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表紙



目 次


 序         唐招提寺長老・上田照遍

 法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝 真人元開

 跋         唐招提寺長老・大森覚明

 東征伝付録            北川智海



真人元開 (淡海三船) 「過海大師東征伝」

 明治31 (1898) 年 8月、 唐招提寺。
 (翻刻 兼 発行者 : 北川智海)
 活字印刷、紙装。 縦 22.5 cm、 横 15.5 cm、 本文 44頁。



 奈良時代に 唐から来朝して律宗を伝えた 鑑真 (687~763) の伝記。 全て 漢文で記されている。
 表紙 (右→) の題箋には 上に掲げた書名が表示されているが、本文冒頭の表題は 「法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝」 となっており、本文末尾も 「法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝一巻 宝亀十年歳次己卯撰」 という文でしめくくられているから、これら本文中の書名が、正式なものと考えられる。 しかし、この明治31年刊本での 簡略化には、刊行者・北川智海の 本書を広く普及させるためにした意図が感じられるので、その意図を尊重して これを用いることとしたい。
 真人元開こと淡海三船(おうみのみふね、722~785) の著となっているが、もともと、鑑真に従って来朝した弟子の思託 (737?~805?) に 在唐中からの師の記録 「鑑真和尚東征伝」 三巻 があり (今は亡失) 、三船が この三巻本を整理・簡略化して、「過海大師東征伝」 一巻にまとめあげた、とされる。
 三船は、漢学者、詩人として盛名があり、「懐風藻」 の撰者に擬せられているほか、神武~光仁の歴代 (すべて49代) の天皇の 漢風諡号を撰したとされる人物でもある。 その才気が、伝記全体をこのように凝縮させながら、細心かつ的確な記述を実現させている。
 また三船は、鑑真と生前の面識があり (巻末に 「初めて大和尚に謁す」 という詩二首が付載されている)、思託とも交流があった。 これら同時代人の行動記録を、親近感をもって整理 ・ 執筆したわけで、文が生彩に富むのは当然であろう。

 ここに掲げる唐招提寺刊本は、明治30,31年当時、唐招提寺内の関連施設・牟尼蔵院の住職であった 北川智海 (1864~1946)が、有志者に分かつために、私財を投じて 版行したものである。 唐招提寺の長老たる上田照遍の序、同じく大森覚明の跋は、いずれも その挙を讃え、感謝の意を表わしている。
 これら序跋を含む 各頁には、木版本を思わせるような 外枠が付されている。 その枠の上部には、所々、異本の記述(異文)との相違を示す注記がある。 そもそも この刊本がどのような伝来本に基づいているのかは 説明されていないのであるが、異文が存在する場合に それを示されることは、やはり本文理解の参考になる。 この注記を付したのも、もちろん北川智海であろう。

 「一部紹介」 としては、やや断片的となるが、本文中の、特に重視すべき部分や 生彩ある部分を、訓読文により 掲げることとする。
 (1)(8) の番号と見出しは、筆者が 仮に付したものである。




本文の一部紹介


 (1) 出家まで
 大和尚、いみな(本名)は 鑑真、揚州 江陽県の人なり。 俗姓は 淳于ジュンウ、斉(周代 春秋~戦国期の国)の弁士・コン(淳于髠。BC.4世紀頃の人。『史記・滑稽者列伝』に言行が記されている。) の後(後裔)なり。 其の父、先に揚州 大雲寺の智満禅師に就きて戒を受け、禅門を学ぶ。 大和尚 年十四のとき、父にしたがいて寺に入り、仏像を見て心を感動す。 りて 父に請うて、出家を求む。 父、其の志を奇なりとして、許す。


