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目 次 


 第一章 総説
  第一節 文字
  第二節 仮名ヲコト点
  第三節 文章
  第四節 仏教の国文学に及せる影響
  第五節 紙、書体、印刷、巻冊

 第二章 古写本
  第一節 序説
  第二節 支那渡来の古写本
  第三節 日本人が支那の古籍を転写せるもの
  第四節 支那人の写本其日本転写本
  第五節 和書の転写本
  第六節 日記類の古写本

 第三章 写経
  第一節 勅旨経御願経、知識経
  第二節 奈良朝以後の写経
  第三節 平安朝後期の写経

 第四章 刊本
  第一節 序説
  第二節 仏書刊本
  第三節 非仏書刊本
  第四節 古活字版時代
  第五節 西洋系統の活字版伝来
  第六節 ジェスイト派基督教の流行
      其活版印書業

  著者略歴



和田萬吉
「日本書誌学概説」


 昭和19 (1944) 年1月、 有光社。
 A5版、本文 314頁。


 本書は、著者・和田萬吉 (↓略歴) が 東大文学部等で長年講じた書誌学講義のテキストと考えられる。 書籍に関する我が国の伝統的知識を集大成するとともに、西欧の書誌学(bibliography)の体系や方法論も採り入れているようであるが、伝統的知識の具体的論述の方が色濃く出ているのが 特色であろう。
 著者の逝去から10年後の出版であるが、章・節の構成や 細部にわたる整理が行き届いているのは、受講者への配布用印刷物などの形で 既に原形が出来ていたのであろう。 第一章から第三章までは文語体で書かれ、第四章は口語体で書かれているので、文案自体は かなりの時間をかけて 少しずつ作成されたようである。
 著者略歴 (本書 目次の後に掲載)
 慶応元年生。 明治二十三年 東京帝国大学文科大学国文科卒業。 東京帝国大学文学部教授兼付属図書館長。 文学博士。 大正十三年 退職。 退官後、東洋文庫顧問、商大、国学院、法政、東洋 各大学講師たり。 昭和九年没、享年七十。 著書に 謡曲物語・謡曲選釈・能と謡・古版地誌解題・近世画家在世年表・図書館管理法大綱・図書館史・モンタヌス日本誌(訳)・馬琴日記(校訂)等 あり。


 「本文の一部紹介」 としては、読物としても興趣の深い「第四章 刊本」の部分を取り上げ、その中の
(1) 「第一節 序説」の前半の 百萬塔陀羅尼 に関する部分。
(2) 「第四節 古活字版時代」中の 「徳川家康の活字版事業」 の主要部分(抄出)。
(3) 同じく 「豊臣本直江版の活字本」 の部分。
を掲げる。
 百萬塔陀羅尼は 世界最古の印刷物として知られているが、その最古とされる根拠がしっかりと説明されている。 (なお、「第一章 総説 ・ 第五部 紙、書体、印刷、巻冊」中の「三、印刷」の項にも、重複した説明がある。)
 徳川家康(1543~1616)は 学問を好んで早くから集書に努めていたが、ほぼ権力を掌握することになった関ヶ原の役(慶長5年、1600年)前後から その刊行事業を開始し、死の直前まで続けた。 ここには、刊行内容のすべてが具体的に示され、その個性的な業績が明らかにされている。
 先んじて天下人となった豊臣秀吉には、権勢を誇示した事業や振る舞いが多いが、書籍の刊行などは思いもよらぬことであったろう。 嗣子・秀頼(1593~1615)の代に家康の圧迫・脅威を感じた豊臣方は ようやく その刊行事業に注目し、対抗した刊行を行なうに至ったが、絵入り本は、幼主にふさわしい書を選択した結果か。
 直江兼続(1560~1620)は、戦乱の世にあらずんば 学者・文人として大成したであろう知識人であるが、主家・上杉家の関ヶ原での敗北、米沢への転封などの難局を身を挺して支えた後、「文選」を刊行したというのは、なんとも優雅である。


