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目 次


   水戸文籍考 叙言

   水戸文籍考 例言五則

  上編 〔前言〕
  威公  義公  肅公  成公
  良公  文公  武公  哀公
  烈公  順公
 〔附録〕
  萬里小路秋庭

  中編 〔前言〕
 人見林塘 真幸筆海 辻 端亭  岡部拙斎
 岡部拙斎 畠山桂花 篠崎自閑 小宅處斎
 安積希斎 岡本道潭 吉弘菊潭 板垣聊爾
 中村篁渓 今井桐軒 今井魯斎 山縣元纜
 人見懋斎 田中止丘 辻 好菴  大串雪瀾
 渡邊恵舟 佐々十竹 石井三朶花 丸山活堂
 西村元春 鵜飼錬斎 力石癡々 小川宗本
 浅羽昌儀 井上挹翠 安積澹泊 神代鶴洞
 鵜飼称斎 内藤著斎 森 儼塾  伴 香竹
 安藤抱琴 安藤年山 村上吉子 青野栗居
 一松昔桜 三木之幹 津田閑斎 鷲尾慶翁
小山田宗碩 加藤九皐 岡谷充之 青木瑞翁
 額賀養真 酒泉竹軒 栗山潜鋒 大江松隣
 小宅采菊 三橋夕流 佐野郷成 三宅観瀾
 打越樸斎 佐治竹暉 小池桃洞 中島通軒
 岡本可復 中村浩然 西野泰定 依田誠廬
 河合菊泉 佐久間立斎 加藤洞庭 川上櫟斎
小宮山桂軒 増子滄洲 松村芳洲 岡井嵰州
 藤咲僊潭 稲葉圓斎 德田錦江 富田長洲
 鈴木白泉 野口甘谷 名越南渓 久方蘭渓
 青山瑤渓 小池勇水 大場南湖 谷 維揚
 皆川瓦全 吉田本節 鈴木桜渓 河原採菊
 檜山雅昭 立原東里 加藤一睡 大場玉泉
 鈴木大凡 寺門孝寛 谷田部東壑 原 南陽
 森 士行 長久保赤水 菊池南洲 小宮山楓軒
 小澤蘭江 高橋担室 石川桃蹊 藤田幽谷
 雨谷端亭 長久保晹谷 桜井龍淵 藤田北郭
 岡本祐躬 三村挙賢 大竹雲夢 川口緑野
 津田信弘 青山雲龍 谷 鬼谷  石川安亭
 白石一如 吉田愚谷 塙 一瓢  岡野逢原
 岡井蓮亭 會澤正志 高野陸沈 小澤子恭
 清村 貫  菊池西厓 石川慎斎 増子毅斎
 佐藤中陵 名越范斎 岡埼槐陰 丹 子正
 立原東軒 飛田逸民 鵜殿清虚 宇佐美蘋亭
 高倉逸斎 坂場流謙 友部松里 森 観斎
 久米子順 小林北皐 吉田活堂 森 海菴
宇留野静菴 杉山復堂 跡部臨谷 木内玄節
 青山佩弦 藤田東湖 秋山静止 佐々木丫斎
 蘆澤一閑 平山亮斎 吉成南園 今井紐蘭
 桑原照顔 酒井淑斎 鈴木松江 金子教孝
 森 庸軒  鵜飼拙斎 檜山富宜 久方定静
 石川清賞 荘司健斎 國友善菴 佐藤松渓
 加藤雪潭 三輪信善 豊田松岡 西宮松宇
 北條香雪 高橋柚門 北河原守景 鹿野敬一
佐々木柳菴 青山鐵槍 石河明善 大内玉江
 鈴木金谷 友部忍廬 本間玄調 間宮松屋
間宮八十子 佐藤鶴城 仁上如蘭 加藤寛斎
小笠原貞道 茅根寒緑 内藤碧海 管 桜廬
 原 伍軒  津田東巌 鶴峰海西 床井晩緑
 関 錦堆  疋田筑山 吉田璞堂 朝比奈篠屋
 栗田栗里 小宮山南梁 山国共惟 豊田香窓
 鈴木楳林 久米水屋 菊池 元  菊池巻石
長久保藤巷 綿引東海
 〔別記〕
 小山田松屋

