らんだむ書籍館


アテネ文庫
和辻哲郎 「ケーベル先生」



 昭和23 (1948) 年 5月 発行、 弘文堂。 本文 59頁。


 ケーベル (Raphael von Koeber, 1848~1923) は、ドイツ系ロシア人の哲学者 ・ 音楽家。
 明治26(1893)年に来日し、大正3(1914)年までの21年間、東京帝国大学で西洋哲学および関連諸学を講じた。 また、東京音楽学校でも、多年にわたってピアノを教えた。

 その間、多くの学生がその門に出入りしたが、西欧古典に根ざした豊かな教養と高潔な人格は、彼等の精神形成に大きな影響を与えた。

 来日当初の講義を聴いた夏目漱石は、後年の訪問記で次のように述べている。
  文科大学へ行つて、此処で一番人格の高い教授は誰か と聞いたら、百人の学生が 九十人迄は、数ある日本の教授の名を口にする前に、まづ フォン・ケーベル と答へるだらう。 斯程かほどに多くの学生から尊敬される先生は、日本の学生に対して終始かはらざる興味を抱いて、十八年の長い間 哲学の講義を続けてゐる。 先生が くに索莫たる日本を去るべくして、未だに去らないのは、実に この 愛すべき学生あるが為である。」(「ケーベル先生」)

 本書の著者 和辻哲郎 (明治22(1889)年~昭和35(1960)年) も、ケーベルの教えを受けた一人である。 そして、門下としての意識と 深い尊敬の念を、終生にわたって持ち続けたようである。
 本書における和辻の記述は平明で読みやすく、辺幅を飾らなかったケーベルという人物を伝えるにふさわしい。

 後掲の 「はしがき」 にも述べらているように、本書の元になった文章は、ケーベル逝去 (大正12(1923)年6月) の直後に発行された雑誌 「思想」 の、「ケーベル先生追悼号」 (同年8月号) に掲載された文章である。 その文章が、約25年後に このアテネ文庫で単行本化されることとなって、かなりの加筆が施されたため、流れにやや不自然さが生じている。
 逝去時の様子や事がらが、つい数ヶ月前のこととして臨場感をもって記述されているのに対して、それ以外の事がらに属する部分には、後からの回想や後の出来事の記述 (例えば、橘糸重が しばしば 墓参りをしていたことなど) が含まれているからである。 これらは、注意深く読めば気づくことではあるが、念のため付言しておく。


 ケーベルその人について、および これと和辻との関係については、本書に的確に語られているので、一般的紹介はこの程度にとどめ、以下に、本書の 全文 を掲げることにする。



全文紹介






     はしがき


 ケーベル先生がなくなられた年の秋、『思想』 のケーベル先生追悼号に 『ケーベル先生の生涯』 を書いた。 今回 鈴木成高、高坂正顕の両君がそれを刊行するやうにすゝめられるので、少しく手を加へ 題名を変へて両君に呈する。

 本文の初めに書いてゐるやうに、ケーベル先生の伝記を書く適任者は、深田康算、久保勉の両氏である。 深田氏はすでに二十年前に没せられたが、久保君はなほ健在であるから、その内 詳しい伝記が出ることを期待してよい。 追悼号刊行の当時は、同君は愁傷甚だしく、到底執筆に堪へなかつたので、前年同君が他の目的で書いた略伝を掲載し、適任でないわたくしがそれに肉をつけようと試みたのであつて、永く先生の伝記として通用させようと意識したのではない。 しかし 久保君の怠慢 (と云つては悪いかも知れないが) の故に、今でもこれが最も詳しい先生の伝記であるかもしれない。 わたくしは この書を読んで興味を感ぜられた方々に、先生の小品集三冊を味読せられるやう 切におすゝめする。 この先生の著作が日本文化に対して有する意義は 決して一時代のみに限られた 「過ぎ行くもの」 ではない。 騒々しく仰々しいものの方が 反つて迅速に過ぎ去つてしまふのである。 先生が弟子たちに植えつけられた 「本物への感覚」 は、先生の著書からも学び取ることができるであらう。

  昭和二十三年三月
著 者***空白***








     ケーベル先生



 もしケーベル先生が、あの鮮やかな 「要を掴む」 力と、明快な、直感的な描写の技能とによつて、自分の生涯の追憶を詳かに物語られたならば、われわれは非常に有益な、また面白い自叙伝を持ち得たことゝ思ふ。 しかし 先生は 「一身上のことをいふのを好まない」 人であつた。 従つて 「自己について喋々することや、一見謙遜なる如くにして しかもその実 極めて自惚の強い 且つ僭越な告白や」 などを強く嫌はれた。 先生が自分の身の上について書かれたのは、その事柄が 先生の書き現はさうとせられる感想にとつて 必要な場合のみである。  けれども 私的会話においては、先生は必ずしも細かな身の上の追憶を避けられなかつた。久保勉君のいふところによると、夕食の席で 先生は しば 久保君を喜ばせるために (何故なら 久保君は先生の追憶を聞くことを喜んだから) むしろつとめるやうにしてさへも 過去を語られたさうである。 それならば、二十幾年来 先生に親しく交はり、また五年間先生と起居を共にせられた深田さんも、多くを聞き知つて居られるに相違ない。 われわれはやがて これらの人々から 先生の生涯について 詳しく聞き得る機会があるであらう。

 とは云へ 先生の生涯は、外的には 極めて変化の乏しいものであつた。 その魅力はむしろ、静かな日常の生活に現はれた 稀有に自由な心の持ち方に、或は折にふれて動く 心の動き方にあるのだ と思はれる。 が この点についても、永い年月の間 先生の側にあつて 親しく先生の心の動き方に接してをられた 深田さんや久保君が 最も確かな証人である。 久保君のいふところによると、先生が折りにふれて不用意に発せられた言葉は、しば 、そのままに書きしるして置きたいと思ふほどに、意味深く また興味の深いものであつたさうである。 またそれを その日の日記に書きしるして置いたものもあるさうである。 この方面の報告においても われわれは右の両氏に期待するほかはない。

 こゝには、一八九六(明治29)年頃から一九〇三(明治36)年頃まで先生の側にあつて その青年時代を送られた 鈴木万寿雄氏の談話を主要な材料とし、それに 小品集中の先生の追憶、最後の病気についての久保君の談話、その他二三の材料を加へて、久保君の書いた簡単な伝記 (注) に 少しく肉を付けて見たいと思ふ。 わたくし自身は 勿論 先生の伝記者として適任ではないが、やがて書かれるだらうと思はれるよき伝記のために 幾分か寄与することが出来れば幸ひである。

 久保勉 「ケーベル博士略伝」。 これは 久保君が 先生の没せられる前年に書き、先生の校閲を得たものである。 こゝには 読者のために それに基いた年譜を記すことにする。
     ケーベル博士略伝

一八四八年一月十五日、 ロシアのニシニイ・ノフゴロッドに生れた。 父方の祖先はみなザクセン生れで、ロシア人の血は スウェーデン人の血を混じてゐた母方から来たものである。 一歳の時 母親を失ひ、母方の祖母に育てられた。

六歳のころ、 祖母にピアノを習ふ。

一八六七年、 ギムナージウムを出てから、父の意志に反して モスコーの高等音楽学校 (コンセルヴァトリウム) に入学、ニコライ・ルービンシュタイン (アントンの弟)、チャイコフスキー、クリンドウォルトなどに学ぶ。

一八七二年、 音楽学校を卒業。 内気のために音楽家生活に適せず、学者にならうと考へる。 そこでドイツへ留学することになり、先づイェーナ大学に入つて ヘッケル・フォルトラーゲ、オットー・プフライデラー などについた。 オーケンの講義も聴いた。

一八七五年頃、 ハイデルベルヒに移り、クーノー・フィッシャーについた。

一八八一年、 ショペンハウァーに関する論文によつて 学位を得た。 その後 『ショペンハウァーの解脱論』 シュウェーグラーの哲学史第十一版のショペンハウァーの章などを書き、そのために エドゥアルト・フォン・ハルトマンと交際するやうになつた。

一八八七年、 『ショペンハウァーの哲学』 を刊行。

一八九三年、 『復習用哲学史』 刊行。 この年 (明治二十六年)、ハルトマンの推薦により、東京帝国大学の哲学の教授に招聘された。
それ以来、一九一四年 (大正三年) に至る二十一年の間 、中絶することなく 講義と学生の指導とに身をさゝげ、脱俗的哲人の生ける像として大きい影響を残した。 講義は 哲学の領域にのみ限らず、一般詩学、キリスト教の歴史及び哲学、ゲーテのファウスト、ダンテの神曲などにも及んだ。 なほそのほか 特に数人の学生とともに ギリシア及びローマの古典を講読するのを例としてゐた。 また大学のほかに 上野の音楽学校で 多年ピアノの教師をつとめた。

一九一四年、 ドイツに帰らうとして乗船する間際に、第一次世界戦争の勃発にあひ、そのまゝ横浜の友人ロシア総領事アルツール・ウィルム氏の官邸の一室に住んで、静かに文筆上の仕事に従事しつゝ余生を送つた。

一九一八年、 『小品集』 を刊行。

一九二一年、 『続小品集』 を刊行。

一九二三年六月十四日、 横浜の仮寓において没。 雑司が谷墓地に葬る。

 一才の時 母親を喪はれた先生は 母方の祖母の手で育てられた。 その祖母は、バルチック沿岸のレヴァールからニシニイ・ノフゴロッドに移つて そこにドイツ教会を建設した カール・レービンダーの女であつて、曾てはツァール (多分アレキサンダー二世であらう) の皇后の教育掛として 非常な勢力を持つてゐた人である。 従つて 極めて貴族的であるとともに また教養があり 気品が高かつた。 その性格の一端を示す挿話が 小品集の中に語られてゐる。 少年の頃 先生に古代史を教えた或る教師が、第一時間目に 彼の講義の学術的独立と創見とを吹聴した。 かくの如き博学な先生を持つことを誇りとして語つてゐる孫に、祖母は云つた。 「お前の先生は どうも教養のない自惚れた人と思はれる。 さうでなければ 後日お前が自分で下すべき判断を 先生が予め下すといふことはない筈である。 ……自分の功績を自慢する、殊に生徒の前で自慢するといふことは、愚昧にして下品なことである。」

