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カバー |
目 次
序 文 明治初期の日本画 黎明期の洋風画 工部美術学校と明治美術会 国粋主義の反動とフェノロサ 岡倉覚三と東京美術学校 黒田清輝と白馬会 日本美術協会と日本絵画協会 浪漫主義と自然主義 文 展 日本美術院の再興 二科会と海外の新潮 洋画の諸流 輓近の絵画 挿 画 目 次
著者還暦自像 諸葛孔明 ………………… 奥原晴湖 鮭 ………………………… 高橋由一 自画像 ………………… 横山松三郎 父の像 …………………… 黒田清輝 収穫 ……………………… 浅井 忠 刈草 ……………………… 平福百穂 不尽山頂全図 …………… 富岡鉄斎 万葉春秋 ………………… 富田渓仙 |
序文文にはまず、出版社から近代洋風画に関する記述を求められたのに対して、日本画を含めた記述とすることを逆提案して受け入れられたことが述べられている。
最初出版社から求められたものは 日本の近代洋風画に関する叙述であった。 併しそれは私自身も一度書いたことがあり、又他にも類書が出て居るので、私は寧ろ日本画洋風画の両者に亘る方に興味があると云ひ、出版社もそれに同意したが、さて実際にあたると其処に調べを要することが多く、画業の余暇を以てする其執筆が意外に手間どるのであつた。
明治二十年以前のことは私自身の全く知らぬ所であり、それは人からの聞き伝へと文献とに拠る外はなく、或は誤つて居る所があるかも知れない。 併し これは必ずしも正確のみを期した史的叙述でなしに 自家の意見を加へたものであるから、或人物への定評に対して異端の言をなして居るところもあるであらう。
又 明治大正二代に関して比較的委しく、近き昭和時代と新進作家とに就て語るところが少くなつて居る。 未だ一代の業を終らざる現存作家は これを離れて眺めることが出来ず、従つて断定的の言をなすことをも慎まねばならぬからである。
私は これを作家批評家達にも読んで貰ひたいと思ふが、又 近代日本絵画に対する常識の涵養に役立つべく、一般人の一読を煩はしたいと思ふのである。
昭和十七年五月石井柏亭 識 空白
本文の一部紹介 |
明治初期の日本画 |
奥原晴湖 |
奥原晴湖は 下総古河の藩士 池田重太郎の三女で、関宿の親戚 奥村(奥原?) 源太左衛門の養女となった。 はじめ手ほどきを受けたのは 古河の牧田水石と云ふ無名画家であつたが、矢張独学的に技を進めて行つたのであらう。 江戸へ出た晴湖は 上野に近い摩利支天横町に住んで、所謂 「下谷文人」 達 即ち 大沼枕山 ・ 関雪江 ・ 市河万庵 ・ 鈴木鵞湖 ・ 福島柳圃 等と交り、文人画流行の潮流に乗ると同時に、木戸侯の贔屓になつたりして、一時非常な全盛を極めた。 彼女は 流行る時は 腕に任せて随分乱暴なものも描いた。 人は 晴湖と云へば粗つぽい文人画を連想する位であるが、後年熊谷在の成田村字川上と云ふ所に隠退してからは 却つて謹厳精緻なものを画いた。 又 粗画の晴湖には偽物が多く、それが彼女の名に禍をもなして居る。
少壮時代の画は 鄭板橋に倣つたとか云ふ其書と共に 磊落奔放を極め、紀元二千何百年東海晴湖と署吊したりする処に 彼女も亦 日本人たる誇りを示して居た。 詩人 溝口桂厳の 「墨水三十景詩」 に挿まれた彼女の画などを見ると、其 「長命晴雪」 の寺門など 洋画家の略筆を思はしめるものがある。 川上冬崖とも親しくして居たと云ふから 自から洋画の影響もあつたか知らぬ。 川上塾で 小山正太郎などに向つて、「これからの人は洋画をやるがよい」 と云ふやうなことを言つたとは 小山の語つた処である。
黎明期の洋風画 |
横山松三郎 |
明治六年頃には 下谷の池の端に 横山文六 (又の名 松三郎) の家塾があつた。 横山は熱心な求真家で 又 奇行の人でもあつた。 彼は北海道択捉の生れで、文久元年 函館入港の露国船に乗つて居た画報通信者レーマンなるものゝ案内者となつて 諸所を廻るうちに レーマンの為す所を見て自得したと云ふ。 矢張 実地派先覚の一人であった。 彼は 写真術にも造詣深く、其道の先輩 下岡蓮杖に教へを受けた所もある。 其遺作中に自画像の二枚があるが、当時として非常に傑れたものである。 其中の一枚 真向の方は 明治十七年 其死ぬ少し前に、死を覚悟して子孫に遺すつもりで画いたものと云はれるが、既に死相のやうなものもあらはれて 凄いものである。 写形明暗すべてなか~ 確かであり、高橋(由一) ・ 五姓田(義松)等の和臭を超越して居る。 求真的性質の強い彼は科学者的でもあつて、例へば朝顔の開く迄の経過を注視して居たり、また毛虫の蝶になる迄を見究めようとした。 髪の毛は伸び放題 爪は生へ放題と云ふやうに 一向身のまはりを構はぬ。 而かも厳格の中に温情もある人であつた。 其門下からは 第三回博覧会の 「弾琴美人」 で有名になつた亀井至一や、村井 (下国) 羆之輔や、本多忠保等が出て居る。
