らんだむ書籍館 |
![]() |
表紙 |
目 次
先祖・父母・兄弟・親戚のことゞも 秋水の幼年時代 斎藤緑雨氏の思ひ出 小泉三申氏の追憶 |
本文の一部紹介 |
返らぬ日の懐しい思ひ出は、ひとり秘かに楽しむものであるかも知れない。 況(ま)して私のやうな者が、斎藤緑雨氏に就いて知つたか振りをすることは、烏滸(おこ)がましさも程度を越して居るであらう。 しかし、長い生涯の数々の思ひ出の中には、このまま墓穴の彼方へ運び去つて了(しま)ふには、余りにも惜しいやうな気のするものも幾つかある。 緑雨氏に関する思ひ出もその一つである。 とは云へ、私は緑雨氏に就いて 殆んど何も知らないのであるから、唯だ緑雨氏と交はりのあつた幸徳秋水の妻として、緑雨氏と秋水の交友の一端を語り得るに過ぎない。 しかも 七十歳を過ぎた今日では、すでに私の記憶も衰へ果てゝ了つて居るから、僅かに逸話の幾つかを 統一もなくあれこれと書き記すに過ぎない。
私は 幸徳家に嫁ぐ以前から、新聞や雑誌で鋭い皮肉を連発する正直正太夫が、幼少の日からその名を聞いて居た仮名垣魯文の弟子であり、実は斎藤緑雨氏であることを世間並に知つてゐた。 そして 娘時代から、解らないながらも 緑雨氏の書くものを好んで読んでゐた。 知人から借りて 貪るやうに『油地獄』を読んだのも、今では五十年余りも昔の懐しい思ひ出の一つである。 しかし一面には、緑雨氏に就いての批評や悪罵も知つてゐた。 高山樗牛氏が『太陽』誌上で 「緑雨は果たして幇間なるか」と云はれたのを見た時は、緑雨氏とはそんな人かと思つたこともある。 私が緑雨氏の容姿に接したのは、幸徳家の人となつてから後のことであるが、まさか自分が緑雨氏と親しく口を利かうとは、結婚後まで夢にも思はなかつたことである。
人の知るやうに、斎藤緑雨氏は幸徳秋水の親しい友の一人であつた。 秋水の言葉を以つて云ふと、爾汝の交はり(おれ・おまえの仲)を最後まで続けた間柄である。 緑雨氏と秋水との交友が何うして始まつたのか、それに就いて私は何にも知るところがないが、秋水の話しに拠ると、秋水が緑雨氏と親しくなつたのは、独身時代の終りである明治三十一年頃のことである。 して見ると、緑雨氏が秋水と共に、『萬朝報』の記者をして居られた頃のことであらう。 今日では『萬朝報』の名は完全に忘れられて居るが、当時の『萬朝報』は 都下第一の発行部数を示した新聞紙であつた。 私が幸徳家に嫁いだのは明治三十二年のことであるが、すでにその時 あんなに親しかつたのを見ると、僅かの間に 二人の友交は急速な勢ひで深められたものと思ふ。 実際 秋水と緑雨氏との交りは、その当時から、他人の想像して居るよりは 遙かに親しいものであつた。 因みに年齢の上から云ふと、秋水の方が確か四つか五つ年下であつた。
秋水の朋友知人の中でも、緑雨氏は秋水の母に最も人気のあつた人である。 母は 緑雨氏の来訪を心から歓迎したばかりではなく、「斎藤さん、斎藤さん」と 蔭でも好く噂してゐた。 秋水の知己には斎藤姓を名乗る人が幾人もあつたので、私は最初 母のしばしば口にする斎藤さんなる人が、誰のことであるのか見当が付かなかつたが、間もなく、それが正直正太夫であり 緑雨氏であることを知つた。 それにしても、何故母が 秋水の数ある朋友知人の中で、特に緑雨氏をあんなにも好んで居たのであらうか。 想ふに、世情に通じた緑雨氏が並外れて親切な人であり、江戸ッ子らしく何処かきびきびした処のあるのが、ひどく母の気に入つて居たのであらう。 事実 秋水の留守の時など、田舎出の年老いた母を相手に世間話をされるのは、緑雨氏だけであつたやうに記憶して居る。
… < 中略 > …