 この祖母から 先生は多くの感化を受けられた。 読書の際 覚書をつくるといふやうな習慣をさへも、先生は、「一日として筆を執らずして過したことがなく、また常にわたくしをもその例に倣ふやうに奨励してゐた祖母に」 帰してゐる。 先生の召使に対する情のあつさや、或はあの鷹揚な上品な態度なども、この祖母の感化を示すのかも知れない。 祖母は 召使に対して非常に情が深かつた。 めつたに変へるといふことをしなかつた。 先生を育てた乳母や、またその子たち、即ち先生の乳兄弟などは、のちのちまで絶えず訪ねて来たさうである。 さういふ雰囲気のなかで、時には祖母の別荘へ連れて行かれなどして、ちゃうどツルゲーネフの描いてゐるやうなロシアを 先生は経験したのであつた。

 祖母の愛に於て幸福であつた先生は、父親については いゝ思ひ出を持たれなかつた。 父親は 曽て医学の教授をした人であつて、猟が大好きであつた。 少年としての先生は、「父の前では常に、恐怖とまでは言へないにしても、しかも一種の遠慮を感じてゐた その命令的な (傲然として権柄がましき) 性急な激しい性分と 嘲弄的な微笑とに対して、 わたくしは父の前では常に幾分不安な気持で、いつも悄気てゐた。」 こゝに描かれた父の性格は およそ先生とは似てもつかないものである。 むしろ その正反対の性格が 先生において現はれてゐると云へる。

 先生は その 「幼年ならびに少年時代に 特に父からは かなり頭が狭いとか また更に進んでは 幾分愚鈊とさへ思はれた。」  が それは恐らく その年頃のものの思想や 想像や または心情の世界が いかなる性質のものであるかについての 父親の無思慮に起因したのであらう。 当時の先生をして 魅して恍惚たらしめたものは、「四福音書でもなく また使徒の書簡でもなく 預言者の書でもなく 詩篇でもなかつた。 これらは わたくしの義務として読まなければならなかつた、、、、、、、、、、、、、、、、、所のもので、わたくしは その時間が終つた時には ひたすら喜んだのであつた。 否、わたくしを感動せしめ、恍惚たらしめたものは、ホメーアとオヴィードの中の物語や、ドイツの国民伝説と童話や、アラビヤ夜話や、その他同種類の読物であつた。」 十五六才の頃になると、古代語や真面目な学課を勉強しなければ機嫌の悪い父親の眼をかすめて、父親のいはゆる 「近代の駄作」 に読み耽つた。 初めて シュピールハーゲンの小説 「謎の如き人々」 を手にした時には、夜を徹して読んだ。 読みかけのモンテ ・ クリストを取り上げられた時は 悲しくて泣いた。 「自分の教科書の中の事よりも ウォルター ・ スコットやブルワーやデューマの小説に能く通じてゐるやうな 怠りがちな学生を わたくしは随分多く識つてゐる、 かくいふわたくしも十五六歳の頃にはその一人であつた。」

 ロシアの学校では 先生は、ドイツ人、他国人として 他の生徒から嫌はれた。 その悲しい生活の中で たゞ温情ある祖母のふところのみが安息所であつた。 だから先生は 学校へは不規則に出ただけで、卒業期も待たずにやめてしまつた。

 十九歳で 先生はモスコーの音楽学校へ入つた。 これについては 父親は反対であつた。 先生は云つてゐる、「私の父とクーノー ・ フィッシャーとが 音楽をもつてわたくしの生涯の悲運且つ呪詛と呼んだのは 永久に正しい」 と。 確かに 先生をして近代ドイツ風の学者 Wissenschaftler たらしめなかつたのは、先生の内の芸術家である。 しかし この芸術家は、いかに かのいはゆる芸術家肌を 遠ざかつてゐたことだらう。 「烈しい激情、否 総じて烈しい意欲や、また 大多数の人がその中に彼らの幸福を看取する所の 事物の追求の如きは、わたくしには 殆ど知られてゐない。 だからわたくしは いはゆる狂暴な、、、青年時代なるものを有しなかつた。」  モスコーではルービンシュタインやチャイコフスキーなどの有名な音楽家と交際し、しば 共に酒を飲んで 陽気な夕を過した。 さうして チャイコフスキーなどとの間には 単に師弟の関係のみならず 親しい友情も成り立つたのであつた。 後年 先生が日本へ招聘された時にも、先生は チャイコフスキーに相談した。 友人のうちで この日本行に反対であつたのは 彼のみであつた。 「君のやうに 純然たるヨーロッパ人の権化とも云ふべきもの、しかも すでにかなりの年齢に達してゐるものは、東洋に行つて居心地のいゝ筈は決してない、さうして 懐郷病は君を不幸ならしめるだらう」 と。

 音楽家たちとのかういふ生活の中でも、この音楽学生は 依然として熱心な読書子であつた。 魔術家ショペンハウァーに強くひきつけられたのは この頃であるらしい。 また ロシアで発売を禁止されてゐたジョルジュ・サンドの 「スピリヂオン」 を買ひに行つた本屋の店先で、初めてハルトマンの名を聞かされたことなどもあつた。 店番は 恐ろしい秘密をでも語るかのやうに声を潜めて、「ついこの頃ドイツの本で、スピリヂオンよりかなほ一層烈しい邪説を説いた ハルトマンとかいふ人の 無意識の哲学といふのがあるそうです」 と囁き、物怖した目付を 主人の室の方に投げるのであつた。


 二十四歳で 先生は一人前の音楽家になつた。 しかし 先生の内気が 音楽家としての生活を阻んだ。 そこで 同級生であり親友であつたダヴィドフ、 ヴァイオリンでは天才的であつたダヴィドフと共に 自然科学者にならうといふ目論見で イェーナに行つた。 先生が初め 熱心にヘッケルを聞いたのは そのためである。 ダヴィドフのみは この時の志望を貫徹し、今なほ 南フランスのニースのロシア臨海実験所長として健在であるが、先生はやがて 自然科学が自分に不向きであることを悟つて 哲学の方に向き変つた。 しかし ヘッケルの人格は 先生の上に極めていゝ印象を残してゐる。 後に先生は ヘッケルが 唯物論者、、、、 先生の嫌ひなもの でないことを主張し、ヘッケルのための解嘲文、Ist Haeckel Materialist ? を書いたが、晩年横浜にあつて小品を草してゐた時にも、人間の内面的本性を示すものとしての笑を考察しつゝ、「ヘッケルの笑」 が 人の心を喜ばすもの、好意と自由と率直とを示すもの、従つて 人を怒らせたり その心を傷けたりしないものであつたことを、即ち 笑ひ方と笑ひの調子とに 善良正直な自由な人格が現はれてゐたことを 回想してゐる。


 イェーナに於ける三年間は、先生の哲学的素養に基礎を置いた。 先生が 感謝と追慕との情をもつて回想する当時の師は、オイケンとヘッケルとの他に、いはゆる 「半カント学派」 に数へられてゐる哲学者フォルトラーゲ、後に有名になつた神学者オットー・ブフライデラー、批判哲学を進化論に結びつけたフリッツ・シュルツェ などである。 この頃、特に最後の年においては、先生は熱心にショペンハウァーを研究した。 カント、シェリング、ショペンハウァーにおける叡智的性格の概念についての論文を学位論文にしようとの考がその時に起つた。

 イェーナでは 復活祭前後の二三週間に 芝居の興行があつた。 それには 大多数の教授たちが 一晩も欠かさなかつた。 先生も その中にまじつて熱心に見物した。 「芝居や歌劇の見物は わたくしにとつては 常に最大の享楽であつた。」

 三年の後、クーノー・フィッシャーにつくために ハイデルベルヒに移り、その後五六年に亘つて この 「比類なき大学教授」 の講義をきいた。 さうして三十三歳の時に ショペンハウァーに関する学位論文を仕上げた。 クーノー・フィッシャーはそれをほめた。

 先生がハルトマンと相知るに至つたのは、右の論文の一部を訂正して単行本として出した 「ショペンハウァーの解脱論」 及び シュヱグラー哲学史第十一版に 増補として執筆した ショペンハウァーの章において、ショペンハウァーの学説を徹底せしめたものとして、ハルトマン哲学を略説したためである。 ハルトマンはそれを賞讃し、彼自身の哲学体系の叙述を先生に促した。 さうして その草稿が出来上がった後、一八八三年の秋に、先生は はじめてハルトマンに逢つた。

 この時 先生は、ハルトマンに逢つて礼をいふといふことのほかに、ベルリンで職業を探すといふことを考へてゐた。 「果すべき義務を有するものとなり、人に奉仕すること、人の為に役立つことができると同時に、経済的に (わたくしの財産は僅かであつたからして) 自活の途を立て得る如き職に就きたいと 私は願つてゐた。」 これ 先生が三十五歳の時である。 しかし いかなる職業を 先生は求めれらたか。 オイケンは 大学教官になることをすゝめたが、内気な先生には その勇気がなかつた。 また 公衆の面前での演奏に嫌悪を感ずる先生は、職業的な音楽家となることもできなかつた。 そこで たゞ一つの道は 音楽学校の教師となることである。 ハルトマンと逢つたときの 主な話題はこれであつた。 ハルトマンは 親切にそれを心配して 数多き伯林の音楽学校の校長を歴訪することをすゝめた。 しかし 「努めて求める」 といふことの不得手な 受動的な先生は、結局 たゞ一人の校長をも訪ねずに ベルリンを去つた。

