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目 次 (序跋のみ示す)


 日本古典万葉集選訳序       (銭稲孫)

 漢訳万葉集縁起          佐佐木 信綱
 後 語               新村  出
 跋                吉川 幸次郎


銭稲孫・訳
「漢訳万葉集選」


 昭和34 (1959) 年3月、 日本学術振興会。
 A5版、本文 198頁。


 本書は、歌人・国文学者の 佐佐木信綱(1872~1959)の企画により、中国の古典学者・銭稲孫(1887~1966)が翻訳を担当して成った、万葉集の漢語訳(抄訳)書である。
 その企画から完成に至る経過については、本書の巻末に添えられた、佐佐木の「漢訳万葉集選縁起」に 割合詳しく述べられているので、まずこの文を掲げることにする。
「漢訳万葉集選縁起」
 銭稲孫君の漢訳万葉集選の刊行が成るについて、いささかここに縁起を記さうと思ふ。 自分は、はやくから万葉集を各国の語に翻訳して、世界の人々に示したいと、胸に思ひ描いてゐた。 その第一は、まづ英訳であるが、幸いに外務省勤務の小畑薫良君から、共同でその事業をしてもよいといふ快諾を得たので、自分の還暦の賀会が昭和七年六月に開かれた折に、将来の希望二三の中の一つとして 述べたのであつた。 その後、日本学術振興会が自分の案を採つて 万葉集英訳の委員会を設け、原案委員翻訳委員十三人が数年を労苦した結果、一千首を抄訳した英訳万葉集が、昭和十五年 岩波書店から公刊された。 隴を得て蜀を望むといふやうに、この英訳が成功してからは、さらにこれを基礎として 五百首、三百首或は一百首をぬいた各国語訳のシリーズが出来たならばと、切に願ふやうになつた。 折から長く日本に滞在してをられた中国の銭稲孫君と、ドイツのツァヘルト君とを知ることが出来たので、漢訳には市村瓚次郎博士、独訳には木村謹治博士に校閲してもらふといふことで、それぞれ両君の快諾を得た。 自分は 漢訳は中日実業協会、独訳は原田積善会の援助を受けて両君に依嘱し、両君は喜んで翻訳に従事されることとなつた。 ところが第二次世界大戦の非常に際会して、両君はともに帰国せられ、連絡が絶えたのであつたが、両君は先約を重んじて、それぞれ母国において翻訳を完成してをられたのであつた。
 自分が銭君の消息を再び聞きえて交通が開かれると、間もなく銭君は完成した原稿を送つてこられた。 自分は欣喜してこれを待ち迎へたが、市村博士はすでに亡くなつてをられたので、豹軒鈴木虎雄博士に請うて、全編に博士の意見を付して北京に返送した。 しかして、これを参照した完成の原稿が、昨年早く、わが凌寒荘に届いたのである。
 しかるに自分は、足疾をうけて、あたかも万葉集巻五の山上臣憶良の沈痾自哀文におけると同じ苦しみを味はふ身となり、床上を一歩も離れられず、従つて出版の交渉も思ふに任せなかつた。 たまたま昨年五月、上京の途次ふりはへ訪はれた京都の新村出博士にこのことを語つたところ、博士は帰洛の後、吉川幸次郎博士に相談してくれられ、吉川博士の盛意によつて、文部省の研究費を得ることが出来、校正も吉川博士のもとで、進められることになつた。 しかも、校正を引受けられた京都大学人文科学研究所助教授 平岡武夫君は、かつて北京滞在中、一年有余を銭君の家に寄寓されたといふ縁があり、事は思ひのほかにはかどつて、ここにこの漢訳万葉集選の一冊を世に送ることが出来るのである。 年来の願がかやうにして成就することは、病身を山中に養ふ米寿老歌人の、こよなき喜びである。
 なほ喜びの余として付記すべきは 他の訳であるが、同じくすでに完成しているツァヘルト君の独訳については、別に機会を考へてゐる。 また、パリではグランジヤン夫人、モスクワではアンナ・グルスキナ夫人が抄訳にたづさはつてをられる。 また小坂狷二君は エスペラント訳万葉集五百首抄を著された。 はやくからの自分の夢が次第に実現して、さらに朝鮮語や印度語、イタリー語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語等にも及ぶやうにと希望してゐる。  (昭和三四. 五)

