らんだむ書籍館


函 (装幀:鍋井克之)
  口絵として、
   「森の会」(明治四十五年三月十日、
         雑司ヶ谷 鬼子母神境内)
  なる 30人ほどの集合写真が掲げられているが、
  不鮮明であるので、割愛する。

目 次

 一 斎藤茂吉と青春期
     その一 「劇と詩」の頃
     その二 「アララギ」の初期の頃
 二 明治末期の青春期
     その一 白秋、勇、薫、杢太郎、光太郎、その他
     その二 異国趣味と江戸趣味
 三 初期のロシヤ文学の翻訳
     その一 二葉亭と魯庵の翻訳
     その二 初期の翻訳劇
 四 初期の純文学書の出版者(一)
     その一 金尾文淵堂
     その二 洛陽堂と東雲堂
 五 初期の純文学書の出版者(二)
     その一 植竹書院と籾山書店とアカギ叢書
     その二 博文館と新潮社と叢文閣
 六 「白樺」と「奇蹟」
     その一 青年時代の武者小路
     その二 「奇蹟」と他流試合
 七 文芸院と芸術院
     その一 「フアウスト」と「ドン・キホオテ」
     その二 岩野泡鳴と与謝野晶子
 八 白秋と茂吉
     その一 新詩社と白秋
     その二 「アララギ」と茂吉
 九 茂吉と晶子
     その一 茂吉、赤彦、白秋、牧水
     その二 「みだれ髪」と青鞜社
 十 情熱家の時代
     その一 草平とダヌンチオとワイルド
     その二 光太郎と智恵子
 十一 上方文学の青春期
     その一 酔茗、泣菫、春雨、梅渓、烏水、夜雨、清白
     その二 「関西文学」と晶子と荷風 付 天佑社
 十二 斎藤茂吉と武者小路実篤
     その一 斎藤茂吉
     その二 武者小路実篤
 巻末記


宇野浩二 「文学的散歩」

 昭和17 (1942) 年11月、 改造社。
 B6版、紙装。 本文 318頁。


 著者・宇野浩二 (本名:格次郎、明治24(1891)年〜昭和36(1961)年) は、小説家。
 大正8(1919)年、『蔵の中』、『苦の世界』の2作品で、文壇に登場した。 庶民生活に寄り添った 風俗小説的な作風で人気を得、晩年には芸術院会員にも選ばれている。 しかし、嗜好が変化した今日、なお読み継がれているような作品は、無いように思われる。

 本書「文学的散歩」は、50歳の時点で執筆された、一種の回顧録である。
 まず、昭和16年から17年にかけて(1941〜42)、改造社発行の雑誌『文芸』に連載され、完結の翌年、単行書として刊行された。
 宇野は この頃、脳の疾病による 長期の不振に喘いでいたようで、自身を鼓舞するために、この執筆を思い立ったらしい。 その意図は、後掲の「巻末記」に記されているが、「その時その時の気もちになつて」 旧時を生き生きと再現しているのが、最大の特徴であろう。 そして、執筆による 復活効果は、充分現われたようである。

 「本文の一部紹介」としては、「三 初期のロシヤ文学の翻訳」 の 「その二 初期の翻訳劇」 と、 「巻末記」 を掲げる。
 目次の各標題は、必ずしも内容を適切に表していないのであるが、「その二 初期の翻訳劇」の場合も、その大半をなしているのは、芸術座を創設した島村抱月と その看板女優であった松井須磨子の話で、この二人の姿が 眼前に浮かぶが如く、鮮やかに描写されている。



