嗚呼 哀いかな、痛しいかな。 余が兄の子 藤村操、幼にして大志あり、哲学を講究して、宇宙の真理を発明し、衆生の迷夢を醒まさんと欲し、昨年より第一高等学校に入り、哲学の予備の学を修め居たれども、学校の科目は、力を用ふるほどの事にも非ずとて、専ら哲学宗教文学美術等の書を研究して居たりしが、去る二十日の夜、二弟一妹と唱歌を謡ひ、相撲を取り、一家愉快に遊び楽み、翌廿一日の朝、学校に行くとて出でたるまゝ、廿二日になりても帰らず、母大に憂ひて、机の引出しを明けて見たるに、杉の小箱の蓋に 「この蓋あけよ」 と大書しあり。 開いて見れば、七枚の半紙に、二弟一妹と近親五名と親友四名とに配賦すべき記念品と学校その外友人十余名に返すべき借用書籍の名とを(本箱の番号迄も書き添へて)委しく列記せり。 「こは死を決したる家出なり」 とて、急に大噪ぎとなり、親戚朋友の家へ電話電報にて問合せたれども、何も 「来らず」 と云ふ。 午後八時に至り、「日光町小西旅館寓」 として、郵書達し、「不幸の罪は、御情の涙と共に流し賜ひてよ。 十八年間愛育の鴻恩は、寸時も忘れざれども、世界に益なき身の生きてかひなきを悟りたれば、華厳の瀑に投じて身を果たす」 との趣意を委しく告げこせり。 余これを聞き、徹夜輪行して日光に至らんと思ひ、駆け出したるが、栗橋の渡しの夜る渡さぬことに心付き、残念ながら下谷より引き返し、今朝(廿三日)の一番汽車にて、操の従兄弟 高頭正太郎氏と共に日光に至り、巡査車夫等と力を合せて、華厳の瀑の上下を隈なく探したれば、瀑の落口の上なる巨巌の上に蝙蝠傘の地に植てるあり、近寄りて見れば、大樹を削りて左の文を記せり。
巌頭之感
悠々たる哉 天壌、遼々たる哉 古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。 ホレーシヨの哲学 竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。 万有の真相は唯一言にして悉す、曰く 「不可解。」 我この恨を懐て煩悶 終に死を決す。 既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安
あるなし。 始めて知る 大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
樹の傍には、傘の外に、大なる硯と墨と太き唐筆と大なるナイフとあり。 此等の器具は、家を出づる時 予め用意したりと見ゆ。 その運筆の遒美なるを見れば、巌頭に立てる時 心中の従容として安泰なることは察するに余りあり。 嗚呼、余が如き楽天主義の俗人の姪(漢文の用法で、甥に同じ。)に、いかなればかゝる極端の厭世家を生じたるか。 思へば思へば不可思議なり。 巌角に攀じて瞰下せば、六十丈の懸泉は、巌石を砕いて雷の如くに轟き、滝壺は、暴風雨の如き飛沫に蔽はれて見えず。 かくて身の丈五尺五寸余、眉目清秀にして、頬に微紅を帯び、平生孝友にして、一家の幸福の中心と思はれし未来多望の好少年、去て返らず、消えて痕なし。 嗚呼 哀いかな。
明治卅六年五月廿三日の夜 中禅寺湖畔の旅館 蔦屋にて
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叔父 那珂通世 痛哭して記す**スペース**