らんだむ書籍館


表紙


目 次


 唐代女像の一形式 ……… 文学博士 浜田青陵
 (所謂樹下美人式女像に就いて)

 栄山寺八角円堂の意匠及び装飾
          ……… 工学博士 天沼俊一

 頭塔に就いて ……………………… 佐藤小吉

 清凉寺の釈迦像 …………………… 源 豊宗

 マツラ派の彫刻 ………………… フォーゲル
 (特にガンダーラの影響に就いて)

 法起寺の塔と薬師寺の東塔との比較
         …………………… 菅原明朗

 一乗寺紀行 ………………………… 市村英輔

 室生の印象 ………………………… 小島貞三

 大和路 ……………………………… 春山武松

 美術史雑記 ………………………… 豊  秋

 図版解説

 雑録


  焼付写真

 広隆寺弥勒像 ………………… 小川晴暘 撮影

 唐女俑(京都帝国大学蔵) … 小川晴暘 撮影

 栄山寺八角円堂内陣貫装飾文様
 (其一)天人 ………………… 天沼博士 撮影

 栄山寺八角円堂内陣貫装飾文様
 (其二)宝相華 ……………… 天沼博士 撮影

 印度マツラ釈迦立像(カルカッタ博物館蔵)
            ……… 天沼博士 撮影


  凸版
  <略>


  網目銅版
  <略>


唐女俑 (京都帝国大学蔵) 小川晴暘 撮影
唐女俑 (長顔痩形式)
正倉院 鳥毛立屏風 樹下美人図
新疆省発見 樹下美人図
「仏教美術」 創刊号


 大正14 (1925) 年12月 第二版、仏教美術社。  (初版は、大正13年11月)
 B5 版、 本文 72頁、 紙装。


 表紙に 「仏教美術社発行」 とあり、上掲の発行元表示はこれに従ったが、奥付にはこの名称がなく、「発行所 奈良市帝室博物館横 飛鳥園」 と記載されている。
 また、奥付には 「編輯兼発行者 小川晴暘」 との表示もあるので、実質的には写真館 「飛鳥園」 の経営者で、古美術写真家の 小川晴暘 (本名:晴二、明治27(1894)年~昭和35(1960)年) の主宰した事業であることが判る。
 個人的な事業としての印象を薄め、関係者を広く編集に参画させるために、表紙には 「仏教美術社」 の表示を掲げたのであろう。

 大正期には、大陸の仏教遺跡、国内の寺院建築・仏像など、仏教美術全体への関心が高まり、香川黙識(編) 「西域考古図譜」 (大正4年)、和辻哲郎 「古寺巡礼」 (大正8年)、木下杢太郎・木村荘八 「大同石仏寺」 (大正10年」、会津八一 「南京新唱」 (大正13年)などの特色ある書が 次々に出た。
 こういう風潮の中での創刊であったから、本誌は幸い学者達の支持を得、熱心な読者も獲得して、順調に発行を続けたようである。 創刊号が1年後に再刊されたことも、成功の表われといえよう。

 右の目次に示されるように、本格的な論文から紀行やエッセイまで、多様な文章で満たされているが、その全てが図版を伴なっていて、説得力のある内容になっている。

 本誌の最大の特徴は、美術雑誌の生命である図版の鮮明化のために、印画紙に焼き付けた写真そのものを誌面に貼付したことである。
 この創刊号の場合、目次の下部 「焼付写真」 の項に表示された5枚が、貼付されている。 貼付された頁は厚手の台紙になっているため、口絵の部分だけが硬直して頁を繰りにくいのが玉にキズであるが。


 「本文の一部紹介」 には、冒頭に置かれた、浜田青陵の論文 「唐代女像の一形式」 を掲げる。

 浜田青陵 (本名:耕作、明治14(1881)年~昭和13(1938)年) は、考古学者、京大教授、総長。 著書に、「考古学通論」(1916年)、「百済観音」(1926年)、「考古遊記」(1929年)、「東亜文明の黎明」(1930年) 等があり、訳書に、「ミハエリス氏 美術考古学発見史」(1927年) がある。

 今回の 「唐代女像の一形式」 は、唐代の女俑 (女性像の土偶) に見られる容姿の2類型 ― (1)面長・痩せ形 と (2)丸顔・豊満形 ― のうち、後者が唐代に始めて出現した理由を考察した論文である。
 この丸顔・豊満形は、我が国の正倉院に伝来した樹下美人図や新疆省出土の樹下美人図の容姿とも共通することなどから、盛唐 (玄宗の時代) の享楽主義的傾向から出現したものであり、人体の自然な美しさを追求した結果であるとしている。
 「美術考古学発見史」 の訳者らしい、美意識ないし芸術観的な発想にもとづく議論が展開されている。

