らんだむ書籍館


カバー  (題簽は 折口信夫)



総 目 次


   記念写真

   開白     (折口信夫)

   後狩詞記

   柳田国男先生年譜

   柳田国男先生著作目録

   あとがき   (大藤時彦)






「後狩詞記」 目次


    序文

    ───

   土地の名目

   狩ことば

   狩の作法

   色々の口伝

    ───

   付録 : 狩之巻


柳田国男先生喜寿記念会・編
「後狩詞記」


 昭和26 (1951) 年10月 発行、 実業之日本社。
 A5版。 本文 131頁。


 本書は、民俗学者 柳田国男 (明治8(1875)年〜昭和37(1919)年) の喜寿を記念して、その最初の著書、すなわち柳田民俗学の出発点となった「後狩詞記」(のちのかりことばのき。明治42(1909)年初版)を、復刻したものである。
 大藤時彦の「あとがき」によれば、「後狩詞記」の初版本は 非売品としてわずか50部が自費印行されたのみで、このときまで再刊されたことのない稀覯書であったという。 かねてから、復刻が望まれていたわけである。
 ただし、単なる復刻ではなく、喜寿という節目に柳田の業績全般を顕彰すべく、写真・年譜・著作目録などが付載されている。 発行の年月に國學院大學で祝賀式典が開かれ、その際 配布されたようである。

 本書全体の構成は、右下に示す「総目次」のとおりで、記念誌の中間に、「後狩詞記」が挿入されている。 挿入部には、初版本表紙の複製とおぼしき、「後狩詞記 日向国奈須の山村に於て今も行はるゝ猪狩の故実」と題した中扉が置かれている。
 その「後狩詞記」は、「序文」、本文、「付録 : 狩之巻」の3部分で構成され、本文はさらに、「土地の名目」、「狩ことば」、「狩の作法」、「色々の口伝」 の4章からなっている。
 まず、「序文」について。 序文は通常、著述の意図・背景・経緯などを述べ、時に内容の概説や結論(主張点)の明確化などにも及ぶこともあるが、本書の場合はさらに進んで、読者に提示する内容の本体あるいは主要部をなしている。 後続の本文(の4つの章)が、語彙や断片的事項の集積から成り立っていて、筋の運びが見えず、筋らしきものは この序文にのみ示されているためである。 これは形式的な違和感であって、「序文」を主体にして読めば、全体が把握できるので問題はなく、むしろ独創的な構成として評価すべきであろうか。
 本文の各章が語彙や断片的事項の集積であるのは、本書が先行文献たる「狩詞記」(「群書類従」所収)の後篇の形をとっているため、この先行書の叙述形式をある程度尊重したためであろう。 「狩詞記」は、弓矢で鹿を射る中世の狩の書で、狩の技術や作法から単なる言葉の説明に至るまで、こまごまとした知識を全て箇条書きで示した書である。 そのひたすらな記述は、狩に対する当時の武士たちの執着と情熱を感じさせる。 柳田のこの後篇は、鉄砲でもっぱら猪を撃つようになった、近世・近代の狩の記述で、項目を体系化して はるかに精緻な記述となっているが、やはり狩に携わる人々の(弓矢の時代から引き継がれてきた)執着や情熱を再現しようとしたように思われる。 少し具体的に紹介すれば、「土地の名目」では 狩の場となる土地の傾斜の具合、岩石、植生などに応じた41の名称について、「狩ことば」では 狩の手順や獲物の状態などに関する31の語について、それぞれその意味が説明されている。 また「狩の作法」では 猟法のほか 分配、解剖、はらい、紛議の解決などについての作法が示されている。 すべて、従来の経験から獲得した知恵というべきものであるが、序文(五)の「自働車 無線電信の文明と併行して、日本国の一地角に規則正しく発生する社会現象である」という確固とした記述に導びかれて読むのでなければ、単なる好事の記事と見做されてしまうかもしれない。
 「付録 : 狩之巻」 は、この書名により椎葉村に伝えられてきた古文書を、柳田が筆写し(巻末に「右一巻日向國西臼杵郡椎葉村之内大字大河内椎葉徳藏所藏之書以傳寫本一本謹寫訖」 という柳田自身の識語がある)、その原文のままを収録したものである。 記載内容に関する柳田の考察結果が、頭注の形で示されており、全部で14個所あるが、最後の個所には「有難さうなる経文なれども 編者も山中の人と共に夢中にて写し置く」とある。 また、後掲「序文」の「十」 におけるこの文書についての説明中に、「左側に  を引いた部分は、少なくも私には意味が分らぬ」 とある、その左側の線の数もかなり多い。 理解されぬまま伝えられてきた文書であるため、村人に問い質しても 主旨や意味が汲み取れなかったのであろう。


