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カバー |
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目 次
補訂版序 一 一筋の路 二 江戸の春 三 芭蕉庵 四 野晒紀行 五 笈の小文 六 奥の細道 七 幻住庵と落柿舎 八 寂・栞と軽み 九 終焉 付録 芭蕉研究書目 一 伝記 二 作品 三 注釈 四 俳論 五 雑 索引 ( 俳句索引、 人名・書名・件名索引 ) |
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本文の一部紹介 |
元禄四年の冬 江戸に帰つた芭蕉は、それから 五年 ・ 六年と 草庵に足を止めて居た。 その間に かの軽みの工夫は 成つたのである。 元禄五年の春には
人 も 見 ぬ 春 や 鏡 の 裏 の 梅
〔注〕 昔の鏡の裏面には 花・鳥などの模様が 鋳つけてある。 鏡の裏の梅とは それを言つたのである。
とよんで、鏡の裏にいつも人から見られることもなく匂つて居る梅に対し、ひとり 清さ、美しさ、気高さ を保つて居るものへの思慕を ひそかに語つた。 それは 俳風の沈滞をなげきながら、自ら孤高の道を歩まうと決意した 芭蕉の心情の現れである。 そして ある時は門を閉ぢて、
朝 顔 や 晝(ひる)は 錠 お ろ す 門 の 垣
とまで言つたが、しかも その九月には はるばる訪ねて来た門人 洒堂を迎へて、一しよに俳諧を催したりした。 やつぱり芭蕉は 風雅の友を全く絶つ事は 出来なかつたのである。 この時の俳諧以下数巻の連句を収めて、『深川集』 が 翌年出版された。 そこには もはや芭蕉の軽みの風が見られ、野坡等の撰になる 『炭俵』 (元禄七年六月刊) ── 後に俳諧七部集の第六集とされた。 ── と共に 『猿蓑』 以後の変風を示すものと言はれて居る。 洒堂を迎へた前後に、彦根の許六もまた芭蕉庵に訪ねて来た。 彼は 主用で 江戸に暫く滞在する事になつて居たのである。 洒堂も 翌年正月までずつと芭蕉の許に寄寓して居た。 かうして芭蕉の身辺は 必ずしも淋しい事もなく、又 軽みの工夫も漸く熟した事であつたらう。
元禄五年も 芭蕉は草庵から遠くに出なかつた。 正月末には洒堂が去り、五月には許六も 木曽路を経て 帰郷の途についた。 かの 「柴門辞」 は 許六を送る為に草した一文である。 そこに 俳諧の伝統精神に対する最も高い自覚が見られる事は、前にすでに述べた。 かうして人々を旅に見送る芭蕉の心にも、またしきりに旅情が動いた事であらう。 彼の旅はもとより 単に山水の景を賞する為ではない。 それは常に 彼の錬成の道場であつた。 軽みの工夫が 成るにつけても成らぬにつけても、旅こそは 彼が真に実践のあとを証し得る場所として 考へられて居た。 だが この年の春、芭蕉が三十年間も苦労にして世話した 桃印といふ甥が死んだ。 当時 恐らく庵に同居して居たのであらう。 門人に送つた芭蕉の手紙に、「此病中 神魂を悩ませ、死後 断腸の思ひ難レ止候て 精情草臥( れ、花の盛り 春の行方も 夢のやうにて暮れ、句も上二申出一候」 と言つて居るのを見ると、芭蕉の悲しみが どんなに深かつたかが知られる。 人にもまして愛情の濃やかな芭蕉の心中が 想ひやられるのである。 その上 芭蕉が若い頃 内縁の妻として居た 寿貞尼といふ女が、この頃 病気で やはり芭蕉庵に起臥して居た。 芭蕉は後に 風雅の一筋に生きようと思ひ定め、為に家庭をも作らず、寿貞尼も内縁のまゝ 正妻として迎へられなくなつたのであるが、尼はその後 他にも嫁しないで 貞節を全うして居たのである。 しかし 晩年病気に罹つて 世話してくれる人もなく、芭蕉もその深い契りを思つて 自分の庵に迎へとり、そこで養生させて居たものと思はれる。 かうした家庭的な事情から、彼は旅に出ることも出来なかつた。 その年の冬には 野坡等と俳諧を催したり、)
