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人間 創刊号 目次
表紙・扉 デッサン … 須田国太郎 国民文化とヒューマニズム 西谷啓治 デモクラシイの勝利について トオマス・マン 大山定一 訳 自由主義 福原麟太郎 印刷されなかつた原稿 小宮豊隆 杜少陵九日詩釈 吉川幸次郎 二葉亭の未発表書簡 中村光夫 高浜虚子 宇野浩二 ヴァレリイ追憶 辰野隆 三木清氏の思ひ出 佐藤信衛 島木健作の死 高見順 故里村欣三君のこと 今日出海 ロマン・ロランを想ふ 片山敏彦 最近のソビエト文学をめぐつて 袋一平 雑記 菊池寛 三木清の一遺稿 谷川徹三 遠山先生 坪田譲治 谷崎潤一郎氏へ寄する書翰 永井荷風 花木 呉茂一 街道筋・山里 宮城道雄 我が鎌倉文庫の記 久米正雄 ニュートンの卵 大佛次郎 たった一つの単純な事 北原武夫 <創作> 「新」に惹かれて 正宗白鳥 女の手 川端康成 赤蛙(遺稿) 島木健作 吹雪 林芙美子 姥捨 里見ク (歌)宝青庵朝夕 吉井勇 (詩)山裾・氷の歌 室生犀星 (句)こゝに住み 高浜虚子 鎌倉文庫出版だより 編輯後記 カット … 岡鹿之助・三岸節子・高木四郎 |
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全 文 紹 介 |
島木健作の死
高見順
鶴ヶ丘八幡通りの病院に駆けつけた時は 既に昏睡状態に陥ってゐた。 顎一面に黒くのびた鬚、深く落ち窪んだ眼窩、透徹といつた感じの蒼白の顔色、――哲人のデスマスクを思はせた。 十七日の夜である。 あの八月十五日から二日目の……。
私たちは 貸本屋鎌倉文庫の相談で 丁度川端家に集つてゐたのだが、夕食半ばで 島木夫人から川端さんへ電話がかかつてきた。 病院まで、私たちは無言で急いだ。 病室でも無言がつゞいた。 久米さんに 川端さんに 中山義秀さんに 私。 間もなく 腰の曲りかけた島木さんのお母さんが 家の人に扶けられてやつて来た。 島木さんの顔のすぐ傍に顔をやつて 「分るかい、分るかい」 と 小さなお母さんは言つた。 小林秀雄さんが来た。 川上喜久子さんが来た。
「やり直しだ。 仕事のし直しだ。」 島木さんは 終戦と聞いて さう言つたといふ。 同じことを あの時等しく心の中で叫んでゐた私は、ここで島木さんを死なせるのは無慙過ぎると 枕許で唇を噛んだ。 が、もう彼はたすからない。 死ぬのである。 さう成るといふと、なまじ生き残つて 仕事のやり直しだと 醜いあがきを見せねばならぬ者と、無慙は無慙ながら 一本の線を確実に引いてそれを残していま立派に死んで行く彼と、どつちが無慙か、それは分つたものではないのだつた。 線を消したり描いたり、描いたり消したり、さうしてあがき死に死んで行く。 その間十年か二十年、その死にぞこなひの期間を 無慙でないと言へるかどうか。
彼の場合は無慙でないかもしれないけれど、しかし彼は 彼にこの無慙な死を齎した宿命をどうみるか。 悪時代と闘つて倒れたといつていい。 充分に生き抜いた。 怠け者の感傷を彼が笑ふだらうことだけは 私に分るのである。
「僕等は君、いろいろ仕事をしてきてゐる先輩作家などとちがつて、いま仕事をする時なのだから、なんとしてでも書かなくちやならん。 悪時代で書けない、そんなことを言つちやゐられないからね。」 発哺で一月一緒にゐたとき 彼は言つた。 私はその折 モンテーニュを読んでゐた。 サント・ブラヴは モンテーニュについてかう書いている。 「モンテーニュは 騒がしい不穏な時代に生きて居ながら、そして恐怖時代を通過した或る人さへが 歴史を通じて最も悲愴な世紀と呼びなした さう云ふ時代に生きて居ながら、最も忌はしき時代に生れたとは思ひ込むまいと、ちゃんと用心をして居る。」 島木さんは 「用心」の出来るたちでも身分でもなかつた。 しかし モンテーニュと等しく、最も忌はしい時代に生れたと嘆いたり凹たれたりはしなかつた。 彼は断じて書かねばならなかつた。 書くことが 彼にとつて生きることであつた。 その点で 彼ほど (作家とはちよつと違ふタイプと言はれてゐた彼ほど) 実はほんとうの作家らしい生き方をした作家は すくないのである。