 ハイデルベルヒへ帰つて数ケ月の後、先生は カールスーエの音楽学校に赴任した。 そこでの講義では 音楽史と音楽美学とが 先生を喜ばせた。 聴講生は 老若の婦人であつたが、特に随意聴講生として 大学時代の友人メービウス (椊物学者。 文人哲学者等の研究を発表した医学者メービウスの兄弟) と マリー・ハイネ嬢とが加はつた。 それが 「私の講義を わたくしにとつては一つの楽しい、さうしてわたくしの記憶から決して消え失せない、饗宴たらしめた。」

 が 学校の管理者たちに対する不愉快が 永く先生をそこに留まらしめなかつた。 一年の後 先生は モスコー以来の友人ダヴィドフのゐるミュンヘンに移つた。 「ミュンヘンに暮らした十年間は、わたくしの生涯のうち 最も幸福であつた時代である とわたくしは思ふ。 わたくしはこの地に、わたくしの要するもの、及び わたくしの希つて止まないものゝすべてを 十二分に見出すことができた。  精神の似通つた、心の合ふ人たち、ヨーロッパ中での蔵書の最も豊富な、さうして最も自由に出入し得るものゝ一である図書館、立派な美術品、活気ある音楽界、模範的な演劇、美しい穏やかな自然 及び 健康な気候。 この市の旧教的空気もまた わたくしの心をミュンヘンにひきつける 少なからざる理由であつた。」 この幸福なミュンヘンの思ひ出が 晩年の先生を再びミュンヘンへ引きつけようとしてゐたのである。

 先生はその楽才の故に 先生の語をかれば 「自然がわたくしに少しばかりの楽才を与へて しかも 適当なる時機に否と答へる意力を授けなかつた故に、」 その交際の範囲が かなり広かつた。 自然科学者、哲学者、文学者、劇場監督、 或る時 先生は ベルナイスの宅での会合で、或る劇場監督と 当時大評判であつた劇を論じ、最後に 「わたくしは 批評の眼鏡を自宅へ残して来た時に いつも最もよく芝居を楽しむことが出来る」 と云つた。 傍に立つてゐた小説家のパウル・ハイゼは、「それがなほできるといふことを 喜んでゐらつしやい、わたくしも できればさうありたいと願つてゐるのです」 と 厳粛な、ほとんど悲しげな調子で言つた。  この たゞ一つの光景も、先生が どういふ風その交友のなかで動いてゐたか を推察させるに十分だと思ふ。

 この頃すでに、年下の友人たちは、先生の考へ方や趣味が古風だと云つて非難した。 しかし先生は その友人たちの驚嘆している 「新らしいもの」 或は 「近代的なもの」 に対して もう興味を持たなかつた。 もしくは そんなことはもう極めて古い時代の作者に十分説かれてゐるとして、それを繰り返して噛むことを嫌つた。 即ち先生は この頃から既に その繭を造りはじめてゐたのである。

 さういふ状態で 一八九三(明治26)年に 先生は日本へ渡つて来た。


 先生を日本に来させたのは ハルトマンの力である。 動くことの嫌ひな先生は 初め殆ど拒絶に等しい返事をした。 「しかし ハルトマンは どうしてもその意見を固持して動かなかつた。」 「わたくしが 長い航海に対する懸念と、地震に対する心配と、また わたくしが英語で講義をすることができるほど英語には通じて居らぬ といふ理由をあげて 反対したときには、彼は たゞ笑つて 相手にもしなかつた。 要するに、彼は あらゆるわたくしの懸念を打挫いて わたくしに勇気と自信を与へてくれたのであつた。」 他の友人たちも すゝめた。 長いことではない、たゞほんの三年だけだと云つた。 かくて先生は 遂に日本行を決心した。 四十五歳のときである。

 「かれこれしてゐるうちに、わたくしは 井上教授(井上哲次郎。 当時、東京帝国大学文科大学の哲学科教授)からの手紙をも受取つた。 その手紙は 丁寧親切な詞で わたくしを桜花咲く国に招いたものであつた。 一八九三年四月三十日に わたくしは ヨーロッパの地を離れて、六月十一日に日本に到着した。」 まだ若いストラッサーが ミュンヘンの或る料理店の息子であるこの青年が、僕として同伴された。

 この時 船の中で 陸軍々医の岡田氏が一所であつた。 神戸に着くと 岡田氏が案内して 日本の宿屋へ連れて行つた。 後年 鈴木万寿雄氏がこの時の印象を先生にたづねた時、先生は云つた、「別に何といふこともなかつたが、枕がかたくて眠れなかつた。」 「日本で最初に奇妙に見えたものは、下駄をはいて歩いてゐる姿であつた。 よく歩けるものだと思つた。」


 先生は初め 暫く駿河台にゐられたが、間もなく 小石川の񩃝物園裏に移られた。 主としてその時代の、即ち 先生の四十八歳頃から五十五歳頃まで (明治廿九年 卅六年) の生活を 側で見てゐた鈴木氏の談によると、先生は 朝から晩まで書籍を離れなかつた。 朝起きると 湯の沸くのを待つ間 書斎にはいつて 書棚から本をぬいて 読んでゐる。 やがて湯が沸くと 顔を洗ふ。 そのあとで 珈琲を飲みながら 本を見てゐる。 時間が来ると 俥で 先生のいはゆる 「優雅な走方」 をする車夫にひかれた俥で、学校へ出かける。 俥の上で読むことは嫌ひであつたが、帰るとまた、ピアノの勉強と食事のときのほかは、夜 ねるまで本を離さない。

 ピアノの勉強は 昼食及び夕食の前後 一時間位であつた。 昼食後 或は 夕食前の時刻には よく訪問者があつたが、先生は 非常にそれを厭がつて、いつも 「めしを喰ひに来い」 と云つた。 初めての客でも 夕食に呼んだ。 勉強時間をつぶされるのが 苦痛であつたらしい。 それほど ピアノの勉強は真面目であつた。 「これは 講義の準備と同じく 研究である、spielen ではない」 といふのが 先生の口癖であつた。 特に 演奏会の前などは 非常な熱心で勉強した。 先生位に出来るのだから そんなに勉強しないでも確かではないか と鈴木氏がきくと、「いや 聴衆に解つても解らないでも、間違つては困る」 といふのが 先生の答であつた。 「いつも傍に名人が聴いてゐる心持で弾奏せよ と云つた ロベルト・シューマンの音楽上の麗はしい座右銘を、わたくしは わたくしの全活動の上に応用しようと 力の限り勉めてゐる」 といふ先生の言葉は、文字通りの真実であつた。 

 先生は 止むを得ぬときのほかは 公衆の前で演奏しなかつた。 たゞ 慈善演奏会にだけは、初めの頃には、度々出た。 会場は 神田の青年会館、本郷の中央会堂、上野の音楽学校 などであつた。 先生の出る音楽会には 非常に聴衆が集つて 大層な人気であつた。 一曲すむ毎に大喝采が起り アンコールも しば 繰り返された。 聴衆がどれほど深く先生の芸術を鑑賞し得たかは解らぬが、先生の落ちついた、静かな、気品の高い態度が、聴衆に強い印象を与へたことは 確かである。

 先生の交友は 広くなかつた。 しかし 客は歓待した。 殊に学生は 喜んで迎へた。 その頃に 岩元、姉崎、高山、上田敏、戸川、波多野などの諸氏 及び 橘糸重さんなどが 学生として度度顔を見せた。 学生たちが 食卓の作法を知らないために、いろいろ滑稽をやつた話もある。

 先生はかうして 学生たちと食卓を共にすることを 楽しまれたが、しかし 食事は簡単で 規則正しかつた。 朝は 珈琲に牛乳を一寸入れたのを 一杯、トースト 一切れ。 昼は 食事の前後に ジン三杯、スープ、ボイルドビーフ、野菜。 時には 前夜の残り物が出る事もある。 肉のあとで 葡萄酒 二三杯。 食後に 葉巻煙草。 お茶は 支那茶で、セーロン茶も台湾茶も 使はなかつた。 ジンのためには 祖父より伝へたといふ 高さ一寸 口径一寸弱の 底の厚くなつたコップ 底が厚いので 丁度起き上り小法師のように 倒れることがなかつた を使つてゐたが、それがこはれた後には 鈴木氏が小川町で買つた 尻付の小さいコップに変つた。 ジンは ビターを入れて飲むことが多かつた。 葡萄酒は 暁星学校でフランスから取り寄せた 樽入りの 粗製のを使つてゐた。 煙草は 初めはハバナであつたが、後にマニラに変つた。 紙巻は メラクリノーを愛用してゐたが これも後に フランス煙草に変つた。 なほ 昼食に冷肉が出た時には 葡萄酒の代りに 麦酒を飲んだ。 キリンビール、時には それにスタウトをまぜる。 学校で 美学やギリシア語の講義が急にふえて 午後の時間が出来た時には、弁当を持つて行つた。 冷肉、うで卵、ハム、パン、それに ラムネ瓶入の葡萄酒。 これらはいつも、分量と云ひ 種類と云ひ、判で押したやうに きまつてゐた。 夕食にも同じく 初めに ジン、御馳走は スープ、肉物が 二皿、それに 野菜。 食後 ピアノを弾いた後で、ヰスキーソーダを 二杯位。

 酒には趣味を持つてゐたので、ジンの他に ウォッカ、ラム 等の シュナップス、コニャック、ドム、ベネディクション、ペパーミント、ベルモット、メドック、マラスキノ、アスティ (イタリア葡萄酒)、マラガ、などが 貯へてあつた。 ヰスキーは ジョンストンの角瓶であつた。 これらを 客の時や また食後に 折々のんだ。

