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「常山紀談抄」 目 次


   常山紀談解題

  一 長尾輝虎越後を治められし事
  二 佐野天徳寺の事
  三 毛利元就厳島合戦 盲人間者の事
  四 太田持資歌道に志す事
  五 桶はざま合戦今川義元討死の事
  六 柴田勝家水缸を破りて城を守りし事
  七 山内一豊馬を買はれし事
  八 鳥居強右衛門忠節の事
  九 酒井忠次鴟巣城を乗り取られし事
 一〇 明智光秀信長公を弑する事
 一一 森蘭丸才敏の事
 一二 明智秀俊湖水を渡して坂本城に入る事
 一三 小寺黒田始末の事
 一四 志津が嶽合戦秀吉智謀の事
 一五 竹中重治の事
 一六 前田利家末森城後巻合戦の事
 一七 本田重次強諫の事
 一八 信長公平手政秀を惜しみ給ひし事
 一九 立花道雪行状の事
 二〇 新紊武蔵守剛気の事
 二一 関白鶴ヶ岡参詣の事
 二二 蒲生氏郷大志の事
 二三 豊臣関白五腰の刀の主を察せられし事
 二四 浅野長政諫言の事
 二五 栗山利安倹約の事
    日根野備中守黒田家に銀を返す事
 二六 石田三成が事
 二七 直江兼続が事
 二八 石田三成直江兼続密謀の事
 二九 関ヶ原合戦島左近討死の事
 三〇 大谷吉隆平塚為広最後合戦和歌贈答の事
 三一 細川忠興の北の方義死の事
 三二 伏見落城の事
    鳥居元忠雑賀孫市を饗されし事
 三三 田辺城勅命により和平の事
    細川幽斎古今集伝授の事
 三四 石田三成生捕らるゝ事
 三五 浮田秀家八丈島へ配流の事
 三六 小早川隆景遺訓の事
 三七 佐竹義宣国替の事 車野丹波が事
 三八 越後国一揆堀直寄武功の事
 三九 大久保忠隣忠直の事
 四〇 天野康景廉潔高国寺の城を去られし事
 四一 井上正就駿府へ御使の事
 四二 東照宮諫言を容れ給ひし事
 四三 加藤忠広物語 飯田角兵衛が事
 四四 黒田如水遺言の事
 四五 紀伊大紊言頼宣卿諫言を歓び給ふ事
 四六 永井尚政執政の用意を直孝に問はれし事
 四七 松平信綱恭敬の事 信綱幼年奉公の事
 四八 柳生宗矩剣術御師範の事 宗矩先見の事
 四九 板倉重宗京都所司代の事
    板倉勝重器量の事
 五〇 重宗訴訟を聞かれし事
 五一 板倉重矩の事
 五二 石川重之功名 隠遁の事
 五三 直江山城守閻魔王に書を贈りて訴訟人を斬る事
 五四 土屋数直執政の事 土屋忠直成立の事
 五五 塚原卜伝剣術鍛錬の事
 五六 熊沢了介の略伝
 五七 小櫃與五右衛門会津神公を諷諫せし事
 五八 水戸義公御事業の概略
 五九 権現様豊臣太閤に御対面の時の事
 六〇 武辺は律儀者にありといふ事
 六一 稲葉一徹文学に依つて死を免れし事




東京高等師範学校付属中学校 国語漢文研究会・編
「常山紀談抄」


 明治42 (1909) 年2月 訂正再版、 宝文館。
 (初版は、明治41年10月)
 活字印刷、線装、1冊。  縦 22.3 cm、横15.0cm。 本文 168頁。


 「常山紀談」は、江戸時代中期の岡山藩儒・湯浅常山(名は元禎、1709~1781)が著わした 戦国時代から江戸時代初期までの名将・策士の言行や逸話などの集録で、平明な和文による470ほどの小話を収めている。
 本書「常山紀談抄」 は、その中から 61話を選んで、当時の中学校向け教科書(国文読本)としたものである。 「常山紀談」の原書よりも この抄本の方が広く読まれたことは確かで、この抄本が 「常山紀談」の名を高めた と言うこともできよう。