  下編 〔前言〕
 木村子虚 鈴木松江 大窪詩佛 中山柳洲
 寺門静軒 宮本篁村 宮本茶村 郡司筑海
 秋葉東叢 加倉井砂山 福田義方 後藤子善
 市毛幹規 西野孝次郎 渡邊政之介 川辺敬典
 大金栗斎 関 一陽  黒澤洗心 加倉井松山
 大窪池屋 人見辨斎 立川雅生 小澤潜鱗
 岡部梅林 関口本貞 綿引文山 宮本準龍
 櫻 三江  林 十江  栗田栗隠 加藤松蘿
 桜井霽松 栗田栗舎 上原忠兵衛 田所出羽
 大塚山城 磯前山城 鈴木筑後 二方弾正
 小川子勇 小川修理 役 祐誠  釈 連山
 〔別記〕
 菊池気住 小田野直養 寺門義周 玉川春菴
 日下部訥斎

  附録
 著者未詳部

 〔後記〕

清水正健
改訂 水戸文籍考」


 大正11 (1922) 年11月、 須原屋書店。
 縦 18.3 cm、横12.8 cm。 本文 211頁。


 水戸藩は、二代藩主・徳川光圀(1628~1701)が、学者を集めて史館(彰考館)を設置し、「大日本史」の編纂に着手したことから、学芸の府となったことで知られる。
 本書は、この水戸藩の歴代藩主の文教施策や、学者達の活動を概述するとともに、主要な著作物の内容を具体的に紹介したものである。
 著者の清水正健(1856~1934)は、明治15年(1882年) 彰考館に入り、「大日本史」編纂の最終段階の作業に参画、その後 中学校教師に転じ、大正期には 東洋文化研究機関・無窮会の調査員となった人。 自らの「大日本史」との係わり合いについては、本書中に詳細な記述がある。
 本書は、上編・中編・下編の 3部分から構成されている。
 上編には、歴代藩主が直接関わった著作物が 記述されている。 藩主は「九世十代」であるとして(上編前言)、威公(初代・徳川頼房)から順公(10代・徳川慶篤)までの10名が取り上げられている。 通常 水戸藩最後の藩主とされている 節公(11代・徳川昭武) が除外されているのが、不可解である。 明治4年(1871年)の廃藩置県後も彰考館を水戸徳川家の私的機関として存続させ、「大日本史」を完成に導いたのは、この昭武である。 そのとき館に入った清水には、何か恨事があったのであろうか。 藩主の後に、〔附録〕として、萬里小路秋庭という女性が一人だけ取り上げられている。 この人は、9代・徳川斉昭の側室で、歌集を遺したことが尊ばれて 藩主に伍せしめられたらしいが、この人こそ昭武の実母なのであるから、著者のこの母子に対する扱いの差は 不自然というほかない。
 中編には、藩士たる学者達(彰考館に属さぬ者も含む)の活動と著作物が 記述されている。 ほぼ年代順に配次されているが、目次に示すとおりの大人数で、210名にも達している。 広く知られた 特色ある学者として、長久保赤水(経度・緯度を表示した日本地図を作製した地理学者)、佐藤中陵(農産物栽培方法を高度化、普及させた物産学者)、管桜廬(政友。中国・朝鮮の史書を活用して日本古代史を再構成した史学者)、鶴峯海西(戊申。オランダの文法書を参考に日本語文法を体系化した言語学者)、小山田松屋(与清。古典文学の考証に長じた国学者) などの人々がいる。 また、藩内外での政治的活動で名を知られた、藤田東湖(彪。9代藩主・斉昭の参謀)、茅根寒緑(伊予之介。安政の大獄の犠牲者。)、高橋柚門(多一郎。桜田門外での井伊大老襲撃の首謀者。)、原伍軒(忠成、市之進。禁衛総督・一橋慶喜の侍臣) などの人々についても、学術面での業績が述べられている。
 下編には、藩士以外、すなわち民間の学者達の活動と著作物が 記述されている。 人数は 49名で、ここにも漢詩人の大窪詩佛や、「江戸繁昌記」の著者・寺門静軒など、知名の人が含まれている。