 かういふ食事の世話をするコックやボーイや、また車夫などに対しては、先生は 非常にやさしかつた。 貴賎貧富の別とか 身分の相違とかは 実際 先生の眼中になかつた。 彼らを相手に 西洋将棋をさして 楽しまれるときにも、友人に対すると 何の変りもなかつた。 また 彼らの過ちに対しても 先生は極めて寛容であつた。 永くゐた車夫で 酒の好きな男が、先生の俥をひく時にさへも 酔つてゐることがある。 しかし 酔つてゐれば きつと下を向いて 顔をかくすやうにしてゐる。 先生は それに直ぐ気づくが しかし いつも素知らぬふりをする。 或る時たうとう 酔つた車夫は 先生をのせた俥をひつくり返した。 しかし その後も先生は 相変わらず この酒飲みの車夫に 俥をひかせてゐた。 さういふ風だから 車夫の方でも、車をやめてからは ボーイとして、先生が東京にゐられた間中は 忠実につとめてゐた。 また 或る時、家の中で刃物をふりまはして 大喧嘩をやつたコックがあつた。 どうも手におへないといふので いよいよ解雇することになつて、先生が それを云ひ渡した。 側の者は 解雇を云ひ渡されたコックが 先生に対して 乱暴をしはしないかと 恐れてゐたのであつたが、先生が たゞ一言、「お前を出したくはないが、家の平和のためには 致方がない」 とやさしく云つた時、この乱暴なコックは 急に机にかぢりついて 泣き出した。 「怒らない」 先生の態度が それほど使用人には こたへたのである。 かういふ使用人の上に 先生は あの好意ある日本人観、僕婢観を きづいたのであつた。 「彼らよりも更に良き、更に物静かな、更に要求するところ少き、且つ 何れの点に於ても 気の置けない人間を知らない。 彼らが 往々我ら外人や また彼ら同志を 瞞着したり、欺いたりするやうなことがあつても それは大抵 瑣細なことである それ位のことは 云ふに足らないではないか。 その遣方も 極めてナイーヴである。 さうして 彼らは その欺瞞的な行為を 隠蔽したり もしくは弁解せんと努める如きは 極めて少い、それであるから 彼らに対して 真面目に腹を立てるなどといふことは 実際できないのである。」 が かういふ観察をなし得たのは、結局、目下めしたの者への高慢を 「心根の野卑下劣」 とし、人の真の教養と 真の気高さとが 小さきものへの態度において認識せられるとした 先生自身の人格の仕業である。

 先生のこの態度は たゞ召使に対してだけでなく、すべての人に対する そのユーモアにおいて 現はれてゐた。 瑣末なことに生真面目な態度をとることは 先生は 嫌ひであつた。 先生にヒルティーの著書を紹介した マックス・クストーヴ (当時 東京のドイツ福音教会宣教師) や ドクトル・エーマンなどとの 往復の手紙には、互に からかひ合ふような 拙いポンチ絵をかいて、先生は それに随分興じてゐた。 また 当時学校で スケッチブック を教はつてゐた鈴木氏が、一日に一頁か半頁位づつ進んで行つて 何時まで経つても finish することができぬのを面白がり、顔を見ると、Did you finish “Sketchbook” ? と 口癖のやうに云つた。 さうして或る朝には わざとその スケッチブック を隠して、鈴木氏に 大騒ぎさせたことがあつた。 或る時、どうだ解るのかと聞かれて、鈴木氏が、I can read, but the meaning is difficult. と答へたのを、先生は 何時までも忘れないで、何かといふと the meaning is difficult と冗談を云つた。 最後の病気の時にも、見舞に行つた鈴木氏の頭を あの大きい手で撫でながら、meaning ! meaning ! と云つて 微笑した。 かういふ風な 温情のこもつた冗談は、およそ先生に近づいたほどの人は、皆それ に 経験してゐることである。

 動物のうちでは、鼠がきらひであつた。 寝室へ鼠がはいれば どうしても眠れないので、さういふ時には ドアを開けて置いて 皆で 本棚の裏を棒で突ついたりなどして 追ひ出した。 しかし その他の動物は 大抵好きであつた。 蛇なども、「人は嫌ふが おれは嫌ひでない、あれは パラス・アテーネーの象徴だ。 あの うねうねとした曲線が 美しい」 と云はれた。 犬や猫も 非常に可愛がつてゐられた。 食事のとき 猫が先生の肩にあがつて 前足でおいで のやうな真似をすると、先生は喜んで フォークに肉をさして与へた。 或る時 ストラッサーが烏の子供をもらつて来て 羽を切つて庭に放した。 芝の上を散歩して歩いたり、木にとまつたりして、毎日先生の眼を喜ばせた。 先生は コーチョ と呼んで 可愛がつた。 後年 夏目さん(夏目漱石。 漱石のケーベル訪問のことは、後出する。)が先生を訪ねたときの記に、「此夕、其事を思ひ出して、あの鴉は何うなりました と聞いたら、あれは死にました、凍えて死にました。 寒い晩に 庭の木の枝に留まつたまんま 翌日になると死んでゐました と答へられた」 とある。

 先生が人間や動物に対して取つた態度には 実際 言葉に現はしがたい 微妙な魅力があつた。 これは 鈴木 久保 両氏が ともに証言するところであるが、たとへば 何かの理由で不愉快な気持になつてゐるときでも、先生の前へ出ると おのづから気分が晴れる。 先生に言葉をかけられなくても、先生の態度だけで、先生がそこにゐるといふことだけで こちらの気持に強い変化が起るのである。 だから 言葉のわからない召使がなつくのは 当然であつた。 元来言葉の少い人であるが、それよりも、言葉を必要としない、、、、、、、、、のであつた。 それは同時にまた、いゝ気になつてゐる相手を 反省させる力にもなつた。 相手が何か議論をはじめると、先生は黙つて感心したやうな風で、聞いてゐる。 決して反駁はしない。 さうして おしまひに ただ一こと警句をいふ。 たとへば、無学なものほど能弁だといふことを お前は知つてゐるか、といふ風なことを。 晩年でも 久保君が 日本の新聞で見た政治上の新事件を報告して、何か政治上の議論などをはじめると、黙つてきいてゐたあとで、「お前はなかなか政治家だね」 などと冷かす。 が それで相手の心は、瑣末な末梢的のことから 中心の重大な問題へ帰つてくる。 この態度は 恐らく先生が 議論からいゝ結果は出ぬ と考へてゐられたためであらう。 議論には 感情がつきまとふ。 たゞ勝つための議論になる。 純粋に論理的に議論することは なかなか難かしいと。

 先生は 一度 鎌倉、江の島へ行つたほか 東京のそとへは出られなかつた。 江の島はニースに似てゐる と云つて 喜ばれたさうである。 日光へは 一度 クリストリーヴが案内することになつて、先生は上野駅まで行かれたが、約束の時間になつても クリストリーヴが来なかつたので、それをいゝことにして 引返してしまはれた。 それほど 日本を見物するには冷淡であつたが、しかし 初めの内には いろ な招待で 日本の音楽や芝居に かなり接する機会があつたやうである。 芝居は ロシア公使館で団十郎を呼んだ時に 見せられたほか、一二 見物にも行つた。 団十郎は 先生も 頻りにほめてゐられた。 表情がいゝ、日本人は いゝ役者になれる、などと。 音楽については、音楽学校で聞かされたほか、西園寺公に招待されて 紅葉館で開かれたことがあつた。 芸妓の三味線や歌に対しては あまり同情がなく、まだ琴の方がいゝ といふ意見であつた。 日本には音楽がない、とも云はれた。 後年 シェールマン宛の手紙には、「余は 日本の音楽をば 常に索漠に また 死ぬばかり退屈に感じた、その形成は不整であり、旋律も和声もなく、さうして余には 技巧の優秀なと云はれるものほど 嫌味が増して来る」 とある。 紅葉館で 芸妓に取巻かれたときには、「話ができればどうか知らぬが、黙つて側に坐つてゐるので 窮屈で困つた」 と云はれたさうである。 しかし 後年の日本観には、「静かな、愛想よき、晴やかな、」 さうして 「礼儀正しく、何等要求するところのない」 芸妓を、西洋の淑女よりも 遥かに快いもの と想像してゐる。

 小品集で 先生は、「わたくしはやつぱり、日常の会話に用ゐらるゝ日本語を 幾分学ばなかつたことを 遺憾とせざるを得ない。 もし言葉ができたならば、どんなにか好んで わたくしは市井の人々、即ち下流の人たちと 語り合つたことであらう。 さうなれば わたくしはまた喜んで 日本の劇場へも出かけるであらう。日本人は 優れたる俳優である」 と云つてゐられる。 この詞の裏には 右の如き善良な召使たちや 或は 団十郎の印象などが 含まれてゐるのであらう。 先生の日本語の知識は、テツガク、オンガクなどといふ 少数の単語に過ぎなかつた。 最後の病気の時、持病の喘息で呼吸困難に苦しみながら、ヒューヒューと音のする喉を指して、オンガク オンガク と云はれたさうである。

 先生の言葉は、ドイツ語が母語で、ロシア語とフランス語が 第二であつた。 この両語は 何時習つたとも解らず、子供の時から 宅で聞き また話してゐた。 学習したのは ラテン語、ギリシア語、次に英語、イタリア語 の順であつた。