工部美術学校と明治美術会 |
フォンタネージ |
アントニオ ・ フォンタネージ(Antonio Fontanesi) は 一八一八年 北伊太利亜のレッジョ ・ デミリアに生まれて、其土地の美術学校に入り、ミンゲッチ (P. Minguetti) のもとに画を学んだ。 其後トリノ市のアカデミア ・ アルベルチナの風景画教授となつて居た時、日本からの招きに応じて 明治九年 (工部美術学校の教師として) 東京に赴任したのであつた。 時に年五十八である。
彼の名声は 其頃本国の画壇にあまり高くなかつたと思ふが、十九世紀の伊太利亜画派に於ける彼が独特の地位は 其後次第に認められやうになつて、其伝記は出版され、其一代の作品はトリノ市の美術館に集められて居る。 実に 黎明期の日本の洋画に基礎を定む可く いゝ人が来て呉れたものであつた。 彼は 一八三〇年派の系統を引く処の 抒情詩人的風景画家であつて、其為す所は雅趣に富んで居た。 其素描などで見ると 明暗の段階による深みをつけたりすることに勝れて居た。 工部美術学校の生徒達は コンテや鉛筆で臨本を模したり 石膏模型の写生をすると同時に、よくフォンタネージに率ゐられては 東京の其処此処で鉛筆の写生をした。 其頃の東京は まだ市内に画的な材料がいくらでもころがつて居た。 フォンタネージは どちらかと云ふと硬い鉛筆を使ふことを勧めた様である。 帝大工学部に遺されて居る鉛筆風景画 ( 其或ものには パピエー ・ ジロー (注一) が用ひられて居る ) や、当時の生徒達の習作に徴してもそれは分る。
(注一) パピエー ・ ジローは特殊の素描用紙で 光部を白く削り出せるやうになつてゐる。
……………
フォンタネージは 批評のあひだによく 種々と西洋の画家の話などをして呉れた。 自分の好きなコロー (Corot) や ミレー (Milet) などのことも話して呉れた。 すべてが高雅であつたから、多少南画にも触れて居る 小山(正太郎)や浅井(忠)や松岡(寿)や柳(源吉)などの心に通ずる所があつた。 彼の講義や批評は仏蘭西語でされ、それは平山成信の実兄であり、其頃の新帰朝者たりし竹村本五郎によつて通訳された。
フォンタネージの作品として日本に残されて居る主なるものは 帝大工学部にある上忍池の油画 及 東京美術学校所蔵の油画小品、これも工学部にある木炭鉛筆の素描類等であるが、唐(?)の土を 酢 及 鶏卵に溶いたもの 即ちテンペラで厚盛りの下塗りをして、其上をグレーズ即ち成る可く白を混じない透明顔料で仕上げて行く 彼の油絵技法は 門生達によつてあまり踏襲されるわけに行かなかつた。 併し 其暗い鳶色がゝつた色調は 自から学校出身の少壮画家に影響する所が多かつた。 此頃 欧州では 既に明るい色調が仏国印象主義者達の風景画にあらはれて居た筈であるけれども、欧州画の一般にはまだ暗いものが相当多かつたので、所謂脂色は フォンタネージに限つたことでもなかつた。
惜しいことに フォンタネージは長く日本に停まらなかつた。 日本の風土病である所の脚気に罹つた為めであるが、一つには理想的の美術大学を創設する希望を抱き 其設計図迄持つて来たにも拘はらず、其頃日本の財政状態の為めに之の実現の許されなかつたことも彼を腐らせなかつたとは云へない。 斯くして彼は 門生等から惜しまれながら十一年に帰国した。 さうして間もない十五年の四月にトリノで死んだ。
浅井 忠 |
フォンタネージの影響になつた画風を代表する一つは 二十三年第二回の明治美術会に出た浅井の 「収穫」 で、これは今 東京美術学校の蔵する処となつて居る。 戸外の光線などに関する注意は 決して緻密なものではないが、アカデミックでない磊落な描写と 渋い褐色の調和とに見る可きものがある。 嘗て白馬会全盛時代にあつては、此種のものを一概に古いとして斥ける傾きがあつたが、其偏見を超越した今日の眼からすると、これも中々悪くないのである。 浅井は 最初から多少の東洋的詩味をもつた自然画に出発して居り、従つて其門下にも、あまりこしらへものをすることを望まなかつた。 彼は 邪魔者を省くのはよいが、実際に無いものを添加するのはむづかしいと よく其門下に教へた。