本文の一部紹介




その二 初期の翻訳劇



 『復活』の劇といへば、島村抱月が、その主宰する芸術座で、マアテルリンクの、『内部』、『モンテ・ヴァンナ』、ワイルドの『サロメ』、イブセンの『海の夫人』などといふ 純芸術的な脚本を上演したために、少数の知識人向きになり、興業上の失敗から、経済的に困難になつたので、『復活』を脚色して、上演した。 つまり、さういふ訳であつたから、芸術座が、大正三年三月に、帝国劇場で、上演した『復活』は、魯庵の謂はゆる「トルストイズムの集大成」とは全く反対の、大衆向きの甘い芝居であつた。 しかし、そのために、興業としては、大成功であつた。 それは、主人公のマアスロアの歌ふ、相馬御風作歌の、中山晋平作曲の、『カチュウシヤの唄』が 馬鹿馬鹿しいほど持て映やされたのが 大きな原因ではあつたが、芸術座の俳優の第一人者であつた 松井須磨子が、『海の夫人』のエリイダのやうな、いはば、空想的な、高い精神を持つた女より、このマアスロア(や 『闇の力』のアニイシヤ)のやうな、下賤な、現実的な女に扮する方が、その特徴を発揮することが出来たからである。 それに、須磨子は さういふ種類の女の持つてゐる特種な色気を十分に持つてゐた。 それは、次ぎの頁とその次ぎの頁の写真(左下に掲出)を見れば、その形だけでも、分かる筈である。 次頁の写真がマアスロア、その次ぎの頁のがアニイシヤである。 さうして、このマアスロアの写真は、第四幕の、「……ああ、もう昔のカチュウシヤぢやなくなつた! ……」 といふ所である。 さうして、ついでに云ふと、大正四年七月、芸術倶楽部(芸術座の研究所)の小舞台で試演した『闇の力』は、「芸術座の敵も味方も 異口同音に その演出的効果を讃美した」 と云はれるほど、見事な出来ばえであつた。 猶、この時、沢田正二郎のニキイタも成功であつた。 さうして、この時、沢田は、「ニキイタ ―― 下男、色男、二十五歳。」とある、そのニキイタより一つ下の、二十四歳であつた。
 再び 松井須磨子について述べると、須磨子は、多分 これといふ程の教養がなかつたらしいが、芸に熱心であつた事では、恐らく日本の数多の女優の中で 数人のうちの一人であつたらう。 又、須磨子は、いろいろな欠点もあり、決して器用ではなかつたけれど、努力そのもののやうな人であつた。 そのために、先きに述べた得意な役ばかりでなく、不得手な役でも 大抵ある程度まで成功した。 ――
 大正二年の十二月下旬頃であつた。
 その頃、芸術座の稽古は、石切端の近くの、清風亭といふ 貸席を専門にしている家の広間で行はれてゐた。 さうして、私をその稽古場に案内したのは、その頃、芸術座の男優(但し、芸術座では、男優を男子技芸員、女優を女子技芸員と云つた)の、沢田正二郎と同格であつた、倉橋仙太郎である。 その頃、私は、牛込若松町の、戸山学校の近くの、清月館といふ下宿屋に住んでゐた。 倉橋は、その清月館の、私の部屋の筋向かひの部屋に住んでゐたのである。
 清風亭は、黒い塀をめぐらし、ちよつと立派な木の門があり、門をはひると、玄関まで、かなり広い植ゑ込みがあつたので、表から見れば、誰かの邸宅のやうに見えた。 私が、倉橋に案内されて、その清風亭の広間に行つた時、チエホフの『熊』の稽古中で、真先に目に止まつたのは、稽古をしてゐる俳優たちでなく、その監督をしてゐる島村抱月の姿であつた。
 そこにゐる俳優たちは、男女に拘らず、みな粗末ななりをしてゐたが、その中でも、殊に、抱月は、身すぼらしいとさへ思はれるほど、粗末な著物に粗末な袴をつけてゐるので、却つて目についた。 それはその形だけでなく、彼の、監督ぶりが妙に落ち著かなく思はれ、顔つきが 絶えずおどおどしたやうな表情をし、全体の様子に 何か焦慮するやうな観があつたからである。 それは、彼が起こした芸術座が まだ海のものとも山のものとも付かないやうな状態にあつた、といふ有様であつた事だけでなく、もつと何か心の中の 深い煩悶のためのやうにも思はれた。 それは、その頃、抱月がかういふ歌を作つてゐた事も 一つの原因であつたかも知れない。