 (2) 日本の留学僧 (栄叡、普照) の懇請により、日本への渡航を決断
 栄叡、普照、大明寺に至り、大和尚の足下に頂礼チョウライし、つぶさに本意を述べて曰く、「 仏法 東流して日本国に至れり。 其の法 有りといへども、伝法の人 無し。 日本国に昔、聖徳太子 有り、曰く、二百年の後 聖教 日本におこらんと。 今 この運にあたる。 願はくは、和上 東遊しておこしたまへ 」 と。
 大和尚 答て曰く、「 昔 聞く、南岳の思禅師は 遷化の後、生を倭国の王子に託して 仏法を興隆し、衆生を済度すと。 又 聞く、日本国の長屋王は、仏法を崇敬して千の袈裟を造り、此の国の大徳 ・ 衆僧に棄施(寄付)す。 其の袈裟の縁上に 四句を繍着して曰く、〈 山川 イキを異にすれども、風月は天を同じうす。 もろもろ の仏子に寄せて、共に来縁を結ばん 〉 と。 此れを以て思量するに、誠に是れ 仏法興隆に有縁ウエンの国なり。 今 我が同法の衆中に、誰か 遠請に応じて日本国に向ひ、法を伝ふるもの有らんや 」 と。
 時に 衆 黙然として ひとりこたふる者無し。 やや 久しく有りて、僧 ・ 祥彦 進みて曰く、「 彼の国は はなはだ遠く、生命 存し難く、滄海 淼漫ビョウマンとして、百に一たびも至ること無し。 人身は得難く、中国には生じ難し。 進修 未だ備わらず、道果 未だかちえず。 是の故に、衆僧 緘黙カンモクしてこたふる無きのみ 」 と。
 大和尚 曰く、 「 是れ、法事の為なり。 何ぞ 身命を惜しまんや。 諸人 かずんば、我 即ち 去かんのみ 」 と。 祥彦 曰く 「 大和尚 し去かば、彦も亦 随ひて行かん 」 と。 ここに、僧 ・ 道興、道航、神崇、忍霊、明烈、道黙、道因、法蔵、法載、曇静、道翼、幽巌、如海、澄観、徳清、思託 等廿一人、心を同じくし、大和尚に随ひ行かんことを願ふ。


 (3) 第一次渡航計画(唐・天宝2年、西暦743年)の挫折は、随行者間の内輪もめが原因
 僧 ・ 道航 云く、「 今 他国に向かふは 戒法を伝へんが為なり。 人 皆 高徳、行業 粛清なるに、如海等の如きは 少学にして 停却(やめさせる)すべし 」 と。
 時に、如海 大いにいかり、裹頭カトウ(ずきんで頭を包む)して 州に入り、採訪の庁(地方行政の監察官たる採訪使の役所)に上りて、告げて曰く、「 大使 知るや否や、僧 ・ 道航 船を造りて 海に入り、海賊と連なる。 すべて、若干の人 有りて 乾粮(乾燥食糧)を弁じ、既際 ・ 開元 ・ 大明 の寺に在り。 復た、五百の海賊 有りて、城に入り来らんとす 」 と。


 (4) 第四次渡航計画(唐・天宝3年、西暦744年)は、鑑真の古参の弟子 ・ 霊祐などの密告により失敗
 大和尚の弟子 ・ 霊祐 及び 諸寺の三綱(役僧)、衆僧、ともに議して 曰く、「 われらが大師の和尚、日本国に向かわんとの願を発し、山に登り、海をわたりて、数年 艱苦す。 滄溟万里、死生も測ることし。 共に 官に告げて さへぎり、留住せしむ可し 」 と。
 りて、共に 牒(文書)を以て 州県に告ぐ。 ここに於て 江東道の採訪使(唐代の官名で、地方行政の監察官)、牒を諸州に下し、先づ 経る所の諸寺の三綱を追い、獄に身を留めて 推問す。 あとたづねて、禅林寺に至り、大和尚を捉得(逮捕)し、使をつかはして 押送 ・ 防護し、十重に囲繞(大勢で取り囲む)して 採訪使の所に送至(送致)す。
 大和尚の至る所の州県の官人、参迎し、礼拝し、歓喜す。 即ち、禁(拘禁)する所の三綱を 放出 (釈放)す。 採訪使 処分(結論を下す)し、(鑑真については) 旧に依りて本寺に住せしめ、三綱に(鑑真の)防護を約束(言い渡す)して曰く、「 更に他国に向かはしむることなかれ 」 と。
 諸州の道俗、大和尚のかへり至るを聞き、おのおの 四時の供養を弁じ、競ひ来りて慶賀し、逓相(たがひ)に 手を把りて 慰労す。 ひとり 大和尚は、憂愁し、霊祐を呵嘖(きつく叱る)して、開顔(顔色をやわらげる)を賜らず。
 霊祐は、日日に懺謝して、歓喜(喜び打ち解ける、すなわち、機嫌を直すこと)を乞ふ。 毎夜、一更(午後九時頃)より立ちて 五更(午前五時頃)に至るまで 罪を謝し、遂に 六十日を終ふ。 又、諸寺の三綱 ・ 大徳 共に来たりて 礼謝し、歓喜を乞ふ。 大和尚、 すなはち 顔を開くのみ。