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第一回の 「馬蹄香」 は 春の野道を馬に騎つて行く農婦と、鍬を肩にして歩きながらそれを顧る農夫とを画いた、如何にも牧歌的なものであるが、斯う云ふ田園画も明治になつてはじめてあらはれたものである。
原田直次郎 |
原田直次郎は 第三回の勧業博覧会に審査官となり 又 「騎竜観音」 と 「毛利敬親公肖像」 とを出したのが 其生涯の頂点となつた。 それは 彼が脊髄の病を得て 二十六年三十一歳の頃から横臥の生活となつた為めである。 だから 二十八年第四回の勧業博覧会へ出した 「素盞鳴尊」 や三十年の明治美術会へ出した 「海浜」 (青山胤道 旧蔵) などは、横臥しつゝ執筆したと云ふ気の毒な事情を考慮して見なければならぬ。 純粋に画としての出来から云ふならば、東京美術学校所蔵の滞独中の習作が優れて居るとは云へる。 但 其等には独逸画派の余響があるだけで 日本人原田と云ふものは あらはれて居ない。 最もアムビシアスな彼の作は 「観音」 でなければならぬ。 例へば 西班牙のムリリョ (Murillo) の聖母などの趣を学びながら 東洋的仏画を試みようとしたものであらうが、其竜の取扱ひなどに 或はベクリン (Boecklin) などを参考としたかどうか。 外山正一博士は 「竜ヲ信ゼズ観音ヲ信ゼズシテ 観音ノ竜ニ乗ルノ画ヲ画カンカ。 其画ク所ハ 見ル人ヲシテ 観音ノ竜ニ乗ルノ画トハ思ハシムル能ハズシテ 松明ノアカリニテチャリネノ女ガ綱渡リスルノ画ナルヤト疑ハシムルナリ」 (明治美術会に於ける講演) と酷評したが、先に明治大正名作展でこれを観た私は 想像して居たよりも悪くないと思つた。 原田が観音を信じたか 或はそれを信ぜずに単なる画材として用ひたかは分らぬにしても、其結果はさう上真面目なものには見えない。 宗教心篤からざるの故を以て責むるならば、十六世紀ヴェニス派の宗教画の如きも みな同罪になる訳である。 何しろ 数年を病臥の上 三十七歳にして夭折したことであるから、原田の画が大成しなかつたのも無理はない。
日本美術協会と日本絵画協会 |
久保田米僊、石井鼎湖 |
尚 京都出の人として 久保田米僊が記されなければならぬ。 米僊は 鈴木松年の父 百年の門下であるが、師風を守つた方ではなく、生来の才分を以て独特の画風をなした。 彼は洋画を学んだばかりでなく、米仏に遊び、日清戦争に際しては 国民新聞社の画報記者として従軍もした。 二十七年 美術協会で銀牌を受けた 「半褐捨身」 も 法隆寺玉虫厨子の密陀絵にあるあの図題であるが、直接ヒントを得たのは 古絵馬などであらう。 彼は 和漢古来の画蹟をも渉猟して 其眼界は中々広かつた。 従軍の時に得た朝鮮風景を屏風にしたものなどが 其代表作であらう。 筆力を重んずる結果 其彩色のほり塗り( に際して骨描と絵具との間を稊離すやうにしたので、それが画の落着きを悪くした場合もある。 彼は明治二十年代に 小学用の毛筆画手本を出版したが、それなども其頃としては中々合理的に出来て居る いゝものであつた。 併し 世に先んじ過ぎた為めに あまり行はれなかつたかも知れぬ。 文学演芸の趣味もあつて 京伝の 「新形紺名紋帳」 に擬した 「洗張浮世模様」 の戯著もある。 晩年 明を失して 五十五歳で早世したが、其 「米僊画談」 は たしか失明後の談話筆記であつたと思ふ。 私は 其眼を患つて居た頃 美術協会で彼を見、また 其後殆ど失明の状態にあつた時 同じく眼を患つて居た私は 大西眼科医院で彼と会したことがある。)
父鼎湖も 美術協会幹部中最も話せる一人として 米僊と相許して居たと思はれる。 父も 祖父鈴木鵞湖の画風を其まゝ継承したのでなく、少しく洋風を学び、又 明治美術会には創立時代から関与して居たりして、日本美術協会の出品にも 遠近法を利用した粟田真人則天武后に謁するの図を画いた。 二十七年の 「苔径月」 に於ける牛は 何か西洋画にヒントを得たらしかつた。 清美会と云ふ 当代の重なる画人達の一団の執筆にかゝる 「絵画帖」 (大倉書店発行) に画いた桃林放牛や 飛び立つ鴨などの作品にも 明かに洋画から取り来つたものが見えて居る。 米僊や鼎湖などが今少し長生したら 美術界にも何か寄与する処があつたかも知れぬ。 鼎湖は 米僊よりもずつと早く 既に三十年に世を辞した。
挿画 |
富岡鉄斎 「不尽(富士)山頂全図」 |
終