     或る時は 二十はたちの心 ある時は 四十の心 われ狂ほしく

     ともすれば かたくななりし 我が心 四十二にして 微塵みぢんとなりしか


須磨子のマアスロア (『復活』)
須磨子のアニイシヤ (『闇の力』)
須磨子のマグダ (中沢弘光の絵)
 さて、私が その稽古場にはひつた時、須磨子は、未亡人の役をしてゐたので、第七景の
 「いえ、いえ、ご存じないのです。 あなたは、無教育な、無作法な方です。 礼儀をわきまへた方なら、婦人に対して、そんな物云ひはなさらない筈です。」 と云ふところを稽古してゐた。 が、その台詞が、「深い憂愁に沈んだ」 若い未亡人のやうではなく、野卑な、無教養な、例へば、裏長屋のかみさんが 斯的里ひすてりいを起してゐるやうな云ひ方であつたから、抱月が、例の おどおどしたやうな目つきをして、
 「そ、その云ひ方が……」 と、吃りながら、その台詞を二三度 いひ直させると、その二三度目に、突然、須磨子が、抱月をちらりと尻目で にらみつけたと思ふと、つかつかと 次ぎの間に消えてしまつた。
 私は、それを見ると、また更に、抱月が、人目もかまはず、須磨子の後を追つて、隣室に姿を消したのを見ると、その場にたたまらない気がした。 ――
 その頃、須磨子は 大久保の抜け弁天の裏の横町に住んでゐた。 その頃は、電車はたしか 柳町までしか来てゐなかつたので、銀座などへ出ても、行きはそれ程でもなかつたが、帰りは、冬の夜ふけなど、道が氷るほど寒かつたので、柳町の終点から 若松町の清月館まで歩くのに、実に辛かつたから、その倍以上もある 抜け弁天の裏の家まで帰る須磨子は さぞ辛かつたに違ひない。
 ところが、須磨子は、それどころか、芝居の稽古が始まると、抜け弁天の裏の家から石切橋の清風亭まで、往復、歩いてかよつた。 その上、倹約のために、いつも日和下駄を 穿いてゐた。 そればかりでなく、須磨子は、平生の著物や持ち物は どんなに貧しくても辛抱する代り、舞台の衣装その他は出来るだけ凝りたい、といふ意見を持つてゐたから、道を歩いたり、買ひ物をしたり、してゐる時は、殊に 八百屋や煎餅屋の前に立つてゐると、おさんどんのやうに見える程であつた。
 ある冬の日の寒い朝、(たしか チエホフの『熊』の稽古を見た時分、) 早い下宿の朝飯をすまして、若松町の裏の細い道を散歩してゐると、ちようど道の突き当たりの 少し広い道を、須磨子が 二三人の弟子をつれて、いそぎ足で歩いて行くのを、私は見とめた。
 冬の早朝の、人通りの少ない、かちかちに氷つた道を、粗末な著物をきた須磨子が、それより粗末ななりをした 女工としか見えない 二三人の新前しんまへの女優と前後して、日和下駄を鳴らしながら歩いて行く有様を見て、私は、舞台などでは見られない、舞台とは全く別の、須磨子の半面が窺はれ、通俗的な意味ではあるが、何か健気けなげな観のする須磨子に 一種の敬意と好感を抱いた。 ――
 さて、須磨子の初舞台を、明治四十二年九月、文芸協会の試演場で、『ハムレツト』のオフェリヤに扮した時とすれば、その最後の舞台は、大正八年一月、元の有楽座で、メリメの『カルメン』(楠山正雄脚色)と 中村吉蔵の『肉店』上演中に、その前の年の十一月に 芸術倶楽部で不意に急逝した抱月のあとを追ふ形で、自ら死んだ時であるから、須磨子の舞台生活は、十年ぐらひである。 しかし、その十年程の間に、須磨子が扮した、翻訳劇の役名(と 外題げだい)だけを、思ひ浮かぶままに、上げると、オフェリア(『ハムレツト』)、ノラ(『人形の家』)、マグダ(『故郷』)、貴婦人(『運命の人』)、ケラア(『思ひ出』)、ヴァンナ(『モンナ・ヴァンナ』)、サロメ(『サロメ』)、エリイダ(『海の夫人』)、カチュウシヤ(『復活』)、クレオパトラ(『クレオパトラ』)、姫(『ヂオゲネスの誘惑』)、エレヂナ(『その前夜』)、アンナ(『アンナ・カレエニナ』)、アニイシヤ(『闇の力』)、マアシヤ(『生ける屍』)、イサベラ(『緑の朝』)、カルメン(『カルメン』)、と 数へただけでも、須磨子は十年程の間に 十七人の西洋の女に扮してゐる。 しかも、これは 今から三十年ほど前から二十年ぐらひ前までの事である。 この事だけでも、善かれ悪かれ、(善かれの方が多いのであるから、) 松井須磨子は もつと認められてよいのではないか。
 ところで、右に上げた さまざまな翻訳劇の中で、頭に残つてゐるものは いろいろあるが、ズウデルマンの『故郷』について 少し述べたいことがある。 それは、須磨子が、『人形の家』と『故郷』で 世間的に認められたからといふ訳でなく、『故郷』が 元の有楽座で公演される少し前に、私が 英訳で『故郷』(英訳は『マグダ』といふ題)を読んだばかりであつた上に、この作がズウデルマンの主作の一つである事などは知らなかつたが、主人公のマグダの自由思想と芸術家気質に、二十歳の文学書生であつた私が、心を引かれたからである。 それに、マグダ と 父 シュワルツェ と 牧師のヘフタアディングと、―― この三人三様の人間の世界(あるひは思想)が、結局、折り合はないままに 劇が終るところに、(これは 社会劇の一種の型であるが、)興味を持つたからである。
 ところが、元の有楽座で見た『故郷』は、その肝心の終りのところが、大多数の見物は手を叩いたけれど、私は、何か、物足りない、そぐはない気がした。 しかし 又、満足して 劇場を出たやうな気がする。 それは、土肥春曙のシュワルツェ、松井須磨子のマグダ、佐々木積のヘフタアディング、東儀鉄笛のケルレル、―― と俳優が揃つてゐたからであらう。 さうして、中でも佐々木の牧師が、今でも目に残つてゐるほど、すぐれてゐた。
 ところで、半年ほど前、私は、この時の芝居の台本に使つた、島村抱月の『故郷』を手に入れたが、その本の扉に「島村抱月 訳及補」とあるので、その序文を読むと、その中に、「この劇が提出する思想は 日本の国家道徳の基礎たる 忠孝の教に背くといふ理由」で、興業を禁止する内達があつたので、「結末に 女主人公 悔恨の一節を補足して、禁止を解いて貰ふことにした」と書いてあるので、『訳及補』の意味が分かつた。 それは、原作では、