足繁く来訪されて居た緑雨氏が、何時からともなくばつたりと来られなくなつた。 私は何故然うなつたのか知らないが、別に秋水と争ひごとがあつたとも思はれない。 緑雨氏からは 頻繁に便りだけはあつたやうである。 そしてまた、二人は何処かで逢つて居たやうにも推測されるが、想ふに、これは緑雨氏が転地療養の為めに東京を去られたからではなからうか。 何はともあれ、然うした状態が一、二年も続いたであらう。 その間に、私達は山の手を二、三ヶ書移転して廻つたが、最後に本郷の根津に引越した時、秋水から出した移転通知の返事に「古戦場」云々の文字があつたことを覚えて居る。 甚だ迂闊な話しではあるが、私は緑雨氏の「古戦場」が何にを意味するのか知らなかつた。 秋水に話して居られる来客の冗談口から、それが根津の遊廓を意味することを知つたのは、根津の住居を引き払つてから後のことである。 若し私の記憶に誤りがないとすれば、緑雨氏が病気保養に小田原へ行かれたのは、この頃のことではなかつたかと思ふ。
緑雨氏は 一年余りも小田原に行つて居られたやうであるが、余程 退屈であつたと見えて、殆んど毎日のやうに手紙を寄せられてゐた。 それらの手紙の中には、「四面蕎麦の引越し沙汰」と云ふ名文句や、「町の名の十字にてもよろしく」云々と、一金拾円也の工面を申越されたことなどを記憶して居る。 後者は、小田原の十字町に移られた時の手紙であるが、他の手紙に、「昨夜は熱も四十度を上下いたし候」とあつたやうに、この頃は、身体も悪かつたし 金にも困つて居られたやうである。 或る時の手紙などは、一枚の紙の真中に大きく円を描いて、それを二等分して一方を黒く塗つてあつたが、その白黒半ばする円の下に、半死半生の体に御座候とだけ書いてあつた。 秋水が小田原まで見舞に出掛けたのは、この手紙を受け取つた時であつたと覚えて居る。 私はこの頃の緑雨氏の手紙の幾つかを大事に保存して居たが、秋水の亡き後も、幾度か繰り返して読んで見ては、秋水と緑雨氏の友交を追憶した。 後に、それらの手紙は 秋水の詩稿などと一緒に、秋水の最も親しかつた三申小泉策太郎氏に寄贈したが、三申氏の亡き今日、私の思ひ出の数々を潜めたそれら一切は、一体何うなつて了つたであらうか。
日露の風雲急なる時、非戦論を称へて、『萬朝報』を立ち去つた秋水と堺利彦氏の二人が、他の多くの同志と共に平民社を創立して、週刊『平民新聞』を発行したことは、世の人の好く知るところであるが、その頃になつて、暫らく姿の見えなかつた緑雨氏は、再び秋水を訪れて来られるやうになつた。 その時には、もともと痩せ削けて居られた緑雨氏は、見るからに病人らしく衰弱されてゐた。 そして時々 苦しさうに咳入つて居られた。 それでも誰れ彼れを冷罵し冷笑されながら、以前のやうな元気だけは示されて居たが、秋水の話では、養生費はおろか生活費にさへ困つて居られるとのことであつた。 で、秋水は 堺利彦氏と相談の上、「もゝはがき」と云ふものを『平民新聞』に書いて頂くことにした。 それは毎日一枚づゝ緑雨氏が葉書を寄され、一週間分を新聞に掲載する仕組みであつたが、いづれ緑雨氏の考案になつたものであらう。 『古今和歌集』所載の読人知らずの歌、「暁の鴫の羽根垣もゝはがき君の来ぬ夜はわれぞ数かく」に その題名を採られたものゝやうに聞いて居る。 最初は葉書百枚を掲載する予定のやうであつたが、緑雨氏の死に依つて 遂に百枚までは載らなかつたやうである。
