らんだむ書籍館


表 紙



目 次


   その時分
   川ぞひの家
   読書の声
   再び東京へ
   憲法発布の日の雪
   明治二十年頃
   新しい文学の急先鋒
   ゾラの小説
   紅葉と露伴
   紅葉山人を訪ふ
   上野の図書館
   川ぞひの路
   私の最初の翻訳
   出発の軍隊 (日露戦争)
   『かくれんぼ』 の作者
   最初の原稿料
   神田の大火事
   九段の公園
   山の手の空気
   卯の花の垣
   その時分の文壇
   当時の大家連
   H書店の応接間
   市区改正
   私たちのグルウプ
   丘の上の家
   KとT
   新しき思想の芽
   紅葉の病死
   丸善の二階
   郊外の一小屋
   陣中の鴎外漁史
   小諸の古城址
   作家短評
   電車以前の東京
   若い人達の群
   上田敏氏
   二階の一間
   私のアンナ・マール
   龍土会
   独歩の死
   眉山の死
   『生』 を書いた時分
   私と旅
   地理の編纂
   机
   プログラム
   『田舎教師』
   イブセン ソサイチイ
   東京の発展
   昔の人
   二葉亭の死
   文学者の交遊
   ある写真
   白鳥氏と秋江氏
   アスハルトの路
   明治天皇の崩御
   四十の峠
   廃寺の半年
   ゴンクウルの 『陥穽』
   ある墓
   飛行機

   解 説      前田晁

   索 引



角川文庫
田山花袋 前田晁・補注 「東京の三十年」


 昭和30 (1955) 年 9月 発行、 角川書店。 本文 314頁。



 明治大正期の作家 ・ 田山花袋 (明治4(1871)〜昭和5(1930)) の回想録。
 大正6年(1917)の初刊以来、多くの刊本があるが、行き届いた注と解説を備えたこの角川文庫本が、最も便利なように思われる。
 文芸誌編集者・翻訳家として花袋と長年にわたる親交があり、その文学をよく理解した前田晁 (まえだ・あきら、明治12(1879)〜昭和36(1961)) が、その注と解説を担当しているからである。
 注においては、まず、花袋がわざと伏せた固有名詞を、ほとんどすべて明確にして、読者の隔靴掻痒感を払拭している。 背景や経緯の説明を加えたり、記憶違いを正したりして、簡潔ながら きわめて有益な注である。
 解説の方は、友人として長く観察してきた花袋像を主体に、本書の成り立ち、花袋における執筆の必然性などが、ごく自然に語られている。 ドーデー (Alphonce Daudet,1840〜1897) の 「パリの三十年」 が 本書執筆のもとになっているとして、それとの関係を詳しく説明しているところが、特に興味深い。 この人でなければ書けぬ事柄であろう。

 「一部紹介」としては、その前田晁の 「解説」 を掲げることとする。




本文の一部紹介

 解 説



 『東京の三十年』 は 大正六年六月、はじめて博文館から刊行された。 著者 田山花袋が 数へ年四十七歳の時で、今から三十七年前である。 その大部分は書きおろしだが、一度、雑誌に載せたものを再録して、適宜に按排あんばいしたのも 少しはある。 花袋の個人的閲歴を中心とした文壇回顧録で、『東京の三十年』 と題したのは、かれがもと地方に生まれて 出京してきたものだからである。

 花袋は 六歳 ── といつても、満では四歳四ケ月だが ── の時に、母に従つて上京、警視庁の巡査をしてゐた父の許にきたが、その翌年、父が西南の役に従軍して、戦死したので、母に連れられて帰郷し、上州舘林たてばやしで小学校の課程を修めた。 そして十一歳 ── 満では九歳三ケ月 ── の時に 再び出京して、丁稚でつち奉公をした。 この書は、この丁稚時代から書きはじめられてゐる。 いふまでもなく、前の時にはあまりにまだ幼くて、なんの記憶もとどめなかつたのであらう。 が、今度は、その観察の鋭く、まんべんなく行きとどいてゐるのと、その記憶のたしかで、生き生きしてゐるのとに驚かされる。 とてもこれが 数へ年十一の少年などとは思ひも及ばないところである。 尤も、そのころの丁稚といふものの務めとして、むやみに方々へ使ひに出されたりしたために、しぜんと同じものが目につき、心に残つたといふこともあつたであらうが、いづれにせよ、これが後年の花袋の、東京に対する知識の根源となつたことだけは、争はれない事実であらう。

