らんだむ書籍館 |
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表紙カバー |
目 次
幸田露伴 一 略伝 二 業績 三 選出小説解説 四 参考書 (専書ノミ) 太郎坊 他三篇 露伴先生に関する私記 竹頭を読みて 露伴翁に慶賀の意を表す 露伴翁と語る (対談) 短歌 二十七首 後記 |
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(口絵) 菩薩戒経語 |
本文の一部紹介 |
後 記
私には はにかむ性質があり、偉い人を訪問することなどなかなか出来ませんでしたが、岩波茂雄さんの厚意で、昭和九年のくれに、幸田露伴先生にはじめてお会ひすることが出来ました。 その時は 三人で熱海ホテルに泊り、あそこの大きい湯つぼで岩波さんが泳いだりいたしました。 それから 岩波さんが東京へ去つたあとで、露伴先生と二人きりで二日ばかり過ごしたのでありました。
私は少年の頃から露伴先生のものを読み、ひそかに御慕ひ申しあげてゐたのでしたが、親しく御めにかかる機がありませんでした。 そして医者になつてからは 益さういふ機から遠のいたのでありました。 然るに昭和九年にはじめて御目にかかつてからは、小石川のお宅に御邪魔にあがるやうになり、月に一回、二回、或は三回といふ工合に、先生のまぢかくに坐つて、親しくお話をうかがふことが出来たのでした。 昭和九年は 先生は多分六十八歳であられたとおもふ。 それから間もなく七十歳になられ、八十歳で信濃に疎開せられるまで、毎月缺かさず御邪魔に参上したのでありましたから、実に生涯中の幸福だつたと申さねばなりませぬ。
森鴎外先生にせよ、徳富蘇峰先生にせよ、御慕申上げて居りながら、さう屡 御邪魔に参上出来ませんでしたから、露伴先生の場合は 私にとつての幸福を切実に感ぜざることを得ませぬ。
露伴先生訪問中、私はいろいろなお話をうかがひました。 ただ残念なことには、予備知識がないために、そのまゝ尽く受入れるわけにはまゐりませんでした。 ことに中国文学に関する事柄が さうでありました。 私は帰宅後、参考書を見ながら御話を整理しようとしたこともありましたけれども、それを実行せぬうち、時が経つてしまひ、又 戦争のため疎開したり何かいたしまして、空しくしてしまひました。 実に残念なことでございます。
幸田露伴集 解説
昭和20年秋、私は 山形県南村山郡堀田村金瓶 斎藤十右衛門方に疎開してをりますと、ある夜、東方書局の社員として、佐藤正彰さんが見えられ、露伴先生の小説のうちから短篇十程選んでもらひたい、これは中国の青年層に読ませたいための、現代日本文学選書の一篇であつて、追々は支那訳にもしたい意図である。 それから その解説を五十枚程書いて貰ひたい。 このことは 私を措いて他に頼む人がないから 是非承知して貰ひたい云々 といふことでありました。 私は光栄に存じましたが、何しろ疎開の身で 不如意の生活をして居ますのに、参考書を無くしてゐる、到底実行が出来ないと思つたので、おことわりをした。 然るに佐藤さんは 直ぐそのまゝは帰られない。 今の流行語でいへば、なかなかねばられ、十右衛門の夜食が済んでも帰られない。 私は 佐藤さんは仏蘭西文学者として有名な方であることは存じて居りながら、そのほかのことは何も知らなかつたのですが、佐藤さんは京都の新村出先生の名刺を持参せられた。 さうして話してみると 新村先生の親戚筋にあたつて居られる。 それから 露伴先生に関する参考書は 何でも直ぐ送るとのことであつたので、然らば兎も角さうして貰つてから といふことにし、おそい夜食を差上げて、帰つていただいたのでありました。 佐藤さんは重いルックサックを負うて帰られたが、その夜は多分 上ノ山町に泊られた筈でありました。 それから程経て、山形高等学校の図書館に、露伴全集と、日本文学大辞典のあることが分かつたので、それを恩借し、陸軍々医学校の厚意で、それを金瓶村まで運んでもらつたのでありました。 