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目 次 (序跋のみ示す)
日本古典万葉集選訳序 (銭稲孫) 漢訳万葉集縁起 佐佐木 信綱 後 語 新村 出 跋 吉川 幸次郎 |
「漢訳万葉集選縁起」
銭稲孫君の漢訳万葉集選の刊行が成るについて、いささかここに縁起を記さうと思ふ。 自分は、はやくから万葉集を各国の語に翻訳して、世界の人々に示したいと、胸に思ひ描いてゐた。 その第一は、まづ英訳であるが、幸いに外務省勤務の小畑薫良君から、共同でその事業をしてもよいといふ快諾を得たので、自分の還暦の賀会が昭和七年六月に開かれた折に、将来の希望二三の中の一つとして 述べたのであつた。 その後、日本学術振興会が自分の案を採つて 万葉集英訳の委員会を設け、原案委員翻訳委員十三人が数年を労苦した結果、一千首を抄訳した英訳万葉集が、昭和十五年 岩波書店から公刊された。 隴を得て蜀を望むといふやうに、この英訳が成功してからは、さらにこれを基礎として 五百首、三百首或は一百首をぬいた各国語訳のシリーズが出来たならばと、切に願ふやうになつた。 折から長く日本に滞在してをられた中国の銭稲孫君と、ドイツのツァヘルト君とを知ることが出来たので、漢訳には市村瓚次郎博士、独訳には木村謹治博士に校閲してもらふといふことで、それぞれ両君の快諾を得た。 自分は 漢訳は中日実業協会、独訳は原田積善会の援助を受けて両君に依嘱し、両君は喜んで翻訳に従事されることとなつた。 ところが第二次世界大戦の非常に際会して、両君はともに帰国せられ、連絡が絶えたのであつたが、両君は先約を重んじて、それぞれ母国において翻訳を完成してをられたのであつた。
自分が銭君の消息を再び聞きえて交通が開かれると、間もなく銭君は完成した原稿を送つてこられた。 自分は欣喜してこれを待ち迎へたが、市村博士はすでに亡くなつてをられたので、豹軒鈴木虎雄博士に請うて、全編に博士の意見を付して北京に返送した。 しかして、これを参照した完成の原稿が、昨年早く、わが凌寒荘に届いたのである。
しかるに自分は、足疾をうけて、あたかも万葉集巻五の山上臣憶良の沈痾自哀文におけると同じ苦しみを味はふ身となり、床上を一歩も離れられず、従つて出版の交渉も思ふに任せなかつた。 たまたま昨年五月、上京の途次ふりはへ訪はれた京都の新村出博士にこのことを語つたところ、博士は帰洛の後、吉川幸次郎博士に相談してくれられ、吉川博士の盛意によつて、文部省の研究費を得ることが出来、校正も吉川博士のもとで、進められることになつた。 しかも、校正を引受けられた京都大学人文科学研究所助教授 平岡武夫君は、かつて北京滞在中、一年有余を銭君の家に寄寓されたといふ縁があり、事は思ひのほかにはかどつて、ここにこの漢訳万葉集選の一冊を世に送ることが出来るのである。 年来の願がかやうにして成就することは、病身を山中に養ふ米寿老歌人の、こよなき喜びである。
なほ喜びの余として付記すべきは 他の訳であるが、同じくすでに完成しているツァヘルト君の独訳については、別に機会を考へてゐる。 また、パリではグランジヤン夫人、モスクワではアンナ・グルスキナ夫人が抄訳にたづさはつてをられる。 また小坂狷二君は エスペラント訳万葉集五百首抄を著された。 はやくからの自分の夢が次第に実現して、さらに朝鮮語や印度語、イタリー語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語等にも及ぶやうにと希望してゐる。 (昭和三四. 五)
