らんだむ書籍館


表紙

貼り残しが生じた頁

中洲・編 拾遺集Scrap-Book

 明治36 (1903) 年頃。
 2冊。 線装。 縦25.5cm、横19cm。


 明治時代に、中洲 (雅号であろう) なる人が作った、新聞記事のスクラップ・ブックである。

 まず、中洲 という人物について。
 「拾遺集」 と同じ体裁のスクラップ・ブックとして、もう1冊 「中洲文稿」 というものがあり、それには、この中洲氏自身が寄稿した10件ほどの新聞記事が貼付されている。 その新聞がすべて「大分新聞」であり、筆者名の前に「日田郡」を添えているので、当時、大分県日田郡に在住していた人であることが判る。 また、記事中で内外の各種の書物に言及しているところから、かなりの読書家であったらしい。
 中洲氏はこの「中洲文稿」を刊行する積もりだったのか、記事中の印字不鮮明あるいは誤植の個所に朱筆を加えている。 しかし、それらの記事(いずれも経世的な論説)は、作文上の工夫を凝らしてはいるが、内容は観念的・平凡で、見るに足るものはない。

 「拾遺集」は、江戸時代の木版本「後太平記」を、そのままスクラップの台紙として用いている。
 「後太平記」は、「太平記」の後を承けた軍記物語で、江戸初期の人・多々良一龍が著した。 国文学史における評価はきわめて低いようだが、台紙に使われていない部分を読んでみると、種々のエピソードが盛り込まれていて、その雑然としたところが面白そうである。 しかし、それ以上のことは割愛しよう。
 中洲氏は、この本の題簽を覆うように新たな紙を貼って「拾遺集Scrap-Book」と書し、本文の最初の頁からペタペタと切り抜き記事を貼り込んでいる。 ただし、貼られているのは、前の方の三分の一位で、残りの部分は使われていない。
 貼られている新聞は、薄ピンク色の紙のものが多いことや、署名記事などから、明治30年代に最大の発行部数を誇っていた日刊紙「萬朝報(よろずちょうほう)」と思われる。
 その時期の知られざる事件や、意外な世相を伝える記事があるのでは、と期待したが、経世家・中洲氏の関心は思想的な方面に偏っていて、ニュース性のある記事などはほとんど採られていない。 このため、ふつうスクラップブックには必ず付されるはずの各記事の掲載日付も記入されていないのだが、発生日が明確に知られている著名な事件を扱った、後掲の二つの記事があるために、大体の時期(→明治36年)を推定することはできる。
 参考までに、切り抜き記事の初めの方のタイトルを例示してみよう。 「心的電気と霊魂不滅説」、「各国の富籤法」、「芸苑饒舌(色彩論、美術と道義、他)」、「覆面せざる真理」、「弾丸除の護符」、「瞑想の楽み」、「社会主義と個人主義」、「我社会主義」、「恋愛を排す」、「女子問題の一面」、「エスペラント語の発明者、エスペラント語の構造」、…

 こんな具合で、全体としては期待はずれであったが、唯一の収穫とみなせる記事が、2冊目の終わりの方にあった。

 明治36 (1903) 年5月に、第一高等学校生・藤村操が、「巌頭之感」 という辞世の文を残して、日光の華厳滝に投身自殺した事件を報じた記事である。
 これは、近代日本の精神史における、特筆すべき事件であった。
 当時の高等学校生ら青少年の間には、人生の意義や自我について真剣に思索し、煩悶する風潮がみなぎっていたので、藤村の自殺は彼らに大きな衝撃を与えたのである。 特に、真摯な生を全うするために死を決意した「巌頭之感」 の純粋さに、憧れ、崇拝する者が多かったという。
 やがて、若い世代だけでなく、広く一般的に、こうした熟慮の上の自殺については、自らの個性的な生き方を完結させるための選択であったとして、その苦悩を理解しようとする傾向が生じた。
 この 「萬朝報」 の藤村操自殺に関する記事には、前後の二つがあって、一つは 「那珂博士の甥華厳の瀑に死す」 と題する事件第一報の記事、もう一つは 「少年哲学者を弔す」 と題する追悼記事である。 スクラップ・ブックにはこの時間的順序を逆にして、記事が貼付されているが、ここでの紹介は(後の記事原文紹介も)、本来の順序で行なうこととする。

