らんだむ書籍館








目 次


  古京遺文の価値
  耶蘇会出版の太平記抜書
  文学史料としての三宝絵詞
  源俊頼朝臣筆三宝絵
  屋代本平家物語
  平家剱巻
  撃蒙句法
  塵袋
  春記 (長久二年二月)
  満字随筆
  千載佳句
  口遊 (国宝)
  将門記 (国宝)
  古事記(真福寺本) (国宝)
  方丈記(大福光寺本) (国宝)
  法曹類林 (巻第百九十七)
  倭名類聚鈔(真福寺本) (国宝)
  催馬楽抄(天治本)
  日本国見在書目録
  「付」樋口光義が事
  播磨国風土記
  江戸時代蝦夷関係書目補遺
  蝦夷地誹諧歌仙
  遊仙窟(醍醐寺本)
  塩竈神社に伝ふる村井古巌の遺書
  篆隷万象名義 (国宝)
  元興寺縁起 (国宝)
  琴歌譜 (国宝)
  信西古楽図
  教訓抄
  松浦之能
  色葉字類抄(黒川本)
  伊呂波字類抄
  漢書食貨志 (国宝)
  弘決外典鈔を薦むる辞
  成簣堂の秘籍を覧る
  秘府略 (巻第八百六十四) (国宝)
  連理秘抄
  宝物集(宮内省本)
  歌儛品目
  庵主
  古文孝経(三千院本) (国宝)
  御成敗式目(平林本)
  世俗諺文 (国宝)
  万葉集誤字愚考
  再び万葉集誤字愚考について
  連歌新式 (鹿児島図書館蔵)
  節用文字
  一切経音義刊行の顛末
  春秋経伝集解 (巻第十) (国宝)
  体源抄
  後撰集(田中本)
  君台観左右帳記(東北帝国大学本)
  琱玉集 (国宝)

  付 録
 国宝典籍目録




山田孝雄 「典籍説稿」  〔再刊本〕

 昭和29 (1954) 年9月、 西東書房。
 A5版、 クロース装、函入り。 本文 388頁。


 本書の初版は 昭和9 (1934) 年1月に同じ西東書房から刊行されており、これはその20年後の再刊本である。
 この再刊本の巻頭には、著者による次のような 「再刊の辞」 が置かれている。
      再刊の辞

 典籍説稿を刊行してより正に二十年。 其の間 再刊を望まるゝこと無きにあらざりしかど 之を果さず、かくて大戦の災に罹り紙型を失ひて こゝに十年に垂んとす。 今 新に刊行するに及び 図版を更に二十数種加へ 以て読者の便に供したり。 説述の中には所蔵者の変更等無きにあらねども 今遽かに之を加除し得べくもあらねば 旧のまゝにせり、茲に一言を弁して再刊の辞とす。
   昭和二十九年九月七日
山田孝雄 識 空白


 山田孝雄 (やまだ・よしお、明治8(1875)年~昭和33(1958)年) は、富山市出身の国語学者・国文学者。 東北帝国大学教授。
 著書は、「日本文法論」、「奈良朝文法史」、「平安朝文法史」、「万葉集講義」、「平家物語考」、「続古京遺文」、「一切経音義索引」、「三宝絵略注」 などきわめて多いが、いずれも周到・綿密で、しかも創見に富むとされている。


 本書 「典籍説稿」 は、我が国に伝来した貴重な古典籍に関する論文集である。
 右の目次に示されるように大部分が和書であるが、一部に漢籍も含まれており、参考のためにその漢籍だけを抽出すれば、「遊仙窟」 、「漢書食貨志」、「弘決外典鈔」、「古文孝経」、「一切経音義」、「春秋経伝集解」、「琱玉集」 の7種である。 ただし、「成簣堂の秘籍を覧る」 の文中にも、数種の漢籍への言及がある。

 内容は、書誌学的記述が主体である。
 つまり、その書物についての一般的説明は (自明のこととして) 省略し、直ちに、いま取り上げている伝本 (写本あるいは刊本) の価値等を論じている。
 それは、古典籍に多少関心がある読者にとっても縁遠い、きわめて高度な専門的議論であるので、ただただこの学問領域の深遠さを感じさせるばかりである。

 例外的に、「蝦夷地誹諧歌仙」 のみは、その書の全文を掲げている。
 享和元(1801)年、幕臣の羽太庄左衛門 (名は正養) という人が蝦夷地 (北海道) を巡視した時に、その地の風俗や自然を詠んだ36句からなる (つまり「歌仙」という形式の) 誹諧で、一句ごとに同僚の新楽閑叟(にいら・かんそう、1764~1827)が註釈(短い解説)を加えており、興味深い読物になっている。