まず先生は、浙江省の帰安県を原籍とする累代書香の家に生れた。 六朝の詩人鮑照の詩と、唐の李商隠の駢文の注を書いた銭振倫を祖父とし、史目表その他の著述のある銭恂を父とし、音韻学の大家 銭玄同を叔父とする。 母堂もまたその国文学に深く、清朝の閨秀詩人についての著述がある。 そうして父君 銭恂氏が清朝政府から派遣された留日学生監督として、東京に駐在されたため、小学校から高等学校までの教育を、日本で受けられた。 更にまた 父君が、やがてイタリーおよびベルギーの公使に転ぜられると、ヨーロッパの大学で学ばれた。 …この銭稲孫の訳業に対して、市村瓚次郎(1864~1947、号:器堂。学習院・東京帝大・国学院大学などの教授)と 鈴木虎雄(1878~1963、号:豹軒。東京高師・京都帝大教授)とが 校閲の任に当たったわけであるが、彼らが実際に行なった助言や修補は それほど多くはなかったのではないかと思われる。
本文の一部紹介 |
日本古典萬葉集選譯序
日本古典の古事記と萬葉集は、尚ばれて、我が(中国の)書(書経)と詩(詩経)に 比( らる。 纂輯は我が李唐の世(唐代)に當) ( りて、未だ文字有らざれば、我が漢字を假) ( りて其の言に名づく。 或はその字音を假り、或は諸義の訓) ( を假る。 所謂) ( 假名なり。 固) ( より 猶) ( 未だ偏旁(「へん」や「つくり」)を省して片假名を爲すことなく、未だ草體に效) ( いて平假名と爲すこともなし。 古事記の假名は 間) ( 漢文を入るるも、萬葉集は即ち通篇 假名なり。 故に假名の未だ 片(片假名) 若しくは 平(平假名)ならざるものは、萬葉假名と曰) ( う。 集(この萬葉集)は 凡) ( て二十巻、古歌 四千五百有余首を収む。 上は 我が東晉の初) ( に當) ( る 仁德天皇の代より、下は 我が唐の肅宗の時に逮) ( ぶ。 其の間 四百有餘載(年)なり。 作歌者は 天皇より庶民に至るまで、遍く其の域中に布) ( り、且つ 多くは姓氏を考うる莫) ( し。 題して萬葉と曰) ( うは、其の歌什の繁) ( きを炫) ( り、亦) ( 傳世の意を寓す。 之) ( を輯) ( むるを顧) ( るに、一手(一人の手)に出) ( るに非) ( ず、釐定) ( (整理)も一尊(一つの基準)に統) ( べらず。 異本を兼ねて収め、雷同(類似の内容)も重出し、體例) ( (詩歌としての体裁)は殊に一貫せず。 歌の古きもの、或は 発句を三言四言よりするも、要) ( は五七言を以て交迭して調) ( を取り、韻脚を押さず。 これ 日本の韻律の 本基(基本)にして、今の歌謡 曲唱も 其の宗を離るるは鮮) ( なり。 體(歌の形体)に、長、短、旋頭、佛足跡 の目(種類)あり。 長歌は 五七の句を無定限に累) ( ね、末を七言を以て復し 結) ( と爲す。 集には 二百五十餘首を載す。 長歌の後、往往 短歌を以て繼) ( ぎ、多く或は五六章に至る。 或は長歌の意を括) ( り、或はまた之(長歌)に足) ( すに餘思を以てす、之) ( (長歌に繼いだ短歌)を反歌と謂) ( うは、猶) ( 我が騷賦(「離騷」)の亂辭(一篇の大意を総括した文節)を以て殿) ( とするがごとし。 短歌は五七を疊) ( ねて 遽) ( に結) ( とす。 長歌の首尾 成章を以てするに合) ( るは、所謂) ( 三十一文字にして、後世の和歌の型範なり。 集には 四千二百餘首を載す。 旋頭歌は、駢) ( (対句)の五七七 都) ( 六句を一章と爲したり。 集には纔) ( に五十首許) ( を載す。 佛足跡體は 短歌に似て 七を重ねて結) ( と爲し、亦(やはり)六句なり。 源は 奈良 薬師寺に傳存の佛足跡石刻の讚(礼賛の歌)に出づ。 集に載するは 十首に及ばず。 夫) ( れ 古典の讀み難きは、時代 既に隔たり、語言(言語)と政俗(政治や社会) 倶) ( に遷) ( れるに縁) ( る。 