 「一部紹介」 としては、この抄本編集者の執筆になる「常山紀談解題」と、本文中の次の8話を掲げる。
 「四 太田持資 歌道に志す事」
 「七 山内一豊 馬を買はれし事」
 これら二つは 一般的によく知られた話であるが、知られるに至ったのは まず「常山紀談」のこの記述によるところが大きいと思われる。 「常山紀談」を淵源とする著名説話の典型と言えよう。
 「一二 明智秀俊湖水を渡して坂本城に入る事」
 明智秀俊は 明智光秀の親族で、二人は強い信頼で結ばれていた。 秀俊は 光秀の信長弑逆への思いを理解して 行動を共にし、光秀が 秀吉の弔い合戦で敗死した後は、単騎 光秀の居城に戻り、その妻子を殺して火を放ったうえで、自害した。 悲惨な結末ではあるが、光秀のために その一族の最期を整えたのである。
 「二九 関ヶ原合戦 島左近討死の事」
 島左近は 石田三成配下の猛将で、槍の名手として知られていた。 関ヶ原合戦で、左近は 黒田長政と対峙したが、黒田軍の鉄砲による先制で、あっけなく倒されてしまった。(即死かどうかは不明) 後の黒田家内での懐旧談で、その時の左近の武装がどのようなものであったか 話題になったが、記憶している者はいなかった。 そこで かつての敵で今は黒田家に召し抱えられている連中を呼び出して 確認したところ、武装のみならず 左近側の接近戦闘作戦も明らかになった。 「其の時 横合より鉄砲にて打すくめずば、われらが首は左近が槍にさし貫かれなん」と 改めて胸をなでおろしたというわけであるが、ここに関ヶ原合戦における戦闘の実態が見える。 また、合戦全体の経過なども、このように種々の情報が総合されて 次第に明らかになっていったのであろう。
 「三九 大久保忠隣 忠直の事」
 大久保忠隣は 早くから徳川家康に従ってこれを補佐し、幕府創業に至らしめた 功臣である。 とくに関ヶ原合戦の際は、後嗣・秀忠の戦場への延着を家康が激怒し、対面すら拒んだのを 必死で弁護、説得し、父子の関係修復を図った。 この「三九」話の前半は、そのことの記述であるが、後半は 秀忠の代に至って競争者・本田 (本多) 正信の讒言により流罪となったことが述べられている。 理不尽な結果であったが、忠隣は 将軍の名望に傷がつくのを慮って 抗弁しなかった、というのである。 「忠直」 たるゆえんである。
 「四〇 天野康景 廉潔 高国寺の城を去られし事」
 天野康景も、名利に執着せず、潔く身を処した人である。 話の主旨は、盗人を成敗した部下(足軽)が 罪に問われるのを回避するために 禄を辞した、というのであるが、駿府すなわち徳川家の直轄地における、代官・井戸某(住民擁護)と城郭造営責任者・天野(資材管理)との対立という構図での 出来事である。 家康の意を受けた 仲介の本多正純 (本多正信の長男) も、代官の肩を持ったようであり、天野は この対立をも一挙に解消すべく、禄を辞したと思われる。 最後に、この天野康景を大久保忠隣 (失脚以前のことであろう) が保護したことが付記され、清廉な共通点が印象づけられている。 なお、この話は 室鳩巣の 『駿台雑話』 にもあるが、細部がやや異なり、忠隣との関わりには 触れられていない。
 「五三 直江山城守閻魔王に書を贈りて訴訟人を斬る事」
 沈着冷静な直江兼続が、意外に乱暴なことをしたものであるが、話全体がきわめて不自然で 疑わしい。 実話とすれば、実務能力の高い兼続のことであるから、対処不能の要求の中に何か奸計を見い出したか、あるいは 要求自体を公務に対する悪質な妨害と判断したか、のいずれかにより、迅速・果断な処置をしたものであろう。
 「六一 稲葉一徹 文学に依つて死を免れし事」
 それぞれの話は時間的順序に従っていないため、この話は 信長の時代に戻っている。 戦乱の続く中 茶の湯が大流行したので、その席での暗殺が仕組まれるようなことも あったわけである。 武人にして茶を嗜むのは 普通のことであったから、人物の品格が評価されるには、この稲葉一徹のように 文学などの更なる教養が必要であった。