 また、その書物の文化史的意義に言及したものとしては、「秘府略」 がある。
 「秘府略」 は、平安時代初期 (9世紀) の学者・滋野貞主が淳和天皇の勅を奉じて編集した類書 (百科事典) で、「一千巻よりなる … 本邦空前の大著」 であるという。 ただし、1000巻のうち今日まで残存したのは2巻のみで、本書で取り上げているのはそのうちの1巻 (徳富猪一郎の蔵本) である。
 「秘府略」 の文化史的意義が認められたのは、明治の初めに来日した清の学者・楊守敬が写本を見て、その 「日本訪書志」 で 「其の体例、全て太平御覧に同じ」 と指摘したのがきっかけとなった。 「太平御覧」 は北宋の太宗の時 (10世紀) に編集された名高い類書で、それに匹敵するものとされたのであるが、「秘府略」 の方が150年も先行していたのである。 全容が窺われる程度に残存していれば、平安朝の学問レベルの高さをいかんなく示すものとなったことであろう。

 それらにも増して、惹き付けられる一篇が、「一切経音義刊行の顛末」 である。
 「一切経音義」 は、唐初 (7世紀) の僧・玄応が、仏典中の難解な語に音義 (すなわち発音と意味) を付与した書物で、後世においては言語学・文字学資料として重要視されるようになった。
 山田もそのような観点から、東京帝室博物館 (現在の東京国立博物館) に所蔵される平安時代中期 (12世紀) の写本の写真版による複製・刊行に取り組んだわけであるが、この博物館蔵本の欠落部分を補うべき他の伝本の選定に曲折があり、また整版所が火災に見舞われるなど、刊行実現までの経過はまことにドラマティックなものであった。 終局に近く、完成した印刷物が関東大震災で失われるに至っては、災厄の極というべきであろう。

 今回の 「一部紹介」 には、その 「一切経音義刊行の顛末」 の後半部分を掲げる。
 省略した前半部分との関係で、意味のよく通じない個所もあるが、おおよその事情や経過は読み取ることができるであろう。
 助言者・協力者として登場するのは、黒川真道、上田万年、七條愷、森林太郎 (鴎外) らの人々であるが、特に鴎外の積極的な関与が注目される。



本書の一部紹介



一切経音義刊行の顛末


   刊行の次第


 余がはじめて本書を瞥見したりしは 実に新撰字鏡(*)刊行の際にあり。 当時余は校合の為に博物館に赴く事頻繁なりしが、その字鏡と同一の箱に併せ紊められたるもの 実にこの一切経音義なり。 然れども 字鏡の校合に忙殺せられて 本書につき研究を遂ぐるを得ざりしなり。
 * 「新撰字鏡」 は平安時代中期(9世紀末)に僧・昌住が著した漢字字書で、2万字余りの漢字をについて字音と字義を示している。 山田は、大正6年にこの複製本を刊行した。

 字鏡の校合殆ど終に近づきたる頃一日 黒川真道(国学者、東京帝室博物館に勤務)氏 余に語りてこの一切経音義の複本を作るの必要なるを述べ、止むを得ずば帝国大学に於いて一本を複写せられむことを尽力せよといふ。 余 博士上田万年(言語学者、東京帝国大学教授)氏に面晤せし際 黒川氏の言を伝ふ。 博士曰はく 「しかく貴重の書は宜しく複製刊行して世に公にすべきなり。 君それ精査して案を立てよ」 と。 余即ちこれを領して精査せしに、この本の完全にあらずして欠巻及び脱落あるを発見しぬ。 ここに於いて先づその欠巻を捜索する必要を感じ、上田博士と共に百方索めたれど 未だ発見するを得ざるなり。

 余は かく本書の欠巻を捜索すると同時に七條愷(出版社・西東書房の社主)氏に嘱して、本書刊行に要する費用を調査せしめ、案を立てて上田博士に呈す。 博士これをとりて帝国学士院の補助を仰がむとせられたり。 然れども本書の欠本なると費用の多額なるとによりてその事一時中止の状となりぬ。

 大正七年一月に到り博士森林太郎(鴎外。当時、帝室博物館総長兼図書頭)氏、余に勧むるに本書の複製を以てし、兼ねて索引編製の事を要めらる。 ここに於いて余はこれを上田博士にはかる。 博士更に余にするに実行すべき案を以てせらる。 余 即ちその欠巻は、宋版大蔵経中の一切経音義を以て補ふこととし、費用を省かむが為に半紙版を以てせむことの案を具して博士に呈す。 博士即ち帝国学士院に請ひて写真の撮影及び製版に要する費用の下付を受くるに至れり。 その額 壱千七百六拾七円五拾銭にして これを二年に分ちて交付せられたり。 余は上田博士に謀りて この費用を提供して刊行を負担すべき士を索め、七條愷氏を得てこれに託せり。