 「本文の一部紹介」 としては、著述の意図や全体像を見るために、「水戸文籍考叙言」 「水戸文籍考例言五則」、および 上・中・下 各編の〔前言〕を掲げる。(原書には〔前言〕の語はなく、筆者が仮に付したものである。) また、特に「大日本史」の編纂の流れを見るべく、それに関係した本文として、次の各部分を掲げる。
 上編の 義公(2代・光圀)烈公(9代・斉昭) の部分
 記述の精度が意外に不均一で、光圀が「大日本史」編纂の着手にあたって重視した、紀伝体の採用や皇統の正当性判断などの事項については、ほとんど述べられていない。 また、光圀の意図や情熱が、後続の藩主達にどう受け継がれたかの記述もあいまいで、着実に継続されたとは言い難いようである。 編纂が完了して全冊の刊行されたのは、はるか後の明治39年(1906年)であるため、「250年にわたる大事業」などと言われるが、それは途中の(凡庸な? 藩主のもとでの)停滞期間が長かっただけのことである。 9代・斉昭の強い指揮が無ければ、中絶・霧消に至ったかもしれない。 編纂の実績に関する記述が、これら二藩主に集約されていることが、それを示している。
 中編の 栗田栗里 の部分
 この中編においても、紀伝体の史書たる「大日本史」の、「紀」および「伝」部分の成稿に大きく貢献した、安積澹泊の業績が適切に述べられていない。 … 「紀」「伝」の部分がようやく形をなした時、3代藩主・綱條は、澹泊に対して、これら「紀」「伝」へ論賛(評論文)を書き加えるよう命じた。 健筆の澹泊は 直ちにこれを成し遂げたが、 (後になって 不要・不適切の議論が起り、この論賛は結局 削除された。) 澹泊に対しては、さらに 4代・宗堯も、自分の好みで 高祖・家康の伝記執筆を命じる有様で、このあたりに 光圀の意図が 後の藩主に重視されていない状況が 見てとれる。 しかし、老いてなお壮んであった澹泊は この命にも応じ、人を驚嘆させる迅速さでこれを執筆したという。 かくて、澹泊についての記事は、ほとんど これら「大日本史」論賛と家康の伝記(「烈祖成績」と名づけられた。)関連の事項で満たされることになってしまった。
 「大日本史」における、残りの「志」および「表」部分の成稿に大きく貢献し、全体を完成に導いたのは、栗田栗里である。 栗里は、著者・清水正健の師であるとともに 彰考館における上司でもあって、「志」「表」撰述の過程は 淸水の熟知するところであったから、〔附言〕にその詳細が記されている。 そして、ここで初めて 「紀」「伝」部分を牽引した安積澹泊を引き合いに出し、栗田栗里と対置させて、その功績を称えている。 「日本史紀伝、其の編修に従事せしもの幾十家、其の能く之を大成せしは、澹泊先生一人のみ。 日本史志表 其の纂録に拮据せしもの幾十人、其の能く之を集成せしは、栗里先生一人のみ。 前に澹泊先生あり、後に栗里先生あり、義烈両公の志願 粗 果せりと云ふも、敢て溢美の言には非ざるべし」 と。
 巻末の 〔後記〕
 著者が 擱筆に当たっての感慨を記したもの。 〔後記〕という標題も、筆者が仮に付したもので、原書には何の見出しもなく、単に小活字で組まれた文が置かれている。 栗田栗里に関する文(〔附言〕)中に、「故ありて館務を辞し…」の記述があるが、その辞職のことがこの巻末の文でも繰り返され、離れざるを得なくなった旧業への思いが 本書執筆の動機であると述べている。 敬愛する恩師の下で、専心 起稿・訂補・編集に取り組んできたのに、どうして辞職せざるを得なくなったのか?。 淸水が晩年職を奉じた無窮会の 職員の回顧録中に、淸水から直接聞いた話として、次のような記述がある。 「翁(淸水)は … 栗田寛先生の助手を勤められたが、先生と意見を異にし、館を辞して地方教員に転出し、時節を待たれた。 先生と意見の相違とは、先生は国郡志 其他の引用文書に記録そのまま北朝の年号を用ひられたに対し、翁は南朝正当を主張する大日本史の精神に反するとされた。栗田氏没後、水戸家の委嘱により、南朝年号の下に北朝年号を注記することに改訂された。…」 (林正章「図書館五十年」(三)、「東洋文化」復刊第十四号、昭和41年9月) 淸水は この〔後記〕の初めに、「健や 頑陋、円転の才なく、滑脱の術あらず」 と自ら述べているが、まことにそのような人であったようである。