刻々に彼は追ひつめられて行つた。 しかし執拗に書いた。 陽の当らぬ忌はしい場所に生えた植物が、おまけに絶えず風雨にいためつけられ、葉をのばすと傍から摘まれながら、なほも芽を出して生きねばならぬ、その生命の約束、その勤勉、そのばか( な そして必死の営み、―― 彼の仕事はそつくりそれだつた。 その彼の作品を、「自由」な後代がどう見、どう言ふか、その文学的価値をどう判断するか知らないが、西欧の作家のやうに亡命や隠遁の出来なかつた日本の一人の作家の最も誠実な魂が 最も忌はしい時代にいかに生き抜いたか、いかに書き抜いたか、」このことだけは生じつかの批判などでは、梃子でも動かぬ重たい堅牢な事柄である。 この事柄の尊さは いかなる議論を以つてしても消し難い底光りを放つものに違ひない。)
彼の作品はもと( がかかつてない、観念の所産だと経験派作家から やゝもすると譏られたが、彼はケチなもと) ( はかけなかつた。 彼は (たとへば私のやうに) 放蕩をしなかつた。 放蕩をもつて作品にもと) ( をかける所以とするのを恥ぢた。 さういふ意味では 成程もと) ( がかかつてない。 しかし、生命をかけた、己れの生涯をかけた、 ―― 私は彼のもはや死につかまれた顔を見ながら 改めてさう考へさせられた。)
小説は所詮 私小説だ、私小説でないものは信用できない と彼はいつも言つてゐた。 彼は あの彼の小説をもつて私小説としてゐたのだ。 彼とは対蹠的な経験派作家とされてゐる私と彼とは、私が私小説に固執してゐることによつて ―― (私の私小説は所謂私小説とは違ふが。 丁度彼の自ら私小説としてゐる小説が所謂私小説とは全く違ふやうに) ―― 話が合つた。 彼は己れをかけて書いたのだ。
人生に書き直しは無い。 それと同じく、彼がよし生きながらへて仕事のし直しをしたとしても、それ迄の作品をそれで否定し得るものではない。 いくら書き直しをしても、一度書かれた作品は 作家の意志とはかかはりなくそれ自身として生き残つて行く。 さう成ると、どうせ書き直しの出来ない人生と作品の、下手に書き直しなどしないで死んで行けることは、さう浅墓に不幸の無慙のと言へたものではないのだつた。
私はつゞいて、新宿で島木さんと初めてゆつくりと語り合つた時のことを思ひ出した。 十年ほど前だ。 人民社から彼の 「第一義の道」 が、そして私の 「故旧忘れ得べき」 が出た時分のことで、彼は里見さんの小説をいま愛読してゐると、熱つぽい語調で言つた。 いいねえ、実にいいねえ、かう言ひ、僕は小説の勉強を君等と違つて今迄余りやらんかつたからねえ とも言つた。 私は秘かに彼の文学的危機を感じたことを 今もつて覚えてゐる。 書き方が変つてきたら、つまり 「うまい小説」 を書かうとしたら危いと思つた。 ところがどうだ、彼は少しも変らなかつた。 彼は彼らしい書き方を彼らしい頑固さで書きつづけ、彼らしい精進で一層自分の手法を深めて行き、里見的描写術に感心した跡などは遂に見せないのだつた。 己れを守り信ずることの強さ、己れを知ることの確かさに私は感心した。 この、彼にとつて危機の無かつたことを、ある人々は、彼の所謂小説らしからぬ小説と結びつけて、所謂小説の分らぬ不感性の故とした。 私は必ずしもさうとは考へなかつた。 