 また 訳者の銭稲孫については、吉川幸次郎の「跋」中に紹介があるので、次に その部分を示す。
 まず先生は、浙江省の帰安県を原籍とする累代書香の家に生れた。 六朝の詩人鮑照の詩と、唐の李商隠の駢文の注を書いた銭振倫を祖父とし、史目表その他の著述のある銭恂を父とし、音韻学の大家 銭玄同を叔父とする。 母堂もまたその国文学に深く、清朝の閨秀詩人についての著述がある。 そうして父君 銭恂氏が清朝政府から派遣された留日学生監督として、東京に駐在されたため、小学校から高等学校までの教育を、日本で受けられた。 更にまた 父君が、やがてイタリーおよびベルギーの公使に転ぜられると、ヨーロッパの大学で学ばれた。 …
 この銭稲孫の訳業に対して、市村瓚次郎(1864~1947、号:器堂。学習院・東京帝大・国学院大学などの教授)と 鈴木虎雄(1878~1963、号:豹軒。東京高師・京都帝大教授)とが 校閲の任に当たったわけであるが、彼らが実際に行なった助言や修補は それほど多くはなかったのではないかと思われる。

 万葉集は、巻一から巻二十までの 20巻からなり、総計 約 4千5百首の歌(短歌、長歌、旋頭歌、仏足石歌)を収めている。(単一の歌とみるか複数の歌の集合とみるか 見解の分かれるものがあるので、総計は 研究者間で一致してしない。) 本書は、その20巻すべてから数首 ~ 数十首を採択して、合計300首あまりからなる選集としている。 この点に関して 佐佐木信綱は、上記「縁起」とは別の文章(「明治大正昭和の人々」、1961年刊)中では、「詩(詩経)三百篇にならつて…三百首を抄出した」 という言い方をしている。 各歌には国歌大観番号が付されているので、その番号に従って筆者が数えたところでは 合計308首であった。

 「本文の一部紹介」 としては、まず 巻頭に置かれた 銭稲孫の (「日本古典萬葉集選譯序」)を 筆者の訓読文により 掲げる。 中国の読者に対する万葉集の紹介を主目的としたもので、文字、作者の時代、歌の種類・構成、重んじられてきた経過などが、的確に述べられている。
 次に、萬葉集 巻一 中のよく知られた歌10首について、原文(訓み下し文)と銭稲孫の漢訳を対応させて掲げる。 原文(訓み下し文)としては、「新日本古典文学大系」本の『万葉集』(1994年、岩波書店)を用いる。 漢訳には かなり詳細な注釈が付されているのであるが、画面に表示すると煩わしく、読みにくくなるので、注釈全体を掲げることは避け、重要な語句の注のみをカッコ書きで題の下に付記する。 また、原文および漢訳の文字(漢字)については、それらの格調を重んじて、正字(旧漢字)を用いることとする。 なお、各歌の左側に付した数字は、「国歌大観番号」である。



