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表紙



目 次


   小 引

  一 測量日記と野帳
  二 生ひ立
  三 江戸時代の修養
  四 蝦夷地測量
  五 本州東海岸の測量
  六 羽越測量
  七 尾張及び越前以東の測量
  八 沿海地図凡例
  九 登用と西国筋の測量
 一〇 中国測量の進行
 一一 四国測量
 一二 九州第一次測量
 一三 九州第二次測量
 一四 伊豆七島測量
 一五 江戸府内測量
 一六 伊能図の完成
 一七 本邦に於ける地図の発達



ラジオ新書
藤田元春
「伊能忠敬の測量日記」


 昭和16 (1941) 年9月、 日本放送出版協会。
 縦 17.3 cm、横11.5 cm。 本文 133頁。


 伊能忠敬(延享2(1745)~文政元(1818))は、江戸時代後期に 実測による精密な日本地図を製作した人として知られるが、生涯の後半を個性的・創造的に生きたことや 測量作業における近代的なリーダシップ発揮など、人間的な魅力も大きい。 このため、伝記や文献類も数多いが、本書は、長期間繰り返された測量生活の日々をきめ細かく追うことで、大事業の実態を明らかにしている点に 特徴がある。
 著者の藤田元春 (明治18(1879)~昭和33(1958)) は、京都帝国大学史学科を卒業後、長年にわたって(旧制)第三高等学校の教授をつとめた人。 歴史や地理関係の多くの専門書を著しているが、今日とくに顧みられているものは 無いようである。


 「本文の一部紹介」 としては、本書の輪郭を示した「小引」と、本文中の次の3章を掲げる。
 「一 測量日記と野帳」
 本書の書名からは、「測量日記」そのものについての記述が主体であり、実物についての詳細な説明があるかに思われるが、日記については この章に 冊数、記述期間などのごく概括的な説明があるのみで、日記原文の直接引用もない。 結局、書名の意味は、「測量日記を通じて見た伊能忠敬の地図製作事業」 ということのようである。 ただし 個々の行動の記述に、唯一の根拠としての日記が 全面的に利用されていることは 確かである。
 「九 登用と西国筋の測量」
 この章では、自費での測量と地図製作を続けてきた忠敬が、その実績を認められて 幕吏に採用され、天文方勤務を命ぜられたことが 述べられている。 忠敬が飛躍した場面である。
 「一〇 中国測量の進行」
 ここからは、幕府の事業として行なわれた各地での測量で、責任者としての忠敬が、予想外の事態などに臨機応変に対処しつつ、いかに効率的に作業を進めていったか、が述べられている。 この章で扱われている中国測量は、忠敬自身も体調不良(おこりと表現されている))に悩まされるなど、特に困難を極めた測量であった。