女が書けない、さう言はれ 彼の小説は非難された。 彼は書かないのだ。 己れの素質と限界を弁へて、書かうとしなかつたのだから、書けないといふ非難は 彼の作品を刺すことが出来ないのだ。 彼の文学には、思想はあつても小説は無い。 さうも言はれたが、それは彼自身百も承知のことだつたから 痛痒にはならなかつた。 さういふ点、何としても頑固だつた。 狷介で己れを守りとほした。 よし、うまい小説も書いて驚かせてやらうといつた小野心は 彼のものではなかつた。 彼の小説は問題( があるのみで人間が無い。 こんなことも言はれたやうだが、彼はそれに対して、現代小説はあんまり詰まらない答案) ( ばかりが多すぎる、上手な作文をねらふ、そして先生 (文壇) の点をほしがる答案が ―― 、さう思つてゐたに違ひない。 さういふ点で、思想性の貧困な日本文学にとつて島木文学は大切な存在だつた。 「観念的」 な島木文学と 「経験的」 な伝統小説との綜合に 豊かな大文学が望まれるのだつた。 島木さんが死んでも、その根は残るだらう。 が、今後の日本に、大文学といふやうなものが生れ得るものかどうか。 敗戦と共に今度は文化日本だなんどと口走つてゐる国に、碌なものが出てこようとは思へない。)
島木さんの死は安らかだつた。 病室にあつた島木さんの腕時計が九時四十二分を指してゐた。 病院の医者は歯痛で帰宅したとかで、終始姿を見せなかつた。 さういふ仕打は、何もここだけのことではなく、戦時中至るところで嘗めさせられてもう慣れてゐる私たちだつたが、それでも悲しかつた。 夜のうちに島木さんを扇ヶ谷の自宅へ運ばうといふことに成つて、はじめて看護婦が現れた。 中山義秀さんが 「よし」 と歩み出ると、島木さんのもう生きてゐない身体の下に両手を入れて、エイと叫んで抱き上げた。 えらいと言ふと、なに俺は残酷なのさと義秀さんは眼を瞬いた。 なに反対なのだと涙が出た。
防空演習のあの担架の上に島木さんを横たへた。 さうして前を三浦さんといふ島木さんの友人が担ぎ、小林秀雄さんがこれを助けた。 後を義秀さんが持って、久米さんと私とがこれに手を添へた。 川端さんは提灯を持つて先導役に立つた。 かうして島木さんを、彼の仕事場である家へと運ぶのであつた。 月は既に落ちてゐた。 暗い道には人気( が無く、さう遠くない森で梟がホーホーと啼いてゐた。 長くわずらつてゐた島木さんの身体は ごく軽く成つてゐたが、 ―― 重かつた。)
一つの時代の死。 久米さんが、そんな気がすると呟いた。
島木さんの顔にかけた布が担架の揺れでずれて来て、ひよつこりと生々しい顔が現れた。 その顔は私たちを見ないで、暗い空を見てゐた。
* * *
赤 蛙
島木健作
寝つきりに寝つくやうになる少し前に 修善寺へ行つた。 その頃はもうずゐぶん衰弱してゐたのだが、自分ではまだそれほどとは思つてゐなかつた。 少し体を休めれば ぢきに元気を回復するつもりでゐた。 温泉そのものは 消耗性の自分の病気には却つてわるいので、私はたゞ静かな環境にたつたひとりでゐることを欲したのである。 修善寺は前に一晩泊つたことがあるきりで、べつにいゝ所だとも思はなかつたが、ほかに行くつもりだつた所が宿の都合がわるいとと断つて来たので、そこにしたのだつた。
宿についた私は その日のうちにもうすつかり失望して、来たことを後悔しなければならなかつた。 実にひどい部屋に通されたのだ。 それは二階の端に近いところで、一日ぢゆう絶対に陽の射す気づかひはなく、障子を立てると 昼すぎの一番明るい時でも 持つて来た小型本を読むのが苦労だつた。 秋もまだ半ば頃なのだが、山の空気は底冷えがする。 熱も少しあるらしく、冷いやりした風が襟もと首すぢにあたるごとにぞくぞくする。 それに風のかげんで厠臭がひどくて堪へられぬ。 誰でもさうだらうが、私も体が弱るにつれて、それが悪臭なら無論、芳香であつても、すべてのにほひといふにほひには 全く堪へ性がなくなつてしまふのである。 それで私は どうしても障子を立てて、一日その薄暗いなかに閉じこもつてゐなければならなかつた。
