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表 紙 |
目 次
*空白*罹 災 日 録 *空白*( 付 録 ) *空白*為 永 春 水 |
罹災日録ハ多年予ガ執筆スル断腸亭日乗ノ中ヨリ西暦一千九百四十五年我ガ昭和廿年ノ部ヲ抜摘セシモノナリ。 日乗ハ元ヨリ公表スベキ心ニテ記スルモノニ非ラザルヲ以テ記事ノ精粗文章ノ格式日ニ依リ時ニ随ツテ同ジカラズ。 之ヲ通覧スレバ筆勢ニ均一ナク放漫蕪雑ノ陋頗厭フ可キノ観アリ。 然レ共今遽ニ之ヲ改メザルハ陋劣乱脈ノ文却テ罹災当時ノ情態ヲ想見スルノ便アレバナリ。 又処処記事ヲ削除シ人吊ヲ変ゼシモノアルハ筆者現在の境遇ヨリシテ事情已ム事ヲ得ザルガ為ノミ。 巻尾載スル所ノ為永春水ハ其草稿幸ニシテ友人凌霜庵主人(相磯凌霜)ノ家ニ在リシガタメ災ヲ免レタリ。 今紀念トシテ茲ニ之ヲ排印セシメテ付録トナス。この昭和20(1945)年は、言うまでもなく、未曾有の犠牲者を出して漸く戦争を終結させ、底辺から再出発した、近代日本における大転換の年である。 個々の国民にとっては、自分や近親者が最も生死に関わった年であり、幸いにして生存するを得た者には限りない困難と苦痛、そしていくらかの希望が与えられた年であった。
昭和二十一年十月 荷風散人識
本書の一部紹介 |
三月九日 ~ 三月十一日 |
三月九日 天気快晴。 夜半空襲あり。 翌暁四時に至り わが偏奇館 焼亡す。 火は初(はじめ) 長埀坂の半程より起り、西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す。 予は枕頭の窓火光を受けてあかるくなり、隣人の叫ぶ声唯ならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり。 谷町辺にも火の手上るを見る。 又遠く北方の空にも火光の反映するあり。 火粉は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ。 予は四方を顧望し到底禍を免るゝこと能はざるべきを思ひ、早くも立迷ふ烟の中を表通に走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉に出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山より神谷町辺焼けつゝあれば行くこと難かるべしと言ふ。 道を転じて永坂に到らむとするも途中火ありて行きがたき様子なり。 時に七八歳なる少女老人の手を引き道に迷へるを見、予はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ。 予は三谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ。 下弦の繊月凄然として愛宕山の方に登るを見る。 荷物を背負ひて逃れ来る人々の中には平生顔を見知りたる近隣の人も多く打交りたり。 予は風の方向と火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をも稊知ることを得たれば、麻布の地を去るに臨み二十六年住なれし偏奇館の焼け落ちるさまを心の行くかぎり眺飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ。 巡査、兵卒、宮家の門を警しめ、道ゆく者を遮り止むるが故、予は電柱または立木の蔭に身を隠し小経のはづれに立ち我家の方を眺むる時、隣家のフロイドルスベルゲル氏褞袍にスリツパをはき、帽子も冠らず逃れ来るに逢ふ。 崖下より飛来りし火にあふられ其家まさに焼けつゝあり。 君の家も類焼を免れまじと言ふ中、我門前の田島氏、その隣の椊木屋もつゞいて来り、先生のところへ火がうつりし故、もう駄目だと思ひ各々その家を捨てゝ来りし由を告ぐ。 予は五六歩横町に進み入りしが、洋人の家の樫の木と予が庭の椎の大木炎々として燃え上り、黒烟風に渦巻き吹きつけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るゝを見定むること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に舞上るを見たるのみ。 