 先生は 極めて金銭に淡白であつて、自分の仕事を金に換算する といふやうなことはしなかつた。 当時 或るドイツ人の教師が 何かの理由で 他の同僚に頼まれて 講義の代理をしたことがある。 済んだ後 その教師は 代理の時間の勘定書をつきつけた。 それが ドイツ人としての 通例のやり方であつた。 しかし先生は 古典語の教授を頼まれたとき 全然特別の手当なしでやられた。 鈴木氏が 「それは 契約以外のことではありませんか」 ときくと、先生は 「いや、自分を利用してくれるなら 自分は喜んで応じる」 と云はれた。 また 音楽会なども 慈善的な催ほしであれば 出演を承諾されたが、謝礼は受け取られなかつた。 さうして 困つてゐる人に逢へば、特に 学生が窮状を訴へてくれば、快く金を出して助けられた。 (これは 決して自ら口外されなかつたが、側の人が気づいて問ひたゞせば 隠しもされなかつた。) さういふ風に 金には執着がなく、また 至極のんきであつたので、或る時 車夫が 先生の月給を持ち逃げしたことがある。 通例 先生は、月給の受取書に署名して それを車夫に持たせて 会計へ届けられた。 会計では 引換に木札を渡し、先生がその木札を持つて自家へ帰ると、ストラッサーがそれを持つて 現金を取りに出掛けるのであつた。 しかるに 或る時、会計へ行つた車夫が 何時まで経つても帰つて来ない。 先生は 心配して会計へ問合せに行くでもなく、待つてゐるのに退屈して 歩いて自家へ帰られた。 その話を聞いて驚いたストラッサーが 早速会計へ行つて見ると、現金は既に数時間前に車夫が受取つて 行方をくらましたのであつた。 或る同僚のドイツ人は このとき、車夫に月給を受取らせるなどと さういふ危いことをする人の気が知れない、とか 早く警察へ訴へろ、とか と騒いださうであつたが、先生は さういふことに騒ぐのを 寧ろ不思議がるほどであつた。 さうして 「盗つた男が使ふだらうから いゝではないか」 と云つて 平然としてゐられた。 しかし ストラッサーが警察へ届けたので 間もなく車夫は 吉原で 「一抹の牧歌的にして快き趣がある」 と先生の想像してゐられた吉原で、つかまつた。 そのときには 先生の望んでゐられたやうに 「盗つた男が もう使ひはたして」 金は帰つて来なかつた。

 このストラッサーは、自分のプライドのためであつたか、しば 先生の息子だと自称してゐた。 で 或る人は 実際彼が先生の結婚によらざる子供であるかのやうに 云ひふらした。 それを憤慨して 側の人が先生に告げると、両手をひろげて 一寸肩をすくめ、Na ! といふきり 相手にしなかつた。 「それが便宜なら それでいゝ」 といふ態度であつた。 ストラッサーがそのプライドのためにしてゐることをあばくのは 可哀相だと思はれたのであらう。 また 事実無根の噂は 真に自信ある人には 何の痛みをも与へなかつたのであらう。

 しかし先生は 小言を云はないではなかつた。 鈴木氏自身も 随分しば 叱られたさうである。 たゞ しかし、その小言は、ほんの一瞬間であつた。 能弁に叱るのでなく、子供が癇癪を起したときのやうな身ぶりで、わッと叱つて、あとはからりとしてゐた。 だから 叱られても 気持がよかつたさうである。 もつとも 先生が叱るのは、自分が不愉快であるとか、自分の利益が犯されるとかいふ理由からでなく、相手の身の上を心配するからであつた。 先生は 常々、「人間は 訓練ディシプリンがなくてはいけない」 といふことを口にせられ、側のものの生活が放縦に陥ることを 強く心配された。 さうして その心配が、叱られるものの胸にも 十分に響くのであつた。

 日曜日毎に 最初は 駿河台のニコライ会堂へ行かれ、後には 猿楽町のローマンカソリクに変はられた。 しかし そこの司祭の狭量な意見に閉口して やがて それもやめてしまはれた。 けれども 祈りのことは やかましく云はれた。 寝るときはきつとお祈りをしろ、短かい黙祷でいゝ、お祈りが 神との唯一の交通だ、といふやうなことを云はれた。

 身のまはりのことについては、先生独特の 一種の気取りがあつた。 たとへば 帽子をちよつと横にかぶる。 或は ネクタイがちよつと曲つてゐる。 それを 真直になほして上げても またもとへ戻してしまはれる。 つまり きちんとしたことが嫌ひなのであつた。 たゞ ズボンだけは 形が崩れないやうに気にされた。 あとは 上衣でも 靴でも ゆつたりとした らく、、 なものを好まれた。 その上 古いものゝ好きな性分が 朊装の上にも現はれて、フロックは ドイツ以来の 羊羹色になつたもの、常着も ずゐぶん永く着られた。 久保君の話によると、晩年には 大学をやめて以来 たゞ冬朊一着をこさへられたきりださうである。 しかし それをこさへてからも やはり古いのを着てゐられた。 死なれる一年前まで ちようど十七年間 同じ冬朊であつた。 色は 初めから渋いものが大好きで、重に 黒ずんだ ねづみ色であつた。 頭髪については 極めてのんきで、大抵 ストラッサーが 廊下に先生を坐らせ 櫛も使はず はさみで切つた。 段々のはつきりついた頭でも 平気であつた。 後 駿河台では床屋にからせられたが、じつとしてゐるのは十分位で、十五分もかゝれば もういい もういい と云つてやめて了はれた。 横浜へ行つてからも 久保君がよく理髪師をつとめたが、昨年 アインシュタインが来たとき、彼もやはり 妻君にかつて貰ふさうだ と聞いて、先生は 「これは面白い」 と興じてゐられた。 (一体に 先生は アインシュタインの態度や生活の仕方には 非常に同情があつたさうである。) なほ あごの髯については 相当にやかましい注文があつた。 左右をかり、裏をかつて 三角に尖らすのである。

 新しいものの嫌ひな先生は、掛りつけの医者なども できるだけ変へられなかつた。 初めはベルツ、後には三浦。 しかし その医者にも 容易に見てもらはうとされなかつた。 父親が医者であり、また ドイツ時代によく医学者と付き合つた関係から、病理や病名や薬のことなどの心得があつて、大抵は自分でなほされた。

 同じく 新しいものに興味がないために、新聞雑誌は 殆んど注意されなかつた。 初めは 横浜の英字新聞を取つてゐられたが、見るのは ほんの二三分間で、ざつと外国電報に眼を通すきりであつた。 そんなに興味がないのに なぜ新聞をとるのかときくと、「紙が要るからだ」 と冗談半分に 答へられたことがある。 晩年でも同じで、久保君は よく先生に 「いつまで新聞を見てゐるのだ」 と云はれたさうである。 そのくせ先生は 自分に興味のあることは、たとへば 文学上のことなどは、その二三分間に ちやんとみつけてゐられるのであつた。

 散歩はされなかつたが、天気のいゝ日の夕食前に 俥で銀座へ買物に行くことは 先生の楽しみの一つであつた。 しかし 買物をする家は 亀屋ときまつて居り、買物は 食料品、煙草、家のものへの菓子 などであつた。

 日露戦争がはじまつたときは もう駿河台へ移られて一年位経つてゐたが、他のロシア人は大抵帰国したけれども 先生は帰らうともせず、また 日本側でも 問題としなかつた。 先生は 政治問題がきらひであつたし、また 戦争にも冷淡で、ロシアに対しては 何の感情もない。 反つて こゝにゐる方がいゝのだ といふ意味のことをいはれたさうである。


 上述の時代において 先生が弟子たちにどういふ影響を与へられたか については、先生の最初の年のみの聴講生であつた 西田幾多郎博士の言葉が、簡単ながら 非常に示唆するところの多いものに思はれる。 それは、「先生がわが国に来られた頃、いたく わが国の学風の軽佻浮薄なるを嫌つて居られたやうに思ふ」 といふ言葉である。 西田先生は その一例として、古典語を知らずに西洋哲学を理解しようとする考の軽佻なることを 直接警められたと云つてゐられるが、さうしてまた この警めは 二十年後のわれわれの時代にも 同じやうにくり返されてゐたものであるが、しかし 問題は 古典語のみのことではなかつた。 ヨーロッパ文化の摂取の態度が 全面的に問題であつた。 たゞ人目を驚かすやうな花だけを切り取つて来ようとする。 その結果は、その花をたづさへた人がひどく尊敬された といふだけで、その花を咲かすやうな椊物は わが国には育つて来ないのである。 さういふ態度で 当時の学者や秀才たちは、騒々しく、仰々しく、大きい身振りをもつて、ヨーロッパの知識をふりまわしてゐた。 その気取りや衒ひが 先生にとつては まことに鼻もちのならないものに感ぜられたのであらう。 前にあげた 初期の学生の顔ぶれのなかでも、高山樗牛などは さういふ傾向の代表者であつた。 先生が 樗牛を極端に嫌はれたのは そのためである。

 そこで先生は、樗牛が大思想家であるかのやうに もてはやされてゐた日本において、花をすてゝ根を移すことを ぢみに 物静かに努力せられた。 「本物」 に対する感覚が 先生の周囲に少しづつ発生して行つた。 この感化は 先生の学問上の立場とか 功績とかいふことよりも はるかに大きい意義を持つてゐる といつてよい。 さういふ感化の極端な例は 岩元禎先生において見られる。 一切の軽佻なやり方を排して 真に根本的にやるといふ態度が、反つておのれを金縛りにし、多少冒険を伴つても 自由な開展を可能ならしめるといふ道を 閉ざしてしまつたのである。 さうなると この金縛りの立場は、他に対して 恐ろしく不寛容な態度をとることになる。 どれほど道に迷はうとも 同情の眼を以て見ることのできた ケーベル先生の寛容な気持から見れば、岩元先生の態度は いかにも窮屈に見えたであらう。 後年 ケーベル先生が、「岩元はコーミッシュ(komische 滑稽、おかしい)だ」 といはれたのは、さういふ点を指すものと思はれる。

 先生の感化が 真直に、偏らずに 現はれた例としては、われわれは 波多野精一、深田康算の両博士、及び ピアノの弟子の橘糸重さん などの場合 をあぐべきであると思ふ。