本文の一部紹介





水戸文籍考 叙言

 慶長十四年、威公(初代水戸藩主・徳川頼房、在位:1609~1661) 七歳、常陸下妻より 水戸に遷りて、其の城主となる。 當時 駿府附随の諸士を駿河衆と云ひ、武田遺士の来属を甲州衆と呼び、其の他 諸方来附を併せて、家士の一団を形成し、主従 慈和して、法を立て 治を図り、漸く特異の風を生ず。 之を水戸藩と為す。 其の始めは、被堅執鋭の猛士 多かりしが、寛永八年、人見卜幽 儒者を以て来仕して以降、儒生文人 接踵して至る。 義公(二代藩主・光圀、在位:1661~1690) 襲封、彰考修史館を開くや、四方の学士 相率て来会し、煥乎燦然、東方の文府となる。 其の人、皆 土着にあらず。 師を異にし、学を殊にし、互に協和し得べからざる如くに見えて、其の実は、悉く皆 公の典刑に入りて、専心一意、努めて止まず。 乖離の憂、毫も無かりしが如し。 降りて 文武二公(六代藩主・治保、在位:1766~1805、七代藩主・治紀、在位:1805~1816)の世に至りては、他来の学人、漸く跡を絶ち、本土の洪学、褒然 蔚起したれば、互に 相 編睦すべくして、却て議論紛興、相 和せざるもの有りしが如し。 烈公(九代藩主・斉昭、在位:1829~1844)の世に至りては、小山田與清、鶴峯戊申、間宮永好が如き、皆 外より招来したれども、修史の業には與らしめず、館の別局に置いて、其の職を殊にせり。 以て 古今待士の変、学者気象の異を、概見するに足るべし。 然れども、其の帰趣する所に至りては、終に義公の典刑を、踰越する能はざるなり。 此の曲折を詳にせざれば、水戸文学の淵源する所、渟溘する所、氾濫する所を 知るを得ず。 之を詳にせむと欲せば、務めて前人の遺書を精究せざるを得ず。 是れ即ち 文籍考の、今日に要ある所以なり。 聊か自賛の嫌なきに非ずと雖も、一言を贅して、之を叙言と為す。
   大正十一年八月八日
                於東京市外大窪     清水正健 識







水戸文籍考 例言五則


一、 本書三編は、明治二十七年の起草にして、附録一編を加へ、順次 茨城日報に掲載せしを、三十五年に至り、周防山口の客居に於て、之を増補訂正し、活刷(活字印刷)に代へしが、刷出 僅に三百部にして、既に頒布を了へしを以て、今 茲(ここに) 再び補訂して、広く之を公布せむと欲するなり。
一、 作者の名を標するに、藩主は私諡を以てす。 旧臣の情 然らざるを得ず。 士庶は 字号を以てす。 前修を崇ぶの意に出づ。 其の字号 詳ならざる者は、実名或は通称を以てす。 止むを得ざればなり。
一、 作者の序次、藩主は襲封の先後に従ふ。 其の略歴は、碑誌、行実、東藩文献志等に拠る。 士人は進仕の年序に従ふ。 其の小歴は、水府系纂、碑誌、伝記等に拠る。 庶民は 類を以て之を分ち、強ち年歴に係らず。 其の字号 没年等、詳ならざる者多きは、記文闕けたるを以てなり。
一、 本書もと八巻に分てり。 今 活刷するに臨みて、上中下三編、及 附録一編となし、務めて紙数を減ず。 特に 小山田松屋の群書捜索目録八十余部は、割愛して、之を削除せり。
一、 活刷の常として、いかに注意を加ふれども、誤字脱語あるを免れず。 故に 其の文義通ぜざるものあらば、読者 幸に意解せられむことを乞ふ。





上編 〔前言〕


 水戸藩主、九世十代、祖孫相承け、文学を嗜み、儒術を学び、著作編集の書、勝げて数ふ可らず。 然りと雖も、其の克く校刻を経て、世人に知らるゝもの、蓋し 幾ばくもあらざるべし。 余輩 生を水戸に受け、其の文波に浴するもの、遺憾止む能はず。 謹みて 彰考館庫 存する所の書目を輯め、私に勘注を加へて、以て叙列すること 左(下)の如し。