 ここに於いて帝室博物館に請ひて撮影の許可を得 事業着々進行せり。 而してその補欠の部分は 宮内省に請ひてその宋版大蔵経中の音義を撮影する事としたり。

 然るに大正七年秋 森博士正倉院曝凉の事を主宰せむが為に奈良に赴き、正倉院の聖語蔵(正倉院の構内にある小型の建物で、経蔵)に一切経音義の零本の存するを発見し、なほ不知題経と記せる首尾残欠せる零本一巻も亦一切経音義なるべしと思惟し、書を余に寄せて調査を要められたり。 かくて調査の末、巻第六の断簡なることを明かにせり。 本書に付録とせるものこれなり。 その他の零本は既にいへる巻第四及第十七乃至巻第二十二の七巻これなりとす。 ここに於いて案を更めてそれらを以て先づ本書の欠を補ひ、宋版を以て第二次の補ひに置くこととし、これも亦宮内大臣の認可を得てこれを実行するを得るに至れり。

 大正八年五月 余朝鮮に遊ぶ。 この時を以て かの慧琳本の脱落の原本に於いて存するか否かを確めむことを期せり。 かくて京城に於いて奎章閣(李氏朝鮮時代、王宮内に設けられた書庫)に保管せる麗蔵(高麗王朝時代(10~14世紀)に刊行された大蔵経)を見る。 これ実に寺内総督(朝鮮総督・寺内正毅、1852~1919)の印刷せしめられしものにして、同伯の所有物たりといふ。 これを閲するに、かの脱落は悉く完備せり。 ここに於いてこれをも複写して本書に付する案を立てたり。

 大正九年に到りて事業益々進み、博物館本は製版を了へ、校正を施しつつありき。 宮内省の宋版また撮影を了へ、正倉院本の製版なりて 七月十九日 余が許にその試刷を致し、明日より宋版の分の製版に着手せむといふ。 然るに何等の惨事ぞや。 その夜 火ありて七條製版所をして烏有に帰せしめぬ。 その搊害莫大なるものあり。 余等その状を見るに忍びず、本書刊行の事は時期を待つべしと決するに至りしなり。

 彼の災ありてより一週日七月二十六日 七條氏灰燼の間より一の木箱を見出で、これを開きしに かの博物館本の写真と その試刷に余が校正を加へしものと 濡れ且つ隅々の焼けたるはあれど 一も搊害なくして 完全に残り存せるなりけり。 無数の写真印刷物殆ど一も残り存せるものなきに この音義のみ毫(すこし)も搊することなくして猛火の中に残りてありしこと真に奇蹟といふべきなり。 薄暮 七條氏 車を駆りて余が居を訪ひ、具(つぶさ)に事情を語る。 感慨無量なり。 当時七條氏の深く感激せし状 今なほ余が脳裏に刻せらる。 七條氏曰はく 「これ実に神仏の加護による。 余は誓つてこの書の完成を期せむ。 費用の如きは論ずる所にあらず」 と。 即ちその事業を縮小してこの書完成に要する程度に止め、以て新に工程を起すこととせり。

 当時本書の写真は三種より成れり。 一は博物館本にしてこれは版は失ひたれど、写真も試刷せしものも存すること上述の如し。 二は聖語蔵本にして、その写真は焼失したれど、その印刷せしもの幸に余が許に止まれり。 即ちこれを複写し不足の分は更に撮影して之を補へり。 三は宋版本にしてこれが写真は一も残れるものなく、製版亦存せず。 この故にこの分は再び写真を製せざるべからず。

 ここに天下に告ぐべき事あり。 そは他にあらず、余が本書の補欠として宋版本を用ゐむの案を立てたることの失錯なり、当初余は深く諸本の系統及び異同を研究することなく、斯道の先輩の説に雷同してこの案を立てしなり。 然るに著々(着々)研究するにつれて宋版本よりは麗蔵本の方遥かにこの本に近きものなるを見るに至り、終にかの巻第五の四十一経の脱落を発見するに及びては全く宋版本の拠るべきものにあらずして、必ず麗蔵本を用ゐるべきの断案を得るに至りき。 然れどもこの時は宋版本の写真既に成りてこれを廃棄するに忍びざるの状に陥りぬ。 然るに一朝にしてかの災ありて、余が苦慮せし宋版本の写真は一も存せず、再び撮影すべき事となりぬ。