私は致方がありませぬから、ほかの事を放棄して先生の短篇十を選び、中国の青年向といふことを念頭におきまして、兎も角もこしらへて見ました。 さうしてゐるうちに、昭和二十年が晩れて行きました。 私は 昭和二十年かぎり金瓶を去らねばなりません。 そこで いろいろ心を悩ましたすゑ、北村山郡大石田町の二藤部兵右衛門さん方に移動いたしたのが 昭和二十一年一月三十日でありました。 露伴集の原稿も そのとき持参してまゐりました。 ところが私は 三月から大石田で病み、やうやく七月になつて癒えかかりました。 九月になり、そこで原稿を取りだし、はじめて東京の東方書局宛送ることが出来ました。 それから書物になつたのは、翌年の昭和二十二年で、その夏に露伴先生はお亡くなりなさいました。 発行に至るまで 小林勇さん、土橋利彦さんにいろいろ御世話になりましたことを 深く感謝いたしました。
その解説は、前 申したとほり、疎開中 難儀して出来たものであり、又、外国(特に中国)の青年向の書物だといふので、その意嚮を棄てなかつた点で、取つて置いてもよいやうな気持がいたしますし、今となつては 果敢ない記念になつたとも おもふのであります。 先生の短篇の梗概を書いたのなども、余計な名残のやうな気がいたします。
露伴先生に関する私記
岩波書店発行の雑誌 「文学」 で 幸田露伴特輯号を発行するといふので、先生に関する、漫言を書いたのでありました。 これは 研究などといふ方面を殆ど全く棄て、私が少年の時分から、露伴先生のものを読み、ひそかに私淑して居つた事柄を、ただずるずると書きましたものであります。 私が歌をはじめてからのことでした。 亡友の古泉千樫といふ男が、何でも書物をあつめる習癖がありましたが、露伴物は持つてゐませんでした。 それに 私が努力論だの、修省論だののことを話すものですから、斎藤君の露伴贔屓はおもしろいね、などと云つたものでした。しかし私は 『幸田露伴論』などに筆を染めないうちに、いつのまにか年を取つたのでありました。
彼の靄護精舎雑筆の中にある、菩薩戒経中の語、『汝是當成佛 我是已成佛』は、先生が伊東の松林館に滞在中、私が書いていただいたもので、本書の口絵にいたしました。 これは転載を禁ずるの気持ちでございます。
座談会記事
雑誌 「改造」 の記者のすすめにより、星ケ岡茶寮の座談会に出席した時の速記録であります。 前にも申しました如く、私は はにかみ屋で、座談会などには出席しないのを例として居りましたところ、記者から今夜のは『露伴先生にものを聴く会』だから、私はただ黙つて聴いてゐて下さればよいのでございます、などといはれ、先生にあふのがうれしさに 出席したのでありました。 私は ただ鞠躬如として その夜先生に対したことを いまもおもひ出すことが出来ます。
短歌
露伴先生に関係した短歌が幾つかあるのを 此処に収録いたしました。 露伴先生が御殿場に避暑せられたとき、箱根強羅のホテルに御いでになられ、御馳走になりましたことがございます。 その時 先生が極めて上機嫌で、うたも歌はれましたし、古い謡曲風のものをも聞かせてくださいました。 また 将棋の相手をもして下さいました。 その時、こんな事をも云はれたのでございました。 『こなたに平野があり、平野のむかうに森林が横たはつてゐる。 それから こなたは森林の一帯、その森林をすかせば、むかうに平野が横たはつて居る。 君はどつちを好むか。』 これを短歌にしようとしたが、ものになりませんでした。
其他
私は大石田に居りましたとき、東京新聞から来書があり、露伴先生八十歳賀の文章を書きおくれといひますので、小文を草したのでありましたが、間もなく先生は歿せられ、最上川沿岸の山の春蘭に因んだ歌などは 挽歌のやうなすがたになつてしまひました。
本書を発行するにあたり、幸田文子さん、小林勇さん、土橋利彦さん、松下英麿さんに 多大のお世話になつたことを 感謝いたします。 昭和二十四年五月。 斎藤茂吉
終