私は時々立つて障子を開けて、向ひ側の陽のよくあたる明るい部屋々々を、上から下まで、羨ましさうに眺めやつた。 広い縁側の長椅子の上に長々と横になつてゐる人間たちを眺めやつた。
客はさう混んでゐるとも思へなかつた。 私はいきなり飛び込んだ客ではなくて、予め手紙で問ひ合はしてから来た者でもある。 私は女子を呼んで部屋を代へることを交渉したが、少しも要領を得なかつた。
一人客の滞在客といふ、かういふ宿にとつての、一番の嫌はれもので、私はあつたのだ。 明いてゐるいゝ部屋は幾つあつても、それらは女連れなどで来て遊んで帰る者たちにのためだけに取つてある。 その春 放送局の用事で福島県の農村地方を廻つた時、土地の人にある温泉地へ案内されたが、靴を脱いで上へあがつてから 泊るのは一人だとわかると、いきなりそれなら部屋はないといはれ、箒で掃くやうにして追ひ立てられた時のことを思ひ出した。 軍需成金共が跋扈してゐて、一人静かに書を読まうとか、傷ついた心身を休めようとか、さういふやうなものは問題ではないのだ。 さうかと思ふと 一方にはまた温泉組合の機関雑誌といふものがあり、 「我々温泉業者も新体制に即応し、国民保健の担当者たることを自覚し …… 」 などと書いて、我々の所へも送つて来たりしてゐるのである。
つまらぬことに腹は立てまい。 ちよつとしたことにものぼせるのは自分の欠点だ、怒気ほど心身をやぶるものはない、この頃は特にさう思ひ思ひして来てゐる自分なのだが、怒りがムラムラと発してきてどうにもならなかつた。 この堪へ性のなさも やはり病気が手伝つてゐた。 無理をして余裕をつくり、いろいろ楽しい空想をして来たのにと思ふと、読むために持つて来た本を見てさへ いまいましくてならない。 不機嫌を通り越して 毒念ともいふべきものがのた打つて来た。 食欲は全くなかつた。 時分どきになると、無表情な無愛想な女が黙つてはいつて来て、料理の名をならべた板を黙つて突き出す。 こつちも黙つて、ろくすつぽう見もしないで、そのなかのどれかこれかを、指の頭でおす。
新しい宿を探して見ようといふ気力さへなかつた。 さうかといつて、さつさと引きあげて帰るといふ決断力もなかつた。
自然、飯の時のほかは外に出てゐるといふ日が多くなつた。 範頼の墓があるといふ小山や公園や梅園や、そんな所へ行つて そこの日だまりにしやがんで ぼんやり時を過して帰つてくるのだ。
或る日、私は桂川の流れに沿つて上つて行つた。
かなり歩いてから戻つて来て、疲れたのでどこか小腰を下ろす所と思つてゐると、川をすぐ下に見下す道ばたに 大きな石が横たはつてゐるのを見た。 畳半畳ほどの大きさで しかも上が真( つ平) ( な石である。 私はその上に腰をかけて額の汗をぬぐつた。)
あたりには人影もない明るい秋の午後である。 私は軽い貧血をおこしたやうなぼんやりした気持ちで、無心に川を見下してゐた。 川は両岸から丁度同じ程の距離にあるあたりが、土がむき出して洲になつてゐる。 しかしそれは 長さも幅もそれほど大きなものではない。 流れはすぎまた合して一つになつてゐる。 こつち岸の方が深く、川の中には大きな石が幾つもあつて、小さな淵を作つたり、流れが激して白く泡立つたりしてゐる。 底は見えない。 向う岸に近いところは浅く、川床はすべすべの一枚板のやうな感じの岩で、従つて水は音もなく速く流れてゐる。