『平民新聞』の創業当時、私は臨時会計係を申付けられて居たが、緑雨氏の「もゝはがき」に、幾ら支払つて居たのか 記憶して居ない。 平民社も頗る苦しかつたから 孰(いず)れ大した金ではなかつたことは明らかである。 しかし 社からの送金を待ち切れずに、何時も本所の横網から有楽町の平民社まで、緑雨氏は病躯を押して足を運んで来られた。 或る時の如きは、昨日少し金が入用だつたので訪ねたかつたが、僅かな足代さへなかつたので 行けなかつたと、悲痛な手紙を寄されたことがある。 私はこの頃の緑雨氏の姿を見るに付け、幾度か心の中で秘かに同情の泪をながしたか知れない。 緑雨氏に支払ふ原稿料の中に、秋水の小使銭が加入されて居たことは事実である。 何時も秋水は これを一緒に渡して置けと云つて、貧弱な財布の中から若干の金を取り出してゐた。 もともと緑雨氏は秋水の親友であつたから、平民社の金を使用する限り、秋水には堺氏に対する遠慮があつたやうである。
或る日、私は秋水に向つて、私の保管して居る社の小さな手提金庫に、一杯金を入れたら幾ら入るだらうかと、子供のやうな質問をして見たことがある。 すると、「奥さん、入れて御覧になつたら判るでせう」と、側に居られた緑雨氏が秋水に代つて答へられた。 社の貧乏さ加減を知つて居た私は、若しその手提金庫に一杯金があつたなら、秋水や堺利彦氏が何んなにか楽だらうと、たわいもないことを真面目に考へてゐた。 で、見事にその夢を破られた私は、にやにや笑つて居られる緑雨氏が何んとなく怨めしかつたが、これが緑雨氏の皮肉の槍玉に挙つた最後であり、それから一ヶ月余りの後に 緑雨氏はあの有名な死亡広告を遺して、貧困の中に惜しくもこの世を去られたのである。
三申小泉策太郎氏がこの世を去られてから、すでに十年余りの年月が過ぎ去つてゐる。 小泉氏が幸徳秋水と刎頚の交りのあつたことは、余りにも世間周知のことであるが、秋水の死後、私までが直接間接並々ならぬ世話になり続けて来た。 曽て 『中央公論』 に掲載された誰れかの 「小泉策太郎論」 の中に、小泉氏が私に米塩の代を恵まれて居る由が書いてあつたが、事実秋水の死後、この世の生活に悩まされ続けた寄る辺ない私は、図々しくも悪濃いまでに小泉氏の袖に縋つた。 しかしその都度、何時も私に救済の手を差し延べられたばかりでなく、思ひ掛けない時に多額の金子を恵与されたことさへ屡々あつた。 過ぎ去つた曽ての日を回顧する時、五十年来の鴻恩を心から感謝すると共に、無量の感慨の中に追憶を新たにせずに居られない。 と云つて、私の瞳の奥に浮ぶ思ひ出の小泉氏の容姿は、落語家の先代小さんに生気を吹き込んだやうな、人の知るあの枯淡な晩年の面影ではなく、寧ろ才気に溢れた若かりし日の小泉氏のそれである。 想ふに、秋水の死後書信の往復以外には、稀れにしか面語の日を得なかつた故であらう。
… < 中略 > …
人の知るやうに、小泉氏は友情に厚い世話好きの人であつたが、或る時、安子夫人が私に向つて、次のやうな話をされたことがある。 それは安子夫人が小泉氏に嫁がれて間もなくのことである。 所用の為めに外出された夫人が帰宅されて見ると、留守の間に顔馴染みの来客があつて、ビールなどを飲みながら盛んに談笑して居られたが、何時の間にか箪笥の中はすつかり空になつてゐた。 驚きの余り小泉氏を別室に呼んで、そつとその由を告げられると、小泉氏は事もなげに、「友達同志は皆なこれだよ」 と云はれたさうである。 云ふまでもなく、座敷でビールを飲んで居る客の急を救ふ為めに、夫人の留守を利用して、家族の衣類一切を入質されたのである。 私はこの話しを聞いた時、若しやその客は秋水ではなかつたかと思つたので、「秋水だつたのですか」 と訊いて見ると、「いゝえ、幸徳さんではありません」 と答へられたので、安堵の胸を撫で下したことを記憶して居る。