 「那珂博士の甥華厳の瀑に死す」 は、藤村操の叔父である那珂通世(なか・みちよ、嘉永4(1851)~明治41(1908))が「萬朝報」に寄せた原稿をそのまま記事にしたもので、編集部が若干の前書き(事情説明)を加えている。 (なお、叔父と甥で姓が異なるのは、通世が漢学者・那珂悟楼の養子となったためである。)
 那珂通世は、前書き中で紹介されているとおり、高等師範学校の教授であって、専門は東洋史である。 当時すでに名著「支那通史」を著していたが、その後さらに、漢字音表記の蒙古語史料「元朝秘史」を世界で初めて解読し、「成吉思汗実録」として刊行(明治40年)したことで知られる。 編集者は、こうした専門的業績にはふれず、那珂が日頃自転車を愛用して「自転車博士」と呼ばれていたことの方を紹介しているが、その愛用ぶりは本文中にも示されているので、この紹介のしかたは当を得ていたのかもしれない。 それにしても、家出した藤村操が日光で死を決意したのを知らされたとき、夜中に東京から自転車で駆けつけようとしたことには驚かされる。
 那珂は、兄の子である操を、一族中の俊秀として平生から深く愛し、将来を嘱望していたようである。 自転車は断念したものの、一番列車で日光に急行し、華厳滝の現場で捜索に当った。 その現場で、樹幹に記した「巌頭之感」を発見して投身を確信したが、同時にその文に示された天稟に改めて感動した。 そして、この稀有な出来事と、生を絶った英才に関する事実を世に記憶させておきたいと考えて、直ちに新聞社への寄稿記事を執筆したのである。 藤村操の死が広く知られ、「巌頭之感」が青少年の間で記誦されるに至ったのは、那珂のこの愛惜の文によるところが大きいであろう。
 なお、ささいなことであるが、那珂の文における「巌頭之感」の転記には一部脱落があり、「…死を決す。」のところは、正しくは「…死を決するに至る。」である。
 また、編集部の前書きで操の年齢を「十八(歳)」 としているのは、もちろん数え年であって、今日の満年齢では16歳10ヶ月であった。

 「少年哲学者を弔す」 は、「天人論の著者」 と称する人物によって書かれている。 「天人論の著者」とは、「萬朝報」の主筆・黒岩涙香(本名:周六、文久2(1862)~大正9(1920))である。 黒岩は、ちょうどこの時(明治36年5月)、「天人論」なる書を刊行したばかりだったので、このように自称したのである。 この書は、筆者は未読であって内容を窺知できないが、少なくとも思想書の範疇に入るものであろう。 著者自身は「哲学」書として書き上げたようで、しかもかなりの自信作であったらしい。 そこで、この文では、「巌頭之感」を自著の方に引き寄せて、論じている。
 この黒岩の文も、愛惜と理解に富んだもので、那珂の文とともに、藤村操を世に知らしめるのに与かること大であった。
 記事には、藤村操の肖像と、樹幹に記された「巌頭之感」を写した図が添えられている。 いずれも、写真をもとに新聞社の専属画家が描き起したもののようである。 当時の新聞製作技術では、写真そのものを鮮明に印刷することは無理だったのであろう。




「萬朝報」 記事の原文紹介


  (原文では、漢字のほとんど全てにルビが付されているが、ここでは必要最小限のものを残すにとどめた。)