金 屏 の 松 の 古 さ よ 冬 ご も り
の一句に篭居の情をのべたりして、元禄六年も暮れた。 この金屏の句に 風雅の寂が題材たる物( にあるのではなく、人間の内部にある心) ( から出る事を はつきり示してくれて居る。)
元禄七年の春も 草庵で迎へた。 そして
蓬 莱 に 聞 か ば や 伊 勢 の 初 便 り
の吟があつた。 床の間に飾つた蓬莱の 古代めいた感じから、遥かに 伊勢大廟の神々しい元朝(元旦)の御有様を思ひやつて、まづこの神国伊勢からの初便りこそ聞きたいものだ と言つたのである。 さうして こゝに彼の旅心が 愈々動いて居る事が見られる。 この頃 幸に寿貞尼の病気も少し快くなつて居たらしい。 この度は 故郷の老兄の見舞をもかね、遠く長崎までも出かけて見ようと思ひ立つた。 さうして遂に 五月の初旬頃 江戸を出発する事になつた。 子珊に招かれて 「別座舗」(べつざしき。子珊が編集した俳諧集) 巻頭の俳諧を催したのは、この出発の前の事である。 人々は 川崎まで見送つて 名残を惜み、芭蕉は
麥 の 穂 を 力 に つ か む 別 哉 ( 陸奥千鳥 (芭蕉の三回忌に門人達が編集・刊行した 俳諧集) )
〔注〕 「有磯海」(越中井波の俳人・浪化が編集した 俳諧集) には この中七 「便りにつかむ」 となつて居る。
と留別の一句を残した。 途中 島田の塚本氏に宿して、
五 月 雨 の 空 吹 き 落 せ 大 井 川
とよんだ。 降りつゞく雨に 大井川は 濁流滔々として逆巻き、空には暗雲が低く垂れて、いつ晴れるかも分らない。 いっそ この五月雨の空を、風で一思ひに 大井川へ吹落してしまつてくれたらいい。 そしたら 雨の根も切れるだらう といつたので、非常に豪壮な感じのする句である。 尾張では 荷兮 ・ 野水 ・ 露川 等の門人たちと会し、廿八日に故郷の伊賀に着いた。 そして 翌月の閏五月十六日まで、親戚旧友たちを 訪ひつ訪はれつして 暮した。 それから 大津 ・ 膳所の門人たちの所へ出かけ、また京都では 去来の落柿舎に 暫く足をとゞめたりした。 その間 嵐山や清滝に遊んで、
六 月( や 峯 に 雲 置 く 嵐 山)
清 滝 や 波 に 散 り こ む 青 松 葉
等の吟があつた。 前者は 盛夏炎天の下の嵐山をよんだのである。 山は 鬱蒼たる緑の色に覆はれ、峯には 入道雲が むくむくと湧き立つて居る。 花や紅葉の優雅な景色とはちがつた、男性的な強烈な感じが味ははれる。 後者は 清滝の名の如く清らかな流に、はらはらと散りこむ 青松葉の清爽味が描かれて居る。 共に 俳諧の新しみを、深く探つて居る作者の苦心に 注意せねばならない。
朝 露 に よ ご れ て 涼 し 瓜 の 泥
といふのも 落柿舎での吟である。 これまた 瓜の泥に 夏の涼味を見出したのは、正しく俳諧の新しみであり、軽みであつた。
落柿舎滞在中に 芭蕉は 江戸からの悲しい便りを 手にせねばならなかつた。 それは 深川の草庵に病を養つて居た 寿貞尼の訃報である。 旅に出て以来 いつも芭蕉の心にかゝつて居たのは、尼の病状であつた。 尼も 小康のまゝに快くなり、自分も 長い旅から無事に帰つて、今一度は互に語り合はうと思つて居たであらうのに、それも 空しい望となつてしまつた。 それから 芭蕉は落柿舎を出て、また湖南の門人を訪ねて 俳諧を催したりしたが、秋が近づくと共に 芭蕉の悲しみは 愈々深かつた事であらう。 七月には 郷里の兄からも便りがあつたので 伊賀に帰つた。 一家の盂蘭盆会( を営む為だつたのである。 芭蕉は、)