 「本文の一部紹介」 としては、上述したように本書の主要部と言うべき「序文」 を掲げることとする。 ( 目次では 「序文」 であるが、本文では 「序」 となっている。)



本文の一部紹介

     


 阿蘇の男爵家(古くからの熊本地方の豪族で、近世には阿蘇神社の大宮司となり、明治時代に男爵を授けられた、阿蘇家。)下野シモノの狩の絵が六幅ある。 近代の模写品で、武具や紋所に若干の誤謬が有るといふことではあるが、私が之を見て心を動かしたのは、其絵の下の方に百姓の老若男女が出て来て見物する所を涅槃像のやうに画いてあるのと、少しは画工の誇張もあらうけれども、獲物の数が実に夥しいものであることゝ、侍雑人迄の行装が如何にも花やかで、勇ましいと云はんよりは 寧面白い 美しいと感ぜられたことゝである。 下野の年々の狩は 当社厳重の神事の一であつた。 遊楽でもなければ 生業では勿論無かつたのである。 従つて 有る限の昔の式例作法は 之を後の世に伝へたことと思はれる。 此が又 世の常の遊楽よりも却つて遙に楽しかつた所以であつて、例としては小さいけれども、今でも村々の祭礼の如き、之を執行ふ氏子の考が真面目であればあるほど、祭の楽しみの愈深いのと同じわけである。 肥後国誌の伝説に依れば、頼朝の富士の巻狩には 阿蘇家の老臣を呼寄せて狩の故実を聴いたとある。 併し 坂東武者には狩が生活の全部であつた。 まだ総角 (あげまき。 昔の子供の髪の結い方で、ふりわけ髪を左右に分けて結んだ) の頃から荒馬に乗つて嶺谷を駆け巡り、六十年七十年を狩で暮す者も多かつたのである。 何も偏土の御家人に問はずとも、立派に巻狩は出来たことであらうから、此説は信用するには及ばぬ。 が 唯此の広漠たる火山の裾野が原も、阿蘇の古武士にとつては 神の恵の楽園であつて、代々の弓取 (武士) が其生活の趣味を悉く狩に傾けて居つたことは明らかである。 処が 其大宮司家も或時代には零落して、初は南郷谷に退き、次には火山の西南の方、矢部ヤベの奥山に世を忍び、更に又 他国の境にまでも漂泊したことがある。 祖神の社頭には 殺生を好まぬ法師ばかりが袖を飜し、霜の宮の神意は知らいでも、阿蘇谷の田の実は最早他国の武家の収穫であつた。 昔 肥前の小城ヲギの山中で腹を切つた大宮司は、阿蘇の煙の見える所に埋めよ と言つたといふことである。 其子孫が 久しく故土に別れて居つたのである。 嘸かし 遙に神山の火を眺めて、産土の神と下野の狩を懐かしがつたことであらう。 然るに 漸くのことで浦島のやうに故郷に帰つて見れば、世は既に今の世に成つて居つた。 谷々の牟田には稲が栄え、草山には馴れたる牛馬が遊んで居て、鹿兎猪狐の類は 遠く古代へ遁れ去つて居つたのである。 昔を写す下野の狩の絵には、隠れたこんな意味合も籠つて居るのである。