 当時余は上述の事情を 森、上田二博士に陳じて責を千載の後に負はむと決心してありしが、かの災ありて後、事情を七條氏に告げてその諒解を得、麗蔵本を以て宋版本に代ふることとしたり。 然れども麗蔵本の完全なるもの一も東京に存せず。 これより先、余は朝鮮なる寺内伯爵所有の麗蔵一部を東京に置かむことを企て、森博士にはかる。 森博士即ちこれを宮内省に献納せしめむとする案を立て、寺内伯をその垂死の病床に訪ひてこの事を懇請せられしに、伯これを諾し、薧ずるに臨み遺言して、上述の麗蔵一部を宮内省に献ぜられき。 大正九年十月に至りこの本図書寮に著してあり。 即ち補欠の部分とかの元文刻の慧琳本を補ふべき部分とを撮影して本書刊行の準備ここに完成せり。 さればかの七月の災は七條氏の為には悲惨なる大事件なりしかども、余が失錯にとりて物怪(もっけ)の幸となりし観あるこそ不思議なれ。

 これよりして後事業は滞ることなく進行し、大正十年十二月三十日に至りて本書の印刷を完了して見本を製しうるまでになりぬ。 顧みれば実際にこの事業に著手せしより今大正十一年五月まで四ヶ年余を費しぬ。 その間に起れる物価の昂騰とかの火災とは、七條氏の当初の計算をして全く無意義なるものとなさしめぬ。 然るに氏が多額の費用を吝(おし)まずして写真に製版に用紙に装幀に最善の努力を尽したるもの一はその責任を重んじ、一はかの神仏の加護に感激せし余なりとはいへ、氏の功は永く忘るべからざるなり。

 ここに本書の完成に際し、余は先づ余が駑鈊を寛仮して菲才を尽さしめられし上田博士に深く感謝の意を表す。 而して本書を複製すべき動機となり、始終特別の保護を加へられし森博士の盛意は本書を閲する人と共に永く記すべき所とす。 余等は又 補助金を下付せられし帝国学士院、原本撮影の便を与へられし宮内省図書寮、東京帝室博物館、奈良帝室博物館に対して甚深の謝意を表す。

 次に七條氏を助けて撮影製版の事に当りし矢田勇氏 七條憲三氏 青木貞太郎氏の労も亦記せざるべからざるなり。

   大正十一年五月二十五日
山田孝雄 識 空白


 前文稿成りて森博士を東京帝室博物館なる総長室に訪ひて閲を請ひしは、実に五月二十五日にてありき。 かくて僅かに一月余にして博士忽ち白玉楼中に入りたまへり。 本書成るあらば、まさに韋編三絶の慨あらしめむと楽んで期待しをられしものを、今空しく同博士好学の記念となりしこそうたてけれ。 人事の憑(たの)むべからざること、殆ど夢の如きかな。 筆を閣(お)いて 静かに故人の風丰(風貌)を追懐するのみ。

   大正十一年十二月一日
山田孝雄 又識 空白



   本書再刷の次第


 以上の文は、曩(さき)に公にせし一切経音義索引の末に載せしものなり。 抑も本書の複製は、もと一切経音義索引の編成と相関連するものなり。 この音義は印刷既に完了したるが、索引の完成を待ちて共に世にせむと期してありしが、その索引の清書に時日を要せしが為に、その印刷物を七條製版所に保管して在りき。 然るに大正十二年九月一日の大震災に遭ひてその印刷物烏有に帰し、ただ装釘の様子として製したる本十部を人間に留むるのみとなりぬ。 ここに於いて余は七條氏に計りて、先づ索引を公にせむ事とせり。 ここにその大治本一切経音義複製本の跋を末に録して刊行の顛末と索引編成の由来とを世に告ぐることとせしは、大正十四年五月二十七日なりき。  爾来年月を閲すること六七年、内藤湖南博士の本書に寄せらるる好意は、七條氏をして更に奮つて資を投じ、ここに再びこれを復興せむ志を起さしむるに至れり。 その間に於いて高麗版一切経音義の正しき本が、京城帝国大学の力によりて世に公にせられ、小川氏の一切経音義は国宝に指定せられたり。 この際にあたり、七條氏がその価を廉にして、学者はた好書家にこれを提供せむと企てられしは、その沢恵の及ぶ所蓋し無量ならむ。 ここに再び故森博士、上田博士、帝国学士院、七條愷氏の功徳を称へて、学の為 道の為に甚深の感謝を捧ぐ。

   昭和七年七月十五日


 因に云ふ、玄応の事については支那学第七巻第一号に台北帝国大学教授神田喜一郎氏の委しき説あり、就きて参照せられなば 益すること少からじ。






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