らんだむ書籍館


カバー



目 次


    序 文


    明治初期の日本画

    黎明期の洋風画

    工部美術学校と明治美術会

    国粋主義の反動とフェノロサ

    岡倉覚三と東京美術学校

    黒田清輝と白馬会

    日本美術協会と日本絵画協会

    浪漫主義と自然主義

    文 展

    日本美術院の再興

    二科会と海外の新潮

    洋画の諸流

    輓近の絵画



挿 画 目 次


    著者還暦自像

    諸葛孔明 ………………… 奥原晴湖

    鮭 ………………………… 高橋由一

    自画像 ………………… 横山松三郎

    父の像 …………………… 黒田清輝

    収穫 ……………………… 浅井 忠

    刈草 ……………………… 平福百穂

    不尽山頂全図 …………… 富岡鉄斎

    万葉春秋 ………………… 富田渓仙



創元選書
石井柏亭 「日本絵画三代志」



 昭和17 (1942) 年 7月、創元社。
 B6 版、 本文 241頁。


 はじめに、書名について。
 「三代」 とは、明治 ・ 大正 ・ 昭和の三時代のことで、つまり 「日本絵画三代志」 とは、明治以降の日本絵画の発展過程をたどったもので、ふつうならば 「近代日本絵画史」 とでも称すべきところである。
 やや風変わりなこの書名には、文人的側面を持つ著者の、独特の感覚が表われているようである。

 著者 ・ 石井柏亭 (本名・満吉、明治15(1882)年~昭和33(1958)年) は、自らも明治から昭和にわたって活躍した洋画家である。 日本画家 ・ 石井鼎湖の子として東京で生れたが、鼎湖の父は幕末期の著名な文人画家・鈴木鵞湖であるから、鵞湖からの承襲の意味でも、三代にわたる画家である。 幼少期から父について日本画を学び、少年時代 (明治20年代)には早くも日本美術協会などに出品していたという。 明治31年以降、浅井忠に師事して本格的に洋画に取り組み、浅井らにより結成された明治美術会およびその後身の太平洋画会の会員として活躍するに至る。 かたわら、詩誌 「明星」 への投稿で文学的創作も手がけ、「パンの会」 に参加して木下杢太郎や北原白秋らとも交流した。 大正2年、二科会の創立に参加。 長くその中心的存在であったが、昭和11年にはこれを離れて、有志とともに一水会を創設した。 戦時中は空襲による自宅および画室の焼失、長野県への疎開などがあったが 活動を継続。 戦後も、洋画界の重鎮として幅広く活躍した。 代表作は、「草上の小憩」(明治39年)、「深尾須磨子像」(大正11年)、「晩春行楽図」(昭和13年)、「山河在」(昭和20年)など。 きわめてエネルギッシュで、生涯を通じて40種を超える著書がある。 芸術院会員、文化功労者。

 本書の執筆に至った経緯や、執筆の意図などについては、次に掲げる序文に示されている。
     序文

 最初出版社から求められたものは 日本の近代洋風画に関する叙述であった。 併しそれは私自身も一度書いたことがあり、又他にも類書が出て居るので、私は寧ろ日本画洋風画の両者に亘る方に興味があると云ひ、出版社もそれに同意したが、さて実際にあたると其処に調べを要することが多く、画業の余暇を以てする其執筆が意外に手間どるのであつた。
 明治二十年以前のことは私自身の全く知らぬ所であり、それは人からの聞き伝へと文献とに拠る外はなく、或は誤つて居る所があるかも知れない。 併し これは必ずしも正確のみを期した史的叙述でなしに 自家の意見を加へたものであるから、或人物への定評に対して異端の言をなして居るところもあるであらう。
 又 明治大正二代に関して比較的委しく、近き昭和時代と新進作家とに就て語るところが少くなつて居る。 未だ一代の業を終らざる現存作家は これを離れて眺めることが出来ず、従つて断定的の言をなすことをも慎まねばならぬからである。
 私は これを作家批評家達にも読んで貰ひたいと思ふが、又 近代日本絵画に対する常識の涵養に役立つべく、一般人の一読を煩はしたいと思ふのである。