義公

 諱は光圀、字は子龍、小名は千代松、初字を徳亮 又 観之と云ふ。 日新斎 又 常山人と号し、率然子と称す。 後 又 梅里と号す。 威公(初代藩主・徳川頼房)の第三子なり。 寛文元年 襲封、元禄三年 致仕、十三年 薨ず。 年 七十三。 私に諡して 義公と曰う。
大日本史
 太祖(神武天皇)以下 明徳(後小松天皇の治世)に至る 上下二千載の史記なり。 目録 三巻、修史例、引用書目 各一巻、本紀七十三巻、后妃伝 十二巻、皇子伝 十四巻、皇女伝 六巻、群臣の伝 七十三巻、将軍伝 八巻、将軍家族伝 四巻、将軍家臣伝 二十二巻、文学伝 五巻、歌人伝 四巻、孝子義烈列女隠逸方技の五伝 各一巻、叛臣伝 一巻、諸蕃伝 十二巻、以上 本紀列伝合せて二百四十三巻は、嘉永四年 校刻全く成る。 其の成書の体裁は、修史例に備はり、編修の始末は、修史始末、修史復古紀略、史館事記等の書に詳なり。
〔附言〕 大日本史、既に西土(中国)の紀伝の史体に倣へる上は、志表 之に従はざれば、全書と為すべからざるは、言ふまでもなし。 故に 公(光圀)在世中、十志の目を定めて、彰考館壁に貼布せりと云ふ。 然れども、当時 紀伝の編修に忙殺せられて、之を顧るの暇あらざりしにや、久しうして剥落し、終には 之を知る者もなきに至れりとぞ。 因りて 正徳三年、安積覚 大井広 等、更に相議して、志目を定め、享保十二年、成公 命あり、五年を期して、諸志を完修せしむ。 安積覚、先づ食貨 兵馬 二志を草す。 当時 典故の学、未だ起らずして、修史 既に難し。 而して 修志 尤も難しと嘆ぜられ、平野玄中に与ふる書に、食貨 兵馬 二志の編纂、蒐羅 検討、日に繙閲に労し、令義解、延喜式、類聚三代格、一事の観るべきものなく、腐板個滞、人をして厭を生ぜしむ、と云はれたり。 其の見る所、既に此の如し。 宜べなり、其の存稿の粗略にして、一も取るべき者なきこと。 況や 其の他の学者に於てをや。 中島為貞の職官志稿、丸山可澄の氏族志稿、小宮昌嶠の音楽志稿などは、未だ志体を為すに至らず。 寛保元年、総裁 相議して、諸志の未だ成らざるものを 分修せしむ。 小池友賢 神山直層は天文、加藤厚明 富田敏貞は地理、名越克敏 丸山乗春は神祇、松村栄 菊池方は礼儀、増子淑時は輿朊、河合正修は芸文、秋山渉 市川貞は刑法、綿引有恒 野口祐は災祥、德田庸 鈴木重祐は仏事 の起稿を分担せり。 然れども、今 館庫に存するものは、河合正修の芸文志稿 三冊あるのみ。 しかも 志稿と称するには足らざるなり。 其の後 青山延彝の神祇志稿、長久保玄珠の地理志稿は、蕪雑 冗長に於て、好一対と称せらる。 後 又 桜井安亨の天文志稿、川口長孺の食貨志稿、青山延于の神祇・礼儀・輿朊 三志稿は、やゝ志体を備へ、豊田亮の兵・刑法・氏族・食貨・仏事 五志稿に至りて、体制大に備り 現行諸志の基礎をなせり。 其の間 豊田靖の職官志稿 青山延寿の地理志稿 未完・原忠成の礼儀志稿、沢田信存の災祥志稿、栗田寛の神祇・国郡・音楽 三志稿 相継ぎて成り、之を選択取捨し、之を増補校訂したる者を、今日刊行の十志と為す。 加ふるに五表を以てし、始めて全書たることを得たり。 其の詳なる事は、下文 烈公の条を参看すべし。





烈公

 諱を斉昭と云ひ、字を子信と呼ぶ。 小名は敬三郎。 景山と号す。 武公(第七代藩主・徳川治紀)の第三子なり。 文政十二年 襲封、弘化元年 致仕、万延元年 薨ず。 年 六十一。 私に諡して 烈公と曰ふ。
大日本史補修
 公 新に襲封、前代修史の後を受け 大に史臣を督励して、未成の列伝を校刻し、且(かつ) 十志を修むるの挙ありて、六志の草稿 粗(ほぼ)成れり。 後代相承け、旧史臣に委嘱して、校訂補修、討論潤色を経て、之を刊刻せしむ。 今 其の志目を列挙すること 左の如し。
 (以下、十志と五表が列挙され、それぞれの内容説明がなされている。 ここには、書名と完成または刊行年、巻数を掲げるにとどめる。)
神祇志
 明治二十六年 刻成る。 凡二十三巻。
氏族志
 明治十七年 刻成る。 凡十三巻。
職官志
 明治十五年 刻成る。 凡五巻。
国郡志
 明治四十年 刊行。 大正元年 改刻成る。 凡三十三巻。
食貨志
 明治二十一年 刻成る。 凡十六巻。
礼楽志
 明治十八年 刻成る。 凡十六巻。
兵志
 明治四年 刻成る。 凡六巻。
刑法志
 明治四年 刻成る。 凡二巻。
陰陽志
 明治二十八年 刻成る。 凡六巻。
仏事志
 明治十四年 刻成る。 凡六巻。
臣連二造表
 凡二巻。 刻 既に成る。
公卿表
 凡七巻。 既に刊行す。
国郡司表
 凡十二巻。 既に刊行す。
蔵人検非違使表
 凡四巻。 既に刊行す。
将軍僚属表
 凡三巻。 刻 既に成る。