一部紹介





常山紀談解題

 常山紀談は 湯浅常山の輯録する所にして、上は 永禄・元亀・天正の頃より、下は徳川治世の始に至るまで 凡そ五六十年間の 将校士卒に関する 武功・逸事・奇聞を収む。
 其の用意を視るに、当時の時勢、国初の風俗、武人の言行を記録し、後の人をして 反省 修養に資せしめんと欲して 編輯したるが如し。 故に 此の書を繙くときは 啻(ただ)に興味を感ずるのみならず、能く当時の人情 風俗、武士の心掛等を知ることを得て、頗る精神教育に益あるものなり。
 著者 常山は 岡山の藩士にして、其の名を元禎といふ。 宝永五年(二三六八(皇紀。西暦1708年))に生る、伊物(伊藤仁斎と荻生徂徠)の説を悦ぶ曹子漢(八田龍渓、1692~1755)に師事し、古学を岡山に唱ふ。 後 数回 江戸に遊びて、服部南郭、太宰春台等の名士に交り 郷に帰りて禄を受く。
 常山 親に事(つか)へて至孝、官に事へて方正、身を忘れて国に殉ず。 晩年 直言を以て忌諱に触れ、退隠の身となる。 文を好み 武を愛す。 常に曰く 「武士たるものは 寧ろ文事を廃すとも、武事を廃するなかれ」 と。 故に 其の文、古名将の事を記するもの多し。 此の書は即ち 其の一なり。 天明元年四月九日(二四四一(皇紀。西暦1781年))没す。 年七十四。






四 太田持資 歌道に志す事


 太田左衛門大夫持資は、上杉宣政の長臣なり。 鷹狩に出でて雨に遭ひ、ある小屋に入りて、簔をからんといふに、若き女の、何とも物をばいはずして、山吹の花一枝折りて 出しければ 「花を求むるに非ず」 とて、怒りて帰りしに、是を聞きし人の 「それは 『七重八重花はさけども 山ぶきの みのひとつだになきぞ悲しき』 といふ古歌のこころなるべし」 といふ。 持資おどろきて、それより歌に志をよせけり。
 宣政 上総の庁南に軍を出す時、山涯の海辺を通るに、山上より弩(ゆみ)を射かけられんや、又 潮満ちたらんや、計りがたしとてあやぶみける。 折ふし夜半の事なり。 持資 「いざ、われ見来らん」 とて、馬を馳せ出し、やがて帰りて 「潮は干たり」 といふ。 「いかにしてしりたるや」 と問ふに 「『遠くなり近くなるみの浜千鳥 鳴く音に潮の満干をぞしる』とよめる歌あり。 千鳥の声 遠く聞えつ 」 といひけり。
 又 何れの時にや、軍をかへす時、是も夜の事なりしに、利根川をわたらんとするに、くらさはくらし、浅瀬もしらず。 持資 又 「『そこひなき淵やはさわぐ 山川の 浅き瀬にこそ あだ波はたて』といふ歌あり。 波音あらき所をわたせ 」 といひて、事なく渡しけり。
 持資 後に道灌と称す。