家 は み な 杖 に 白 髪 の 墓 参 り
と、兄弟たちも いつかもう白髪になつて 墓参りするやうになつたのを 見るにつけ、一人 亡き父母を思ふことが深かつた。 そしてまた 寿貞尼の為にも、
数 な ら ぬ 身 と な 思 ひ そ 魂 祭( )
と その冥福を祈つた。 尼は 遂に正妻とはならなかつたが、決して数ならぬ身だなどと思はないで、自分の手向を十分受取つてくれよと 呼びかけたのである。 尼に対する 深い愛情が籠つて居る。 その頃 兄の半左衛門は 芭蕉の為に、自宅の裏庭に 無名庵と呼ぶ小庵を 新しく建ててくれたので、芭蕉は そこに人々を招いて 月見をしたり、京都から惟然( を、伊勢から支考) ( を迎へたりして、二ケ月程を 故郷に送つた。 この間に 『炭俵』 についで 俳諧七部集の最後の集とされる 『続猿蓑』 が、支考たちの助力を得て 編纂に着手されて居た。 思ふに 『炭俵』 は 軽みの俳風を代表するものとして、芭蕉には なほ満足し得るものではなかつた。 それで芭蕉は かつて 寂 ・ 栞 の理念を 『猿蓑』 に具現した如く、軽みの理念を この一集によつて 世に示さうと志したのであらう。 それが 今度の旅での 何よりの収穫でなければならぬと思つた。 しかし 上幸にして芭蕉は 集を完成するに至らないで 没したのである。 そして 『続猿蓑』 は むしろ支考一派の宣伝に利用され、芭蕉の志を全うさせる事が 出来なかつたのは、まことに遺憾とすべき事であつた。)
芭蕉は 京都に滞在中 大阪の門人 之道 ・ 洒堂等から招かれて居たので、その約を果たす為 九月八日 伊賀を立つて大阪に向つた。 支考 ・ 惟然等が随行した。 その日は奈良に泊つて、猿沢池の畔で
び い と 啼 く 尻 声 悲 し 夜 の 鹿
と吟じ、翌日 重陽の節に会つて
菊 の 香 や 奈 良 に は 古 き 仏 た ち
とよんだ。 菊の芳ばしい香と 古都に年を経た仏と、高雅と蒼古の情趣が互に映発して 深い余情が味ははれる。 その日 暗峠( を越えて 夕方 大阪に着き、洒堂の許に まづ旅装を解いた。 十三日は 後の月見がてら 住吉の市に詣でたが、この頃から 夕方には悪寒) ( がしたりして、芭蕉の健康は 何となくすぐれなかつた。 さうして芭蕉には早くも 死の予感がひらめいたのではなからうか。 これまで辿つて来た一筋の道を 静かに顧みた時、強く生きぬいた満足の感は あつたであらう。 しかし 今自分が新に唱へた軽みについて、門人たちはなほ 本当に理解して居るとは言へない。 特に 今まで最も望を嘱した 其角や嵐雪は、殆ど この新風に随はうとする熱意を もつてないやうである。 もう自分の死も 近く迫つた気がする。 多くの門人たちに囲まれながらも、孤独の思は ひしひしと感ぜられるのであつた。 「所思」 と題して)
こ の 道 や 行 く 人 な し に 秋 の 暮
とよんだのは、実に この独歩する者の淋しさを 語つたのであらう。 だが芭蕉は その為に安易な妥協などは 決してしなかつた。 彼はかつて 「句は 天下の人に叶ふることは易し。 一人二人に叶ふること難し。 人の為になす事に侍らば なしよからん」 (三冊子(さんぞうし。 芭蕉の弟子・朊部土芳による、師の談話の記録)) と言つたといふ。 彼は その困難な そして淋しい道を あへて歩いて行つたのである。 又 門人荷兮が 芭蕉の意に反して 『曠野後集』 (元禄六年十一月) を撰んだ時、去来はこれを憤つて 師に訴へたが、芭蕉は 「万世に俳風の一道を建立の時に、何ぞ小節胸中に置くべきや」 (元禄七年正月廿九日付、去来宛芭蕉手紙) と諭して、その毅然たる態度を示して居る。 「所思」 の句を吟じながらも、芭蕉の胸中には またこの万世に俳風の一道を建立する 強い精神が宿つて居たのである。