中編 〔前言〕


 寛永以来、天下文学の士、抜茅彙進、来りて水藩に仕ふるもの、項背相望めり。 皆 史局に入りて、経史の業に従ひ、孜々矻々 日給するに遑あらず。 水藩 大日本史の成る、皆 此輩の同心協力、黽勉奮励する結果に非るはなし。 その黽勉奮励する所 余力溢れて 公撰の外に及び、私に著述を企つる者 亦 甚だ多し。 其の書 汗牛充棟、五車載する能はず。 言 或は経義に及び、或は史談に入り、或は雑説に渉り、或は発して詩歌文章となれり。 之を要するに 公撰と私著と、相待ちて、神聖の大道を発揮し、大義名分を明にするを以て、帰趣とせざるはなし。 是を以て 後生晩輩、其の文学の来由を知らむと次(欲?)せば、皆 此の遺篇に拠らざるを得ず。 然るに 輓近 俗 新奇に奔り、人 浮華を競ひ、耆老を敬することを忘れ、古書を崇ぶことを知らず、子孫すら、往々 父祖の勤労を蔑視し、其の遺篇を斥売して、顧みざるものあり。 随て古書旧記の減耗、日に甚しく、後代の学徒をして、殆 其の依拠を失はしむ。 豈 遺憾の極ならずや。 今 僅に存する一百九十余家(これは、明治30年の初版に載せた人数であろう。この改訂版では210名。)の書を得て、順次列載して、之を中編と為す。




栗田栗里

 諱を寛と云ひ、字を叔栗と呼ぶ。 八十吉と称し、利三郎と改め、栗里 又 蕉窓 或は 銀巷と号す。 初め 石河明善に従ひて経史を学び、後 豊田松岡に就きて国史を問ふ。 安政五年、彰考館に入り、後 出でて朝廷に仕へ、明治三十二年 没す。 年 六十五。
〔附言〕 健(正健、私) 年十四、始めて栗里先生に謁して、其の教を請ふ。 爾来 離合就不就 常なしと雖も、或は親しく言貌に接し、或は遠く簡牘に依りて、其の教誡愛養を被ぶること、殆ど三十年。 先生の学行に於て、粗 窺ふことを得たり。 先生 幼にして穎悟、甚だ読書を嗜み、日夕 巻を釈かず。 年十三、神器説を作りて、時人を驚す。 時人 称して神童と云ふ。 年二十歳、始めて彰考館員に列し、豊田天功(目次では豊田松岡)に属して、大日本史志類の校訂に従ひ、大に其の業を輔けたり。 天功没するに及びて、其の後を承け、慨然として修史の業を以て、己が任となし、専心一意、他を顧みず。 是を以て 水藩甲子以来の党難(文久4年、1864年、甲子の年に、水戸藩尊皇攘夷の急進派が天狗党を名乗って挙兵した事件。藩内守旧派との対立が深刻化した。)を免れ、常に彰考館に在りて、補訂の業に鞅掌す。 明治初年、反正(明治維新による平和の回復)の通に会ひて、大に当路の信認を得、新に論建して 豊翁の六志を校刊す。 兵 刑法 二志を終へて 仏事志に及べり。 時に 廃藩の令下りて、中止の不幸を見る。 先生の遺憾 想ふべし。 尋いて朝命あり。 教部省に仕へて、特選神名帳の編修に任じ、書僅に成りて、忽ち廃官に遭ふ。 転じて修史館員に列す。 蓋し 先生の本志に非ざるなり。 幾ばくならずして 辞し帰り、旧主の委嘱によりて、再び彰考館を開き、仏事志を刊終し、職官 氏族 二志を校刻す。 当時 健も亦 館に在りて、親しく先生筆削の状を見る。 先生 古書堆裏に端座して、終日矻々、左捜右索、彼此考証、筆動きて止まらざるの状、宛然 目に在りて、今に忘れ難し。 先生 又 音楽志を草し、礼儀志に併せて 礼楽志を刻し、食貨志を改定し、神祇志を起稿し、共に剞劂に付し、延いて陰陽志の校刊を了へ、又 国郡志を修めて殆ど成り、将に校刊せむとするに臨み、溘焉(にわかに)簀を易ふ(亡くなられた)。 噫(ああ) 天 何ぞ 我が栗里先生を奪ふことの、甚だ急なるや。 先生 此の間 元老院に入り、又 大学に教授たりと雖も、修志の念は 一日も其の胸中を離れざるなり。 即ち 先生の学術は 志類の編修と相伴へり。 健 私に謂ふ、日本史紀伝、其の編修に従事せしもの幾十家、其の能く之を大成せしは、澹泊先生(安積澹泊)一人のみ。 日本史志表 其の纂録に拮据せしもの幾十人、其の能く之を集成せしは、栗里先生一人のみ。 前に澹泊先生あり、後に栗里先生あり、義烈両公の志願 粗 果せりと云ふも、敢て溢美の言には非ざるべし。 先生 彰考館に出入する四十余年、精敏の資、強記の性、加ふるに強勉の力を以て、館閣数十万巻の書、窺はざるものなし。 是を以て、考証の精、論断の確、殆ど人をして驚絶せしむ。 …<中略>… 是を以て、余 先生に接する毎に、其の議論の正大、学術の宏博、考証の精緻を仰ぎ、首 地に至らざるはなし。 特に 先生の意気軒昂、議論風発するにあひては、劣弱 健等が如きも、志気 自から 奮興するを覚ゆ。 然るに 明治丙申の歳、国郡志 改定の際、故ありて館務を辞し、去りて地方に遊べる後、俄然 先生の訃に接す。 嗚呼 天なる哉 命なる哉。 幽明永く隔たりて、再び先生の音容に接する能はず。 此の恨 綿々 何ぞ窮りあらむ。 今 余 江湖に漂泊して、先生の学、一も之を発揮する能はず。 只 口舌を以て耕織に代へ、碌々生を貪りて、徒に道塗に老ゆるのみ。 先生 地下の霊に対して、忸怩の至りに堪へず。 往事を回想して、一言を加ふること、此の如し。