本文の一部紹介





小引

 本書は 昭和十六年二月五日から 連続六回にわたつて放送した「伊能忠敬の測量日記」を 整理増補したものである。
 老齢五十一歳にして高橋至時(1764~1804。天文学者・測量学者。西洋天文学や暦学研究に先鞭をつけた麻田剛立に学び、それらを実用知識に仕上げた。剛立の推薦により、幕府の天文方となり、寛政暦を完成。)の門に入り 暦書の研究に従事すると同時に、潜心 天体観測の実験をつとめ、精妙の域に達するや、寛政十二年 五十六歳、自ら請うて蝦夷地 人跡未踏の境を極め、その年十二月 略測地図を上(たてまつ)つた。 その際 高橋至時をして
 凡そ江戸地より蝦夷の西別まで四百二三十里の遠き、少しも不残ゝゝゝゝゝ(のこさず)足数を記し申候ゝゝゝゝゝゝゝ、(中略)かほどまで、能くも仕おふせ候儀に御座候
と感嘆せしめたのであつたが、忠敬は 壮心勇躍さらに官命をうけ、五十七歳の四月から七十四歳の四月十二日 江戸八丁堀亀島町の自宅で永眠する迄、前後二十年その全生命をささげて 日本沿海輿地全図及び同実測録を大成するための献身的努力の 連続に外ならなかつたのである。 而して この間に於ける十数年間の測量日記ゝゝゝゝこそ、実に忠敬の日々の創造であり、上退転の精進であつた。 所謂 学問をするといふこと そのものの体験録とも 見るべきものであつたのである。
 かくて 東洋に於いて未だ曾て見なかつた天測の 正確で、距離方角の正しい、新しい実測輿地図なるものが 出来上つた。 故に高橋景保(1785~1829、前出・高橋至時の長男。病死した父の跡を継いで天文方となり、忠敬の測量・地図製作などを全面的に援助した。)は 之を上る地図に序して、漢土五千年、至清、假手于西人而後地図始定、則忠敬之功豈浅少乎哉 とのべて、いかにこの図が誇るに足るべきかを導破(ママ)したのである。
 我等は 実に忠敬によつてはじめて 正確な地図といふものの観念を明示されたのである。 蓋し 本邦に於ける地理学界に於いて、前後その比を見ざるの偉功であつたとして 決して溢美ではないと信ずる。 だから 蘭人ヒスセル、独人シーボルト、露人クルージエンシュテルン、いずれも 筆を揃へてその功を讃美したのみでなく、伊能図を得て始めて 世界地図もその誤謬を正しくすることを得たのであつた。 文久元年 英人が幕府に強請して 本邦の沿海を実測せんとした時、伊能図を一見してその精確さに驚嘆し、遂にその計画を中止して、伊能小図の借覧を願ひ出て、これをそのまま彼土で出版するに止めたのであつた。
 筆者は かうした忠敬の業績を、その測量日記の序次に従ひ、極めて簡単に その経過を略述することにしたのであるが、併せて 伊能忠敬をしてかかる大功を成就せしめた時代に、その先輩として 麻田剛立、高橋至時、間重富等の学者が 揃つて世に出たこと。 並びに日本の古代の地図が、いかに発達してゐたか、伊能忠敬以後に於いて 日本地図がいかに進歩したかの梗概をも のべてみようと考へたのである。
 実は 地図の如きは、これを見なくては わかるものではないが、テレヴィジョンがまだ完成してゐない今日の放送では、単に大衆の聴覚にのみ訴へる外に 方法はない。 自ら 出来上つた本書に就いても 地図の多くを挿入することが出来ないのが 残念である。 もし読者にして、好学の士があるならば、どうか拙著 日本地理学史を参考していただきたい。 恐らく さうした欠陥の幾分を 補ふことが出来るであらうと思ふ。
 いづれにしても、かうした小冊子で紙面も限られた広さしかない。 伊能図などの写照(写真)をのせることすら出来ないで、残念ながら 当面の講演のみを上梓したが、いづれは地図の多くを挿入して 解説を更に詳にした単行本を、世に問ふ機会のあらんことを 切望する。
 行文或は疎漏であり、渋滞の多いことは 恰も筆者の下手な放送に類するのを恐れる。 この点 謹んで江湖の寛容をいのらざるを得ない。
   昭和十六年九月
                三高図書室にて     藤田元春