本文の一部紹介





第四章 刊本
 第一節 序説



 本邦に刊本が起つたのは佛書である関係から、先づ佛書の刊行史を見て 次に外典即ち経書詩文其他に及ぶことにしよう。
 古代の刊行佛典は 奈良朝の百萬塔所収陀羅尼(無垢浄光経の)を以て最初とする。 此頃又は此頃より少し以前に 摺衣の法を知つてゐた所から、陀羅尼の版行に想付いたものであらう。(これは 和田の創見ではなかろうか。) さて 此陀羅尼の版が普通の整版か又は銅活字かとの説 区々不定なれど、刊本を考付く当初より活字版を創意することは先づ有り得ぬ事であり、外国の例を見ても 活版の前に多少の年数を木版に費してゐるから、本邦の最初刊本が直に活字で行はれた事は思得られぬ。 但し 現存陀羅尼の本を見るに、或は文字が左右に傾斜し 或は行が取次しどろになつてゐるから、単独の生活を有つ活字を植ゑたものであらうと思ふであらうが、是は木版に彫刻も創始の事なれば、後世の整版の如く熟さぬが故に 自然文字の彫方が整はず、行の中心も定まらぬやうになつて居るものと考へるのが穏当であらう。
 西洋の活版術は比較的突如として起つた様であるが、短いといつても其以前六七十年位の間は木版即ち block printing が行はれた。 然れども 是は西洋人には厄介な仕事であつたと見え、多数の出版は木版では作られなかつた。 偶々出来た本は 本と云ふ程のものでは無く、一枚二枚の小印刷物(例へば羅馬法王の特許状など)を主とし、最も多く用ゐられたのは playing cards (骨牌札)であつた。 其内に 数十頁の小冊子などが少しあらはれた。 とにかく木版本と云ふものは 西洋では極めて稀覯である。 併しながら絶無ではない。 此木版の不便利に疾く考到つて 活版の創製に苦心の結果、西暦一四五〇年(一四五?年)に マインツのグーテンベルグなどが発明者となつて現はれた。 活版の発明家の先後については 永い間論争が続いたが、結局グーテンベルグが古く、而も其弟子或は共同営業者等の数名が他に移つて殆ど同じ頃に印刷所を開いたのが 独逸国内のみならず伊太利や和蘭あたりに出来たので、本家争ひが生じたのである。 有名なる英国の Caxton などは 稍々遅い時に出たのであるが、英国に於ける活版の最先業者たることは疑も無い。 且つ時代が後れただけに 技術は進歩した形跡を見せて居る。
 西洋の活版術が一四五〇年頃とすると、日本の活版が宝亀元年(西紀七七〇年)に創造せられるのは 余りに古きに過る。 本邦文物の祖道である支那や三韓にもまだ活版の談の無いのは愚か、整版さへ形を見せぬ。 支那で印書の起源は唐の末かと云ふに帰結して居るとすると、宝亀年代には 本邦人一般には木版の術は未聞であつたらう。 若し木版の書物が奈良朝に於て本邦に舶載されて居たならば、其一二部が稀世の珍物として 東大寺の正倉院などに止められてあつたらうが、さやうな物は片影だも無い。 先は日本の宝亀より以後に(支那の唐末に)木版術は彼国で創意されたらしい。 近来 敦煌の発掘物中に唐代の刊経があることが分つたが、年代は我宝亀より稍々後である。(英国の学者・スタイン (A.Stein,1862-1943) が敦煌で発見した 唐の咸通9年(西暦868年)の版行日付を有する『金剛経』が、中国最古の印刷物とされている。) されば 刊本としての陀羅尼は 何としても世界的の驚異であらう。*
 * 〔参考〕この点に関しては、中国の学者・黄 寧の著書『印刷術的発明故事』(1952年、上海・大中国書局 刊)にも、同趣旨の記述がある。
 百萬塔の陀羅尼は 四種ある。 自心印、相輪、根本、六度 である。 処(ところ)が 此の四種の中、初の二種が最も多く刷られ、根本は稍々少く、六度は極く少い。 而も 自心印も相輪も版木は数枚あつて 字形などに相異がある。 何にせよ 幾十萬を刷立てるに 数枚の版木を同時に使用は 有り得る話である。 百萬塔の一々に収めたのであるから 印刷部数は少くとも四種合せて百萬枚に上つた訳である。 然るに 百萬の小塔を十大寺(東大、西大等)分附されたに不拘(かかわらず)、諸寺の分は早くに亡散して、只今は法隆寺一箇処に残つて居るのは不思議である。 それでも六度陀羅尼に至つては 僅に一枚を止めて 寺宝として居る位である。 自心印、相輪の類は 数部を有する。
 さて 陀羅尼の刊行はさやうに古かつたのであるが、其後 刊書の業は永く休止し、仏典も儒書詩文集類も曾て刊行せられず 専ら奈良時代以前の昔に返つて 写本のみで世に伝へることであつた。 処が平安朝の中葉以後になつて 多数の経巻を 或一時に作る必要から起つて 此に刊書の業が再興をすることになり、先例によつて 木版を作つて 経典を複製自在にするに至つた。 但し 此時は既に支那の宋代の刊本が音にも聞え目にも見えるやうになつて居たのである。 多くの民衆の中には 宝亀の陀羅尼の事などを全く忘れて居たものもあらう。
<…以下略>