 昭和十七年五月
石井柏亭 識 空白
 文にはまず、出版社から近代洋風画に関する記述を求められたのに対して、日本画を含めた記述とすることを逆提案して受け入れられたことが述べられている。
 柏亭は、日本画家の父からの手ほどきで画家としての出発をしたこともあり、終始 日本画への関心を持ち続け、日本画家達の活動を注視しながら自らの創作活動を展開したようである。
 そうした自身の姿勢に照らして、明治以降の日本絵画は、日本画と洋画との相互作用により発展してきたとの認識が強く、そのような発想に基づく近代絵画史の執筆が意図されたのであろう。

 また、ここで用いられている 「洋風画」 という語は、本書全体に一貫して使用され、「洋画」 の語はほとんど使われていない。 そのことに関する説明はないが、ここにも著者独自の意図が示されているようである。
 おそらく柏亭には、「日本絵画」 を総括する、ある究極の概念があって、その一翼をなすところのいわゆる 「洋画」 は、手法だけを西洋画に借りる (すなわち 「洋風」 ) にすぎないものである、というように考えていたのではなかろうか。

 とにかく、このような意図のもとに同時代史的な叙述が始められるのであるが、序文の第二段落で柏亭は、明治20年以前の記述について、とくに断りを入れている。 すなわち、自分の全く知らない時期のことで、「人からの聞き伝へと文献」 に依存せざるをえないところから、不適切な記述あるいは定説と異なる記述となるかもしれない、と。
 明治20年というと、柏亭は満5歳で、ようやく物心のついてきた時期であり、あまりに当然な断りなのだが … 。
 右の 「目次」 でいうと、「明治初期の日本画」 と 「黎明期の洋風画」 の2章と、「工部美術学校と明治美術会」 から 「岡倉覚三と東京美術学校」 までの各章の前半部分などがこの時期に該当するであろう。 読んでみると、それほど不自然さや違和感を覚える記述は見当たらないが、やや偏った所があるのかもしれない。
 おそらくこれは、祖父の鵞湖や父の鼎湖、ならびにその周辺の人脈によって伝えられた、著者独自の情報に依拠した部分の大きいこと ― それはむしろ本書の特色となっているのであるが ― を表明したものと考えられる。

 これら序文の記述も念頭に置きながら、いくつかの章の特徴ある事項について、紹介していこう。

 「明治初期の日本画」 は、文人画が主体である。 この時期に文人画が流行した理由として、「漢籍に育まれた維新志士元勲達の嗜好」 や、「幕府の庇護の下に栄えた御用絵狩野の一派の受けが悪かつたこと」 などが挙げられている。
 具体的に論じられている画家は、安田老山 ・ 菅原白竜 ・ 奥原晴湖 ・ 野口幽谷 ・ 田崎草雲など関東の人々で、京都の西田春耕 ・ 田能村直入などは略述されるにとどまっている。 老山と白竜の逸話や晴湖の創作態度の記述などは躍動的で、このあたりに鵞湖当時からの伝来情報が生かされているのではないかと思われる。
 文人画 (南画) 以外の画家としては 菊地容斎と川鍋暁斎が扱われているが、付随的であり、柏亭の 「日本画」 概念には文人画の比重が大きいことがわかる。

 「黎明期の洋風画」 では、川上冬崖、チャールス・ワーグマン(Charles Wirgman)、高橋由一、横山松三郎、国沢新九郎、五姓田芳柳などの先覚者が、扱われている。
 このうち 横山松三郎は 先行書の 藤岡作太郎 「近世絵画史」 (1903年刊) などでは取り上げられていない異色の人物であるが、敬意と共感に満ちた記述となっている。

 「工部美術学校と明治美術会」 では、工部美術学校の教師として招聘されたフォンタネージに関する事柄が、大きなウェイトで詳細に述べられ、彼が我が国の洋画の形成に果たした役割の大きさが 明らかにされている。
 画家達に関する記述の中では、やはり 「近世絵画史」 で取り上げられなかった、原田直次郎の紹介が注目される。 原田は37歳で夭折したこともあって、著者の愛惜を受けており、その代表作 「騎竜観音」 に対する外山正一の酷評の不当さが、難詰されている。

 「国粋主義の反動とフェノロサ」 も、各種の情報を総合して興味深く記述されている。 フェノロサに関しては、零細なことであるが、その画論に山高信離が承服しないために 彼等の竜池会に参加しなかった、という逸話がおもしろい。 山高は、筆者(館主)の知るところでは、幕末における徳川昭武の外交使節団の一員として渡仏した際も、フランス人顧問と席次を争ったり 同行の水戸藩士と紛争を生じたりしているので、やや傲岸な人であったらしい。 ( しかし、山高は信念の人で、明治美術界の功労者の一人である。)