 4枚の挿入図版のうち、最初の 「唐女俑」 が貼付された焼付写真で、実物では像の表面の質感が見事に再現されている。 この画面においても、他の3枚の印刷図版との差は歴然であろう。



本文の一部紹介



     唐代女像の一形式
      ( 所謂樹下美人式女像に就いて )

浜田 青陵***空白***



     一、

 近頃支那の古墓から発見せられて舶載する唐代の土偶の中に、普通の女俑とは異なつて、一種特別の容姿を具へてゐるのがある。 即ち普通には面長な顔貌を現はし、身体も痩せ形で腰は細く裳の裾は下広がりになつて居るのに引きかへて、此の一類は豊円な所謂丸ポチャの顔に大きく頬紅を施し、頭上には高く被ひかぶせた様な廂髪を結ふて居る。 而して身体は肥え太つて腰も細くクビれて居ないのみならず、裳の裾は却つて腰より次第に狭く下つて、腹の前部が高く前に挺出して居るのである。 例へば東京帝室博物館、東京美術学校の蔵品や、京都帝国大学の所蔵に此の種土偶の好例を見ることが出来る。 これを一瞥したものは、誰でも直に正倉院鳥毛屏風或は大谷伯採集の西域噲喇和卓古墳発見の紙幅の上に描かれてある彼の所謂樹下美人の像と、全く同一の型式に出でゝ居るのに気付かずには居られない。

 此の二種の型式の女像が両者共に唐代のものであることは、種々の方面から証拠立てることが出来る。 例へば前の面長痩形美人の型式は、唐の高宗の大中年間に没した寵姫仇氏の墓誌と一処に発見されて居ること、其の服装が唐代の絵画殊には年代も明かな敦煌発見の仏画の供養人物中などにあるものと一致し、宋以後のそれと違つてゐる点の如きは、様式上の考定以外の有力な証拠である。 後者に至つては盛唐文化の移植である正倉院の絵画に其の人物の面貌服飾の一致を見ることに由つて、又々同じく天平の絵画として他の方面から推定せられた薬師寺吉祥天女像などゝ全く同一の型式を有してゐる事などに由つても、之を証明することが出来る。 但し両者が果して唐の何時頃に行はれたものであるかは 、精確に知ることは六ヶ敷いが件の樹下美人式の女像が少くとも日本の天平時代に相当する唐の玄宗開元天宝の間に存在し、面長痩形の像が其の少し以前高宗の大中年間前後に存在して居つたこと丈けは言はれる。


     二、

 我々は併し なほ他の方面から此等二種の女像の型式の由来を考察して見なければならぬ。 即ち第一類の面長痩形の型式は唐の高宗の時代ばかりで無く、更に其の以前六朝の女像にも又た恐らく唐代にも其の系統を引く可きものであることを、各種の彫刻絵画の遺品から認められるのであるが、円顔の肥つた女像に至つては此等唐以前に殆ど全く発見することが出来ない。 又々唐の高宗以後に於いても此の面長痩形の女像は屡々出て来るのであつて、宋元明清に至つても之を見ないことはないのである。 之に反して 第二類の円顔肥満の女像は 玄宗以前の作品に於いて我々は殆ど全く見ることが無い。 而して唐以後五代などに於いても存在することは、スタイン氏発見の敦煌画に於いて例証せられるのみならず、支那晩唐の美術の影響を受け、之を日本化した我が平安朝の彫刻絵画に於いて、常に此の系統の女人の像を発見するのである。 彫像の好例としては浄瑠璃寺の吉祥天女や薬師寺の神功皇后、仲姫命などを挙ぐ可く、又た多くの絵巻物中の女や仏画に於ける菩薩の形相は皆此の類の型に他ならない。 併し かの面長の第一類の美人像が絶滅して仕舞つたのでは無く、鎌倉以後再び復活して、前者と並行して現はれて来るのであつて、或る時期或る芸術家によつて、或る一方が著しく現はされ、或は他方が現はされなくなることもあるが、要するに両者共に美術上に表現せられてゐるのである。 例へば 徳川時代に於いて元禄頃には師宣風の丸顔が専ら浮世絵に行はれ、享保頃の懐月堂鳥居派の画家などが好んで此の型式の女を描いて居ると同時に歌麿や北斎になるといつも却つて面長痩形の女を現はしてゐる。