 (5) 第五次渡航計画挫折(西暦748年)の三年後、愛弟子 ・ 祥彦が死去
 僧 ・ 祥彦 舟上に端座し、思託師に問ひて 云はく、「 大和尚 睡りて、めしや否や 」 と。 思託 答へて曰く 「 睡りて 未だ起きず 」 と。 彦(祥彦) 曰く 「 今、死別せんと欲す 」 と。 思託 大和尚にはかる。
 大和尚 香をき、曲几(つくえ)ち来り、彦を几にらしめ、西方に向かひて 阿弥陀仏を念ぜしむ。 彦 即ち 一声 仏を唱へて端座し、寂然として 言無し。 大和尚 すなはち 「 彦 」、「 彦 」 と びて、悲慟すること かぎり無し。


 (6) 第六次渡航 ( 遣唐副使・大伴胡麻呂の機転と独断)
 廿三日(唐の天宝12年、西暦753年10月23日)庚寅、大使(遣唐大使・藤原清河)、大和尚 已下(以下)を処分(処遇を決定)して、副使已下の舟に分乗せしむ。 をはりて後、大使已下 共に議して曰く、「 まさに今、広陵郡 又 大和尚の日本国に向かふことを覚知せば、将に舟を捜さんと欲すべし。 若し 捜得(捜索)を被れば、使ひの為に妨げ有り。 又、風に漂はされて 唐界にかへかんには、罪悪(ここでは、法律上の罪)を免れず 」 と。 是にりて、衆僧 舟を下り、留まる。
 十一月十日丁未の夜、大伴の副使(遣唐副使・大伴胡麻呂) ひそかに 大和尚及び衆僧を招き、己が舟にれて、総て知らしめず。
 十三日、普照師 越(明州──今の浙江省──の古名。 普照は そこの阿育王寺に滞在していた)の余姚郡より来りて、吉備副使(遣唐副使・吉備真備)の舟に乗る。 十五日壬子、四舟 同じく発す。


 (7) 授戒
 其の年(天平勝宝6年、西暦754年) 四月の初め、廬舎那殿(大仏殿)の前に戒壇を立て、天皇(実際は、聖武太政天皇) 初めて壇に登り、菩薩戒を受く。 次いで、皇后(実際は、光明皇太后)、皇太子(実際は、孝謙天皇〔女帝〕) 亦た 壇に登り、戒を受く。 いで、沙弥 ・ 證修 等 四百四十余人の為に 戒を授く。 又、もとの大僧 ・ 霊祐、賢璟、志忠、善頂、道縁、平徳、忍基、善謝、行潜、行忍 等 八十余人の僧、旧戒を捨てて、大和尚の授くる所の 戒を受く。


 (8) 示寂
 宝字(天平宝字)七年癸卯(西暦763年)の春、弟子の僧 忍基、夢に 講堂の棟梁(むな木とはり)の摧折(くだけ折れる)するを見、めて 驚懼す。 大和尚の 遷化せんとするの相ならんと。 りて、諸弟子を率ゐて 大和尚の影(すがた)を模す。 是の歳 五月、結跏趺坐し、西にきて 化(遷化)す。 春秋(年齢) 七十六。
 化して後 三日、頂上 猶 あたたかなり。 是に由りて、久しく殯殮ヒンレン(かりもがり)せず。 闍維ジャイ(荼毘、火葬)に至りて、香気 山に満つ。



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