一 測量日記と野帳


 伊能忠敬先生の徳行に関し、国民学校六年 修身教科書には、勤勉と師弟といふ二章を通じて 詳細に説いてあり、全国の少国民に 最もよく知られてゐる。 いま更 その篤学ぶりを喋々するには及ばないかと思はれるが、しかし五十歳の高齢に達したる後、江戸に出て高橋作左衛門至時の門人になられたとき、至時は三十二歳の壮年であつた。 故に 十九歳の年下の人について 学問をされたといふことになる。 いかに先生が謙虚な人格者であつたかを知るべきであると同時に、五十六歳になつて、はじめて北海道の測量に従事し、七十二歳の高齢でなくなられる迄の間に、日本全国の測量を成しとげられたといふ事績は、誠に惰夫をして立たしむの概があつたといはねばならぬ。 ことに、その高橋先生に対する態度の如きは 誠に門弟としての模範生であつた。 日本人の多くの人々が かやうな偉人の一生をお手本にするといふことは 誠に望ましきことであるが、測量日記は実に 先生が五十六歳から七十二歳まで 十六年間 日本全地を測量された日記で、総計二十八冊から成立し、第一冊から二十六冊までが、すべて忠敬の手記で、二十七、八冊の二冊は 文化十二年から十三年 伊豆七島の測量日記で、忠敬は老いて行を共にせず、門人が出張した時の日記である。 但し この日記の原本は小形で 凡三十八冊まで伊能家に現存してゐるが、清書した二十八冊本もまた 伊能家に現存し、その模写本が帝国学士院にある。 また 房総文庫の出版になつたものもある。
 実は この日記に清書されるまでのものに、毎日毎日測量した土地で書きつけた ノートとでも申すべきものがあつて、それは製図の材料になつた 所謂下書であつた。 これを測量野帳ゝゝと言つて、この方は数百冊、或は一千冊からの 大部なものであつた。 これも実に勤勉な忠敬にして はじめて出来たわけであるが、纔かに一部分が 伊能家に保存されてゐるだけで、その大部分は 反古紙として取扱はれたために、只今では 散逸してしまつてゐる。 纔かに伊能家に残つてゐる野帳は、伊豆洲崎付近測定の一部分だけで、実測状況が これによつて明らかになる。 それは 一々の地点で、距離十間、十五間、二十間としるし、たとへば 「未十三分五十間」 「酉十八分半、三十五間これより山」 或は 「これよりやまへ上る」 とか 「亥二分強六十間、此所チョイトシタ入江」といふ風に 道路の廻り角で方位をたしかめ、その間隔を測定し、又は自分の歩数を次第次第に記入したもので、これが実に 地図をつくつた直接の材料であつたが、残念ながらその全部は失はれた。
 測量日記も 初めと終りとで、先生の身分がかはるし、またその間に 器械類も追々と完備して行つたので、単に平面の距離測量だけではなく、或は高い山などの方位を測定するとか、天体を測量して経緯度をさだめるといふやうな 科学的の工作が到る所で行はれたから、ここで日記の順序によつて、その事業の進行の度合をのべるに先だち、この勤勉な忠敬先生の生ひたち及び 高橋先生の下にいかに勉強をされたかといふこと、ついで その測量の動機はどうであつたか、測量といふことにいかに苦心されたか、その経過はどうであつたか、いよいよ地図が出来たとして、元来 日本の地図といふものはどの程度のものであつたか といふやうな歴史をも回顧しつつ、その出来上つた地図はどういふ価値をもつてゐたか といふやうな点に関して、話をすすめて行かうかと思ふ。






九 登用と西国筋の測量


 忠敬先生の量地術に於ける技能は、さきに上呈した蝦夷図、本州東海岸図で、既に幕府の当事者に認知されたが、益々この度、四ケ年間の実測材料によつて綜合された 本邦東半部沿海図の、前述したやうな 科学的操作の結果を見せられたのであるから、彼等はここに 自分等の眼を疑つたのであつた。 いかにも 本邦東部の全地形が、眼前に展開され、土地の形勢、陸海交通難易等 一目瞭然として これを掌に指すが如くに表示されてゐるのに、心から感嘆の叫びをあげ、実測図の効果にひたすら驚もすれば、忠敬の功績を讃嘆せざるを得なくなつた。 同時に 従来の上完全な見取図、もしくは国絵図のやうなものでは役に立たないことも、新に悟られたので、幕府は忠敬の功を賞して、これを幕吏に登用し、その技能を発揮せしめようとした。 即ち 文化元年九月十日、忠敬を城中に召出して、若年寄堀田摂津守から、
 其方儀 是迄国及海辺測量御用並地図骨折相勤候 以後も右筋御用被仰付候につき 拾人扶置被下置小普請組被仰付
といふ辞令が下附された。 かくて 新に幕吏となつた忠敬は、天文方に出役勤務といふかどで、暦局に出て 高橋景保の手伝をすることとなつた。 これ実に当時では 破格の立身だと見られたのであるが、しかし一方からみて かかる学者を学者として待遇したのではなかつた点に 満足の出来ないところがないではなかつたと思はれるが、これも時代の罪で 如何ともなしがたかつたのであらう。
 かくして 任官した先生は、文化元年十二月二十五日になつて 堀田摂津守から、景保をへて、西国筋一円海辺測量の命をうけ、ここに日本全国を完成するの機運に 会ふことになつたのであつた。 勿論 これにさきだつて、至時在世の時に忠敬は東方を測量すると同時に、併行して間重富に西国の測量を計画させ、一気に日本図を方付けようと考へたこともあり、測量熱の一般に勃興したために 各地で各種の測量計画なども起つたやうであつたが、いづれにしても、実力に於いて忠敬の上に出づるものがなかつたので、結局は忠敬先生を煩はさねばならぬやうになつた。
 前二回とちがひ、今度は幕吏といふ身柄にもなつた上に、幕府も地図測量を重視したから、測量用の人馬とも公然無賃にて、伊能先生には人足一人、馬二疋、その補助者たる天文方下役二人高橋善助には 馬一疋づつ、測量器運搬のため人足六人、馬一疋 長持一棹の持人 といふものを徴発することになつた。 同時に 諸侯にたいして
    天文方高橋作左衛門手附手伝    伊能勘解由(「勘解由」は、忠敬の郷紳(名主の家柄)たることを示す名前。)
    高橋作左衛門弟          高橋善助
    同下役二人同内弟子四人