本文の一部紹介


日本古典萬葉集選譯序


 日本古典の古事記と萬葉集は、たっとばれて、我が(中国の)(書経)と詩(詩経)なぞらえらる。 纂輯は我が李唐の世(唐代)あたりて、未だ文字有らざれば、我が漢字をりて其の言に名づく。 或はその字音を假り、或は諸義のよみを假る。 所謂いわゆる 假名なり。 もとより なお未だ偏旁(「へん」や「つくり」)を省して片假名を爲すことなく、未だ草體にならいて平假名と爲すこともなし。 古事記の假名は まま 漢文を入るるも、萬葉集は即ち通篇 假名なり。 故に假名の未だ 片(片假名) 若しくは 平(平假名)ならざるものは、萬葉假名とう。 集(この萬葉集)すべて二十巻、古歌 四千五百有余首を収む。 上は 我が東晉のはじめあたる 仁德天皇の代より、下は 我が唐の肅宗の時におよぶ。 其の間 四百有餘載(年)なり。 作歌者は 天皇より庶民に至るまで、遍く其の域中にわたり、且つ 多くは姓氏を考うるし。 題して萬葉とうは、其の歌什のしげきをほこり、また 傳世の意を寓す。 これあつむるをるに、一手(一人の手)いづるにあらず、釐定リテイ(整理)も一尊(一つの基準)べらず。 異本を兼ねて収め、雷同(類似の内容)も重出し、體例タイレイ(詩歌としての体裁)は殊に一貫せず。 歌の古きもの、或は 発句を三言四言よりするも、かなめは五七言を以て交迭して調しらべを取り、韻脚を押さず。 これ 日本の韻律の 本基(基本)にして、今の歌謡 曲唱も 其の宗を離るるはまれなり。 體(歌の形体)に、長、短、旋頭、佛足跡 の目(種類)あり。 長歌は 五七の句を無定限にかさね、末を七言を以て復し むすびと爲す。 集には 二百五十餘首を載す。 長歌の後、往往 短歌を以てぎ、多く或は五六章に至る。 或は長歌の意をくくり、或はまた之(長歌)すに餘思を以てす、これ (長歌に繼いだ短歌)を反歌とうは、なお我が騷賦(「離騷」)の亂辭(一篇の大意を総括した文節)を以て殿しんがりとするがごとし。 短歌は五七をかさねて ただちむすびとす。 長歌の首尾 成章を以てするにあたるは、所謂いわゆる三十一文字にして、後世の和歌の型範なり。 集には 四千二百餘首を載す。 旋頭歌は、ベン (対句)の五七七 すべて六句を一章と爲したり。 集にはわずかに五十首ばかりを載す。 佛足跡體は 短歌に似て 七を重ねてむすびと爲し、亦(やはり)六句なり。 源は 奈良 薬師寺に傳存の佛足跡石刻の讚(礼賛の歌)に出づ。 集に載するは 十首に及ばず。 れ 古典の讀み難きは、時代 既に隔たり、語言(言語)と政俗(政治や社会) ともうつれるにる。 萬葉は則ち 假名また 厲階レイカイ(障壁)り。 かさぬるに(そのうえ、さらに) 轉寫はあやまりし、傳承はながれわかつ。 我が(中国の)宋元 而行(以降)あたれる、彼(日本)の中代(中ごろの時代)には 篤学の校註(鎌倉時代の仙覚「萬葉集註釈」であろう) 有り。 明治以還(このかた) 考證はますます細密にいたれり。 近くは則ち 專學の名家の蔚然ウツゼンたる文獻に、圖譜、索引、年表、傳考、方志、輿圖、辭典、語釋 有り、乃至は 椊物に專園有り、博物に專館あり。 しこうしてなお 言を成さざるの句 有り、解を得るきの篇 のこれり。 まま こころみに 註釋を憑藉ヒョウシャ(たより)として 進んで其のあらましうかがうに、まことに 其の樸質(かざりけがなく、すなお)遒勁(力強い)たること、はるかに 後世の和歌の比にあらず。 史事に徴す(照らし合わす)べき有り、風俗に見るべき有り、方言傳説に(愛)ずべき有りて、我(中国文学)と一脈相通ずるもの はなはだ多し。 ひそかおもうに 日本は我が近隣にして、我の其の文に通ずるは また 濟濟セイセイ(多くてさかん)たり。 しかる瀏覧リュウラン(あまねく目を通す) その古典に及ぶこと まれにして、まさに彼を知らんとするは これ何とわんや ? ここみずかはからず、みだりに韻譯を試む。 擬古の句調を以て、原文の時代と風格をあらわさんと(意図する)も、初めてのことにて 未だく切合せざりき。 しかるに 之を見てみとむひと有りて、彼のくにに傳聞せらる。 ここいて 其の萬葉學の泰斗 佐佐木竹柏園先生 名は信綱、ために 集中の英華(すぐれた作品)二百八十許(ほど)首を選び、予の之を成すをすす(勧)む。 かくて 選ばれし各歌を逐譯(順にひとつひとつ訳す)し、其の原漢文の題と跋を錄して ほぼ 疏説(解説)を加えたり。 別に おのれの意を以て二十餘首を增選し、合せて三百餘篇と爲したり。 稿 成り、寄せて其の國の漢學大師 市村瓚次郎先生の爲すところの覈正カクセイ(調べ正す)を俟つに、十餘年 聞問(音信)かえらず。 このごろ 竹柏翁の書を得るに、則ち 昔のてがみ未だ達せず、しこうして 市村先生はすでなきひとりたり! りて また 我が舊篋キュウキョウ(長年使っている、ふばこ)を檢するに、居然(そのまま)として殘存せる當年(往年)の草底(下書き) 若干束 ありき。 かさねて理董リトウ(整理・訂正) 修補を加え、再び 海外に寄す。 彼の邦の漢詩の巨伯 鈴木豹軒先生にしたがい 原文をはかりて、未だ定まらざる所を定めたり。 豹軒 名は虎雄、つとに 我が文學界に名を知らる。 ここに至りて 業 成り 既に廢す、まことに 海東(日本)の三老 有りて 終始をともにしたるは、しるさざるべからず。 頃者もはや 排印(印刷)有期まぢかなれば、萬葉の面貌あらましを祖述し、並びに選譯の始末(経緯)はじめに記し、以てすすめて 我が國の覽(前出「瀏覧」の語を承ける)に此の書を及ばさんとす。 一九五六年 中華人民共和國 錢稻孫 北京にいてしるす。 時に 年七十。