 「岡倉覚三と東京美術学校」 では、岡倉覚三 (天心) の日本画の評価には偏りがあり、南画系統が軽視されている、との重要な指摘がある。 これが、南画を理解できなかったフェノロサの影響かどうかは、判断できないとしている。

 「日本美術協会と日本絵画協会」 には、美術協会の有力画家 ・ 久保田米僊の個人的な事柄に関して 著者が米僊と出会った事実などの記述があり、また、協会での米僊とのつながりから 父・鼎湖の画業に及び、これら2人が洋画にも学んでいたことが語られている。 ( 鼎湖については、「黎明期の洋風画」 中でも、石版画の開拓者としての業績が述べられている。)

 「浪漫主義と自然主義」 には、文学界の動きが いくつか紹介されているが、絵画との関係は 文芸誌の挿画の話くらいで、文学と美術の両分野間の相互作用のようなものは取り上げられていない。

 「文展」 では、白馬会と太平洋画会の動きを前段として、明治40年の文部省美術展覧会すなわち文展の発足が簡単に語られ、その後は第1回以降各回の主要な出品作や入選作の紹介となっている。 すべて、著者が会場で実見した際の印象および評価のようで、臨場感がある。 また、文展初期の審査結果には 「少壮の私共の考へと大分背馳するものがあつた」 り、「優賞を得ながら其あとが香ばしくなくなった」 者もいた、という。 それぞれ、具体例が記述されている。
 この章末が、いきなり 「国展」 の動向に関する説明になって面食らうが、注意して読み返すと、直前に出てくる 「図画創作協会」 という語が 「国画創作協会」 の誤植であることに気付く。 しかし、その国画創作協会の開催した展覧会が国展である旨の説明がないので、やはり分かりずらい。 饒舌家の話には とかく飛躍が多いが、本書にもその傾向がある。

 「二科会と海外の新潮」 は、二科会成立までのいきさつを述べた前半部分が、やや楽屋話的で、よく飲み込めないが、章全体として 本書中最も精彩に富んでいる。 これは、会の中心にいた柏亭自身が、ちょうど脂の乗り切った時期、仲間と共に充実した活動を行なっていたことの記録だからであろう。
 紹介されている主要メンバー ( 山下新太郎、正宗得三郎、有島生馬、坂本繁二郎、熊谷守一、安井曽太郎 など ) も、我々に馴染み深い名前が多くなるが、それぞれに関する記述もていねいで、観察が行き届いている印象を受ける。

 最終章の「輓近の絵画」 は、文部行政との関連における美術団体再編成と、これに伴う画家達の離合集散の動きが主体で、創作活動に関する記述は少ない。
 後半は、大東亜戦争という当時の状況に関連させた記述が多くなるが、著者がこれに協力的であるのは、すでに指導者的存在であった その立場からして当然かもしれない。

 画面右上の 「目次」 に戻ると、後半に 「挿画目次」 が掲げられている。 ( これらの 「画」 は、本文中に挿入されているのではなく、巻頭に一括して掲げられているので、「口絵」 とすべきであろう。)
 この中に 富岡鉄斎の 「不尽(富士)山頂全図」 があるのだが、鉄斎は本文中では取り上げられておらず、富田渓仙が鉄斎に 「傾倒した」 ( 「日本美術院の再興」 ) とか、正宗得三郎が 「鉄斎の南画に参し」 た ( 「二科会と海外の新潮」 ) 等の零細な記述があるのみである。 それにもかかわらず、不羈奔放な特徴がよく表われた この作品が口絵に掲げられているのは、著者が鉄斎を論じる意欲を有していたからにほかならないと考えられる。 それが果たされなかったのは、画壇を超越していたこの人を 本書の枠組みの中に位置付けるのが困難だったためであろう。


 今回の 「一部紹介」 には、「明治初期の日本画」 中の奥原晴湖の部分、 「黎明期の洋風画」 中の横山松三郎の部分、「工部美術学校と明治美術会」 中のフォンタネージ浅井 忠原田直次郎、の各部分、「日本美術協会と日本絵画協会」 中の久保田米僊 および 石井鼎湖、の部分、 を載せる。 これらのうち 奥原晴湖、横山松三郎、浅井 忠については、「挿画」 中のそれぞれの作品を配した。
 そして最後に、「挿画」 中の富岡鉄斎の作品を掲げる。