 右者此度測量為御用、東海道中国筋、四国、九州、壱岐、対馬迄罷越候につき 当二月下旬江戸出立 別紙道順書之通り相廻り測量可致候間 其段可被相心得候
一、右につき 他領並島々へ渡海の節は 其所の領主より船を出し、差支無之様可被取計候
一、廻国先より江戸頒暦所へ御用状差出候儀有之候はば 領主便を以て被相届、且江戸表より廻国先へ御用差出候節 心当の場所、其領主役人中へ可相達候間、其所へ到着以前に候はば着の上被届、出立後に候はば先々へ相届様被致候
 右之段 可相達旨 戸田采女正殿被仰渡候間 申達候
   丑二月
 まづ かういふ通牒が出て、忠敬の位置は この身柄の変化によつてやうやく重を加へ、諸藩に於いても、実測事業を重大な御用として、これに従ふやうになつた。 芸は身を助くと 下世話にいふが、ここまで忠敬先生の学芸が一世に重んぜられ、全国を風靡するに至つたことは誠に慶賀に堪へないことであつた。






一〇 中国測量の進行


 忠敬先生は 西国地方測量の命をうけ、随員の選定、測器の新調、その他の準備をいそぎ、文化二年正月には 故郷の佐原に帰り 後事を託し、直に出府して、文化二年二月二十五日 六十一歳の高齢を以て、雄々しく深川の僑居を出た、高橋善助と、下役 市野金助、同 坂部貞兵衛、内弟子 平山郡蔵、伊能秀蔵、門屋清次郎、永沢藤治郎、小坂官平、その他 竿取下男等を合せ 一行は十四名で、出発当日、高輪大木戸から実測をはじめ、毎月、前後両班に分れ、一日一班は測程一里半乃至二里と定め、交々順路の測量にとりかかり、すでに測量済である沼津までの街道筋を細測の上、三月二日 沼津に着、ここから新に東海道を測量しつつ 西進して 同月十七日 舞阪につき、その後約十日間にて 浜吊湖の沿岸をすませ、さらに東海道筋を測進、四月九日 桑名についた。 ここで大手分けをして 高橋、坂部、平山と供三名を以てする一隊を 伊勢の海岸測量にさしむけ、自己の率ゐる一隊で 海岸に沿へる街道をはかり、二十二日 両隊山田に着して 数日滞在、近傍の海辺を測量し、また二十二日の夜、木星とその衛星との交食現象を観測した。 この観測は 測量地点の経度を天測的に決定せんと企てたもので、それが出来たことは この地での矯矢(ママ)であつた。
 やがて宇治から鳥羽に出で 十日許り滞在ののち 沿海を測量し、屢々木星交食の観測を行ひ 志摩と伊勢の南海岸を進んだが、一帯の岬湾頗る多く犬牙啻ならずで、毎日二班又は三班に分れて測量をつづけ、十四日にして 漸く紀伊の東辺に位する錦浦に到ることが出来た。 錦浦は 日本書紀に、亦名丹敷浦ニシキウラ とある 荒坂津ではないか といふ説もあるほどで、これからさき紀伊の海岸は さらに険悪を加へるのであろ。 忠敬先生はこの地で 六月十六日暁に出現すべき月入帯食の観測を計測(ママ)した。 幸に天気晴朗で その目的をとげたが、先生の出張中 交食を快測し得たのは 実にこの地を以て初めてであつたといふ。
 やがて紀伊の海辺を進行したが、海岸線の凹凸はいよいよ甚しく、海波は名だたる熊野灘であるだけに、険悪そのものの如く、業務の進捗 意の如くにならない。 加ふるに 隊員中にも屢々病に冒され、市野金助の如く 久しく測量に参加出来ないものが出来、七月二日 新宮に到着した頃には、予定の計画に後るること 既に数ヶ月に及び、しかも前途遼遠で 帰府の日も容易に予測がつかないので、班員の意気 漸く沮喪するに至つた。 恐れ多いことではあるが、神武御東征の砌(みぎり) この付近の海上で 人物咸(みな)江ぬ とあるところの歴史を 想起せしめるものがあつたのである。(この部分、「神武天皇の軍勢は全員気分が悪くなり、意識を失った」という、『古事記』(熊野の高倉下の段)の記事を指す。) 