九月の日数も もう残り少くなつて、元禄七年の秋も暮れようとする或日、芭蕉は
こ の 秋 は 何 で 年 よ る 雲 に 鳥
と、その淋しい旅懐を 孤雲と飛鳥とに託した。 支考の 『笈日記』 によると、この句は よんだ日の朝から心に籠めて念じた作で、下の五文字に 非常な苦心をしたといふ。 旅中 老境に入るのを歎ずる情であるが、それを 無心の雲と鳥との寄せたところに、芭蕉の深い風雅の誠がある。 この雲と鳥とは 必ずしも現実のものでなくてもよい。 飄々として流れて行く白雲、飛ぶに倦んで林に帰る鳥、それは じつと老いを観じて居る芭蕉の心に、自分の旅を象徴する姿のやうに 映つて来たのである。 九月廿七日には 門人園女の家に招かれて、
白 菊 の 目 に 立 て て 見 る 塵 も な し
を発句とする 一巻の俳諧が催された。 白菊の清さを 園女の風雅の気品に比したのである。 しかし 単に比喩の句ではない。 一句はやはり 一塵も留めない 白菊の清さを賞したのである。 それが おのづから 園女への挨拶ともなつたのは、芭蕉の芸道における 鍛練の妙である。
九月廿九日の夜から 芭蕉は下痢を催し、十月二日 ・ 三日の頃から 病勢はやゝ募るに至つた。 その頃 彼は之道の家に泊つて居たらしいが、看護や何かに 上便な点もあつたのであらう、十月五日の朝 南の御堂前の 静かな所に病床を移した。 そこは 花屋仁左衛門といふものの 裏座敷であつたといふ。 病床には 支考たちが付添つて居たが、やがて 師の重態を聞いて 去来 ・ 丈草 ・ 乙州 ・ 木節 ・ 正秀 ・ 李由 等の門人が、京都や近江から 馳せ集まつて来た。 これらの人々が 看病に誠を尽くしたさまは、 『笈日記』 に 詳しく記されてある。 八日の夜 深更に及んで、芭蕉は 急に側に居た門人を呼んで 墨を摺らせ、
旅 に 病 ん で 夢 は 枯 野 を か け 廻( る)
の一句を 書きつけさせた。 この句は 別に 「なほかけ廻る夢心」 とも、 「枯野をめぐる夢心」 とも 案じたのであるが、遂に 「夢は枯野をかけ廻る」 に定めたのであるといふ。 重い病の床にありながら、かうして推敲を重ねる吊匠の苦心は、まことに尊く感ぜられるではないか。 芭蕉は みづから 「生死の転変を前に置きながら、発句すべきわざにもあらねど」 と語り、又 「これさへ妄執ながら、風雅の上に死なん身の 道を切に思ふなり」 とも言つて、死に臨んでもなほ絶ち難い 風雅への執着を悔んだ。 けれども この妄執と共に一生を終ることは、むしろ芭蕉の願だつたのである。 翌九日も 落柿舎滞在中によんだ 「大井川 波に塵なし 夏の月」 の句が、園女の許での発句 「白菊の 目に立てて見る 塵もなし」 とまぎらはしいからと言つて、 「清滝や 波に散りこむ 青松葉」 と別句を案じて、大井川の句を それにかへた。 即ち 前に掲げた青松葉の句は、実は病中に案じかへた作なのである。 思へば 芭蕉がこの一筋こそ自分の生くべき道だと思ひ定めて以来、いかばかり身をせめ 情を労した彼の一生であつたらう。 しかも その風雅の上に死ぬ事こそ、彼の本望としたところである。 まことに 旅に病んでもなほ 枯野をかけめぐる夢心は、彼の一筋の道を貫く 高貴な精神の現れであつた。 さうして この枯野の一句が、奇( しくも彼の辞世となつてしまつたのである。 それから四日を経た 十月十二日の夕刻、芭蕉は 門人たちに見まもられながら、静かに永久の眠りについたのであつた。 時に 享年五十一である。 遺骸は 粟津 義仲寺の境内に葬られた。 「芭蕉翁」 と記された さゝやかな碑は、今も昔のまゝに残つて居る。)
終