小泉氏と秋水との友交に就いては、これまで小泉氏自身もしば ~ 書かれたことでもあり、また余りにも世間に知れ渡つて居ることであるから、今更ら何にも私などが繰り返す必要もなからう。 しかし実際は、世間の人々が想像されて居るよりも遥かに深い交りであつたから、人の知らない幾つかの逸話を述べて見やう。 秋水は理財に就いて頗る無関心な人間であつたが、この点が親友の小泉氏を最も憂ひしめたやうである。 で、小泉氏は何かことある毎に、秋水の無関心さを戒めて忠告されたやうである。 或る時の如きは、最う独身ではないのだし親もあることだから、少し蓄財と云ふことを考へては何うかと、情理を尽された長い ~ 手紙を寄されたことがある。 そしてその手紙には秋水の老年を戒めて、「暁の嚏(くさめ)けうとし秋の風」と云ふ句が書いてあつた。 しかし秋水は小泉氏の忠告を感謝しながらも、相変らずの無関心振りを発揮してゐた。
秋水が 『萬朝報』 に居た頃には、多少ながらも定収入があつたから好いやうなものゝ、平民社を創立して社会運動の第一線に乗り出してからは、殆んど定まつた収入と云ふものがなくたつて来たので、軍用金をしば ~ 小泉氏に仰いだ。 で、小泉氏の心配は並大抵のものではなかつたやうである。 或る時、某会社の権利株を持つて来られて、これをやるから大事に仕舞つて置け、なにかの時の用意になるだらうからと、秋水に手渡して帰つて行かれたことがある。 ところが、然うした物を持ち付けない秋水は、その株券を可笑しいほど荷厄介にして居たが、日ならずして小泉氏に内密で売り飛ばして了つた。 そしてしこたま書物を買ひ込んでひとり悦に入つてゐた。 これには小泉氏も少々呆れ返られたやうであるが、今度は有る時払ひの催促なしで家を建てゝやるから、図面でも引いて見たら何うかとのことであつた。 これだけは秋水も多少食指が動いたと見えて、二三日は書斎に閉じ籠つて怪しげな図面を引いて居たが、何時の間にかそれも止めて了つた。 そして小泉氏に向つて、折角家を建てゝも金に困ると、相談する前に、屹度売り飛ばすに違ひないから止めたと云つてゐた。 さすがの小泉氏も、この時から秋水の蓄財には匙を投げて了はれたやうである。 それでも、「僕の眼の黒い中は不自由はさせないから、金の入用の時は取りに来給へ」 と云つて居られた。 事実、迫害の為めに手も足も出なくなつた晩年の秋水は、その生活費の殆んど全部を小泉氏に仰いで居たのである。
秋水がまだ 『萬朝報』 に居た頃だと記憶するが、秋水と小泉氏とが揃ひの着物を作つたことがある。 黒羽二重の羽織に、同じく羽二重の鼠色の着物であるが、上下共に各自の定紋付きであつた。 勿論小泉氏の考案に依つて作つたものであるが、そのお揃ひを着て二人で遊び歩いたのだから、何んと云つても小泉氏も秋水も若かつたものである。 小泉氏の亡くなられる数年前に、その思ひ出を書き記して、私から小泉氏に送つた手紙の返事に、「秋水のことは老いるに従つてます ~ 記憶の新しくなるを覚え、時々夢裡に相逢ふこともあるほどに候」 とあつた。 堺利彦氏の話に拠ると、小泉氏は秋水の伝記を書くべく計画されて居たが、如何なる事情か中途で止められたやうである。 小泉氏が中央公論に載せられた秋水の思ひ出は、確かその時の副産物であつたと記憶してゐる。 ところが、『中央公論』 のあの原稿料は二度とも、堺利彦氏の計らひで、堺氏を通して私が頂戴して了つた。 そして堺氏から小泉氏に事後承諾を求められた時、堺氏宛に、「原稿料横領の件承知仕り候」 と云ふ返事があつたが、一言の苦情も云はれなかつた。
十年近くも面語を得ないで居るうちに、小泉氏はあの世へと旅立たれて了つたが、生前手紙だけは時々戴いてゐた。 最後に鎌倉の別荘から戴いた手紙には、「半病人状態なるに加へて、三界無安猶如火宅、人間相応の不快なる事どもありて云々」 と、小泉氏らしからぬ文句があつたが、世間的に功なり名を遂げられた小泉氏にも、人知れぬ悩みがあつたのであらう。 若し然うだとしても、すでに柩の蓋に釘を打たれた今は、この世の一切の苦から脱れ去つて安らかに眠つて居られることであらう。 若しかしたら、あの世で秋水とこの世の思ひ出を語り合つて居られるかも知れない。
終