 今の田舎の面白く無いのは 狩の楽を紳士に奪はれた為であらう。 中世の京都人は 鷹と犬とで雉子鶉ばかりを捕へて居つた。 田舎侍ばかりが 夫役の百姓を勢子として 大規模の狩を企てた。 言ふ迄も無いが 世の中が丸で今とは異なつて居る。 元来 今日の山田 迫田サコダは 悉く昔の武士が開発したものである。 今でこそ浅まな山里で、昼は遠くから白壁が見え、夜は灯火が見えるけれども、昔は此等の土地は凡て深き林と高き草とに蔽ひ隠されて、道も橋も何も無い、烈しく恐ろしい神と魔との住家であつた。 此中に於て、茲に空閑がある 茲に田代を見出でたと言ふ者は、武人の外に誰が有らうか。 獣を追ふ面白味に誘はれて うかうかと森の奥に入つて来る勇敢な武士でなければ 出来ないことである。  其発見者は 一方には権門大寺に縁故を求めて官符と券文とを申下し、他の一方には新に山口の祭を勤仕して神の心を和らげた。 名字の地と成れば 我が命よりも大事である。 之を守る為には 険阻なる要害を構へ、其麓には堀切土居の用意をする。 要害山の四周は 必ず好き狩場であつた。 大番役に京へ上る度に、むくつけき田舎侍と笑はれても、華奢風流の香も嗅がずに、年の代るを待兼て急いで故郷に帰るのは、全く狩といふ強い楽があつて、所謂山里に住む甲斐があつたからである。 殺生の快楽は 酒色の比では無かつた。 罪も報も何でも無い。 あれほど一世を風靡した仏道の教も、狩人に狩を廃めさせることの極めて困難であつたことは、今昔物語にも著聞集にも 其例証が随分多いのである。

 此の如き世の中も 終に変遷した。 鉄砲は恐ろしいものである。 我国に渡来してから僅に二三十年の間に、諸国に於て数千の小名の領地を覆へし、其半分を殺し 其半分を牢人と百姓とにしてしまふと同時に、狩といふ国民的娯楽を根絶した。 根絶せぬ迄も 之に大制限を加へた。 「狩詞記」(「かりことばのき」と訓読するのであろう)の時代は 狩が茶の湯のやうであつた。 儀式が 狩の殆全部に成りかけて居る。 大騒をして色々の文句を覚え、画に描いた大田道灌のやうな支度で山に行つても、先日の天城山の猟よりも不成績であつたことが 随分有つたらうと思はれる。 併しまだ遠国の深山には、狩詞記などゝいふ秘伝の写本が京都に有るやら無いやらも考へずに、せつせと猪鹿を逐掛けて居る地頭殿が有つた。 併し 鉄砲が世に現はれては是非も無い。 弓矢は大将のの家の芸であるけれども、鉄砲は足軽中間チウゲンに持たすべき武具である。 而も其鉄砲の方が、使ひ馴れては弓よりもよく当り遠くへ届く。 平日は領主の威光で下人の狩を禁ずることも出来るが、出陣の日が次第に多くなつては、留守中の取締は付き兼ねる。 昔は 在陣年を越えて領地へ帰つて見ると、野山の鳥獣は驚くべく殖えて居る。 此が凱旋の一つの快楽であつた。 然るに今は 落人の雑兵が糊口種に有合せの鉄砲を利用して居る。 土民は又 戦敗者の持筒を奪ひ取つて、之を防衛と獣狩の用に供して居る。 怒つて見ても間に合はぬ。 山には早 よほど鹿猿が少くなつた。 そこで 徒然のあまり狩の故実を筆録する老武者もあれば、之を読んで昔を忍ぶ者も段々と多くなつたのである。

 狩詞記 (群書類従巻四百十九) を見ると、狩くらと言ふは鹿狩に限りたることなりとある。 所謂 峯越す物といひ 山に沿ふ物といふ 「物」は鹿である。 全く鹿は狩の主賓であつた。 此には相応の理由のあることで、つまりあらゆる狩の中で鹿狩は最も興が高いといふ次第である。 北原晋氏は鉄砲の上手で、若い頃を久しく南信濃の山の狩に費した人である。 然るに十年余の間に猪を撃つたのは 至つて小さいのを唯一匹だけであつた。 猪は何と言つても豚の一族である。 走るときは随分早いけれども、大雪の中をむぐむぐと行く有様は偃鼠(もぐら)と同じやうである。 之に反して鹿は 走るときはひたと其角を背に押付ける。 遠くから見ても近くでも、丸で二尺まはり程の棒が横に飛ぶやうなものである。 足の立所などは見えるもので無い。 之を横合に待掛けて必ず右か左の三枚を狙ふのである。 射当てた時の歓は つまり所謂技術の快楽である。 満足などゝいふ単純な感情では無い。 昔から鹿狩を先途とするの慣習も 或は此辺の消息であらうか。 乃至は 未知の上代から伝へられた野獣の階級とでもいふものがあるのか。 兎に角に鹿は弱い獣で、人からも山の友からも最も多く捕られて最も早く減じたらしいのである。 奈良や金華山に遊ぶ人たちは、日本は鹿国のやうに思ふだらうけれども、普通の山には今は歌に詠む程も居らぬのである。 此因に思ひ出すのは 北海道のことである。 蝦夷地には明治の代まで 鹿が非常に多かつた。 十勝線の生寅イクトラ (ユク・トラッシュ・ベツ) の停車場を始として、ユクといふ地名は到る処に多い。 然るに 開拓使庁の始頃に、馬鹿なことをしたもので、室蘭付近の地に鹿肉缶詰製造所を設立した。 そしたら一二年の内に 鹿も缶詰所も共に立行かぬことになつた。 北海道の鹿は 鉄砲の痛さを知るや否や 直に其伝説を忘却すべく種族が絶えたのである。