那珂博士の甥 華厳の瀑に死す
  自転車博士の異名あるばかり斯道に嗜み深き高等師範学校教授那珂通世文学博士の甥に方る藤村操(十八)といふは第一高等学校の生徒にて同学中俊秀の聞えある青年なりしが去二十日家出をなし終に日光は華厳の滝壺に身を投じて悲惨なる最期を遂げたり 右につき叔父那珂博士はわが社に宛て左の如き悲痛の文を送られたり 其青年の平生死因等明かに記されたれば其全文を掲ぐる事となせり
 嗚呼あゝ かなしいかな、いたましいかな。 が兄の子 藤村操ふぢむらみさを、幼にして大志あり、哲学を講究して、宇宙の真理を発明し、衆生しゆじやうの迷夢を醒まさんと欲し、昨年より第一高等学校に入り、哲学の予備の学を修め居たれども、学校の科目は、力を用ふるほどの事にもあらずとて、専ら哲学宗教文学美術等の書を研究して居たりしが、去る二十日の夜、二弟一妹と唱歌をうたひ、相撲を取り、一家愉快に遊び楽み、翌廿一日の朝、学校に行くとて出でたるまゝ、廿二日になりても帰らず、母大に憂ひて、机の引出しを明けて見たるに、杉の小箱の蓋に 「この蓋あけよ」 と大書しあり。 開いて見れば、七枚の半紙に、二弟一妹と近親五名と親友四名とに配賦すべき記念品と学校そのほか友人十余名に返すべき借用書籍の名とを(本箱の番号迄も書き添へてくはしく列記せり。 「こは死を決したる家出なり」 とて、急に大噪おほさわぎとなり、親戚朋友の家へ電話電報にて問合せたれども、いづれも 「来らず」 と云ふ。 午後八時に至り、「日光町小西旅館寓」 として、郵書達し、「不幸の罪は、御情おなさけの涙と共に流し賜ひてよ。 十八年間愛育の鴻恩は、寸時も忘れざれども、世界に益なき身の生きてかひなきを悟りたれば、華厳のたきに投じて身を果たす」 との趣意を委しく告げこせり。 余これを聞き、徹夜輪行して日光に至らんと思ひ、駆け出したるが、栗橋の渡しの夜る渡さぬことに心付き、残念ながら下谷したやより引き返し、今朝(廿三日)の一番汽車にて、操の従兄弟いとこ 高頭たかがみ正太郎氏と共に日光に至り、巡査車夫等と力を合せて、華厳の瀑の上下をくまなく探したれば、瀑の落口おちぐちの上なる巨巌の上に蝙蝠傘の地にてるあり、近寄りて見れば、大樹を削りて左の文を記せり。
   巌頭之感
悠々たるかな 天壌、遼々たる哉 古今、五尺の小躯を以てこの大をはからむとす。 ホレーシヨの哲学 つひに何等のオーソリチーをあたひするものぞ。 万有の真相は唯一言にしてつくす、いはく 「不可解。」 我このうらみいだいて煩悶 つひに死を決す。 既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安 あるなし。 始めて知る だいなる悲観は大なる楽観に一致するを。
そばには、傘の外に、大なる硯と墨と太き唐筆と大なるナイフとあり。 此等これらの器具は、家を出づる時 予め用意したりと見ゆ。 その運筆の遒美いうびなるを見れば、巌頭に立てる時 心中の従容として安泰なることは察するに余りあり。 嗚呼、余が如き楽天主義の俗人の姪(漢文の用法で、甥に同じ。)に、いかなればかゝる極端の厭世家を生じたるか。 思へば思へば不可思議なり。 巌角にじて瞰下みおろせば、六十丈の懸泉は、巌石を砕いてらいの如くにとゞろき、滝壺は、暴風雨の如き飛沫におほはれて見えず。 かくて身のたけ五尺五寸余、眉目清秀にして、頬に微紅を帯び、平生孝友にして、一家の幸福の中心と思はれし未来多望の好少年、去てかへらず、消えてあとなし。 嗚呼 哀いかな。

明治卅六年五月廿三日の夜 中禅寺湖畔の旅館 蔦屋にて **スペース**
叔父 那珂通世 痛哭して記す**スペース**




上 : 「華厳瀑布投身少年 藤村操肖像」
下 : 「藤村操 巌頭の遺書」*スペース*




少年哲学者を弔す*スペース*

天人論の著者*スペース*


 那珂博士の甥、藤村操、とし十八にして宇宙の疑問けざることをうらみ、日光山奥につくわうさんあうの華厳の滝に投じて死す、 ことは昨日の朝報にり、 死にのぞみ、巌頭に立ちて、じゆしらげ書していは
 悠々たるかな 天壌、遼々たる哉 古今、五尺の小躯を以てこの大をはからむとす、 ホレーシヨの哲学 つひに何等のオーソリテーをあたひするものぞ、 万有の真相は唯一言にして尽す、いはく 「不可解かいすべからず」、 我このうらみいだいて煩悶 つひに死を決す、 既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安 ある無し、 始めて知る だいなる悲観は大なる楽観と一致するを。
 我国に哲学者無し、 の少年に於て初めて哲学者を見る、 いな、哲学者無きに非ず、哲学の為に抵死ていしする者無きなり
 どくのシヨツペンハウエル 悲観のきよくに楽観ありとす、 かも自死するにいたらず
 しからば哲学の極致は自死に在るか、 曰く 何ぞ然らん、だ信仰の伴はざる哲学は、こゝに究極するなり
 チヤーレス、ボーエン曰く 哲学は黒暗々こくあん~の室内にて黒き帽子を探るが如し、 如何いかに探るも窮極なし 其の帽子たるや実は初めよりその室内に置かれて在らざればなりと、 シヂウヰツグ曰く 哲学は哲学者の小理窟こりくつ追払おひはらふがために必要なり、 多少哲学を修めざれば 哲学者のためまどはさると、 信仰を離れたる哲学を評し得て 絶妙なり
 然れども哲学の多くは信仰を有せず、まつたく暗室に、無き黒帽を探るなり、 唯だ心的一元論に至りて、初めて信仰あり、 暗室を去りて明処に移るなり、 ひと これに依りて光明に接するを
  天人論を著す、 人をして明白々の室に黒帽を看認みとめしめんと欲するの微意なり、 恨むらくは 巌頭に感を書して六十丈の懸泉に投じたるの少年哲学者に一冊を寄献するを得ざりしことを
 「不可解かいすべからず」 の一言を以て 宇宙の秘をつくすの時は過ぎたり、 少年哲学者は 悲観の楽観と合する所に ホレーシヨ以外の光明に接したるか、 大谷川だいやがはの水、とこしへにみどりにして、問へども答へず、 余は 那珂博士と同じく痛哭して之を記す





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