らんだむ書籍館


表紙

(口絵写真) 理学博士・石原 純 氏



目 次


 第一章 「一尺差は一尺だ」と我々は考へる
   難しい学説  物体は何う落ちる  自然の姿
   時は何の流れ  二つの現在の相違
   場所で違ふ時刻  合図が進む早さ
   大変な問題  一尺差は一尺か


 第二章 「動く」と物質の長さが収縮する
   根本問題に就て  マイケルソンの実験の結果
   ローレンツの新発見  仮定と実験の結果
   不思議な考へ方  過去と未来との転倒
   光より速いものはない  因果関係のない現象
   棒の形も見る人によつて変る


 第三章 惰性と引力は同じものだ
   運動の相対性 四次元の世界 球を抛げて試験
   ニュートンの惰性  地球の運動は太陽を標準
   昇降機の例  遠心力と万有引力  惰性と引力


 第四章 宇宙は有限にして無限だ
   月が落ちる  天体は円い軌道を歩くか
   二点間の最短距離  空間の歪み 水星の軌道
   光線の屈曲  日蝕の観測  宇宙の無限
   宇宙の有限  アインシユタインの偉大



文化大学叢書
石原純・講述
アインシユタイン博士 相対性原理」


 大正12 (1923) 年1月 76版、 大阪毎日新聞社。
 (初版は、大正11年10月)
 B6版、本文 84頁。


 理論物理学者のアインシュタイン (Albert Einstein, 1879〜1955)は、大正11(1922)年11月に 日本を訪れた。
 この日本訪問は、改造社社長・山本実彦(1885〜1952)の招請によるもので、そのしたたかな事業戦略に乗せられたものであったと言えるが、日本への航海中にノーベル賞授賞が決定、それが報じられていたこともあり、到着した11月17日の神戸港は 歓迎の人波であふれかえっていたという。
 この大歓迎は、各方面で種々の前宣伝がなされていたことにもよる。 本書の刊行も、その前宣伝の一つであるか、またはそれに便乗したものかの、いずれかであろう。
 奥付によれば、本書の初版の発行日は大正11年10月22日で、アインシュタイン到着の20日ほど前のことになる。 そしてここに掲げた書は12年1月25日発行の76版なのであるから、3ヶ月間に驚くべき増刷を重ねたことになる。 また本書の冒頭には、「理学博士 石原純氏講述」に続けて「大阪毎日新聞社楼上に於ける文化大学講座にて」との説明があるので、おそらく数ヶ月以上前からアインシュタイン・ブームの火が点けられていたのであろう。

 石原純(1881〜1947)は、一高を経て東京帝大理学部を卒業、欧州留学の後、東北帝大理学部教授に就任した、典型的なエリート知識人であり、また アララギ派歌人としても活躍していた。 ところが同派の女流歌人・原阿佐緒(はら・あさお)と恋に落ち、妻子があったにもかかわらず この女性と同棲するに及んで、大きなスキャンダルとなり、大学教授辞任に追い込まれた。(本書の講述者の肩書きとして 単に「理学博士」としか表示されていないのは、このためである。) 幸い石原は、岩波書店主・岩波茂雄の支援により同社発行の雑誌「科学」の編輯主任となり、科学ジャーナリストとして再出発した。 これら教授辞任、編輯主任就任はアインシュタイン来日の前年、すなわち大正10年(1921年)のことであった。 したがって、来日前からの紹介や準備、来日後 これに随行しての各種支援、通訳、案内などは、再出発の仕事として好適であったわけである。

 このように本書は、アインシュタイン訪日を前にした段階での講述になるもので、これから迎え入れる人物の業績を的確に知らしめんとして刊行された書である。
 講演筆記であるため、冗長な話し言葉がそのまま残っており、講述者の校閲を経ていると考えられるものの、厳密さを欠いているような印象を受ける。
 しかし、難解で高度な理論をわかりやすく解説するために、石原は 相当な努力を払っている。 それは、数式を一切使わず、記号すらほとんど用いず、言葉だけで説明していることである。 (記号としては、二つの点(地点)を表すのに、A,B(B’)を用いているのみ。) このことを実現するには、当然ながら 原理論・学説の完全な理解と言葉のセンス・表現力が必要なのであるから、当時にあっては、石原以外になし得る人は存在しなかったのではなかろうか。
 アインシュタインの理論が言葉だけで説明されていること、これが本書の大きな特徴であろう。