これ偏奇館楼上万巻の図書、一時に燃上りしがためと知られたり。 火は次第にこの勢に乗じ表通へ燃え抜け、住友、田中両氏の邸宅も危く見へしが兵卒出動し、宮家門内の家屋を守り防火につとめたり。 蒸汽ポンプ二三台来りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程を経たり。 消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず。 火は表通り曲角まで燃えひろがり人家なきため、こゝにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり。
三月十日 町会の男来り、罹災のお方は焚出しがありますから仲の町の国民学校にお集まり下さいと呼び歩む。 行きて見るに向側なる歯科医師岩本氏その家人と共に在るに逢ふ。 握飯一個を食ひ茶を喫するほどに旭日輝きそめしが、寒風は昨夜に劣らず、今日も亦肌を切るが如し。 予は一まづ代々木なる従弟杵屋五叟の家に至り身の処置を謀らんと、三河台電車停留場に至りしが、電車の運転する様子もなし。 六本木の交番にてきくに青山一丁目より渋谷駅までは電車ありとの事に、其の言ふが如く渋谷に行きしが、省線の札売場は雑沓して近寄ること能はず。 寒風に吹きさらされて路上に立つてバスの来るを待つこと半時間あまり。 午前十時過漸くにして五叟の家に辿りつきぬ。 一同と共に昼食を食す。 飯後五叟は二児を伴ひ偏奇館焼跡を見に行き、予は炬燵に入りて一睡す。 昨夜路上に立ちつゞけし後革包を提げ青山一丁目まで歩みしなれば、筋骨痛み困憊甚し。 嗚呼、われは着のみ着のまゝ家も蔵書もなき身とはなれるなり。 予は偏奇館に隠棲し文筆に親しみしこと数ふれば二十六年の久しきに及べるなり。 されどこのニ三年老の迫るにつれて、日々掃塵潅園の労苦に堪えやらぬ心地するに至りしが、戦争のため婢僕の雇はるゝ者なく、園丁は来らず、過日雪の降り積りし朝などこれを掃く人なきに困り果てし次第なれば、寧ろ一思に蔵書を売払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかじと思ふ事もあるやうになり居たりしなり。 昨夜火に遭ひて無一物となりしは却て老後安心の基なるや知るべからず、されど四十余年前欧米にて購ひし詩集小説、座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情如何ともなしがたし。 昏暮五叟及び其の二児帰り来り市中の見聞を説く。 大略左(下)の如し
昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。 北は千住より南は芝田町に及べり。 浅草観音堂、五層塔、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及び霊廟も烏有に帰す。 明治座に避難せしもの悉く焼死す。 本所、深川の町々、亀戸天神、向島一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりと云。 午前二時に至り寝に就く。 灯を消し眼を閉るに火粉紛々として暗中に飛び、風声啾啾として鳴りひびくを聞きしがやがて此の幻影も次第に消え失せいつか底なき眠に落ちぬ。
三月十一日 日曜日。 予の眠りし一室は離座敷にて道路に近く、往復する自動車、省線電車の響のみならず、通行人の跫音、語声さへ枕元にきこえ来りて、其の喧しさ堪難ければ風甚寒かりしが八時頃に起出でたり。 午後五叟の二児再び偏奇館の灰を掻くとて出で行けり。 予も後より赴くに偶然凌霜子(相磯凌霜)の見舞ひに来れるに会ふ。 予が大森の邸には罹災者数名を収容せざるべからざるの由なり。 隣家フロイドスベルゲル氏其家人と共に防空壕の中に起臥し居れり。 黒パンを焼きバタをつけて馳走せらる。 五叟の児灰の中より掘り出せしものを示す。 手に取りて見るに、谷崎君(谷崎潤一郎)が贈られし所の断腸亭の印、楽焼の茶碗に先考(父) 来青先生(永井久一郎)が賞雨茅屋と題せしもの。 又鷲津毅堂先生(荷風の外祖父、漢学者)の日常手にせられし煙管なり。 罹災の紀念、之にまさるものなし。 此の三品いづれもいさゝかの破損なきは奇なりと謂ふべし。 代々木に帰りてこの夜も一同と談話、午前二時に至る。
