秀れた趣味と、和漢洋の学問を備えた作家は、今後絶無であらう。 古き和漢の伝統及び趣味と欧州の学問趣味を一身に備えた意味に於て、過渡期の日本に於ける代表的な作家だらう。 我々の次ぎの時代に於ては、和漢の正統な伝統と趣味とが文芸に現はれることなどは絶無であらうから。

 彼は、文学上の読書に於ては、当代その比がないと思ふ。 あの手記の中にあるマインレンデルについて、火葬場からの帰途、恒藤君が僕に訊いた。
「君、マインレンデルと云ふのを知つてゐるか」
「知らない。 君は」
「僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん」
 山本有三、井汲清治、豊島与志雄の諸氏がゐたが、誰も知らなかつた。 あの手記を読んで、マインレンデルを知つてゐたもの果して幾人ゐただらう。 二三日して恒藤君が来訪しての話では、独逸の哲学者で、シヨペンハウエルの影響を受け、厭世思想をいだき、結局自殺が最良の道であることを鼓吹した学者だらうとの事だつた。 芥川は色々の方面で、多くのマインレンデルを読んでゐる男に違ひなかつた。

 数年前、ショオを読破してショオに傾倒し、ショオがいかなる社会主義者よりもマルクスを理解してゐたことなどを感心してゐたから、社会科学の方面についての読書などもいゝ加減なプロ文学者などよりも、もつと深いところまで進んでゐたやうに思ふ。 芥川が、ときどき洩した口吻などに依るとSocial unrest に対する不安も、いくらか 「ボンヤリした不安」 の中にはいつてゐるやうにさへ自分は思ふ。

 彼は、自分の周囲に一つの垣を張り廻してゐて、嫌な人間は決してその垣から中へは、入れなかつた。 然し、彼が信頼し何等かの美点を認める人間には、可なり親切であつた。 そして、よく面倒を見てやつた。 また、一度接近した人間は、いろ  迷惑をかけられながらも、容易には突放さなかつた。

 皮肉で聡明ではあつたが、実生活にはモラリストであり、親切であつた。 彼が、もつと悪人であつてくれたら、あんな下らないことに拘泥はらないで、はればれと生きて行つただらうと思ふ。

 「週刊朝日」 に出た芥川家の女中の筆記に依ると、彼は死ぬ少し前、カンシャクを起して花瓶を壊したと云ふ。 それはウソかほんたうか知らないが、もつと平生花瓶を壊してゐたらあんなことにはならなかつたと思ふ。 あまりに、都会人らしい品のよい辛抱をつゞけ過ぎたと思ふ。

 芥川が、「文芸春秋」 に尽くしてくれた好意は感謝の外はない。 その好意に報いるため、また永久にこの人を記念したいから、「侏儒の言葉」 欄は、死後も本誌のつづく限り、存続させたいと思ふ。 未発表の断簡零墨もあるやうだし、書簡などもあるから、当分は材料に窮しないし、材料がなくなれば彼に関するあらゆる文章を載せてもいゝと思ふ。 芥川に最も接近してゐた小穴隆一君に、編輯を托すつもりだ。 大町桂月氏を記念するために、「桂月」 と云ふ雑誌さへあるのだから、本誌一二頁の 「侏儒の言葉」 欄を設けるのは、適宜なことだと思ふ。

 猶、一寸付言して置くが、彼の最近の文章の一節に 「何人をも許し、何人よりも許されんことを望む」 と云ふ一節があつた。 文壇人及びその他の人で故人に多少隔意の人があつたならば、故人の此の気持を掬んでこの際釈然として貰ひたいと思ふ。

〔 昭和二年九月 「文芸春秋」 〕



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