本文の一部紹介





明治初期の日本画

奥原晴湖


 奥原晴湖は 下総古河の藩士 池田重太郎の三女で、関宿の親戚 奥村(奥原?) 源太左衛門の養女となった。 はじめ手ほどきを受けたのは 古河の牧田ひらた水石と云ふ無名画家であつたが、矢張独学的に技を進めて行つたのであらう。 江戸へ出た晴湖は 上野に近い摩利支天横町に住んで、所謂 「下谷文人」 達 即ち 大沼枕山 ・ 関雪江 ・ 市河万庵 ・ 鈴木鵞湖 ・ 福島柳圃 等と交り、文人画流行の潮流に乗ると同時に、木戸侯の贔屓になつたりして、一時非常な全盛を極めた。 彼女は 流行る時は 腕に任せて随分乱暴なものも描いた。 人は 晴湖と云へば粗つぽい文人画を連想する位であるが、後年熊谷在の成田村字川上と云ふ所に隠退してからは 却つて謹厳精緻なものを画いた。 又 粗画の晴湖には偽物が多く、それが彼女の名に禍をもなして居る。

 少壮時代の画は 鄭板橋に倣つたとか云ふ其書と共に 磊落奔放を極め、紀元二千何百年東海晴湖と署吊したりする処に 彼女も亦 日本人たる誇りを示して居た。 詩人 溝口桂厳の 「墨水三十景詩」 に挿まれた彼女の画などを見ると、其 「長命晴雪」 の寺門など 洋画家の略筆を思はしめるものがある。 川上冬崖とも親しくして居たと云ふから 自から洋画の影響もあつたか知らぬ。 川上塾で 小山正太郎などに向つて、「これからの人は洋画をやるがよい」 と云ふやうなことを言つたとは 小山の語つた処である。




黎明期の洋風画

横山松三郎


 明治六年頃には 下谷の池の端に 横山文六 (又の名 松三郎) の家塾があつた。 横山は熱心な求真家で 又 奇行の人でもあつた。 彼は北海道択捉の生れで、文久元年 函館入港の露国船に乗つて居た画報通信者レーマンなるものゝ案内者となつて 諸所を廻るうちに レーマンの為す所を見て自得したと云ふ。 矢張 実地派先覚の一人であった。 彼は 写真術にも造詣深く、其道の先輩 下岡蓮杖に教へを受けた所もある。 其遺作中に自画像の二枚があるが、当時として非常に傑れたものである。 其中の一枚 真向の方は 明治十七年 其死ぬ少し前に、死を覚悟して子孫に遺すつもりで画いたものと云はれるが、既に死相のやうなものもあらはれて 凄いものである。 写形明暗すべてなか 確かであり、高橋(由一) ・ 五姓田(義松)等の和臭を超越して居る。 求真的性質の強い彼は科学者的でもあつて、例へば朝顔の開く迄の経過を注視して居たり、また毛虫の蝶になる迄を見究めようとした。 髪の毛は伸び放題 爪は生へ放題と云ふやうに 一向身のまはりを構はぬ。 而かも厳格の中に温情もある人であつた。 其門下からは 第三回博覧会の 「弾琴美人」 で有名になつた亀井至一や、村井 (下国) 羆之輔や、本多忠保等が出て居る。




工部美術学校と明治美術会

フォンタネージ


 アントニオ ・ フォンタネージ(Antonio Fontanesi) は 一八一八年 北伊太利亜のレッジョ ・ デミリアに生まれて、其土地の美術学校に入り、ミンゲッチ (P. Minguetti) のもとに画を学んだ。 其後トリノ市のアカデミア ・ アルベルチナの風景画教授となつて居た時、日本からの招きに応じて 明治九年 (工部美術学校の教師として) 東京に赴任したのであつた。 時に年五十八である。