 波多野博士が いかに強い感化を ケーベル先生から受けられたかは、その 「追懐」 のなかに 遺憾なく現はれてゐる。 まづ初めに 博士は 学生として 先生に対し 無邪気な、飾りのない 感激の情を傾けた。 先生の講義は 決して 人をひきつけるやうな華々しいものではなかつたが、しかし 博士は 「高きもの 純なるものに対する渇望」 を 先生によつて呼び起こされもし、また 充たされもするやうに 感じたのである。 先生は ギリシア的な智慧の愛を しみじみと博士の心に伝へた。 そこで博士は、先生が注文する通りの 哲学の正道をふんで、哲学のなかへ入り込まうと努めた。 ギリシア語をも 先生の手ほどきで はじめた。 だから博士は、「私自身にとつては 先生こそ 真に哲学へ導いた師であつた」 と云つてゐる。

 しかし 一層大きい感化は 先生と直接触れるに至つて 先生の人格から来た。 先生ほどの円熟した個性をそなへた人は 確かに稀れである。 それは たゞ高潔とか 温厚とかいふやうなこと だけにつきてはゐない。 先生は おのれ自身に対しては 極めて厳格であり、責任感も 非常に強かつた。 講義の準備を 先生ほど忠実にした人は あまりないであらう。 しかし それ故に 固苦しい感じを与へるやうなことは 決してなく、実に朗らかで のびのびとしてゐられた。 それを博士は、「先生にとつては 生そのものが 芸術であつた」 といひ現はしてゐる。 この点において 先生は ドイツのクラシック時代の伝統を 豊かに体現してゐられたといつてよいが、しかし 更に一歩を進めていふと、先生の生の芸術の根柢は むしろギリシア哲学者のそれなのである。 「ストアの謹厳と真面目とに エピクロスの品よき享楽と簡素恬淡とを交へ、他の諸派に見る学芸を加へ、更に ギリシアのクラシック時代を特色づけた すべて善なるもの 美なるもの に対する率直なる傾倒 をもつて飾つたものが、先生の処世の目標であつた。」 先生は しばしば 自分はエピキュアンだといはれたが、それは 簡素、、単純、、静平、、自由、、、さうして 騒々しき世間よりの隔離、、、、、、、、、、、 といふやうな、エピクーロスの理想的賢者の生活を 指してゐられたのである。 このやうな 先生の自由な人格が、身をもつて ギリシア哲学を博士に教へこんだのであつた。

 が 感化は それだけに留まらなかつた。 先生には このギリシア的自由に 深みと柔かみとを与へるもの、ギリシア的自由を その陥りやすい自尊、傲慢、冷淡より救ひ、この世ならぬ朗らかさをもつて浄化したものが 君臨してゐた。 それは 無限なる愛の理想、神聖完全なるものに対する厳粛な、また謙虚な態度、即ち キリスト教的信念である。 もとより 先生は ドグマや儀式には 重きを措かれなかつた。 教会にも あまり行かれなかつた。 この態度は徹底して 死の前にも 最後受膏を拒まれ、葬儀は教会的儀礼を用ゐるな と遺言された。 しかし キリスト教的信念は 実に確乎としてゐたのである。 博士は 先生の個性における このギリシア的自由と キリスト教的敬虔との綜合に 強く打たれた。 だから博士は 先生の口から、自分はキルスト者である以上に異教徒である ( mehr Heide als Christ ) といふような冗談を聞かされながら、真の精神的自由と結びついた キリスト教的敬虔の模範を 先生において認めてゐたのである。

 波多野博士の場合に比べると 深田博士の場合は よほど 個人的な情愛の要素が勝つてゐるやうに見える。 深田博士は 波多野博士よりも三年後の 明治三十二年に 大学へ入学されたのであるが、間もなく 小石川白山御殿町の先生の家へ 頻々と訪れるやうになつた。 その頃の深田博士は 眉目秀麗な 愛らしい青年であつたが、その上に 語学の力に秀で、鋭敏な感覚と 強靭な理解力とに 恵まれてゐた。 さういふ たぐひ稀れな青年が 純真な感激と傾倒とをもつて 近づいて行つたのであるから、先生が 心から この愛らしい青年を愛されたのは 無理もない。 椊物園うらにその頃一軒しかなかつた 洋館の、薄暗い、書物の一杯に散らばつた、煙草のにほいのこもつた書斎に、少くとも週一度 この青年は姿を現はした。 ギリシアの文芸やドイツの文芸に対する 愛や理解は、先生の導くがまゝに 著しく進んで行つた。 かうして三年が過ぎ、深田さんが大学を卒業するとき、先生がはじめて 卒業生の予餞会といふものに 顔を出されたのは、先生が いかにこの弟子を愛してゐられたか を示すものである。 と ともに、その晩、かすかな月の光の下を 本郷から小石川まで 歩いて先生を送つて行つた この青年が、その書斎で 再び杯を挙げ、酔ひつぶれて 寝てしまつたのも、いかに その傾倒が心おきのないものになつてゐたか を示すものといへよう。

 その夏、先生が 駿河台の濠ぞひの家に 移られてから、深田さんは そこの二階の日本間に 起臥することになつた。 さうして その後まる五年の間、朝晩に 先生と接触した。 それは 明治四十年の秋、深田さんが 文部省の留学生としてヨーロッパへ出発する その日の朝まで続いた。 かういふ親密な師弟の間に 互に相手を欠き難いものとする 濃い友愛が存してゐたことは いふまでもないであらう。 しかし 深田さんが先生の没後に書かれた 追憶記によると、深田さんの側には 先生に十分つくさなかつたといふ 遺憾の念が強く残つてゐた。 「多少でも 先生のお世話をし、多少でも 先生が私を呼んで 『友』 といはれた言葉にだけでも ふさはしく振舞ふかはりに、私は 長い間 たゞ先生のお世話にばかりなつてゐた。 さうして 先生をして淋しがらせた罪は 少くない。」 この嘆きは 深田さんの敏感すぎる感受性にも もとづいてゐるであらうが、しかし 先生の側の 弟子への期待が いかに深かつたか をも示してゐるのである。

 深田さんは、「私の婚約と独立とによつて 先生の手許から離れてしまつた」 といつてゐる。 婚約は 深田さんの心情が 先生のことだけで占められてゐたのではないことを示すものであり、独立もまた 三年のドイツ留学と 帰朝後の京都大学への赴任といふ形で 深田さんを先生からひき離したには相違ないが、しかし それを何か 先生に対するすまないことであるかのやうに 語つてゐるところに、深田さんの感情の 特異な点が見られる。 先生は 深田さんに向つて、「お前は 或は 自分の所から離れて行くであらう。 しかし 自分の方からして お前から離れ去ることはない」 と つねづね云つて居られた。 その通り 深田さんの側では 時に 先生から離れ去らうとしたことがないでもないが、先生は どこまでも 深田さんから遠ざかられはしなかつた。 特に 深田さんが その 『追憶』 のなかで 悲しげに語つてゐる最後の事件は、この師弟の間の 心の行きかひを 直感的に示してゐるものといへるであらう。 先生の没せられる二週間程前に、病気を見舞に 京都から横浜に赴いた深田さんは、その頃 『思想』 に連載中であつた 先生のホフマン論を話題として、それへの賛意をのべた。 すると先生は、「アイヘンドルフのホフマン評は、あれは 甚だ酷だとは思はぬか」 と問はれた。 生憎 その箇所を 深田さんは読んでゐなかつた。 で 非常に辛らい思ひをしながら そのことを白状した。 その時の気持を 深田さんは、「出来るなら あの際私は 先生の著書の全ての頁についての 私の知識を披瀝することによつてでも、私が先生に属するものなることを 証明したいほどの心持でゐたのである」 と書いてゐる。 その白状に対して 先生は、「遺憾だが、お前も 私の読者ではないのだ。 お前たちのために 私は書いてゐるのであるのに、私の読者は 私自身だけなのだらう。 さうして その訳者だけなのだらう」 と嘆かれた。 この言葉は 深田さんの心の奥底に刻み込まれた。 だから 先生が没せられてから後に 深田さんは 深い感情をもつて いつてゐる。 「私の今日までの生涯のちやうど半分を 私は先生とともに生きて来た。 私は常に 先生のなかにのみ あつたのである。 もし出来るなら このことを 先生の永眠さるゝとき 私の口から先生の耳に入れたかつた と思ふばかりである。」 この時 深田さんは 四十六歳であつた。

 深田さんの場合に比べると、橘糸重さんの場合は もつと幸福であつたやうに思はれる。 ぢみで つゝましく、そのうへ いかにもデリケートな感じの 橘さんの人柄は、先生の好みと ぴつたりと合つてゐた。 その橘さんは 先生が最初上野の音楽学校へ教へに出られたときの生徒で、初めの時間には 恥かしさに 拍子も指づかひもわからなくなり、「さう こはがつては けいこは出来ないではないか」 と 先生に笑はれたといふ。 間もなく 白山の家に行つて けいこを受け、駿河台に移られてからも 絶えず接触があつた。 先生が東京を去られるときの 最後の夜も 食卓に坐つた一人であつた。 その夜は 先生が、「いつものとほり きげんよく Auf Wiedersehen ! といつて わかれよう」 と いはれたといふ。 そのとほり また横浜で逢へるやうになつたが、それは 「私たちのためには 貴く なつかしい年月」 であつたと 橘さんは書いてゐる。 音楽学校の古参教授として 勅任になり、先生から 閣下 ( Euer Exzellenz ) といつて冷かされたのも、たしか こゝでのことである。 先生の没後、雑司が谷の墓を最もしばしば訪れて 掃除をしたり 花を捧げたりしたのも、恐らく 橘さんであつたらうと思はれる。