  マグダ――…… 父は 私が死なせたも同じことです。 ……せめて、残つてゐて、野辺送りがしたいと思ひます。
  牧師 ――…… (簡単に穏かに) お父さんの柩に祈りを上げなさるのを、誰れも止めるものはありますまい。


といふところで終つてゐるのを、マグダが悔恨する場面と言葉を補足して、最後が

  マグダ――…… (良心の呵責に苦しみ) みんな私の罪です、 あなたのお指図に従ひます。
  牧師 ――…… ありがたうございます。 ではご一緒に神の赦しを乞ひませう。そして、中佐のために祈りませう。
  マグダ――…… (無言のまま祈祷する)


となつてゐる。
 なるほど、これならば、禁止どころか、今なら、『文部省推薦』となるかも知れない。 これは、近頃、独逸で映画になつた『故郷』が、銭湯の張り紙広告で見ると、『芸術性と娯楽性』とか、『文部省推薦文芸映画』と 書いてあつたのを 思ひ出したからである。 私は この映画を見てゐないが、『娯楽性』まで付けたのであれば、島村抱月以上の補足(あるいは改作)したのであらうか。 閑話休題。
 ところで、先に述べた 島村抱月の『故郷』の序文の中に かういふ一節がある。

 ……欧州の批評家の伝える所によれば、サラ・ベルナアルのマグダは、最後に舞台の中央に その新世界の威儀を輝かして直立し、以て 暗に新道徳の前途をマグダの勝利に求めるやうな解釈で 演じたといふ。 これに反して、カムベル夫人のマグダは、舞台に泣き崩れて、悔恨の意を表し、マグダの世界に挫折すべきことを ほのめかしたといふ。