単にここを通過するだけでも、風波の危険が伴ふのである。 忠敬先生は 専ら隊員の鼓舞奮励につとめ、前後二班を以て実測を続行、七月二十四日になつて 紀州田辺に達し、八月九日 和歌山に到着、それからは平浅な和泉の海岸を測つて 同月十八日大阪に到着し、市野金助は病 癒えざるを以て、又 門谷清次郎は他の事故で、ここから測量班を退き 江戸に帰つたが、残部の諸員は 大阪に滞在約十日、付近の測量に従事し、間重富(はざま・しげとみ、1756~1816。天文・暦法学者。幕府・天文方で高橋至時の同僚であり、忠敬はこの人からも教えを受けた。)の留守宅にも集つて、天体観測を施行した。 やがて八月晦日 大阪を出発して 淀川に沿つて淀に出て、同八月五日京都に入り、数日滞留して、付近を測量し、或は禁裏の拝観を許され、同月十三日京都を出て 大津、それから湖水を左に見て 湖岸を測量、一周して九月二十一日 再び大津に帰り、市野金助の補欠として西下した天文方 下河辺政五郎と会合した。
 最初の予定では 琵琶湖沿岸の測量がすめば 直に敦賀に出て、若狭から山陰の海岸を巡測する都合であつたが、時日遅延のため 日本海の風濤険悪な秋季になつたので、ここに計画を変更して、まづ山陽道の海岸測量に着手することと改め、九月二十三日 大津を出て 宇治川の沿岸を測つて伏見に出た。 それから巨椋池の周辺を測り、その後に大阪に出で、大阪から西摂津の海岸に進み、十月七日 兵庫につき、すすんで播磨の海岸を西進、室津から家島群島へ 海辺の測量を完了、室津に帰つて西進、十月二十九日 赤穂につき、さらに備前に向つた。
 ところが この道では 海上の島嶼 漸く多きを加へたので、本土の沿岸を実測すると共に、これらの諸々の島嶼を一々測量して、児島半島の周測を了つて 十二月朔日 やうやく岡山に到着、この地に滞在して 専ら材料の整理と下図をつくり、兼ねて天体観測、木星の交食の観測などを行ひ、つひに越年した。
 そこで さきに京都から書を景保に寄せて、測量の事務の 予定よりも遅延した理由を詳述し、中国、四国、九州ともに 海岸の形勢 付属島嶼の数が大いに予期にことなるもので、新に四、五名の増援を必要とする。 さうして 隊員に交代休養の暇を与へ 疲労疾病を未発に防がねばならぬと申したのであるが、景保からは、いかにも尤もであるから 増員の許可があれば、六名ばかり繰り出もするであらうが、もし御許が出ない時には、現在人員で中国筋の海辺を測量し、それが終り次第に 一旦江戸に帰れ、さうして英気を養つてから 出張したらよからうといつてきた。 そこで忠敬は 六名も大増加をして、大手分をすれば 一挙に功は挙るかもしれぬが、残念ながら その隊長に適任者がない。 またあつても 東島、平橋の如き病弱の人で 技術未熟のものが入れば、却つて手足まとひにもなるから、増員はしてもらはなくともよろしい。 故に どうか中途で一旦帰府の事を許されたい と申出たので、堀田摂津守とも相談の上 中国測量の了るをまつて、一旦帰府すべし といふ指令が出た。 文化二年十月末の日付できまつたものである。 しかるに 実地にこれを行つてみると、付属の島嶼 意外に多く、文化二年中に 漸く岡山までしか進めなかつた。
 そこで 岡山から再び書を景保に送つて 実情を訴へ、内弟子尾形慶助、門倉隼太 二名の増員を申請して 功を急ぐことに許可を得たので、文化三年正月十八日になつて いよいよ岡山を出た。 かくて 岡山滞留一ケ月半、幸に、この滞留中 岡山で入門した窪田浅五郎、平松紹右衛門の二人の随行をゆるし、その手助を加へて、岡山以西の多島海を 一々と実測しつつ西進した。 二月五日 尾道に、二月十九日 忠海に達すると、窪田、平松は退班したが、そこへ尾形と門倉の二人が 江戸からやつてきて活動力を加へ、三月十八日 呉、三月二十九日 広島、それから益々西進して 四月八日 八代島で、同月二十二日に徳山で、共に木星とその衛星の交食を観測せんとして果さず、二十七日 中の関につき、五月六日 遂に下の関についた。