 「本文の一部紹介」 としては、四章からなる本書の「第一章」 を掲げることとする。



本文の一部紹介

     第一章
   「一尺差は一尺だ」と我々は考へる

   でも「物差の長さはさう容易には分らぬ」とアインシユタイン博士はいふ。 その分らぬ理由。

1 難しい学説
 アインシユタインの原理は頗る困難な問題でありますから それを私の言葉でお判りになるやうに御話する事ができるか出来ないか分りませんが、この点は予め御了解を願つておきます。 それは恐らく判らない方が本当であつて、どの位判らないものであるかといふことが判ればそれでよいのであります。 さういふ程度のお話しかできません。 殊に限られた時間内では委細をつくすことができないのは残念に思ひますが、先づ已むを得ないと思ふのであります。
 このアインシユタインの原理は 一般的な科学の理論であつて 総ての問題の基礎になるものであります。 一体 科学の効果といふものは 今までは物質的な利便を得る上で我々の頭の中にしみ込み、或は工業 或はその他の我々の日常生活に 著しく現れてゐる。 しかし 科学の我々与ふるところは まだそれ以上のものがある。 自然の世界のもつと深いものに我々を触れしめるといふことにある。 つまり 我々の見る世界の中の真実といふものを 我々の頭に示すものであるといつてよろしい。 さういふものを求めるには どうしても独断的な考へをもつて接してをつてはいけない。 それでは 深い処に立入ることができない。

2 物体はどう落ちる?
 昔 ギリシヤ或は東洋哲学においては 独断的或は哲学的言葉で云へば先験的な考へが自分の中で作られ、それを根本として総てのものを見てゐる。 謂はゆる色眼鏡で見てゐるから それで見得る範囲しか見えない。 さういふものでは 本当の世界、真実の形は見ることができないことを知らねばならぬ。 もつと我々は実際の事実に接して その中に起る種々な関係を詳しく見なければならぬ。 今日の科学のできる以前の 例へばギリシヤ時代の見方といふものは 運動といふことを考へるにしても 種々の形の中で一番簡単な一番完全な形は円い形であるといふ考へを頭の中に先に入れておいて 物事を見るから、それで物体が動くといふと、それは円形に動かねばならぬといふやうな議論をやつてゐる。 今から見れば そんな事をどうして考へたかと思はれるやうである。 或は 物が高い所から落ちるのを見れば、それは何故に落ちるかといふ事を説明するために、物体は自然になるべく下の方に行かうといふ性質をもつてゐるといふことを頭に仮定して、それで解釈をしやうといふ遣方をやつてゐる。 物体の性質といふものを我々が如何にも見透したやうな積りでいつてゐるが それは然しどれ丈の真実を我々に与えるか さういふ見方では決して科学的効果を我々に齎さない。
 つまり現在の科学の発達してゆくのは 例へば今いつた物体の落ちるのは何故墜ちるかといふ問を発する代りに、その物体の落ちるのは如何に落ちるか、どういふ風に落ちて行くか。 その物体の落ち方を詳しく実験して見る。 そして その落ち方の関係の中に 本当の深い真実の法則が見出される。 かういふ事が大切である。

3 自然の姿
 だから今日は 物質は何であるか 電気は何物であるか といふやうな問は 我々の自然科学 即ち物理化学などの中に存在しない。 さういふ事を聞く代りに 電気なり物質なりのお互同士の関係がどういふ風になつてゐるかといふ事を見さへすれば 我々に物質の法則が分つて来る。 その元は何であるかといくら聞いたつて それは遽に我々は答へられない。 総ての関係が先づ解つた上で 初めて全体が何物であるかゞ了解される。 初めから電気は何であるか、引力は何故であるかそれを問題にしても それは急に解らない。若しそれを示し得るとすれば、そは単に他の言葉で言ひ換へただけで どこまで行つても正体はつかみ得ていない。
 だから 何故にさういふ事が起るといふよりも、それが如何に起つてゐるかを先づ研究する。 その中に自然の法則が明かに現れて来れば、それが我々の問ふ自然の姿である。
 とも角も かういふ考へ方から 新しい発見が出て来る。
 相対説の問題とするのは何であるかといふと、我々の最も根本的に考へてゐる時間と空間の問題であるが、これらに対しても 矢張り我々は昔から独断的な考へをもつてゐた。 そして さういふ考へ方で無論間違ひはないと信じてゐたのだが、その時間と空間との観念をはつきりと得るためには 矢張り種々の現象を見て、その間の関係をきはめて後に始めて判るものであることが分つて来たのである。