下編 〔前言〕


 提封三十五万、常北に雄視するを、水戸藩と為す。 藩の領する所、常野二州八郡の地に跨りて、五百余村 数十万口を有す。 是を以て、慶長以来、襲封三百年間、其の域内に生長老死するもの、幾百万人なるを知らず。 時に秀才ありて、其の間に崛起するときは、忽ち藩府の羅致する所となり、民間 常に遺才あることなしと云ふ。 然りと雖も、羅を張りて鳥を待つ、猶 漏脱なき能はず。 人事も亦 此の如きものありて、民間 猶 逸士を留めて、意気高遠、威武も屈する能はず。 富貴も 移す能はざる 鈴木松江、木村子虚が如きあり。 敢て仕を求めざる 宮本篁村 茶村が如きあり。 郷人に教へて 倦まず怠らざる 関一陽、加倉井砂山が如きあり。 或は 錦心繍腸を有し、或は 考証学術を懐き、去りて地方に遊べる 大窪詩佛、中山柳洲が如き有りて、其の述作編集の書、後人を裨益するもの少しとせず。 加之 郷士、藩吏、町村医、神官、釈徒の書も、亦 見る可きもの無きに非ず。 今 之を包括して、下編と為す。 これ 好みて士庶の別を立て、妄りに学者を軽重するには非ざるなり。 藩士に藩籍ありて、其の進仕年序を詳にするときは、之を以て一類となし、次第せざるを得ず。 民間諸士に至りては、系譜の設け少くして、時歴の明ならざる者多し。 これ 亦 一類となし、別録せざる可らざる所以なり。 読者 宜しく此の意を諒し、余を以て妄作せりとする勿れ。






〔後記〕

 健(正健、私) や 頑陋、円転の才なく、滑脱の術あらず。 事に莅(のぞ)みて、唯 専心一意、他を顧るに暇あたず。 是を以て、世人 よく容るゝ能はざるが如し。 明治壬午の歳(明治15年、1882年)、栗里先生の選を以て、始めて彰考館に入り、職官志の校訂に与り、相継ぎて氏族 礼楽 二志に及び、食貨志改稿の時に当りては、新に倉庫、簿帳供御、封禄、山野河海、荘園等の目を設けて、之を起草せり。 神祇志 社殿、神官、斎服等の条、亦 皆 此の如し。 当時 其の余力を以て三百余部の古記を渉猟して、延喜以後明徳以前の詔勅 符宣を輯めて、勅符纂二十五冊を編み、又 奏解 移牒等を纂めて、付録二十冊を加へ、又 下文 御教書 下知状 裁許状の類を収めて、別録十五冊を加ふ。 自ら信ず、延喜格以後、官符の公文、粗 之を網羅せりと。 陰陽志の修正に至りては、西土(中国)天文志 五行志の例を参考にして、検討小言あり。 国郡志の改定に及びては、荘保考証を修めて、私に志文を補ふの意ありしも、当時 館を退かざる可らざるの不幸に遭ひ、僅に畿内五国を草して、四巻の稿本 粗 成れるのみ。 是より先き、校志の暇を以て、諸表の体裁を考へて、表目考あり。 公卿表は、摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議 とす。 後 准大臣 即ち儀同三司を加へて、又 除く。 国司表は、別に郡司を加へて、国郡司表と改め、国司は守介掾目、郡司は大領小領主政主帳を列ね、年表を改めて国表とせり。 蔵人検非違使表は、初め 蔵人頭 検非違使別当をのみ掲げしが、後 栗里先生の意を承け、蔵人は五位六位に及び、検非違使は佐尉を加ふ。 但 蔵人別当は、載否未定に属し、検非違使志は、書に見ゆるもの寡きを以て、姑く之を欠けり。 将軍僚属表は、将軍、執権、政所執事、問注所執事、侍所別当、六波羅、探題 を標し、将軍の条に、大事記を載せ、政所執事の中に、評定 引付 二衆を加へ、別に 守護 の目を立て、略 国郡司表に準ず。 皆 其の書法を 西土の諸表に考へて、之を写生に口授して、以て掲載せり。 此の他 遼史皇族表に倣ひ、皇親表を定めたれど、後 議ありて 之を廃し、史記秦楚之際月表に倣ひ、南北之際月表を草せんと欲して、未だ成らず。 館を辞するの止むを得ざるに遇ふ。 嗚呼 余 彰考館に在る 凡十有五年、一朝 辞し去りてより、館閣数十万の書、之を見る能はず。 十志の成功、之を見る能はず。 五表の完成、之を見る能はずして、此の遐壌僻陬に退かざる可らざるに至りしもの。 天か 将 人か。 天意茫々 測る可らず。 人心幽玄 窺ふ可らず。 唯 浩嘆に付して止まむのみ。 今 文籍考を修めて、終りに臨み、覚えず往事を追懐して、贅言を加ふること 此の如し。 明治三十年、羽北 秋田の客居に於て、之を識す。