 私は、いふまでもなく、サラ・ベルナアルの解釈が正しいと思ひ、作者のズウデルマンも カムベル夫人の解釈を喜ばないであらう。
 そこで、結局、私が、この『故郷』で 得るところがあつたのは、訳補者の序文の中の、この サラ・ベルナアルの解釈の ところだけである。
 猶、この本を出版したは、初めに書いた 二葉亭訳の『うき草』を出版した、金尾文淵堂である。 さうして、八三頁の 須磨子のマグダの写真(左上)は、この本の中に挿まれてゐる、中沢弘光の絵を木版にしたものである。
 金尾文淵堂の主人、金尾種次郎は、中沢弘光や藤島武二に装釘を頼むのが 殊に好きであつたやうに、装釘に 金に糸目をつけぬ性質であつたから、ずつと後の 豪華版とか家蔵版といふやうな本の元祖は この金尾種次郎である。 言ひ換へると、金尾は、数多の文学書を出したが、豪華版でない本は 一冊も出さなかつた。 それで、印刷者や製本者などには 実に迷惑をかけたけれど、著者には決して迷惑をかけなかつた。 印刷者に迷惑をかけた一例は、その頃、築地印刷所の重役をしてゐた、河本亀之助は、金尾に大損をさせられたために、築地印刷所を止め、洛陽堂といふ出版屋になつた。 さうして、その河本が 最初に出版したのは、竹久夢二画集、「白樺」、その他である。
 しかし 又、河本が出版屋になるのに、出版屋としては新前である河本は、出版屋としては古参である金尾に、いろいろな知恵を借りた。 さうして、金尾も、河本のために、進んで、出来るかぎりの奔走をした。 もつとも、これは、金尾の、恩がへしの つもりもあるが、持つて生まれた、道楽でもあつた。




巻末記



 正直にいふと、この文章は、最初に述べたやうに、「現代日本文学の青春期」を、見聞きしたままに、書く、といふやうな、物物しい触れこみをしたが、実は、どういふ事を書いて行くか、少しも見当をつけてゐなかつた。 といふより、見当も、何も、つかなかつたし、つけなかつたし、つけられなかつた。 それで、目次には、一とか、二とか、その一とか、その二とか、なつてゐるけれど、これも、本にするために、有り触れた本の形にするために、作つたものであるから、一を書いてゐる時は二を、それどころか、その一を書いてゐる時もその二を、書く予定など少しもなかつた。 つまり、この文章は、尻取り遊びのやうに、一人が『たか』といへば、他の一人が『かめ』といひ、また他の一人が『めじろ』といひつづけるやうに、書いたのである。
 それで、この文章に 少しでも面白いところがあるとすれば、この尻取り遊びのやうな文章を書きながら、その時その時の気もちになつて、出て来る人物も、現れる文学も、起こつた事件も、われを忘れて、夢中で、書きつづけたからである。 さうして、この文章を書いてゐる間は、書かれてゐる事と同じやうに、まつたく 青春の気もちになつてゐたからである。 さうして、気障きざな言葉を使つたついでに、気障に聞こえる事をいへば、何も分からぬ青春の頃に、かういふ青春期の文学(や芸術)に、めぐり逢つた事を、私は実に仕合はせであつた、と 思ふのである。 さうして、ここに書いた数多の文学が、今、読み返しても、まじり気のない青春の、情熱と美しさを持つてゐることを見出だして、かういふあらゆる種類の文学が、かういふ情熱と美しさをもつて 花咲いた事は、その後、殆ど全くなかつた事を思つて、私は、また、仕合はせであつた、と思ふと共に、寂しい気がするのである。
 しかし、又、好い気になつて云ふと、ここに書かれてあるやうな、さまざまの事を回想して、私が楽しくなつたやうに、この文章を読む人が、ここに書かれてあるやうな、さまざまの事が 嘗て日本の文学界にあつた事を考へて、楽しくなつたら、私もまた楽しいのである。
  昭和十七年五月吉日

宇野浩二     空白




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