 彼の名声は 其頃本国の画壇にあまり高くなかつたと思ふが、十九世紀の伊太利亜画派に於ける彼が独特の地位は 其後次第に認められやうになつて、其伝記は出版され、其一代の作品はトリノ市の美術館に集められて居る。 実に 黎明期の日本の洋画に基礎を定む可く いゝ人が来て呉れたものであつた。 彼は 一八三〇年派の系統を引く処の 抒情詩人的風景画家であつて、其為す所は雅趣に富んで居た。 其素描などで見ると 明暗の段階による深みをつけたりすることに勝れて居た。 工部美術学校の生徒達は コンテや鉛筆で臨本を模したり 石膏模型の写生をすると同時に、よくフォンタネージに率ゐられては 東京の其処此処で鉛筆の写生をした。 其頃の東京は まだ市内に画的な材料がいくらでもころがつて居た。 フォンタネージは どちらかと云ふと硬い鉛筆を使ふことを勧めた様である。 帝大工学部に遺されて居る鉛筆風景画 ( 其或ものには パピエー ・ ジロー (注一) が用ひられて居る ) や、当時の生徒達の習作に徴してもそれは分る。
 (注一) パピエー ・ ジローは特殊の素描用紙で 光部を白く削り出せるやうになつてゐる。

 ……………
 フォンタネージは 批評のあひだによく 種々と西洋の画家の話などをして呉れた。 自分の好きなコロー (Corot) や ミレー (Milet) などのことも話して呉れた。 すべてが高雅であつたから、多少南画にも触れて居る 小山(正太郎)や浅井(忠)や松岡(寿)や柳(源吉)などの心に通ずる所があつた。 彼の講義や批評は仏蘭西語でされ、それは平山成信の実兄であり、其頃の新帰朝者たりし竹村本五郎によつて通訳された。

 フォンタネージの作品として日本に残されて居る主なるものは 帝大工学部にある上忍池の油画 及 東京美術学校所蔵の油画小品、これも工学部にある木炭鉛筆の素描類等であるが、唐(?)の土を 酢 及 鶏卵に溶いたもの 即ちテンペラで厚盛りの下塗りをして、其上をグレーズ即ち成る可く白を混じない透明顔料で仕上げて行く 彼の油絵技法は 門生達によつてあまり踏襲されるわけに行かなかつた。 併し 其暗い鳶色がゝつた色調は 自から学校出身の少壮画家に影響する所が多かつた。 此頃 欧州では 既に明るい色調が仏国印象主義者達の風景画にあらはれて居た筈であるけれども、欧州画の一般にはまだ暗いものが相当多かつたので、所謂脂色は フォンタネージに限つたことでもなかつた。

 惜しいことに フォンタネージは長く日本に停まらなかつた。 日本の風土病である所の脚気に罹つた為めであるが、一つには理想的の美術大学を創設する希望を抱き 其設計図迄持つて来たにも拘はらず、其頃日本の財政状態の為めに之の実現の許されなかつたことも彼を腐らせなかつたとは云へない。 斯くして彼は 門生等から惜しまれながら十一年に帰国した。 さうして間もない十五年の四月にトリノで死んだ。



 浅井 忠


 フォンタネージの影響になつた画風を代表する一つは 二十三年第二回の明治美術会に出た浅井の 「収穫」 で、これは今 東京美術学校の蔵する処となつて居る。 戸外の光線などに関する注意は 決して緻密なものではないが、アカデミックでない磊落な描写と 渋い褐色の調和とに見る可きものがある。 嘗て白馬会全盛時代にあつては、此種のものを一概に古いとして斥ける傾きがあつたが、其偏見を超越した今日の眼からすると、これも中々悪くないのである。 浅井は 最初から多少の東洋的詩味をもつた自然画に出発して居り、従つて其門下にも、あまりこしらへものをすることを望まなかつた。 彼は 邪魔者を省くのはよいが、実際に無いものを添加するのはむづかしいと よく其門下に教へた。



 第一回の 「馬蹄香」 は 春の野道を馬に騎つて行く農婦と、鍬を肩にして歩きながらそれを顧る農夫とを画いた、如何にも牧歌的なものであるが、斯う云ふ田園画も明治になつてはじめてあらはれたものである。