日本古典萬葉集選譯 巻一


 此の巻と巻二の體例(体裁)のこりの巻と同じくせず、原始の規模(すがた)うかがうべし。 (巻一と巻二を)通じて 三目(三種類)わかたる。 いわく雜歌、曰く相聞、曰く挽歌。 おのおの 帝世(天皇の在位期)を以て編次(順序付け)せらる。 雜歌は此の巻に在りて、すべて長短歌八十有四首を爲す。 今 選びて三十五首を譯す。


<番号> <原文> <漢訳>
1  天皇の御製の歌

もよ み持ち ふくしもよ みぶくし持ち このおか
 ます いえらな 名らさね そらみつ 大和やまとの国は
 おしなべて われこそれ しきなべて 我こそいませ
 我こそは 告らめ 家をも名をも 
   天皇御製歌
   
(雄略御製)
筐兮明筐 携在旁 圭兮利圭 執在掌 之姝者子 採菜在岡 家其焉居
曷昭爾名 天監茲大和 率維我所居 率維我所坐 我斯則告兮 我名亦
我家兮
2   天皇の 香久山かぐやまに登りて國を望みたまひし時の御製の歌

大和やまとには 群山むらやまあれど とりよろふ あめの香久山 登り立ち
 國見くにみをすれば 國原くにはらは けぶり立ち立つ 海原うなはら
 かまめ立ち立つ うまし国そ あきづしま 大和の國は
   天皇登香久山望國之時御製歌
   
(天皇謚舒明)
維此大和 丘陵孔多 靡弗具瞻 香山峨峨 爰躋其上 瞻我邦家 煙騰
于竈 濛濛田野 亦自沼海 鷗飛婆娑 豊國美哉 維此大和
8   額田王ぬかたのおおきみの歌

熟田津にきたつ船乘ふなのりせむと 月待てば しおもかなひぬ 今はでな
   額田王歌
   
(熟田津在四國西北今愛媛縣)
駕言乘舟 熟田之津 俟月既生 汐泊泊乎海濱 鼓楫邁矣 今當其辰

13   中大兄なかのおおえ三山さんざんの歌

香久山かぐやまは 畝傍うねびしと 耳梨みみなしと 相爭あひあらそひき 神代かみよより 
 かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つま
 あらそふらしき
   中大兄三山歌
(中大兄、舒明天皇子、後爲天智天皇)
香山悅畝山 嘗與耳山爭 蓋自神世來 已復如此情 惟其振古然
今世亦營營 何爲者 爭艶常上平

14   反歌

香久山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に印南國原いなみくにはら
   反歌
   
(印南、今兵庫縣印南郡)
香山與耳山 昔聞嘗相角 有神來觀場 留此印南陸

15  わたつみの 豊旗雲とよはたくも入日いりひさし 今夜こよひ月夜つくよ さやけかりこそ 滄海靡旌雲 靉靆映斜曛 占知今夜月 輝素必可欣
20   天皇の蒲生野かまふのに遊獵したまいし時に、額田王の作りし歌

あかねさす 紫野むらさきの行き 標野しめの行き 野守のもりは見ずや 君が袖振る
 天皇遊獵蒲生野時額田王作歌
 
(遊獵時、作者初見寵于大海人皇子)
馳騁茜紫野 往來圊禁場 虞人豈無睹 君袖乃爾揚

21   皇太子の答へし御歌みうた

紫の にほへる いもを 憎くあらば 人妻ひとづまゆゑに あれ戀ひめやも
   皇太子答御歌
(皇太子謂大海人皇子、後爲天武天皇)
紫茜同妹艶 能無鍾此心 奈何他人婦 思慕難自禁

28   天皇の御製の歌

春過ぎて 夏たるらし しろたへの 衣干ころもほしたり あめ香久山かぐやま
   天皇御製歌
   
(天皇謂持統天皇)
春旣徂歟 夏其來諸 有暴白紵 香山之陬

63   山上臣憶良やまのうへのおみおくらの大唐に在りし時に、本鄕ほんきやうおもひて作りし歌

いざ子ども 早く大和やまと大伴おほとも御津みつ濱松はままつ 待ち戀ひぬらむ
   山上臣憶良在大唐憶本鄕作歌
   
(大伴御津、謂今大阪)
歸歟二三子 倭國吾鄕里 大伴御津濱 靑松望久已





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