 以上三人の愛弟子が 先生の日本滞在の 前半を代表するものとすれば、後半を代表するものは 魚住影雄、久保勉 の両君である といふことができるであらう。

 日露戦争の直後、まだ深田さんが先生の家にゐられる頃から、石原 阿部 等の諸君が 学生として 先生に近づきはじめ、ついで 藤原、魚住、安倊、宮本、小山、山口 などの諸君が 賑やかに先生を訪れるやうになつた。 特に魚住君は 明治四十年初夏の頃から 熱烈に先生に傾倒し、また 最も親しく 先生に近づいて行つたのであつた。

 魚住君は 先生を訪ねる前から、「先生の一瞥をうることを無上の名誉」 とし、「先生の神神しき姿を思ふと 恐れ多い気がする」 とさへ いふやうな 心持になつてゐた。 「魚住は好きだから 連れて来い」 といふ先生の言葉を 阿部君から聞いたとき、魚住君は 「赤くなつて、恥かしく かつ うれしく」 感じた。 いよいよ 晩餐に招待されたときには、「ありがたくて 幾度と知れず泣いた」 ほどであつた。 そのとき 小山君が、「既に六十を越してゐられる先生の 妻子なき淋しき晩年をなぐさめるものは 君でなければならぬ。 君は 先生に愛せらるゝのみならず 君みづからが 既に中学にゐた時分から 遥に敬慕してゐた先生のことであるから、ます 善い」 と いつたといふ。 最初の訪問 (折蘆遺稿 六二六頁以下) は 石原、阿部 両君と一所であつて、諧謔に終始したものであつたが、近づいて見て いよ 「親むべく 慕ふべき 玲瓏玉の如き人格」 が 魚住君を感激させた。 で その後は 頻々として 先生を訪ねるやうになつた。 見ぬうちは 神のやうに思ひ、教をうくるやうになつて後は 父の如くに慕ひ、一旦 先生の家に出入するやうになつてからは、子のやうに扱はれるに至つた。 その頃のことを 魚住君は、「あまり可愛がられるので 恐縮してゐる。」 「不肖、とても先生の高顧に適ふものではない と思ふけれど、先生の人格を根柢から研究して 受けられる限りの良感化を得たい覚悟である」 などと記してゐる。 かくて その次の冬 (であつたと思ふ) には、先生が肺炎にかゝられた際に、昼夜付ききりで 看病したりなどした。 最初の訪問から一年半ほど経つた 秋の末には、「先生は 僕にとつては エマンチパチオンである、…… 僕は ケーベル先生の面を見に行く。 僕は 先生の前に立つて 最も清い僕を見る。 最も自由な のどかな 心持になる。 …… 先生の人格は キリスト教のギリシア的方面を よくみとめ、また ギリシア思想のキリスト教的方面を よくみとめてゐらるゝのである。 要するに 人格である。 羨ましい人格である。 先生の前には 常に 知識や弁論の要なきことが感ぜらるる。 先生の親和力の大なることは 僕はますます感じてゐる。 先生の前に 文句はない」 と書いてゐる。

 魚住君のこの傾倒は おのづから 魚住君の諸友を先生に結びつけた。 のみならず 当時高等学校にあつたわたくしたちも、魚住君を通じて 先生の人格や言葉を知るにつれ、何かしら 先生との間に 精神的関係が生じてきたやうに感じた。 その頃二十歳前後であつた われわれの仲間では、人生の意義価値について心を労する といふ一般的な傾向があつて、時には 宗教を求める心を虚飾的に示すものさへ 出てくるやうな始末であつたが、その中へ 或るとき、「さういふ傾向は ペダンティックだ」 とケーベル先生がいはれた、といふことが 伝はつてきた。 その意味は 当時のわれわれには 十分に解つてゐたとはいへない。 しかし われわれは 愕然として 途方に暮れたやうな気持で、反省せざるを得なかつた。 それほど 先生の言葉は われわれの間にも すでに権威を持ちはじめてゐたのである。

 わたくしは 高等学校にはいる前から 魚住君の指導をうけ、その後も さまざまな点で 強い影響を受けてゐた。 魚住君が 大学で日本美術史の講義をきいて 面白がつて話すと、そのノートをかりて読み、夏休みに 奈良へ行つた。 魚住君が 曻之助に夢中になると、それに感染して 熱心に寄席通ひをはじめ、その結果 岩元さんのドイツ語で 注意点をもらつた。 さういふ風であつたから、魚住君のケーベル先生への傾倒は、すぐ わたくしたちに感染した。 そのわたくしたちに対して、「大学へはいつたら 先生の所へ連れて行つてやる」 といふのが、いはゞ 魚住君のわれわれに対する なだめの言葉であつた。 ちやうどその頃に、海軍中尉になつたばかりで 海軍をやめて 哲学科へ入学を志望してゐた 久保勉君が、入学の準備のために ドイツ語を勉強しながら、同じやうに 魚住君に接触し、同じやうに ケーベル先生への傾倒に 感染してゐたのであつた。

 わたくしは 久保君とともに 明治四十二年の九月に 大学に入学した。 さうして 初めから 魚住君によつて準備されたまゝの気持で ケーベル先生を迎へた。 廊下を ゆつくりと 静かに歩いて来られる先生の にこやかな、清らかな顔は、実際 神々しいものに思へた。 が、講義をはじめられると、その余裕のある温容が崩れて、ひどく おぢいさんらしくなるやうに 思へた。 それだけ 講義が 努力を要したのであらう。 わたくしは 先生の講義をおろそかにすまいとして、特別の準備をして行き、最前列に席を取つて、一語も聞き洩らすまいと 緊張してゐた。 この態度は 一年あまりしか 続かなかつたが、しかし その間は 実際 すなほな気持で 勉強することができた。 また 先生の講義もよく解り、その解ることが 自分に嬉しかつた。 で 講義に出はじめて間もなく、魚住君が、「あの青年は 私の講義に同情を持つてゐる」 といふ先生の言葉を 伝へてくれたとき、自分の気持の先生に通じたことを 心から喜ばずにはゐられなかつた。

 かうして この年の十月に、わたくしは 久保君とともに 魚住君に連れられて 先生の家を訪れ、初めて 先生に 晩餐の御馳走になつたのである。 それは わたくしがはじめて直接に先生に接した日として 意義深いのではなく、先生の日本における生活の後半に欠くことのできない 重要な伴侶となつた久保君が、この日はじめて先生に親しく接した といふことによつて、大きく 記念すべき日となつたのである。 この夕 わたくしは 生れてはじめて ウォッカやスタウトの味を経験した。 先生が 何でもないから飲んで見ろ と頻りにすゝめられるので、こはごは口へ持つて行くと、さういふ風にするのではない、かうするのだと云つて、ぐいと一飲みにして見せられる。 それを真似て シュナップスをやると、口の中が爆発するやうな気持で、眼を白黒させざるを得なかつた。 それを見て 先生が 愉快さうに笑はれる。 その記念で 今でも ウォッカやスタウトを見ると 先生を思ひ出さずにはゐられない。 そのほか キャベツ巻が非常にうまく、先生にすゝめられるまゝに 二度目のを どつさり皿に取つたりなどした。 この晩は 魚住君が 気おきなく、といふよりも 甘えるやうにして、先生と冗談を云ひ合つてゐるのを、ひどく羨やましく感じたのであつた。

 その後 同級の九鬼、岩下両君も しばしば先生を訪ねるやうになつたが、特に久保君は その純朴で情に厚い人柄の故に 非常に先生に愛せられるやうになつた。 こゝに 久保君の、先生の晩年を飾る 献身的な奉仕がはじまつたのである。 この久保君の 忠実な仕へ方に対しては、後に 深田さんなども 感嘆と羨望との言葉を洩らしてゐられた。 この久保君が 先生の家の玄関の側の 小さい洋室へ住み込んだのは、魚住君がチブスで亡くなつてから 一ヶ月余を経た 明治四十四年の正月であつたと思ふ。 その後久保君は 最後まで 先生の側を離れなかつた。

 そのうち 先生の家に 一つの事変が起つた。 それは 家人ストラッサーの自殺である。 この事変は 先生にとつても よほどの打撃であつたらしい。 しかし 先生には この自殺者をもいたはる気持があつた。 ストラッサーの焼かれた灰の一部は 青山墓地に埋葬され、他の一部は 他日先生が帰国された際に 死者の故郷ミュンヘンに葬るべく、大切に保存してあつた。 さうして 今年 (大正十二年) の二月に 遺言を認められた時にも、先生は ストラッサーのことを かなり重大に取扱つてゐられる。 曰く、ストラッサーの灰は 他日久保が渡欧した際に ミュンヘンで埋めてほしい。 しかし 東京の墓地に入れてもよい。 ストラッサーの墓は 敬意をもつて守つて貰ひたい。 ストラッサーの母親へは、(母親既に亡くば その兄弟へ) 片身として 金の指輪を届けて貰ひたい。 …… 否、それのみではない、われわれは 続小品集中に 次の箇所を見出す。 「また 自ら進んでこの世を去つた人々の容貌においても 同じ平和と同じ聖い朗かさが認められた。 しかもなほ 彼らをもつて 『罪』 を犯し また神から斥けられたもの、、、、、、 となすとは。 この主張、、こそ 神から斥けらるべきものである。 何となれば それは 神の公正と恩寵とに対する疑念を、否、その否認、、 を包含するからである。」 自分がこの世に適せず 役立たず、この上の生存が たゞ他に煩累を加へるに過ぎぬ と知つたものが、あの世に行かうとして 自殺するのは、「むしろ 無用の人間にとつて 唯一の道理ある最期、  一つの気高き 英雄的行為ではなからうか。」