 が、この時も、かれは長くは東京にゐなかつた。 一年半ばかりで 丁稚をやめて帰郷した。 そして 十六歳の時に、三度目に上京したが、今度は一家をあげての引越しで、この書に、「再び東京へ」 とある項目が それに当つてゐる。 花袋の志向は、この時には もう相当に深く 文学に傾いてゐたやうである。

      *

 「とうとう書きましたねえ」
 この書ができた時に、わたしは著者にかう言つたことを思ひ出す。
 「うむ。 やつと、一段落ついたやうな気がしたんでね」
と 花袋は答へた。

 『蒲団』 で 当年の読書界に異常な衝動を与えてから、すでに十年の月日が経つてゐた。 『生』 『妻』 『田舎教師』 『縁』 などをはじめ、数十の長短篇で、人生の真を探求、表現してから、一転して、男女間の魂の問題へはいつて行つて、『髪』 『春雨』 『残る花』 『孤独』 『燈影』 などと、さらに数十の長短篇を公けにしたが、大正五年、四十六歳の四月には、まつたく行きかたのちがつた側面的自叙伝ともいふべき 『時は過ぎ行く』 を書いた。 「時」 すなはち自然の無関心を 平淡な描写で見せたものだが、ここまできた時、花袋には、しぜんと十六歳で東京に出てきてからの三十年間の生活が顧みられたのであつたらう。

 三十年といへば 一世代である。 たしかに花袋は 一つの転機に立つてゐた。 そこでしばらく立ち止つて、一息ついた時に、一先づここで区切りをつけようと思つたのであらう。 「一段落ついたやうな気がした」 と言つたのは それであらう。 つぎに一歩を進めた時に発表したのが、明らかに自然主義を逸脱した 『ある僧の奇蹟』 であり、それにつづいてゐるのが 宗教的、哲学的なものだといはれた 『残雪』 であつたのを見ても、この間の消息はわかる気がする。

 「とうとう書きましたねえ」 と、わたしが言つた仔細についても、一言、説明をしておきたい。
 花袋は 早くから泰西の文学をひろく渉猟したが、フランスの近代文学については、まづゾラであり、ドーデーであつた。 フローベエルやゴンクウルの名を知つたのは、ドーデーの 『パリの三十年』 を読んでからであつたと、この 『東京の三十年』 の中に書いてゐる。 このドーデーの追憶記が、どんなに若い花袋を喜ばしたか、どんなに鮮かな印象をかれに与へたか、それは想像以上のものであつたやうである。 明治三十九年の春、花袋を主筆として 『文章世界』 が創刊せられ、その編輯をわたしがすることとなつた時に、花袋は、ある日、愛蔵の 『パリの三十年』 を持つてきて、わたしに示した。 そして 文学青年の熱情は、東西ともに少しもちがはないと 熱心に強調して、この書の一章でも翻訳して、雑誌に載せたらどうだらう と言つた。 わたしは了承して、パリ到着の一章を 『仏国文豪 (ドーデー) の初陣物語』 として 『文章世界』 の何月号かに訳載した。

 そこには 十六歳のドーデーが、文学の道に身を入れようと志して、南フランスの片田舎から、はるばるとパリへのぼつてくる汽車の中にゐる。 もうひえびえと肌寒いころだといふのに、薄つぺらな夏服のままでゐる。 いくらも金がなかつたので、駅ごとに目につくサンドイッチや弁当に、唾は走り、のどはぐびぐび鳴つたけれども、とうとうまる二日間、四十八時間をがまんし通してゐる。
 やつとパリに着いて、兄に迎へられて、ありついた朝飯は 一ぱいのコーヒー、一きれのパン、一皿のオムレツだけであつたが、かれは シャンペンを飲んだよりも もつとよい酔ひごこちになつた と書いてゐる。
 やがて一年以上も経つて、どこかのカフェーかなにかで、世に時めいてゐる文学者や画家を見ると、ドーデーの功名心は ますます燃え立つた。 「見ろ、今に、おれも有名人になつてみせる」 と、大胆にもかれは豪語した。
 やつと小さな一巻の詩集をこしらへあげると、出版業者を歴訪するが、どこへ行つても、番頭が名前を聞いて、それを室内電話で奥へ伝へると、主人は、きまつて不在である。 「あの憎むべき、いまいましい室内電話のおかげで、出版業者は ひとりだつてゐたためしがない」 とドーデーは憤る。
 かういふ不遇な境遇から、十八歳の時に、処女詩集が出版されて、一躍、文壇の人となつた。 どんなにか かれは喜んだ。 「わたしのすべての臆病風は、今や次第に消え失せて行くやうに思はれた。 わたしはオデオン座の廊下を初めて大胆に歩きまはつた」 と、かれは書いてゐる。