 斯の様に美人の型式の二種類が、時代により芸術家により色々に盛衰のあることは、独り支那や日本の如き東洋ばかりの事では無い。 西洋に於いても矢張り同様の現象が認められることは、伊太利に於いても中世から文芸復興期の初期にかけては、面長痩形の女が主として描かれ、其の最盛期以後に至つては、チヽアン(Titian / Tiziano Vecellio,1485~1576. ベニスの画家)其他漸く丸顔肥満の女子を現はすことが多くなつて来たので、是は聖母の像に於いて明に看取することが出来よう。


     三、

 扨て然らば 斯の如く美術上に現はされた美人の姿容に二種類のあることは 如何なる理由に基づくのであるか。 固より其の根蒂(根底)には人種上の特徴に由ることも多いに違ひ無い。 例へば北欧の和蘭や英吉利などでは其の頭型がドリコセフズル即ち狭頭である処から、面長の顔が普通に生れるのであるから、此等の国の芸術には自から長顔痩形の美人が現はれて来る。 之に反して伊太利西班牙仏蘭西などの南欧諸国では、頭型も中頭即ちメソからブラキセフワルとなり、丸顔の人間が多くなるから、従つて之を写し出するものも少くないのである。 併し此等諸国でも色々の種族の混血が行はれて居るし、又た日本や支那の如く人種的混合の行はれてゐる国々では常に両型の女が同時に現はれて来るのであるから、此間に厳重な区別は固より立てることは出来ない。 たゞ普通には貴族上流に長顔痩形の型が多く、中流以下の平民社会に丸顔肥満のものが多いのが各国共皆共通の現象である。 これは恐らく 文明の進んだ民族に於いては 前者が智的に勝れて居るので 治者の位置に立ち 社会勢力を得、後者は之に反して彼(被?)治者の階級に残つてゐることになつた為めであろう。

 処が芸術は元来上流社会 生活に余裕のある社会の間に発達し、其の鑑賞に資せられるものであるから、其の反映として表現せられるものは多くは矢張り該社会の女である。 従つて面長痩形の美人が先づ昔の美術に現はれて来るのが常となる。 支那六朝頃の芸術に 斯の如くにしてかの顧愷之の女史箴図巻にあるが如き面長痩形の女を産出した。 然るに唐代特に玄宗の頃に至つて、忽然として丸顔の豊満な美人の新型が美術上に現はれ来たのは 確に美術史上の一時期を劃したものであるのみならず、其の根本に社会生活上の一大変革のあつたことを予想せしめるのである。


     四、

 言ふ迄も無く唐の盛時とりわけ玄宗の時代は享楽主義の時代である。 開元から天宝の泰平の治下には官能的快楽が追求せられ、其の世界的コスモポリタン趣味と共に平民的趣味の勃興して来たことは 当代の文学詩歌を読んだものゝ均しく感ずる所であろう。 斯る時代に 理智的の長顔痩形の美人を凌いで情熱的肉感的の丸顔肥満の美人が時代の趣味に合する様になり、それが美術の作品の上に表現れられるに至つたことは、容易に想像される所である。 かくて樹下美人の屏風が出来、樹下美人式の土俑が唐代の墳墓に死者の伴侶として容れられるに至つた理由は此処にある。 よし此の型式の美人のみが社会全般の趣味を風靡したとは言へないにせよ、今まで有してなかつた範囲にまで此の型の美人に対する好尚が拡張せられ、それが芸術の上にも影響する程度のものであつたこと丈けは確に言へると思ふ。

 我が奈良朝の美術は唐の此の時期のそれを模倣したものに過ぎないのみならず、当時の人士は其の好尚と趣味まで支那のそれによつて影響せられて、這般の美人型を喜んだに違ひ無い。 又た平安朝や元禄時代に於いて円顔の美人が勢力を占めるに至つたのも、畢竟之と同様に享楽的生活官能的快楽追及の時代を反映したものに外ならない。 併し 斯る時代の次に其の反動として厳粛に智的生活の時代が出て来るのが常であつて、其の時期には再び古い面長痩形の美人が地歩を回復することに成る。 斯の如くにして大体に於いて両者が相交替して現はれて来るのであるが、近代に至つては一般に官能的享楽主義が世界を風靡して来た為め、丸顔肥満の美人の方がどうしても勢力を有することが多い傾向を見るのである。 


     五、

 私は以上 唐代の社会に於ける生活趣味の反映として、かの樹下美人式の女像の出現を説明したが、此の外特殊の芸術家の特殊の趣味によつて、此の型式の美人が美術上に著しく現はれることも勿論認めないのでは無いが、斯の如き個人的の理由は、社会的の勢力の下には寧ろ微々たることが多いのである。 扨て最後に 斯の如くにして産出せられた此丸顔肥満の美人の像が果して如何なる美術的価値を有するか。 如何なる審美上の効果を示すかと言ふ点に 少しく言及して見度い。 之に関しては一々異つた作品に就いて論述する煩を避けて、丁度此の雑誌の口絵として掲げられた京都帝国大学所蔵の土偶を代表として挙げることにする。