八月十三日 ~ 八月十五日 |
八月十三日 谷崎氏を勝山に訪はむとて未明に起き、明星の光を仰ぎ見つゝ暗き道を岡山駅の停車場に至る。 構内には既に切符を購はむとする旅人雑沓し、午前四時札売場の窓に灯の点ずるを待ちゐたり。 構外には前夜より来りて露宿するもの亦少からず。 予この光景に驚き勝山往訪の事を中止せむかと思ひしが、また心を取直し行列に尾して佇立すること半時間あまり。 思ひしよりは早く切符を買ひ得たり。 一ト月おくれの盂蘭盆にて汽車乗客平日より雑沓する由なり。 予は一まづ寓居に戻り、朝飯かしぎて食し後、再び停車場に至り九時四十二分発伯備線の列車に乗る。 辛うじて腰かくることを得てり。 向合ひに坐したる一老媼と岡山市罹災当夜の事を語る。 この媼も勝山に行くよし。 弁当をひらき馬鈴薯、小麦粉、南瓜を煮てつきまぜたる物をくれたれば一片を取りて口にするに味案外に佳し。 列車倉敷を過る頃より沿線の山脈左右より次第に迫り来り、短き隧道を出入する事数回に及ぶ。 沿道行けども ~ 清渓の流るゝあり。 人家は皆山に攀づ。 籬辺時に百日紅の花爛漫たるを見る。 正午新見といふ駅の停車場に着す。 こゝにて津山姫路行の列車に乗替をなす。 車窓より町のさまを窺ひ見るに渓流に沿ひ料理屋らしき二階家立ちならびたり。 家屋皆古びて古駅蕭條の趣あり。 鉄道従業員多くこの地に住居するが如し。 新見を発するや左右の青巒いよ ~ 迫り、隧道多く、渓流ます ~ 急なり。 されど眺望広からざれば風光の殊に賞すべきものなし。 一歩一歩嚢中に追ひ込まれ行くが如き心地す。 車中偶然西欧人夫婦幼児を抱きて旅するものあるを見る。 容貌独逸人なるが如し。 午後一時半勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ。 駅の停車場を去ること僅に三四町ばかりなり。 戦前は酒楼なりしと云。 谷崎氏は離れ屋の二階二間を書斎となし階下に親戚の家族多く避難し頗雑沓の様子なり。 細君に紹介せらる。 年紀三十四五歟。 痩立の美人にて愛嬌に富めり。 佃煮むすびを恵まる。 一浴して後谷崎君に導かれ三軒程先なる赤岩といふ旅館に至る。 谷崎君のはなしに渓流に臨む好き旅館に案内するつもりなりしが、遽に独逸人収容所に当てられて如何ともしがたしと。 予が来路車中にて見たりし洋人は想像通り独逸人なりしなり。 やがて夕飯を喫す。 白米は谷崎君方より届けしもの。 膳に豆腐汁。 渓流に産する小魚三尾。 胡瓜もみあり。 目下容易には口にしがたき珍味なり。 食後谷崎君の居室に行き閑話十時に至る。 帰り来つて寝に就く。 岡山の如く蛙声を聞かず。 蚊も蚤も少し。
八月十四日 晴。 朝七時谷崎君来り東道して町を歩む。 二三町にして橋に至る。 渓流の眺望岡山後楽園のあたりにて見しものに似たり。 後に人に聞くにこれ岡山市中を流るゝ旭川の上流なりと。 其水色山影の相似たるや蓋し怪しむに及ばず。 正午招かれて谷崎君の客舎に至り昼飯を饗せらる。 小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。 予初め谷崎君の勧告に従ひ岡山を去り此地に移るべき心なきにあらざりしが、岡山広島等の市邑続々焦土と化するに及び此の地も亦人心日に日に平穏ならず米穀の外日々の蔬菜も配給停止し他郷より来れる避難民は殆食を得るに苦しむ由。 事情既にかくの如くなれば長く氏の厄介になり難し。 依つて明朝岡山にかへらむと停車場に赴き乗車券の事を問ふに、明朝五時に来らざれば獲がたかるべしと言ふ。 依つて其事を谷崎氏に告げ旅宿に還りて午睡を試む。 灯刻谷崎氏方より使の人来り津山の町より牛肉を買ひたれば来たれと言ふ。 急ぎ赴くに日本酒も亦あたゝめられたり。 頗美酒なり。 細君微酔。 談話頗興あり。 羈旅の憂愁初て一掃せらる。 九時過辞してわが客舎にかへる。 深更警報をきゝしが起きず。