ぼんやり見てゐた私はその時、その中洲の上に ふと一つの生き物を発見した。 はじめは土塊だとさへ思はなかつたのだが、のろのろとそれが動きだしたので、気がついたのである。 気をとめて見ると、それは赤蛙だつた。 赤蛙としてもずゐぶん大きな方にちがひないヒキガエルの小ぶりなのぐらひはあつた。 秋の陽に背なかを干してゐたのかも知れない。 しかし背なかは水に濡れてゐるやうで、その赤褐色はかなりあざやかだつた。 それが重さうに尻をあげて、ゆつくりゆつくりと向うの流れの方に歩いて行くのだつた。
赤蛙は洲の岸まで来た。 彼はそこでとまつた。 一休止したと思ふと、彼はざんぶとばかり、その浅いが速い流れのなかに飛びこんだ。
それはいかにもざんぶとばかりといふにふさはしい飛び込み方だつた。 いかにも跳躍力のありさうな長い後肢が、土か空宙かを目にもとまらぬ速さで蹴つて ピンと一直線に張つたと見ると、もう流れのかなり先へ飛び込んでゐた。 さつきのあの尻の重さうな、のろのろとした、ダルな感じからはおよそかけはなれたものであつた。 私は目のさめるやうな気持だつた。 遠道に疲れたその時の貧血的な気分ばかりではなく、この数日来の晴ればれしない気分のなかに、新鮮な風穴が通つたやうな感じだつた。
赤蛙は一生懸命に泳いで行く。 彼は向ふ岸に渡らうとしてゐるのだ。 川幅はさほどでもないのだが、しかし先に言つたやうに流れは速い。 その流れに逆らふやうにして 頭を突つ込んで泳いで行く赤蛙は、まん中頃の水勢の一番強いらしい所まで行くと、見る見る押し流されてしまつた。 流されながらちよつともがくやうな身振りしたかと思ふと、それは一瞬、私の視野から消えてしまつた。 波に呑まれてしまつたのだ。 私ははッと思つて目をこらした。 するとやがてそれは不意に、思ひがけないところに、ぽつかりと浮いて、姿をあらはした。 中洲の一番の端 ―― 中洲が再び水の中に没し去らうとする、その突端に、辛うじて這ひ上つたとでもいふやうな恰好で、取り付いてゐるのだつた。
赤蛙は岸へ上つた。 そこで一休みしてゐた。 私にはその大きな腹が、急いた呼吸に波打つてでもゐるかのやうな気がした。 やがて赤蛙はのたりのたり歩きだした。 そして、元の所へ ―― 私が最初に彼を発見したその場所まで来ると、そこへうづくまつたのである。
何かを期待してぢつと一所を見つめているといふのは長いものだ。 それは長く思はれたが、五分は経たなかつただらう、赤蛙は再び動き出した。 前とおなじやうに流れの方へ向つて。 そして飛び込んだ、これも前と同じに。 一生懸命に泳ぎ、押し流され、水中に姿を没し、中洲の突端に取り付き、這ひ上り、またもとの所へ来てうづくまる、 ―― 何から何までが前の時とおなじ繰り返しだつた。 そして今、不思議な見ものを見るやうな思ひで凝視してゐる私の目の前で、赤蛙は又もや流れへ向つて歩きだしたのである。
私は赤蛙をはじめて見つけた時、その背なかの赤褐色が濡れたやうに光つてゐたことを思ひだした。 して見ると私は初めから見たのではない。 私が見る前に、赤蛙はもう何度この繰り返しをやつてゐたものかわからない。
「馬鹿な奴だな!」 私は笑ひだした。
赤蛙は向ふ岸に渡りたがつてゐる。 しかし赤蛙は そのために何もわざわざ今渡らうとしてゐるその流れをえらぶ必要はないのだ。 下が一枚板のやうな岩になつてゐるために速い流れをなしてゐる所が 全部ではない。 急流のすぐ上に続くところは、澱んだゆつくりした流れになつてゐる。 流れは一時そこで足を止め、深く水を湛へ、次の浅瀬の急流にそなへてでもゐるやうな所なのである。 その小さな淵の上には、柳のかなりな大木が枝さへ垂らしてゐるといふ、赤蛙にとつては誂へ向きの風景なのだ。 なぜあの淵を渡らうとせぬのだらう ?