徳川家康の活字版事業


 以上(小瀬甫庵の活字本、寺院出版の活字本、後陽成天皇の勅版活字本など)は 市版にしても勅版にしても京都の出版であるが、之に衝動せられて関東の武家でも活字版を出すことになつた。 其率先者は 徳川家康 其人である。 是より先 家康は 文教を以て国を興し兵事気分を一掃せんとする志があつて、慶長に入る頃から京都より五山の僧を招き 又公卿の歌学者等を呼んで 和漢の学を講ぜしめ、又古来の逸書を集める事に苦心し、金沢文庫の蔵書其他公家、寺社、旧家の蔵書を写し、或は之を手に入れ 駿府の文庫に入れて保存した。 後に江戸城内の富士見の文庫、それから楓山の文庫に移した。 書籍の出版の大切な事に著想したのも 古書の採訪蒐集によき程の経験を有ち 相当の興味を得てからの事である。 家康が 織田、豊臣二氏と違つた方面からも政治をしようと著眼したのは 偉い所である。 前二氏は武力一点ばりであつたが、家康は文事を以て人心を収めようとした。 為に 竝々の覇者と選を異にする所が窺はれる。 但し 信長秀吉のあらごなしの了つた後に出たのが、特に幸福であつたのは勿論である。 集書の初に採訪し得たものは 律令、令義解、侍中群要抄、故実抄、左氏伝、旧事記、古事記、六国史、類従国史、弘仁貞観延喜式、百練抄、江家次第、政事要略、姓氏録、古語拾遺、本朝文粋等の 古典又は宋元版の書である。 家康は 百方採集の書を 京都の五山等の僧侶の筆書に巧なる者を二条城に集めて 謄本三部を作らせ、一部を禁中に紊め、他の二部を駿府文庫、江戸城文庫に入れ、古書の廃残を防ぎ 新政府の諸法度制定の料とした。 図書の蒐集には 金地院(南禅寺)の崇伝(本光国師)(1569~1633、臨済宗の僧)、林羅山(法号・道春、1583~1657)の力が最も多い。 写本の僧は数十人の多きに及び、崇伝の董督下に公家の古記録の謄写に力めた。

  (一) 孔子家語 四巻四冊 慶長四年(1599年)
     (刊行趣旨に関する漢文跋語が掲げられているが、省略。以下 同じ。)

  (二) 三 略  一冊 慶長四年刊

  (三) 六 韜  二冊 慶長四年刊

  (四) 三 略  一冊 慶長五年刊

  (五) 貞観政要 十巻八冊 慶長五年刊

<中略>

 かくて 関ヶ原役(慶長5年、1600年)の後は 家康も経営多端の為に四五年刊書に手を著けなかつたが、慶長九年(1604年)に至て 復び 三要(三要元佶。?~1612、足利学校の校主で、前記各書の刊行責任者。)をして活版事業を起させ、又

      三 略  一冊 慶長九年刊

      周 易  六巻六冊 慶長十年刊

を 出した。 <中略> 引続いて

  (一) 東 鑑  五十二巻三十冊 慶長十年刊

  (二) 周易古註  六巻六冊 慶長十年夏刊

  (三) 七 書  二十七巻七冊 慶長十一年刊

を 刊行した。

 以上 元佶(前出の三要元佶。)開版の活字は 円光寺活字(伏見版活字)と云ふ。 円光寺は 元佶の後嗣が京都にて徳川家より賜はつた一乗寺村の寺で 今尼院として存す。 元佶在住の時は 学校として僧俗の入学を許した。 家康の命で 元佶が師範となつた。 但し円光寺は 是より先 伏見に在つて、後 京の相国寺内に移り、寛文七年 徳川氏より一乗寺村の地を下賜、朱印二百石を付与と云ふ。 今 同寺に活字の残存がある。
 又 約十年休んで

      大蔵経一覧集  十一巻十一冊 慶長二十年(1615年)