八月十五日 陰りて風涼し。 宿屋の朝飯。 鶏卵、玉葱の味噌汁。 ハヤ付焼。 茄子糠漬なり。 これも今の世にては八百膳の料理を食する心地なり。 飯後谷崎氏の寓館に至る。 帰り汽車の切符既に氏の手によりて購はれたりと云。 雑談中汽車の時刻迫り来れり。 再会を約し共に屋後の間道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る。 新見の駅に至るの間隧道多し。 駅毎に応召の兵卒を見送る小学校生徒の列をなし旗を振るを見る。 車中甚しく雑沓せず。 涼風窓より吹入り炎暑来路に比すれば遙に忍び易し。 新見にて乗替をなし、出発の際谷崎夫人が贈られし弁当を食す。 白米の握飯、昆布佃煮に牛肉を添へたり。 欣喜名状すべからず。 満腹忽ち睡を催す。 山間の小駅幾個所は夢の中に過ぎ、西総社倉敷の駅をも後にしたり。 農家の庭に夾竹桃の花さき、稲田の間処々に藕花の開くを見る。 午後二時岡山の駅に安着す。 上伊福町の焼跡を過ぎ路傍の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み ~ 三門町の寓舎にかへる。 菅原氏曰く君知らずや今日正午ラヂオの放送、突如日米戦争停止の趣を公表したりと。 恰も好し。 日の暮るゝ比(ころ)、三門祠畔に住する大熊氏の娘、鶏肉葡萄酒を持ち来れり。 一同平和克復の祝宴を張る。 余がこの地に流寓中貸室の周旋をはじめとして日常の事何くれとなく大熊氏を煩すこと少しとなさず。 感謝常に措かざるところ。 その厚情、啻に此夜の珍羞のみに限らざるなり。
十月十三日 ~ 十月十八日 |
十月十三日 よく晴れ風静なり。 熱海郵便局の裏手なる温泉寺に成島柳北の撰文藤原藤房卿の碑ある由聞きゐたれば行きて見る。 寺は来の宮の方に登り行く坂の中途、渓流に架せし翠橋と云ふ石橋を前にして石段の上に温泉寺の扁額をかゝげし門をひかえたり。 門内に驚くべき一株の古松あり。 俗に藤公手植の松と称するもの即此れなるべし。 境内に碑二三あれど柳北先生の文を刻せしものを見ず。 湯原堂地蔵尊の左側に華頂山貫主撤定の文、大内青巒の書を刻せし碑あり。 柳北の文といふは此碑のことか。 (欄外書入。 後ニ人ヨリ聞クニ柳北ノ文ハ碑陰ニ刻セラルト云) 別にまた一碑あり。 昭和十五年富豪藤原銀次郎の建立する所、竹越三叉の文を刻す。 また門内石磴の左側に伊藤春畝(博文)の五言律詩、陸軍大将小磯某の書を刻せしものあり。 無きに如かざるを思ふ。 境内唯老松の多きは喜ぶべし。 寺を出で静なる山径を歩むに、邸宅林泉、墻を連ねて幽趣あるものなきに非ず。 されど其門札を見れば人をして銅臭芬々の思ひあらしむるものゝみ。 熱海の町は古樹老木の他殆ど見るべきものなく、商估俗客の黄金を散ずる処なれど、軍閥の臭味なきは上幸中の幸と謂ふべき歟。
十月十四日 日曜日。 大豆三升を買ふ。 一升四十円なり。 陰晴定りなく風静なり。 午後双柿舎水口園のあたりより山手の別荘地を歩む。 樟松の大木多けれど、椿山茶花の類少し。 暮秋初冬の庭に紅白の山茶花を見るは東京の町の特色とも謂ふべし。 熱海の人家には菊、コスモス、葉鶏頭を植うるところ殆無きが如し。 灯刻木戸氏来り中村光夫氏より貸与の仏蘭西文学書類数巻を交付せらる。 開き見るに皆山田珠樹旧蔵のものなり。 山田氏は曾て鴎外先生の愛嬢茉莉子を娶りし人なるを思へば又多少の感なきを得ず。 夜片月窓前にあり霜露寒し。
十月十五日 朝九時新生社社長青山虎之助氏刺を通じて面会を求む。 新刊の雑誌新生の原稿を請はる。 言ふ所の稿料鯵鯖と同じく物価騰貴の例に漏れず。 貧文士の胆を奪ふ。 笑ふべきなり。 此の日五叟子好晴に乗じ歩みて根府川辺に至り蜜柑を購ひかへる。 一貫目十五円なりと。
十月十六日 天気牢晴。 雲翳なし。 残蛩(残秋のこおろぎ)喞々(やかましく鳴く)たること 昼夜を分たず。
十月十七日 昨日にまさりて又好き日なり。 新聞紙上に木下杢太郎氏病没の事あり。 行年六十一と云ふ。 余明治四十一年の秋海外より還りし時初めて氏と相識れり。 当時氏は猶医科大学に在りき。 旧交を想起して悵然たり。 灯下新に小説の腹案をなす。 月明前夜の如し。 古暦十三夜両三日の後なるべし。
十月十八日 くもりて静なる日なり。 薄田泣菫の訃を新聞紙上に見る、享年六十九。 予の初て泣菫を知りしは明治三十年代其名著暮笛集刊行の頃なりき。 老後頻々として旧知の訃を聞く。 悲しみに堪えざるなり。 午後中村光夫氏来り更に所蔵の洋書を貸与せらる。 凌霜子その小星(妾)に蔵書若干を持たせ遣はさる。 厚誼喜ぶべし。
終