私がそんなことを考へてゐる間にも、赤蛙は又も失敗して戻つて来た。 私はそろそろ退屈しはじめてゐた。 私は、道路から幾つか石を拾つて来て、中洲を目がけて投げはじめた。 赤蛙を打たうといふ気はなかつた。 私はただ彼を驚かしてやりたかつた。 彼に周囲を見まはすきつかけをつくり、気づかせてやりたかつた。
石は赤蛙の周囲に幾つも落ちた。 速い流れにも落ちた。 淵にも落ちて、どぶんといふ音は、こつちを見よとでもいふかのやうだつた。 赤蛙はびくつとしたやうに頭を上げたり、ちよつと立ち止つたりしたが、しかし結局 予定通り動くことをやめなかつた。 飛び込んで泳ぐこともやめなかつた。
私は石を投げることをやめて、また石の上に腰を下ろした。
秋の日は いつか日がかげりつつあつた。 山や森の陰の所は薄暗くさへなつて来てゐた。 私は冷えが来ぬうちに帰らねばならなかつた。 しかし私は立ち去りかねてゐた。
次第に私は 不思議な思ひにとらはれはじめてゐた。 赤蛙は 何もかにも知つてやつてゐるのだとしか思へない。 そこには執念深くさへもある 意志が働いてゐるのだとしか思へない。 微妙な生活本能をそなへたこの小動物が、どこを渡れば容易であるか。 あの淵がそれであることなどを知らぬわけはない。 赤蛙はある目的をもつて、意志をもつて、敢へて困難に突入してゐるのだとしか思へない。 彼にとつて力に余るものに挑み、戦つてこれを征服しようとしてゐるのだとしか思へない。 私は あの小さな淵の底には、その上を泳ぎ渡る赤蛙を一呑みにするやうな何かが住んでゐるのかも知れない、あるひはまた、あの柳の大木の陰には、上から一呑みにするやうな蛇の類いがひそんでゐるのかも知れない、といふやうなことも考へて見た。 しかしその時の私には そんなことを抜きにして さきのやうに考へることの方が自然だつた。 その方が 自分のその時の気持ちにぴつたりとした。
赤蛙は依然として同じことを繰り返してゐる。 はじめのうちは 「これで六回、これで七回」 などと面白がつて数へてゐた私は、そのうち数へることも止めてしまつた。 川の面の日射しがかげり出す頃からは 赤蛙の行動は何か必死な様相をさへも帯びてきた。 再び取りかかる前の小休止の時間も 段々短くなつて行くやうだつた。 一度はもうちよつとの所で向ふ岸に取りつくかと見えたが やはり流された。 それが精魂を傾け尽くした最後だつたかも知れない。 それからは目に見えて力なく脆く押し流されてしまふやうに見えた。 坂を下る車の調子で 力が尽きて行くやうに見えた。
吹く風も俄に冷たくなつて来たし、私は諦めて立ち上つた。 道風の雨蛙は飛びつくことに成功したが、この赤蛙はだめだらう …… 私は立つて裾のあたりを払つた。 もう一度、最後に、川の面に眼をやつた。
私は思はず眼を見張つた。 ほんのその数瞬の間に 赤蛙は見えなくなつてしまつてゐた。 私はまた中洲の突端に取りついて浮び上る彼の姿を待つてゐたが、今度はいつまでたつても現れなかつた。 遂に成功して向ふ岸にたどりついたのだとは どうしても思へなかつた。 私は未練らしく川のあちらこちらを何度も眺め廻したあとで たうとうそこを立ち去つてしまつた。
しかし川に沿うて下つてまだ五間と行かぬうちに、思ひかけぬところで再び彼に逢つたのである。
今度はすぐ眼の下、こつち岸に近いところだつた。 そこは水も深く大石が幾つもならんでゐて、激して泡立つた流れの余勢が 石と石との間で蕩揺したり渦を作つたりしてゐた。 そして さういふ石陰の深みの一つに落ち込んでゐるのだつた。 かうなつた順序は明らかだつた。 押し流される毎に中洲の突端にすがりついてゐた彼は、もうその力もなくなつて、流されるがまゝになつたのだ。 洲をはさんで一つに合した水の流れは大きく強くなつて、煽るやうな勢でこつち岸へ叩きつけてよこしたのだ。 事態は赤蛙にとつては悲惨なことになつてしまつてゐた。