 茲に 仮に 「後狩詞記」 といふ名を以て世に公にせんとする日向の椎葉村の狩の話は、勿論第二期の狩に就ての話である。 言はゞ白銀時代の記録である。 鉄砲といふ平民的飛道具を以て、平民的獣即ち猪を追掛ける話である。 然るに 此書物の価値が其為に些しでも低くなるとは進ぜられぬ仔細は、其中に列記する猪狩の慣習が正に現実に当代に行はれて居ることである。 自動車無線電信の文明と併行して、日本国の一地角に規則正しく発声する社会現象であるからである。 「宮崎県西臼杵郡椎葉村是」 といふ書物の、「農業生産之部第五表禽畜類」 といふ所に、猪肉一万七千六百斤、其価格三千五百二十円とあるのが 立派な証拠である。 毎年平均四五百頭づゝは此村で猪が捕られるので、此実際問題のある為に、古来の慣習は今日尚貴重なる機能を有つて居る。 私は此の一篇の記事を 最確実なるオーソリテイに拠つて立証することが出来る。 何となれば 記事の全部は悉く椎葉村の村長中瀬淳氏から口又は筆に依つて直接に伝へられたものである。 中瀬氏は 椎葉村大字下福良フクラ小字嶽枝尾タケノエダヲの昔の給主である。 中世の名主職を持つて 近世の名主職に従事して居る人である。 此人には確に 狩に対する遺伝的運命的嗜好がある。 私は椎葉の山村を旅行した時に、五夜 中瀬君と同宿して 猪と鹿との話を聴いた。 大字大河内の椎葉徳蔵氏の家に泊つた夜は、近頃此の家に買得した狩の伝書をも共に見た。 東京へ帰つて後 頼んで狩の話を書いて貰つた。 歴史としては最新しく 紀行としては最古めかしい此の一小冊子は、私以外の世の人の為にも、随分風変りの珍書と言つてよからう。

 此序(このついで)に少しく椎葉村の地理を言へば、阿蘇の火山から霧島の火山を見通した間が、九州では最深い山地であるが、中央の山脈は北では東の方 豊後境へ曲り、南では西の方 肥薩の境へ曲つて居るから、空で想像すれば略 S の字に似て居る。 其 S の字の上の隅、阿蘇の外山(外輪山の外側)の緩傾斜は、巽(たつみ。南東)の方へは八里余、国境馬見原マミハラの町に達して居る。 其先には平和なる高山が聳つて、椎葉村は其山のあなた中央山脈の垣の内で、肥後の五箇荘とも嶺を隔てゝ隣である。 肥後の四郡と日向の二郡とが 此村に境を接し、日向を横ぎる四の大川は 共に此村を水上として居る。 村の大さは 壱岐よりは遥に大きく 隠岐よりは少し小さい。 而も村中に三反とつゞいた平地は無く、千余の人家は 大抵山腹を切平げて各其敷地を構へて居る。 大友島津の決戦で名を聞いた耳川の上流は 村の中央を過ぎて居るが、此川も他の三川も共に如法の滝津瀬であつて、舟はおろか筏さへも通らぬ。 阿蘇から行くにも 延岡、細島乃至は肥後の人吉から行くにも、四周の山道は凡て四千尺内外の峠である。