4 時は何の流れ?
 さういふ事を分らしたのは 第一にアインシユタインである。 この点において アインシユタインは非常な偉大さをもつてゐるといつてよい。 氏以前において さういふ事は少しも語られてゐなかつた。 我々の考へてゐた時間の考へ方が 間違つてゐるとは思はなかつた。 又 時間といふものがさういふ深い意味をもつてゐるとは思はなかつた。 時間といふものに対しては 甚だ独断的といはうか 普通に従来考へられる安易的な考へしかもつてゐなかつた。
 時間が経過したといふ事は 誰でも自然に意識してゐる事柄であるが、然し 時間とは何であるかといふと 到底分らない。 それを聞いても それに対する答へは誰も満足に与へる事は出来ない。 哲学的ないひ方でそれに多少解釈はつくが、それでも尚 瞭(はつき)りしたところの数量的な考へを その中に含める事は出来ない。 それで 時間がどの位たつといふやうな事を 我々がどんな根拠をもつて考へてゐるかといふ問題になると、その問題の根拠になるところの点は 頗る曖昧なことになつてゐる。 御承知のやうに ニユートンなどの言葉をかりていつても、時間といふのは 「たゞ一様に流れるものである」と、左様な言葉でしか言ひ表す事が出来ない。 一様に流れるといつても 何が流れるのか甚だ曖昧で矢張り分らない。 それで さういふ様な点に対して 瞭した事柄を見出さうとするには どうしてもたゞ時間が何物であるかといふことを聞いてみたのみでは分らない。 つまり 時間の経過に従つて 種々様々の現象が宇宙の中に起る。 さういふ現象を観察して それらの現象と時間との関係をもとめる。 その中に時間の性質が自ら現れて来る といふ事より仕方ない。 そしてそこに 時間の性質について新しい発見が生れて来る。

5 二つの現在の相異
 時間のみならず 空間もやはりそうである。 然らばアインシユタインは我々に対して 時間空間といふ観念についてどんな考へ方を教へたか といふ事をお話しませう。 それは 昔から我々の考へてゐる処によれば 時間と空間といふものはお互に独立なものであると思つてゐた。 独立といふ意味を今少しく説明するとかうなる。 つまり 一つの場所を考へる。 そこで 時間の経過によつて 今は何時である。 次に何時になつた。 といふ様な時間をしるして行く。 それから今度は 離れた遠い場所でまた その場所の時間といふものを考へて見る。 従来我々の考へに従へば、何月何日の何時何分何秒といふ様な事は こゝで考へてゐたのとあそこで考へてゐたのとは同じ事であると、さう信じてゐたのである。 所謂現在といふものは 今自分の考へた現在と、人の考へた現在といふものが 少しも異(ちが)はない。 同じ現在といふものが 宇宙に拡がつて存在をしてゐるといふ事を 誰しも考へてゐたのである。 さういふ事を昔は先験的に信じてをつて、これを疑ふものはアインシユタイン以前にはなかつたのである。 処が決してさうではないと アインシユタインは教へる。 現在といふものは 自分の考へてゐる現在と遠い所の人の考へる現在とは 必ずしも同じものではないといふ。 それだけの事をお話しすると、何故そんな事が言へるかと問はれるかも知れぬが、そこをもう一歩深く考へて見れば なる程と了解がつく。 現在といふものは 単に我々の意識として ぼんやりと考へてゐるだけではいけない。 その時刻をきめる手段から 考へて行かねばならぬ。 何時何分何秒といふ事は 無論 時計をもつてきめる。 また別の場所でも 何時何分といふ事を其処の時計できめる。 それで 此方の時計と向ふの時計とを 完全に合はして置かねばならぬ。 それでないと 今此処の現在とあちらの現在は 果して同一のものであるかどうか分らぬ。 完全に判断するためには 時間をきめる方法 即ち時計を合はせる方法が必要である。 然らば 時計を合はせるにはどんな方法があるかといふ問題が起つて来る。

6 場所で異ふ時刻
 我々が時計を合はせるにはどこかの正しい時計に 自分の時計を合して帰ればよいが 遠方であるとなかなか其処まで行つて合せる事はできない。 いくら遠方でも地球の上なら多少の困難は忍び得るとしても 地球の上ではなくして太陽の上であつたりすると 我々は合はせに行く事ができない。 合はせに行く事ができるかできぬかといふ事は実際上の問題であるが、それを暫らく措いて、それがどんなにしてか合はせに行けると仮定しても 其処に未だ困難がある。 それは 合はせに行つて往復している間に 自分の持つてゐる時計が変化するといふ事はないかどうかである。 詳しく言へば、総ての場所において同時というやうな事が絶対に成立するものなれば、今いふ様に 合せに行くといふ方法で正確な時を知る事が訳であるけれども、然し 万一さういふ事がなり立たなかつた場合にはどうなるか。 即ち 一つの場所に行つて合せた時計の時刻は 自分の処の場所の時刻ではない。 だから 自分の場所で定めなければ本当でない。 時間が場所にかゝはりはないといふのは仮定である。 場所に関係があるかも知れない。 あつたら 今の方法によつてできないといふことになる。 そこで さういふ方法でなしに 他の方法を考へなければならぬ。