 在来の面長痩形の美人像に於いては、腰部が細く衣裳の裙部が拡がつて居つたので、人物の立像としての安定感は充分に得られてゐる。 併し此の安定の姿勢は遂には単調となり平凡となり、我々は新しい変化を求め度くなるのである。 加之(しかのみならず)人間として裸体の形相は斯の如き底の拡がつた三角形とは違つて、腰の上に幾分の縮約はあつても臀部を中心として上下に細くなつてゐるのが自然の形である。 それで因習の衣服によつて上自然に変化せられた人体の形は、此の桎梏を脱して自然の形に帰ろうとするのである。 理智によつて被ひ隠された肉体の真実の形式は 飽くまで其の天然を発揮しようとするのである。 斯の如くにして我々は此の樹下美人式の土偶の様な、腰部に於いて縮約せず裳の裙の方に向つて細くなつてゐる容姿の出現す可き理由を認めることが出来る。 (欧州に於いても近時女子の朊装が裳の裙を拡げず、却つて下の方に細くなつて来たのは東洋風の影響ではあるが、其の根本的理由は此処にあると思ふ。) 併し 若し裙部に於ける裳のスボマリが其の儘に終つて仕舞つたならば、それは安定感に於いて余りに欠けることになる。 それで此の像に於いては裙の端を少しく巻き上がらしめた外、特に腹を著しく現はし且つ台座を付して之を補ふてゐるのは 洵に適当な用意と言はなければならない。

 腰より上は其の張り出した胸 (これには乳房の膨み迄現はされて居ないのは古代の作品として已むを得ないが)、肩のなだらかな恰好から背部の肉付きの豊かさまで、如何にも肉感的に取扱はれてゐる。 其の頸は割合に短く、下膨れの顔には大きく頬紅を施し 眉上には鮮かに青黛を描いてゐるが、比較的小さい頭首は其の上に被さつてゐる大きな結髪、而かも黒く彩られた半翻髺とも吊く可き結髪によつて、体躯との権衡を取り直して居る。 側面観に複雑な線を加へたものは、其の少しく前方に挺出せられた右手であろう。 (東京美術学校や東京帝室博物館の所蔵品に於いては 此の姿勢の 「アーチキュレーション(明瞭性)」 を欠いている。) 彩色は比較的簡単であつて、顔面頭髪に於ける赤黒の色の外に、衣紋には僅に淡彩を以て衣と裳との輪郭などを示してゐる丈けである。 併し 是は却つて全体のプラスチックな(可塑的な、成形自在な)効果を発揮する上に 華麗な賦彩よりも好都合であるとも言へる。


     六、

 斯くの如く観察し来ると、此の樹下美人式土偶は、其の材料は素焼の一尺三四寸の小像に過ぎず、型で以て造られた一種の工芸品ではあるが、美術上の価値に至つては頗る優越な位置を保有し、唐代に於ける彫塑の発達と創意オリヂナリチーを例証する作品と見て差支へないことが分かるであろう。

 其の作者は全く名も無き工匠に伊せられた人であるが、其の作風に至つては正に盛唐の芸術の新気運に乗つて、一生面を開拓した 彫塑の一流派を代表して居るもので無ければならない。 日本に於いて此の系統の美人を表現した像としては、絵画に薬師寺の吉祥天女の像があり、彫刻には稊々遅れて同寺の神功皇后、仲姫命の像や浄瑠璃寺の吉祥天女の像などを数へることが出来、此等のものは固より大きさに於いても勝り、手法の上に於いても遥に精巧の度を加へてゐるが、其の現はされてゐるものは神仏の像であつて、斯の如く純粋の世俗的女性では無い。 広い支那に於いては或は未だ我々の目に映じない作品が遺つてゐるかも知れないが、私は唐代のプロフワーン(profane, 世俗的、非宗教的)の芸術として、斯の如く適切に且つ真率に、享楽的官能的の時代世相と芸術家の心持ちを発揮したものは無いと思ふ。

 芸術の作品は必ずしも其の形が小さいから価値が下がるのでは無い。 質料が粗末であるから軽んず可きでは固より無い。 此の無名の作者によつて作られた謙譲な作品は、其の芸術的の価値に於いては偉大であり 歴史的の意義に於いても頗る重要なものが含まれて居ることを見遁してはならない。 (終)





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