 此の如き山中に在つては、木を伐つても炭を焼いても大なる値を得ることが出来ぬ。 茶は天然の産物であるし、椎蕈には将来の見込があるけれども、主たる生業はやはり焼畑の農業である。 九月に切つて四月に焼くのを秋藪と云ひ、七月に切込むで八月に焼くのを夏藪と云ふ。 焼畑の年貢は平地の砂原よりも低いけれど、二年を過ぐれば土が流れて 稗も蕎麦も生えなくなる。 九州南部では畑の字をコバと訓む。 即ち火田のことで 常畠熟畠の白田と区別するのである。 木場切の為には 山中の険阻に小屋を掛けて、蒔く時と苅る時と、少くも年に二度は此処に数日を暮さねばならぬ。 僅な稗や豆の収穫の為に 立派な大木が白く立枯になつて居る有様は、平地の住民には極めて奇異の感を与える。 以前は機(はた)を織る者が少なかつた。 常に国境の町に出でゝ 古着を買つて着たのである。 牛馬は共に百年此方の輸入である。 米も其前後より作ることを知つたが、唯僅の人々が楽しみに作るばかりで、一村半月の糧にも成り兼るのである。 米は食はぬならそれでもよし、若し些でも村の外の物が欲しければ、其換代は必ず焼畑の産物である。 家に遠い焼畑では 引板や鳴子は用を為さぬ。 分けても猪は焼畑の敵である。 一夜 此者に入込まれては 二反三反の芋畑などはすぐに種迄も尽きてしまふ。 之を防ぐ為には 髪の毛を焦がして串に結付け畑のめぐりに挿すのである。 之をヤエジメと言つて居る。 即ち焼占であつて、昔の標野シメノ、中世荘園の榜示と其起源を同じくするものであらう。 焼畑の土地は今も凡て共有である。 又 茅を折り連ねて垣のやうに畑の周囲に立てること。 之をシヲリと言つて居る。 栞も古語である。 山に居れば 斯くまでに今に遠いものであらうか。 思ふに 古今は直立する一の棒では無くて、山地に向けて之を横に寝かしたやうなのが 我国のさまである。

 椎葉村は 世間では奈須と云ふ方が通用する。 例の肥後国誌などには 常に日州奈須と云つて居る。 村人は 那須与一が平家を五箇の山奥に追詰めて後、子孫を残して去つた処だといふ。 昔の地頭殿の家を始め 千戸の七百は奈須氏であるが、今は凡て那須といふ字に書改めて居る。 併しナスといふのは先住民の残して置いた語で、かゝる山地を言表はすものであらう。 野州の那須の外、たしか備後の山中にも那須といふ地名がある。 椎葉と云ひ福良と云ふも 今は其意味は分らぬけれども、九州其他の諸国に於て似たる地形に与へられたる共通の名称である。 奈須以外の名字には 椎葉である黒木である甲斐である、松岡、尾前、中瀬、右田、山中、田原等である。 就中黒木と甲斐とは 九州南部の名族で、阿蘇家の宿老甲斐氏の本拠も村の北隣なる高千穂庄であつた。 明治になつて在名の禁が解かれてから、村民は各縁故を辿つて、村の名家の名字の何れかを択んだが、其以前には名字を書く家は約三の一で、これだけをサムラヒと称して別の階級としてあつた。 其余は之を鎌サシといふ 刀の代りに鎌を指す身分といふことであらう。 昔の面影は此他にも残つて居る。 家々の内の者即ち下人は 女をメロウといひ 男をばデエカンと云ふ。 デエカン即ち代官である。 近代こそ御代官はよき身分であつたが、其昔は 主人を助ける一切の被管は大小となくすべて、代官であつた。