彼は蕩揺する波に全く翻弄されつつある。 辛うじて浮いてゐるに過ぎぬやうだが、それが彼の必死の姿であることは、彼の浮いてゐる石陰のすぐ近くには渦巻があつて、絶えずそこへ彼を引きずり込まうとしてゐることからもわかるのだつた。 彼に残された活路はたつた一つきりだつた。 石に這ひ上ることである。 だがその石の面たるやほとんど直立してゐて、その上に水垢でてらてらに滑つこくなつてゐるのだ。 長い後肢も水では跳躍力もきかず、無力に伸ばしたりかがめたりするのみだつた。 時時 彼の前肢は石の小さな窪みに取りついたが、すぐにくるつとひつくり返つて紅い斑紋のある黄色な腹を空しくもがいた。
私は何か長い棒のやうなものを差し伸べてやりたかつたが、そんなものはあたりには見あたらなかつた。 今はぢつとその帰趨を見守つてゐるばかりである。
やがて赤蛙は 最後の飛びつきらしいものを石の窪みに向つて試みた。 さうしてくるつとひつくりかへると 黄色い腹を上にしたまま、何の抵抗らしいものも示さずに、むしろ静かに、すーつと消えるやうなおもむきで、渦巻のなかに飲みこまれて行つた。 私は流れに沿うて小走りに走つた。 赤蛙が再び浮くかも知れぬ川面のあたりに眼をこらした。 しかし 彼は今度はもう二度と浮き上つては来なかつた。
私は あたりが急に死んだやうに静かになつたのを感じた。 事実、にはかに薄暗くなつても来てゐた。
私は歩きながら さつきからのことを考へつづけた。 秋の夕べ、不可解な格闘を演じたあげく、精魂尽きて波間に没し去つた赤蛙の運命は、滑稽といふよりは悲劇的なものに思へた。 彼を駆り立ててゐたあの執念の原動力は 一体何であつたのだらう。 それは依然わからない。 わかる筈もない。 しかし私には 本能的な生の衝動以上のものがあるとしか思へなかつた。 活動にはいる前にぢつとうづくまつてゐた姿、急流に無二無三に突つ込んで行つた姿、洲の端につかまつてほつとしてゐた姿 ―― すべてそこには表情があつた。 心理さへあつた。 それらは人間の場合のやうにこつちに伝はつて来た。 明確な目的意志にもとづいて行動してゐるものからでなくては あの感じは来ない。 ましてや、あの波間に没し去つた最後の瞬間に至つては。 そこには 刀折れ、矢尽きた感じがあつた。 力の限り戦つて来、最後に運命に従順なものの姿であつた。 さういふものだけが持つ静けささへあつた。 馬とか犬とか猫とかいふやうな、人間生活のなかにゐる ああいつた動物ではないのだ。 蛙なのだ。 蛙からさへこの感じが来る、といふ事実が私を強く打つた。
動物の生態を研究してゐる学者は 案外簡単な説明を下すかも知れない。 赤蛙の現実の生活的必要といふことから 卑近な説明をするかも知れない。 その説明は種明かしに類するものかも知れない。 そして 力に余る困難に挑むことそれ自体が 赤蛙の目的意志ででもあるかに考へてゐるやうな、私の迂愚を嗤ふであらう。 私はしかし 必ずさうだといふのではない。 動物学者の説明の通りであつてもいい。 だが 蛙の如き小動物からさへああいふ深い感じを受けたといふその事、あの深い感じそのものは、学者のどのやうな説明を以てしても おそらく尽すことは出来ぬのである。
私は 自然界の神秘といふことを深く感じてゐた。 私としては実に久方ぶりのことであつた。 天体の事、宇宙のことを考へ、そこを標準として考へを立てて見る、といふことは 私などにも時たまある。 それは一種の逃避かも知れない。 しかし 自然の神秘を考へる時にもたらされる、厳粛な敬虔なひきしまつた気持、それでゐて何か眼に見えぬ大きな意志も感じて そこに信頼を寄せてゐる感じには、両者に共通なものがあつた。
私は 昼出た時とは全くちがつた気持になつて 宿に帰つた。 臭い暗い寒い部屋も、不親切な人間たちも、今はもう何も苦にはならなかつた。 私はしばらくでも 俗悪な社会と人生とを忘れることができたのである。
私は翌日その地を去つた。 たづさへて来た一冊の書物も読まず、ただあの赤蛙の印象だけを記憶の底にとどめながら。
病気で長く寝つくやうになつてからも、私は夢のなかで赤蛙に逢つた。 私は夢のなかで色を見るといふことはめつたにない人間だ。 しかし 波間に没する瞬間の赤蛙の 黄色い腹と紅の斑紋とは妖しいばかりに鮮明だつた。
終