 今 茲(ここに) 大正十一年、遡りて明治に至り、其の第三十年を回想すれば、春去秋来、既に二十五年所を経過して、前事茫然、殆ど隔世の感なきを得ず。 曾て未完を嘆ぜし荘保考証も、今は増補校訂を加へて、全四十冊となり、勅符纂は、名を替へ形を変じて、蒐集する所、一百五十余冊に及べり。 茲に於て、余 竊に謂(おもへ)らく、運命の去来は、人為を以て、之を左右すべからずと。 又 文籍考の再刷は、余が期せざる所なりしに、頃者(ちかごろ) 懇に刷出を乞ふ者あり。 是れ亦 時運の然らしむ所か。 之に違ふは不祥なりと、大に改訂を施して、其の厚意に答ふ。 故に 之を定本として、前刷冊子は、丙丁童子に投与せられむことを臨む。




参 考




森鴎外による 本書の抄録

 森鴎外(文久2(1862)年~大正11(1922)年)が、本書の抄録を作成している。
 東京大学の「鴎外文庫書入本データベース」における、「水戸文籍考抄本/淸水正健 撰[写本]」(請求記号: 鴎A10:210 )が それである。
 ただし、この「改訂版」の抄録ではなく、明治35(1902)年発行の初版本の抄録である。 (鴎外は、この改訂版の発行された年、発行の5か月前に亡くなっている。) 上掲「水戸文籍考 例言五則」の第一項に「刷出 僅に三百部」とあり、初版本は 当初から希少本であったため、鴎外は どこからか借用して 抄録せざるを得なかったのであろう。 上・中・下の三編にわたり、かなり丁寧に毛筆で写されており、全て38頁に及んでいる。
 鴎外が この抄録を作成したのは、「寿阿弥の手紙」(大正5(1926)年発表)執筆の参考資料とするためであったと考えられる。 寿阿弥とは、史伝「渋江抽斎」中に、抽斎が趣味としていた演劇関係の友人として登場する人物で、通称は真志屋五郎作(ましや ごろさく)。 「寿阿弥」は、晩年 出家・剃髪した後の号である。 鴎外は、この人物に特別な興味を感じていたところ、ちょうど古書肆で その手紙を入手し、そこに示された文章の技倆が 「馬琴、京伝に譲らぬ」ものであったので、非常に感服した。 そこまでは、「渋江抽斎」中に述べられている。 しかし鴎外は、その手紙の内容を 読者に具体的に紹介したいと考え、「渋江抽斎」の完結後、改めて独立した文章「寿阿弥の手紙」を執筆・発表したわけである。
 真志屋とは、菓子商としての屋号で、水戸家の用達であったという。 鴎外は そのことから、伝承を調査し、その家の先祖の娘が水戸家に仕えて 殿様の胤(たね)を宿して家に下げられ、以後の庇護を受けるに至った経緯を考証している。 その経緯には、水戸家にとっての暗部とも言うべき 藤井紋太夫殺害事件なども関連付けられていて、甚だ興味深い。 これらの記述に、当時の藩主の相続、名、没年などが併せて記載されているわけであるが、その根拠として 本書の上編が利用されたのではないかと考えられる。
 結果的に、利用されているのは 抄録中のほんの一部にすぎないわけであるが、鴎外は 本書の有用性を認め、その要部を常に身近に備えることとして、抄録を作成したのであろう。



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