 原田直次郎


 原田直次郎は 第三回の勧業博覧会に審査官となり 又 「騎竜観音」 と 「毛利敬親公肖像」 とを出したのが 其生涯の頂点となつた。 それは 彼が脊髄の病を得て 二十六年三十一歳の頃から横臥の生活となつた為めである。 だから 二十八年第四回の勧業博覧会へ出した 「素盞鳴尊」 や三十年の明治美術会へ出した 「海浜」 (青山胤道 旧蔵) などは、横臥しつゝ執筆したと云ふ気の毒な事情を考慮して見なければならぬ。 純粋に画としての出来から云ふならば、東京美術学校所蔵の滞独中の習作が優れて居るとは云へる。 但 其等には独逸画派の余響があるだけで 日本人原田と云ふものは あらはれて居ない。 最もアムビシアスな彼の作は 「観音」 でなければならぬ。 例へば 西班牙のムリリョ (Murillo) の聖母などの趣を学びながら 東洋的仏画を試みようとしたものであらうが、其竜の取扱ひなどに 或はベクリン (Boecklin) などを参考としたかどうか。 外山正一博士は 「竜ヲ信ゼズ観音ヲ信ゼズシテ 観音ノ竜ニ乗ルノ画ヲ画カンカ。 其画ク所ハ 見ル人ヲシテ 観音ノ竜ニ乗ルノ画トハ思ハシムル能ハズシテ 松明ノアカリニテチャリネノ女ガ綱渡リスルノ画ナルヤト疑ハシムルナリ」 (明治美術会に於ける講演) と酷評したが、先に明治大正名作展でこれを観た私は 想像して居たよりも悪くないと思つた。 原田が観音を信じたか 或はそれを信ぜずに単なる画材として用ひたかは分らぬにしても、其結果はさう上真面目なものには見えない。 宗教心篤からざるの故を以て責むるならば、十六世紀ヴェニス派の宗教画の如きも みな同罪になる訳である。 何しろ 数年を病臥の上 三十七歳にして夭折したことであるから、原田の画が大成しなかつたのも無理はない。



日本美術協会と日本絵画協会

久保田米僊、石井鼎湖


 尚 京都出の人として 久保田米僊が記されなければならぬ。 米僊は 鈴木松年の父 百年の門下であるが、師風を守つた方ではなく、生来の才分を以て独特の画風をなした。 彼は洋画を学んだばかりでなく、米仏に遊び、日清戦争に際しては 国民新聞社の画報記者として従軍もした。 二十七年 美術協会で銀牌を受けた 「半褐捨身」 も 法隆寺玉虫厨子の密陀絵にあるあの図題であるが、直接ヒントを得たのは 古絵馬などであらう。 彼は 和漢古来の画蹟をも渉猟して 其眼界は中々広かつた。 従軍の時に得た朝鮮風景を屏風にしたものなどが 其代表作であらう。 筆力を重んずる結果 其彩色のほり塗りヽヽヽヽに際して骨描と絵具との間を稊離すやうにしたので、それが画の落着きを悪くした場合もある。 彼は明治二十年代に 小学用の毛筆画手本を出版したが、それなども其頃としては中々合理的に出来て居る いゝものであつた。 併し 世に先んじ過ぎた為めに あまり行はれなかつたかも知れぬ。 文学演芸の趣味もあつて 京伝の 「新形紺名紋帳」 に擬した 「洗張浮世模様」 の戯著もある。 晩年 明を失して 五十五歳で早世したが、其 「米僊画談」 は たしか失明後の談話筆記であつたと思ふ。 私は 其眼を患つて居た頃 美術協会で彼を見、また 其後殆ど失明の状態にあつた時 同じく眼を患つて居た私は 大西眼科医院で彼と会したことがある。

 父鼎湖も 美術協会幹部中最も話せる一人として 米僊と相許して居たと思はれる。 父も 祖父鈴木鵞湖の画風を其まゝ継承したのでなく、少しく洋風を学び、又 明治美術会には創立時代から関与して居たりして、日本美術協会の出品にも 遠近法を利用した粟田真人則天武后に謁するの図を画いた。 二十七年の 「苔径月」 に於ける牛は 何か西洋画にヒントを得たらしかつた。 清美会と云ふ 当代の重なる画人達の一団の執筆にかゝる 「絵画帖」 (大倉書店発行) に画いた桃林放牛や 飛び立つ鴨などの作品にも 明かに洋画から取り来つたものが見えて居る。 米僊や鼎湖などが今少し長生したら 美術界にも何か寄与する処があつたかも知れぬ。 鼎湖は 米僊よりもずつと早く 既に三十年に世を辞した。



挿画

富岡鉄斎 「不尽(富士)山頂全図」









「らんだむ書籍館 ホーム」 に戻る。