を 出した。 是は 幕府の建立に当つて天海僧正(1536~1643、天台宗の僧)が大に尽力したが、其天海が明版の本を家康に示して公刊について請ふ所があるに任せて、官費を以て刊行させたもので、家康は各大寺に一部づゝ頒つたら利益があらうと謂つたさうである。 さて此度は 木活字の久しきに堪へぬことを覚つて 大仕事ではあるが、朝鮮のやうに銅字を以てしようと思ひ 朝鮮より分捕の活字の不足を補ふ為に 大小二様の銅字を鋳造させた。 それには文字の知識ある者を要するので 特に京都から五山の僧侶や職人まで召寄せて大規模の役所を作り、董督には例の林道春(前出の林羅山)、崇伝(金地院)(前出)、三要の嗣法(後継者、すなわち足利学校の校主)寒松(1550~1636)などを置いて従事させた。 此序に 帝王学の参考書とも謂ふべき

      群書治要  四十七巻四十七冊 元和二年(1616年)

を 同じ銅活字を以て刊出させた。 然るに 家康は其本の成るを見るに先だつて死んだ。 それ故 印刷した本も配布されるに至らず、出来上りのまゝ駿府の蔵に納まつてあつた。 後には 江戸楓山文庫(幕府の文書館)に移された。 但し 此書は早く故国支那に亡び、日本に夙に伝はつて 金沢文庫本などが頗る大切なものになり、それを母本として此度覆刊したのである。 支那に逸した書を本朝で公刊した事は 文献史上に特筆すべきである。 併し 昔日本に伝はつた時から 既に五十巻の完本は無く、三巻を逸して四十七巻になつて居たことは残念であるが、此は致し方も無い。 後年 此元和活字本を覆刊したものが、若干部支那に渡つて大に好学の人を嬉しがらせた。 是は一佳話で 日本人が鼻を高くし得ることである。
 右(上) 「大蔵一覧集」「群書治要」刷立の様子は 「御本日記」等を援いて 近藤守重(重蔵、1771~1829。11代将軍・家斉時代の書物奉行)「右文故事」に詳述されてある。 徳川幕府の活版事業は 初祖家康一代に止まつて、元和二年以後は全く休止になつた。 此事だけでも 如何に家康が治道に心を注いだかが判る。 創業の人の価値は 此う云ふ処にもある。





豊臣本直江版の活字本


 徳川家康の活字版に範を取つて 二人の武家が やゝ大部の活字本を開行した。 其一は 豊臣秀頼であつた。

    帝鑑図説  元 張居正撰  慶長十一年(1606年)三月  承兌跋

 当時 秀頼はまだ幼冲(幼稚、おさない)であつたが、承兌(?~1607、臨済宗の僧)の跋文(原漢文。訓読文で示す)によると
 ちかごろ 右相府(右大臣)秀頼公、此の書を見るに及び、之を手にし 之を口にして、寅夕あさゆう 披覧せざること無し。 すなわち 工に命じて梓(版木)に刻み、其の伝を無窮に寿ひさしからしむ。
と云つて居る所を見ると、秀頼の意思に出て刊行のやうに思はれるが、実は本人の学問の師たる五山僧などが、曩(さき)に家康が「貞観政要」を出版したのに対抗の意味か何かで、豊臣家でも帝王学の書を刊出したらばなどと申し勧めて 出版を起させた事であらう。 十三四歳の幼年者が 出版事業を思立ちさうにも見えぬ。 併し とにかく慶長十一年に 秀頼の仕事として本書が活印された。 本書は 図と文とを交互にした、即ち絵入本である。 今一(いまひとり)は 上杉家の客将 直江山城守兼続(1560~1620)である。 即ち

   直江版 文 選  六十巻三十冊  慶長十二年丁未年(1607年)

で、是は兼続の富を以て 銅字を作つて印刷した。 古版「文選」は数々あるが、就中 直江版は整斉の評がある。 本書は久しく足利学校の宋版「文選」を覆刊したことに誤認されて居たが 実は足利本、宋版には巻末に宋人廬欽の跋文が無いのに、直江本に之有るのを見ると 兼続が此序(ママ)のある別本を入手し居りて それを覆刊したことは争はれぬ。 但し 直江本を以て寛永九年に重刊した「文選」活字本があるから、それと混じてはならぬ。 後本には無界(無罫)であること及び「寛永九年乙丑孟夏上旬板行畢」と云ふ刊記があることが 明に前者即ち真の直江本(有界(有罫))から区別する。 此大部物を全部銅字で印行するには非常の費用を要したものであらう。
 以上二書の外には 武家有力者の刊書は見当らぬ。 畢竟 資力があつて学問を好んだ武人と云ふ者が滅多に無かつた故であらう。






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