萬葉は則ち 假名また 厲階) ( (障壁)爲) ( り。 重) ( ぬるに(そのうえ、さらに) 轉寫は訛) ( を滋) ( し、傳承は派) ( を岐) ( つ。 我が(中国の)宋元 而行(以降)に値) ( れる、彼(日本)の中代(中ごろの時代)には 篤学の校註(鎌倉時代の仙覚「萬葉集註釈」であろう) 有り。 明治以還(このかた) 考證は益) ( 細密に臻) ( れり。 近くは則ち 專學の名家の蔚然) ( たる文獻に、圖譜、索引、年表、傳考、方志、輿圖、辭典、語釋 有り、乃至は 椊物に專園有り、博物に專館あり。 而) ( して猶) ( 言を成さざるの句 有り、解を得る莫) ( きの篇 懸) ( れり。 間) ( 嘗) ( に 註釋を憑藉) ( (たより)として 進んで其の槪) ( を窺) ( うに、信) ( に 其の樸質(かざりけがなく、すなお)遒勁(力強い)たること、迥) ( に 後世の和歌の比に非) ( ず。 史事に徴す(照らし合わす)べき有り、風俗に見るべき有り、方言傳説に翫) ( (愛)ずべき有りて、我(中国文学)と一脈相通ずるもの 尤) ( 多し。 竊) ( に惟) ( うに 日本は我が近隣にして、我の其の文に通ずるは 且) ( 濟濟) ( (多くてさかん)たり。 而) ( に 瀏覧) ( (あまねく目を通す) その古典に及ぶこと 罕) ( にして、將) ( に彼を知らんとするは これ何と謂) ( わんや ? 爰) ( に 自) ( ら揣) ( らず、妄) ( に韻譯を試む。 擬古の句調を以て、原文の時代と風格を見) ( さんと庶) ( る(意図する)も、初めてのことにて 未だ能) ( く切合せざりき。 乃) ( に 之を見て許) ( る客) ( 有りて、彼の邦) ( に傳聞せらる。 是) ( に于) ( いて 其の萬葉學の泰斗 佐佐木竹柏園先生 名は信綱、爲) ( に 集中の英華(すぐれた作品)二百八十許(ほど)首を選び、予の之を成すを勖) ( (勧)む。 遂) ( て 選ばれし各歌を逐譯(順にひとつひとつ訳す)し、其の原漢文の題と跋を錄して 略) ( 疏説(解説)を加えたり。 別に 己) ( の意を以て二十餘首を增選し、合せて三百餘篇と爲したり。 稿 成り、寄せて其の國の漢學大師 市村瓚次郎先生の爲すところの覈正) ( (調べ正す)を俟つに、十餘年 聞問(音信)復) ( らず。 比) ( 竹柏翁の書を得るに、則ち 昔の郵) ( 未だ達せず、而) ( して 市村先生は已) ( に古) ( と作) ( りたり! 因) ( りて 復) ( 我が舊篋) ( (長年使っている、ふばこ)を檢するに、居然(そのまま)として殘存せる當年(往年)の草底(下書き) 若干束 ありき。 重) ( ねて理董) ( (整理・訂正) 修補を加え、再び 海外に寄す。 彼の邦の漢詩の巨伯 鈴木豹軒先生に承) ( い 原文を權) ( て、未だ定まらざる所を定めたり。 豹軒 名は虎雄、夙) ( に 我が文學界に名を知らる。 是) ( に至りて 業 成り 既に廢す、實) ( に 海東(日本)の三老 有りて 終始を以) ( にしたるは、誌) ( さざるべからず。 頃者) ( 排印(印刷)も有期) ( なれば、萬葉の面貌) ( を祖述し、並びに選譯の始末(経緯)を 端) ( に記し、以て貢) ( て 我が國の覽(前出「瀏覧」の語を承ける)に此の書を及ばさんとす。 一九五六年 中華人民共和國 錢稻孫 北京に于) ( いて識) ( す。 時に 年七十。
日本古典萬葉集選譯 巻一