 四十四年の夏、夏目先生が 安倍君と共に 先生を訪れられた時のことは、夏目先生自身によつて 描かれてゐる (漱石全集 九の四〇七頁 以下) 。 甲武線の崖上にある 「古ぼけた、燻り返つた家」 や 「素裸の儘の高い階段を、薄暗がりに がた 云はせながら上る」 ことや、「耄け切つた色」 の書斎や、「永久にみづ してゐる様に見える」 先生が 「襟も襟飾も着けず、千筋の縮の襯衣を着た上に、玉子色の薄い背広を一枚 無雑作に引懸けて」 ゐる姿や、さうして 夕暮の窓際に近く 日暮しの鳴くのを聞き入りつゝ 食卓を囲んでした会話 などの いき とした描写が そこにある。 その文において、夏目先生は、ケーベル先生の 「浮いたことの嫌ひな」、時勢に風馬牛な、「極めて落ちついた」 人格と生活に対する 暖かい尊敬を 披瀝してゐる。 ケーベル先生の方でも、この訪問のあとで、久保君に向つて 頻りに 夏目先生をほめられたさうである。

 大正三年八月十二日 横浜出帆の船で、先生は 久保君とともに 日本を去られることになつた。 その日の朝日新聞に 夏目先生は 『ケーベル先生の告別』 を書いた。 その前 七月十五日の夜 晩餐の招待をうけた夏目先生が、「先生の家を辞して帰らうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、たゞ簡単に 自分の朋友、ことに自分の指導をうけた学生に、左様なら、、、、 御機嫌よう、、、、、 といふ一句を 残して行きたいから、それを 朝日新聞に書いてくれないか と頼まれた。 先生は 其外の事を云ふのは厭だ と云ふのである」 。 で、夏目先生は、ケーベル先生の許諾を得て、自分自身の言葉 先生が 「こつそり日本を去る気らしい」 といふこと、先生が 場所と時と金銭とを超越しつゝ たゞ一つ 「人と人とを結びつける 愛と情だけ」 は大事にしてゐること、などをつけ加へて、右の告別の辞を 発表されたのである。

 しかし この日 先生は、船に乗られなかつた。 八月三日の フランスに対する ドイツの宣戦、四日の ドイツに対する イギリスの宣戦 によつて はじまつた世界大戦争が、先生を 日本につなぎとめたのである。 それは 咄嗟であつた。 だから先生は、船を待つあひだの 一週間のつもりで 腰をおろした そのまゝの形で、ロシア領事館の、庭に面して露台のついた 階上の一室に、その後の満九年間を 過ごされたのである。


 横浜での日常生活については、先生自身の 詳しい描写がある。 (続小品集 四六八頁 以下)  朝。 珈琲とトーストとの朝食をとりつゝ 聖書かヒルティーかを読む。 食後 文筆上の仕事に着手する。 午後。 短い午睡。 そのあとで 読書。 天気のいゝ日には しばらく海岸を散歩。 五時頃 久保が来る。 茶を飲みつゝ ちよつとのあひだ、日本の新聞に現はれた 世間の動静をきく。 それから 二人で 文筆上の仕事か または読書研究に とりかゝる。 九時過には 軽いものを読んで寝る。  この生活は 実に規則正しく 日々に繰り返された。

 先生は、「私の精神力が なほ かなり清新であるあひだに、長いまとまつた仕事に着手したい といふ念」 を持つてゐられた。 一つは 大学での英語の講義を訂正して ドイツ語に書き改めること。 もう一つは 『文学及び哲学における 看過されたるもの 及び 忘れられたるもの』 を書くこと であつた。 しかし 閑静な仕事部屋がなく、蔵書を便宜なやうに並べることが出来ぬ といふ不便が、先生を この仕事から遠ざけた。 借りた友人の室に手をつけて それを書斎に改造することは 先生の好まないところであつた。

 かくて先生は 小品を書き また 読書することや、後進者のために尽した との意識や、「この世における巡礼の終りにおいて、真実の友となり 且つ 『暗い家に達するまで』 忠信なる生活の伴侶となる如き 年下の道連れ」 たる久保を持つことや、などに満足して、老年を讃美しつゝ、帰国を阻まれても 憤らず 悲しまず、静かに その晩年を送られた。

 二年半ばかり前に 先生は 肺炎にかゝつて 暫く 階下へ下りられなかつた。 癒つたあとで 一二度 階段を下りられたが、それが苦しかつたのと もう一つは 食堂に出ることが煩はしかつたので、それをきつかけに 食事も 二階ですませることにされた。 歩くのは 僅かに 露台を散歩する位であつた。 その肺炎の頃から 足に水気が来た。 久保君がそれを発見して 驚いて医者に云つたが、医者はあまり問題にせず、また 先生も気にされなかつたので、久保君は オェディプス (足ふくれ) と云つて 先生をからかつた。 医者は その頃から既に 心臓の弱いことと 軽い動脈硬化症とに 気づいてゐたさうである。

 去年 (大正十一年) の十月頃、突然 先生は 眼が見えなくなつた と云ひ出した。 その時に 久保君は、いよいよ老衰が来たな といふ感じを受け、もうこれでは 仕事が出来なくなるのではないか と心配した。 眼鏡を買つたが、あまりうまく合はなかつた。 眼の医者は 腎臓から来てゐると云ひ、掛りつけの医者は 腎臓に異常がないと云つた。 この後、物を見るには 拡大鏡を使ふ必要があり、書籍その他を探すのに ひどく時間がかゝつて 仕事が捗らなかつた。

 今年 (大正十二年) の四月五日頃、夜明けに 心臓がひどく痛んで 医者を呼んだ。 それから 二三日置きに、二三度 その痛みが繰返した。 で 医者は 一週間に一二度づつ 来診してゐた。

 五月廿五日午後三時頃に 突然また 烈しい発作が起つた。 それを知らずに 四時頃 久保君が行くと、先生は 油汗を流して 激痛に苦しんでゐた。 医者が来るのが 遅れたので、痛みが長かつた。 其日かその翌日かに 先生は 久保君に向つて 「今度は死ぬ」 と云はれた。 スウィス人の医者に対しても、「死ぬのなら はつきり云つて貰ひたい」 と云はれた。 また 「今まで 病気も度々したが、今度のやうに苦しいのは 初めてだ」 とも云はれた。 しかし 少しもちなほすと、まだ一年間位はもつかしら といふやうな気持も 起されたらしい。 最後の数日に至つては、もう はつきり予感があつた。 今度は死ぬ といふことを しば 云はれた。 真鍋さんの 第一回の往診の時にも、「あの医者は 何といふか、もうどれ程生きるか 聞いて見ろ」 と云はれた。

 五月廿七日頃に、寝床に腰をかけて、久保君に遺言された。 言伝して貰ひたい人々、ドイツへ行つた時 訪ねるべき人々、それから 葬式のこと、 二月の遺言書には、いかなる教会的または世間的 Prunk (華美) もなく と記してあるが、しかし 僧侶を呼ぶ呼ばない については 何事も記してない。 が この時の口頭遺言で 先生は 明白に 僧を呼ばないことを命じ、「お前が僧になつて 聖書中の美しい句を読んでくれ、いろんな事を云つてくる人があるかも知れないけれども、それは強硬にはねつけろ」 と云はれた。  これらのことを遺言して 先生は、「忘れるといけないから 書きとめて置くがいゝ」 と注意された。

 しかし 先生にはまだ強い体力があつた。 起きかへる時などには 驚くほどの力が出た。 久保君は まだ大丈夫と思つてゐた。

 六月に入つてからは、喘息のための呼吸困難が だん ひどくなつた。 また 心臓の痛みの発作の他に 全身の痛みが起つた。 唾が出て苦しくていけない、薬のせいかしら、などと云はれた。 六月七日頃が 最もひどかつた。

 或る朝 先生は 突然 久保君に 「ヴィクトリア女王の最大の功績は 何だ」 ときかれた。 久保君が 妙なことだと思つて 変な顔をしてゐると、「いや 平生は そんなことを考へたこともないのに、昨夜は 一晩中 夢でそのことを考へてゐたのだ」 といふ話であつた。 子供の時分のことが 頻りに頭に浮ぶらしかつた。

 十二日の晩には 元気に冗談を云はれた。 その頃までは 顔色が一向平常と変らなかつたが、十三日には 赤紫色になつて来た。 高熱のやうな状態、呼吸困難。 激しい苦痛のために、大声で Sterben ! Sterben ! (死ぬ、死ぬ) と叫ばれた。 夕方からは 感じが鈍つたのか あまり苦しさを訴へられなかつた。 さうして 十四日の午前四時半に 心臓がとまつた。


 わたくしが 最後にお目にかゝつたのは 八日の午後であつた。 先生は 寝床の上に起きかへつて、胸をかゞめて 苦しさうに息をして居られたが、それにもかゝはらず、重病人とは思へないやうな 温情のあふれた笑顔で 迎へられた。 先生の手は わたくしの手を包むほどに 大きく、また 一向に痩も見えなかつた。 先生の云はれたことが よく聞きとれないでゐると、久保君が 「これからは 皆を du (お前) で呼ぶ」 と 通弁してくれた。 先生は Das ist menschlicher, lieblicher, ······ (その方が 一層人間的だ、一層愛らしい) と云はれた。 左手に手布を持つて 絶えず口をふいて居られた。 何とかせずにはゐられないほど 体は苦しさうに見えたが、顔からは 依然として 静かな温情のある微笑が 消え去らなかつた。 先生は そこへ坐つて煙草をのめ と云はれた。 久保君が 和辻は Sonntagsraucher (日曜日にだけ煙草をのむ人) だ などと 冗談を云つた。 わたくしは 非常に云ひたいことが沢山あるのに それが口に出せない苦痛を感じながら、先生の顔を 見まもつてゐた。 先生は Hüte dich vor Bösen ! Wach und munter ! (悪に気をおつけ。 油断なく。) などと云はれた。 それも 久保君がくり返してくれた。 わたくしは 自分の生活に対するモットーを与へられたやうな気持で、先生と共に 葡萄液をのんだ。

 室を出るときに見た 最後の先生の顔も、また あのにこやかな 優しい顔であつた。




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