 次には 猪を撃つ鉄砲のことである。 村に伝へらるゝ写本の記録「椎葉山根元記」に依れば、奈須氏の惣領が延岡の高橋右近大夫(西暦一五八七 ― 一六一三)の幕下に属して居つた時代に、椎葉の地頭へ三百挺の鉄砲が渡された。 此時代は明治十年の戦時(西南戦争)と共に、椎葉の歴史中最悲惨なる乱世であつた。 十三人の地侍は 徒党して地頭の一族を攻殺した。 此時の武器は凡て鉄砲であつた。 元和年中(西暦1615〜1623年。元和元年の大坂夏の陣で徳川家康による天下平定が成った)に平和が恢復して後、此の三百挺は 乙名指図を以て百姓用心の為に夫々相渡したとある。 寛延二年(西暦1749年、九代将軍家重の時代)の書上を見ると、村中の御鉄砲四百三十六挺、一挺に付 銀一匁の運上(税金)を納めて居る。 今日ある鉄砲は 必しも昔の火縄筒では無いやうだ。 其数は寛延度よりも増しているや否や、運上の関係は如何なつて居るかは 凡て知らぬ。 又 如何なる方法で火薬を得て居るかといふことも知らぬ。 併し 鉄砲の上手は 今日も決して少なく無いと考へられる。 それは兎に角、椎葉の家の建て方は頗面白い。 新渡戸博士が家屋の発達に関する御説は、此村に於ては当らぬ点が多い。 山腹を切平げた屋敷は、奥行を十分に取られぬから、家が極めて横に長い。 其後面は悉く壁であつて、前面は凡て二段の通り縁になつて居る。 間の数は普通三つで、必ず中の間が正庁である。 三間ともに表から三分の一の処に中仕切があつて、貴賤の座席を区別して居る。 吾々の語で言へば 入側イリカハである。 正庁の真中には奥へ長い炉があつて、客を引く作法は甚しくアイヌの小屋に似てをる。 即ち突当りの中央に壁に沿ふて、床の間のやうな所があつて、武具其他重要なる家財が飾つてある。 其前面の炉の側が家主の席であつて 之を横坐といふ。 宇治拾遺の瘤取の話にも横坐の鬼とあるのは 主の鬼即ち鬼の頭のことであらう。 横座から見て右は客坐と云ひ、左は家の者が出て客を款待モテナす坐である。




遠来の客は 多くの家の客坐に於て款待せられた。 縁の外は僅の庭で 其前面は全く打開けて居る。 開けて居ると言つても 狭い谿を隔てゝ対岸は凡て重なる山である。 客坐の客は 少し俯けば其の山々の頂を見ることが出来る。 何年前の大雪にあの山で猪を捕つた。 あの谷川の川上で鹿に逢つた といふやうな話は、皆親しく其あたりを指さして語ることが出来るのである。 之に付けて一つの閑話を想出すのは、武蔵の玉川の上流 棚沢の奥で字峯といふ所に、峯の大尽 本名を福島文長といふ狩の好きな人が居る。 十年前の夏 此家に行つて二晩とまり、羚羊(かもしか)の角でこしらへたパイプを貰つたことがある。 東京から十六里の山奥でありながら、羽田の沖の帆が見える。 朝日は下から差して 早朝は先づ神棚の天井を照す家であつた。 此家の縁に腰を掛けて 狩の話を聴いた。 小丹波川の源頭の二丈ばかりの滝が家の左に見えた。 あの滝の上の巌には大きな穴がある。 其穴の口で此の熊(今は敷皮となつて居る)を撃つたときに、手袋の上から二所爪を立てられて 此傷を受けた。 此犬は血だらけになつて死ぬかと思つたと言つて、主人が犬の毛を分けて見せたれば、彼の背には縦横に長い瘢痕があつた。 あの犬にも十年逢はぬ。 此の親切な椎葉の地侍たちにも段々疎遠になることであらう。 懐かしいことだ。

 椎葉山の狩の話を出版するに付ては、私は些も躊躇をしなかつた。 此の慣習と作法とは 山中のおほやけである。 平地人が注意を払はぬのと交通の少ない為に 世に知られぬだけで、我々は此智識を種に平和なる山民に害を加へさへせずば、発表しても少しも構はぬのである。 之に反して「狩之巻」一巻は伝書である。 秘事である。 百年の前までは 天草下島の切支丹の如く、暗夜に子孫の耳へ私語(ささや)いて伝へたものである。 若し此秘書の大部分が既に遵由の力を現世に失つて、椎葉人の所謂 片病木カタヤマギ(本文「土地の名目」に、「大木の半面が腐朽せるまゝ生存し居るを云ふ」と説明されている)の如くであることを想像せぬならば、私はとても山神の威武を犯してかゝる大胆な決断を敢てせぬ筈である。 併し畏るゝには及ばぬ。 狩の巻は最早 歴史になつて居る。 其証拠には 此文書には判読の出来ぬ箇所が沢山ある。 左側に   を引いた部分は、少なくも私には意味が分らぬ。 それのみならず 実の所 私はまだ山の神とは如何なる神であるかを知らないのである。 誰か読(ママ)の中に之をよく説明して下さる人は無いか。 道の教は知るのが始であると聞く。 もし十分に山の神の貴さを会得したならば、或は大に悔いて狩之巻を取除くことがあるかも知れぬ。 其折には又 狩言葉の記事の方には能ふ限 多くの追加をして見たいと思ふ。

     明治四十二年二月一日     東京の市谷に於て
                       柳 田 国 男




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