7 合図が進む早さ
 それについては も一つ我々が時間を合せるのに実際知つてゐる方法がある。 御承知の通り 或る標準の時計の在る場所で 正午になるとドンを鳴らす。 すると 自分の場所から離れずに その大砲の音を聞くだけで 発砲の場所に行かないでも 時計を合せることができる。 然しながら 自分の場所を離れずに時間を正確に合せやうとするなら、そのドンを発した所の場所から自分の場所に合図が来るまでに どれだけの時間を経過してゐるかといふことを予め知つてゐなければ 合せることができない。 例へば 十二時にドンを鳴らしたとすれば 遠くの所にゐる自分まで合図が来るまでには一二分かゝる。 故に まづ自分の時計は十二時一分なり二分なりにしなければならぬ。 これは当然の事である。 この方法は 先程いつた方法と違つて どこでも自分のゐる場所において時間を知る事ができる方法である。 が然し 合図の進む早さを予め知つてゐなければならぬ。 こゝが大切な点である。 すると つまり時間が何時であるといふ事をきめるには 或る一つの合図によればよいのだが、合図の進む早さといふ事実を予め知らなければならぬといふ事になる。 どんな合図を行ふにしても同じである。 その合図の進む正確な早さを知つてをりさへすれば それによつて時間をきめる事ができる。 処が 合図が進む早さは 自然の中における一つの物理現象である。 音の代りに 電気を使つても光を使つてもよろしい。 その光や電気は やはり一つの物理現象である。

8 大変な問題
 さういふ物理現象が 或る場所から他の場所に伝はるには どんな法則で伝はるかといふ事を知らねば 時間の前後乃至現在を定める事ができない。 そこで 今いつた様に どんな現象でも進む法則が分らないうちは 時間の前後或は現在を確定する事ができない。 これは大問題である。 もしか その現象の進み方が之を観測する人の立場によつて違ふといふやうな事がありとすれば 時間といふものも変つて来るといふ事になる。 だから 現象の進み方が何時でも同じ速さであるとすれば問題はないが 見る人によつて進む速さが違ふかも知れない。 さうすれば 時間の前後といふものは 矢張り違つて来るかも知れない。 時間が速いとか遅いとかいふ事が変るといふのは 我々の従来気づかなかつた大問題である。 現在を境として その以前は過去となり その後は未来となる。 現在がちよつとこちらに動くと未来は過去になり、或はまた あちらに動くと過去が未来になる。 これは大問題である。 それがどんな風に変るかといふ事は もつと考へて見ねばならぬ。 或る人の現在よりこちらの現在が先になつてゐたり、或はそれと反対に遅れてゐたりするかも知れぬ。 こんな事が果してあるかどうか 今まで夢にも考へなかつた事であるが さういう事もあり得ない事はない。 例へばこの地球上で 我々が現在生きてゐると云ふが 他の人が違つた情態で たとへば他の星の上ででも測つて見たならば その判断が変つてくるかも知れぬ。 つまり 我々はもう疾うに過去に死んでゐるとも見ゑ、また現在未だ生れずにゐるかも知れぬ。 単に時刻の前後といふものが変るのみならず 時間の長さといふものも従つて変つて来る筈である。

9 一尺差は一尺か
 尚先に進んで考へると 時間の前後の判断は 空間の長さの判断と密接な関係をもつて居る。 故に 物の長さを知るには 今いつた様な時間の判断が其処に入り込んで来る。 然も従来我々はその点までは考へずに居たから 今さう申上げても 或はまだお分りにならない方もあらうが、も少しそれを説明すると斯うである。 一体 この物指しが一尺あるとして、その一尺あるといふ意味は何であるかといふ事を 精しく考へて見る。 この物指が一尺あるとすれば それはきまつた事で 誰が何といつても一尺であると我々は思ひ込んで居るが、なかなかさう簡単ではない。 この物指が一尺あるといふ事は どんな意味をもつて居るか。 これをアインシユタインは説明して、それは この物指の一の端と他の端とが存在する所の点をしるし、その二点間の距離がこの物指の長さであるといふ。 それは当然である。 何も不思議はない。 然し 其処に大切な事柄が入つてゐる。 今いつた言葉の中の 現在といふ言葉が大切である。 この端が現在こゝにある。 他の端が現在こゝにある。 この二つの距離が一尺といふ長さである。 故に 現在といふ時刻を定めない以上は 二点間の距離といふものが定まらない。 従つて 物指の長さはきまらない。 故に 物指の長さを正確にいへば 同時刻的の長さ 即ち同時刻に計つた両端二点間の距離といはねばならぬ。 其処で初めて 意味が現れる。 同時といふ考へ方がきまらない以上は 物指の長さはきまらない。 それで 時間と空間の長さとは 離れられない関係がある。




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