 全く同じやうに、少年時代に地方から都へ出てきて、同じやうに奮励、努力しながら、同じやうに不遇をかこちつづけてゐた 若い花袋が、この追憶記に魅了されたのも 不思議ではないであらう。 何もかもそっくりそのまま 自分のことのやうな気がしたのである。 後年、ドーデーの話が出ると、花袋はよく 感激した当時のことを追想して、「今にぼくも 『東京の三十年』 を書くよ。 きつと書くよ。」 と言つてゐた。 とうとう書いた 『東京の三十年』 ── これが その由来である。

      *

 今度、わたしは久々で読み返してみて 非常に驚いた。 今日の東京と、あまりにも甚だしくちがつた東京が そこにあつたからである。 僅かに三十七年の月日であるが、この間には 大正の大震火があり、昭和敗戦の大空爆火があつた。 前の被災は主として下町一帯だけであつたが、後の被災は山の手から、もとの郊外をも含めて、ほとんど全都市にわたつてゐる。 東京は壊滅したのである。 やつとこのごろ復興してきた東京には、もとの地名のないところが少からずある。 区名もちがへば 町名も変つてゐる。 本文の注の上で、できるだけは指摘しておいたつもりであるが、及ばぬところも もちろん少からずあるであらう。

 例へば、花袋は しばしば 「大通り」 といふ言葉をつかつてゐる。 東京市街の幹線道路のことで、昔の東海道を 品川から新橋、京橋、日本橋 と来て、今川橋から万世橋、上野へ行く御成街道へつながつてゐるものだが、今日、「大通り」 では、おそらくは通じまい。 花袋はまた、「東京の発展」 の項で、何もかも全く一変したと、万事万物の推し移つて行く姿に深く感慨を催しながら、でもなほ、「日本橋の奥の方に行くと、今でも江戸の町の空気の残つてゐるところがないでもない」 といつて、「三百年の江戸の繁華の跡を見るやうな気がする」 と昔を懐しんでゐる。 けれども、今はさういふところも、すつかり形を変へてしまつたのではなからうか。 震災にも遭はず、戦火をもかうむらなかつたといふところを、いまの東京のどこかの隅にさがし出すのは、容易なことではないであらうと想像される。

 ところが、ふと気がついてみると、それらの日の東京は、むしろこの 『東京の三十年』 に、最もよくその姿をみせてくれてゐるともいへる。 そこには明治大正時代の東京が、日本の興隆期の三十年の東京が、そのすがたを あらはに描き出されてゐる。 文献といふものはありがたい。 花袋は 自分の文壇における成長を語るとともに、その住んでゐた都市東京の着々と発展して行つた姿を 書いておいてくれたのである。 従つてこの書は、明治大正時代の文壇史であると同時に、日本興隆期の東京文化史であるともいへるのである。

      *

 終りに 「KとT」 について一言しておきたい。
 読者はたぶん、すぐにこの一項が、他の諸項とちがつて、まつたく客観的に書かれたもので、追憶記でないのに気がつかれるであらう。 たしかにさうである。 これは初め、全く独立した一つの短篇として書かれて、雑誌にも載せたものであつたが、それをここに編みこんだのは、「丘の上の家」 で約束した 国木田独歩 (K) と田山花袋 (T) との日光における生活が、そのころの青年文学者の生態を一層よく躍動させることになるであらうと、暫く仮用したのであつた。 だから、後年、最初の全集を編んだ時に、花袋はこれをもとにかへして、独立した短篇として扱ひ、 『東京の三十年』 からは はづしてゐる。 分量からいつても、ほかの諸項にくらべてあまりに均衡を失してゐるのに気づいた といふこともあつたらう。 それだのに、今度これをまた入れたのは、『東京の三十年』 の単行本としての原形を尊重して、初版本のままにしたといふわけである。

                              前 田 晁



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