 この間、四月末から周防の海岸で 忠敬は瘧(おこり。マラリア性の感染症。)を患ひ、容易に癒えなかつたから 赤間関に滞在数日、部下をしてその付近を測量させ、専ら静養に従ひ、五月十四日 衆と共に赤間関を出たが、実測は部下に託して 自分は瀬戸崎に先着した。 しかし この間の海岸は平易であつたから、実測も進みやすく、五月二十四日には萩まで進み、それからは忠敬も 病を押して共に進行、六月八日 浜田につき 滞在数日、木星とその衛星の交食を観測し、六月十八日 松江に着、二十三日、三保関から舟で隠岐に進まんとしたが、風向急変して 伯耆の方へ流された。 そこで 折角の治りかけた病気が 頓に重くなつたので、忠敬は隠岐渡航を断念して 平山郡蔵と共に療病した。 よつて その他のものが 再び三保関から七月三日出航 翌日隠岐知夫里島につき 爾後諸島を巡測し、恒星高度、木星とその衛星の交食を観測に従事した上、七月十七日 業を了つて 二十一日 三保関に帰つた。 それから 出雲の北海岸と宍道湖の実測をすませ、八月四日、松江に帰り、忠敬に会合した。
 幸に 忠敬の病も この間に軽快に向つたから、八月七日 衆と共に松江を出発、山陰道を東進し 十六日 鳥取に、二十四日 湯島(城崎)に 九月五日 宮津に達した。 この時、忠敬の病は はじめて全癒した。
 宮津からさらに沿海を測進して 若狭に入り、九月二十二日 小浜につき 滞留数日 近傍の岬湾を測定して二隊に分れ、忠敬、坂部、平山、尾形等の一隊は 小浜から街道筋を敦賀に出て、高橋、下河辺、伊能、門倉等の一隊は 海岸線を測進して若狭国境に至り、享和三年の測定に連絡した。 十月八日 両隊 敦賀に会して 再び二隊に分れ、忠敬等の組は 敦賀から柳ヶ瀬、長浜、能登河をへて 大津即ち湖東を、坂部、下河辺、伊能等の一隊は 敦賀から疋田、海津、大溝をへて 湖西を大津に下り、十月十九日 大津で会合、十月二十一日 帰東の途にのぼり、東海道筋を測進して、四日市付近で 昨年残して置いた 測杭との連絡をとり、、分遣隊をやつて 関から津までの参宮道路を測り、二十八日 桑名に達し、さらに佐屋、ヲコシ、清洲等をへて 吊古屋に至る街道を測り、十一月三日 熱田に着、それから一行は 二、三の宿舎で天測を行つただけで、途中は恙なく十一月十五日 江戸に帰り、ここで中国測量は完了した。
 かくてこの度は 中途で病人も出来たし、予定の進捗が出来なかつたが、実はそれは 熊野海岸や瀬戸内海の群島に関する予備の知識が 不足したままにたてた計画であつたからで、決して忠敬先生の事業の遅延ではなかつた。 同時に これを前年度に比べると 測量は益々細密にわたり、到る所で官民に命じて 参考資料を描写して差出さすといふやうなことで、その成果、実に見るべきものがあつた。
 帰府の上、直に深川町の自宅を以て 地図御用所に宛て、この度は 算、紙、墨、蝋燭、炭、その他 筆耕 雇入等 すべて官府の支給が出るし、高橋、坂部、下河辺 並びに内弟子共にも 相当の御手当が出たから、約一ヶ年半を以て 文化十四年十二月に至り、文化二、三年に於いて測量した地域図の 大中小三種が完成、その十八日、これを幕府に提出した。 なほ この期間に 恒星の赤緯を決定すべき基本観測もなした といふことである。




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