此の巻と巻二の體例(体裁)は 餘( の巻と同じくせず、原始の規模(すがた)を 窺) ( うべし。 (巻一と巻二を)通じて 三目(三種類)に分) ( る。 曰) ( く雜歌、曰く相聞、曰く挽歌。 各) ( 帝世(天皇の在位期)を以て編次(順序付け)せらる。 雜歌は此の巻に在りて、凡) ( て長短歌八十有四首を爲す。 今 選びて三十五首を譯す。)
<番号> <原文> <漢訳> 1 天皇の御製の歌
籠( もよ み籠) ( 持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡) ( に)
菜( 摘) ( ます兒) ( 家) ( 告) ( らな 名告) ( らさね そらみつ 大和) ( の国は)
おしなべて 我( こそ居) ( れ しきなべて 我こそいませ)
我こそは 告らめ 家をも名をも天皇御製歌
(雄略御製)
筐兮明筐 携在旁 圭兮利圭 執在掌 之姝者子 採菜在岡 家其焉居
曷昭爾名 天監茲大和 率維我所居 率維我所坐 我斯則告兮 我名亦
我家兮2 天皇の 香久山 ( に登りて國を望みたまひし時の御製の歌)
大和( には 群山) ( あれど とりよろふ 天) ( の香久山 登り立ち)
國見( をすれば 國原) ( は 煙) ( 立ち立つ 海原) ( は)
かまめ立ち立つ うまし国そ あきづしま 大和の國は天皇登香久山望國之時御製歌
(天皇謚舒明)
維此大和 丘陵孔多 靡弗具瞻 香山峨峨 爰躋其上 瞻我邦家 煙騰
于竈 濛濛田野 亦自沼海 鷗飛婆娑 豊國美哉 維此大和8 額田王 ( の歌)
熟田津( に 船乘) ( りせむと 月待てば 潮) ( もかなひぬ 今は漕) ( ぎ出) ( でな) 額田王歌
(熟田津在四國西北今愛媛縣)
駕言乘舟 熟田之津 俟月既生 汐泊泊乎海濱 鼓楫邁矣 今當其辰
13 中大兄 ( の三山) ( の歌)
香久山( は 畝傍) ( を惜) ( しと 耳梨) ( と 相爭) ( ひき 神代) ( より)
かくにあるらし 古( も 然) ( にあれこそ うつせみも 妻) ( を)
爭( ふらしき) 中大兄三山歌
(中大兄、舒明天皇子、後爲天智天皇)
香山悅畝山 嘗與耳山爭 蓋自神世來 已復如此情 惟其振古然
今世亦營營何爲者 爭艶常上平
14 反歌
香久山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来( し 印南國原) ( ) 反歌
(印南、今兵庫縣印南郡)
香山與耳山 昔聞嘗相角 有神來觀場 留此印南陸
15 わたつみの 豊旗雲 ( に 入日) ( さし 今夜) ( の月夜) ( さやけかりこそ) 滄海靡旌雲 靉靆映斜曛 占知今夜月 輝素必可欣
20 天皇の蒲生野 ( に遊獵したまいし時に、額田王の作りし歌)
あかねさす 紫野( 行き 標野) ( 行き 野守) ( は見ずや 君が袖振る) 天皇遊獵蒲生野時額田王作歌
(遊獵時、作者初見寵于大海人皇子)
馳騁茜紫野 往來圊禁場 虞人豈無睹 君袖乃爾揚
21 皇太子の答へし御歌 ( )
紫の にほへる 妹( を 憎くあらば 人妻) ( ゆゑに 我) ( 戀ひめやも) 皇太子答御歌
(皇太子謂大海人皇子、後爲天武天皇)
紫茜同妹艶 能無鍾此心 奈何他人婦 思慕難自禁
28 天皇の御製の歌
春過ぎて 夏來( たるらし 白) ( たへの 衣干) ( したり 天) ( の香久山) ( ) 天皇御製歌
(天皇謂持統天皇)
春旣徂歟 夏其來諸 有暴白紵 香山之陬
63 山上臣憶良 ( の大唐に在りし時に、本鄕) ( を憶) ( ひて作りし歌)
いざ子ども 早く大和( へ 大伴) ( の 御津) ( の 濱松) ( 待ち戀ひぬらむ) 山上臣憶良在大唐憶本鄕作歌
(大伴御津、謂今大阪)
歸歟二三子 倭國吾鄕里 大伴御津濱 靑松望久已
終