七 山内一豊 馬を買はれし事


 山内土佐守一豊 其のはじめ織田家に仕へたりけり。
 東国第一の駿馬なりとて、安土に牽き来て あきなふ者あり。 織田家の士 是を見るに、誠に無双の駿足なれど、価 あまりに貴しとて、求むべき人なく、いたづらに牽きて帰らんとす。
   一豊 其の比(ころ)は猪右衛門といひしが、此の馬 望に堪へかねたれども、いかにも叶ふべからざれば、家に帰り 「身貧しきほど口惜しき事はなし。 一豊 奉公の初に、あつぱれかゝる馬に乗りて、屋形の前に打出づべき物を 」 とひとり言しければ、妻つくづくと聞きて 「 其の値は いかばかりにてか候 」 と問ふ。 「 黄金十両とこそいひつれ 」 と答ふ。 妻 聞きて 「さほどに思ひ給はんには、其の馬 求め給へ。 其の料をばまゐらすべし 」 とて、鏡の(はこ)の底よりとり出して、一豊が前にさし置きたり。 一豊 大におどろき、「 此の年ごろ身貧しくて、苦しき事のみ多かりしに、此の金ありともしらせたまはず、心強くも包み給ひけん。 今 此の馬得べしとは、思ひもよらざりき 」 と、且は悦び 且は恨む。 妻 「 仰の旨 ことわりにて候へ。 さりながら、これは わらは此の御家に参りし時、父 此のかゞみの下に入れ給ひて 『あなかしこ、この世の常の事に、ゆめゆめ用ふべからず。 汝が夫の一大事とあらん時に参らせよ』と戒め給ひ候ひき。 されば 家の貧しきも世の常なれば、堪へ忍びても過ぎぬべし。 誠に今度 京にて、馬揃あるべしと承れば、此の事 天下の見物なり。 君も亦 仕への始なり。 よい馬召して見参せさせ申さんと存じ候ひてこそ 奉れ 」 といふ。 一豊 悦ぶ事 限なく、やがて其の馬求めてけり。
 程なく 京にて馬揃ありし時、打乗つて出でしかば、信長 大におどろき、あつぱれ馬やとて、事の由 聞き給ひ 「 東国第一の馬 遙にわが方にひきて来りしを、空しく帰さんは口をしき事ぞとよ。 それに、年比(としごろ) 山内は久しく浪人して在りしと聞く。 家も貧しからんに、求め得たるは 信長の家の恥ををすゝぎたるうへ、弓箭(ゆみや)とる身のたしなみ、是に過ぎたる事やある 」 と感じて、是より次第に用ひられしとぞ。






一二 明智秀俊 湖水を渡して坂本城に入る事


 光秀、信長を弑して 安土城を攻めおとし、左馬介秀俊に守らせて、山崎に打向ひ、秀吉と戦ひて 敗北せり。
 秀俊 安土を出でて 光秀を救はんと、京をさして進む処に 「 はや 光秀 討たれたり 」と 聞えしかば、坂本の城に入らんと、粟津を北へ、大津をさして行く所に、秀吉の先陣 堀久太郎秀政に行きあひけり。
 秀俊 小勢なれば うち破られぬ。 本道は 敵にふさがれつ。 湖水に馬をうち入れ およがせければ、秀吉の軍兵ども、汀に並び居て、「 溺れん有さまを見よ 」 と 笑ひあへり。 秀俊は 白練(しろぎぬ)に、雲龍を 狩野永徳にかゝせたる羽織を着、二の谷といふ冑(かぶと)を着、大鹿毛と名づけたる馬に乗り、年久しく坂本に在りて 大津より唐崎までの遠浅はよくしりたり。 たやすく唐崎はまに乗りあげ、ひとつ松の下にて、馬には息あひの薬を飼(やしな)ひ、追ひくる敵を見て居たりしが、又 馬に乗り、坂本に入る時、十王堂の前にて馬よりおり、手綱をもて堂に繋ぎ、矢立の硯 とり出し 「 明智左馬介 湖水をわたせし馬なり 」 と札に書きて、手とりかみに結ひつけ、坂本の城にいり、光秀の妻子は天守に入れ、安土より光秀が奪ひとり来れる 不動国行、二字国俊の刀、薬研藤四郎の小脇差、なら柴の肩衝(かたつき。=肩衝釜。肩の角ばった茶の湯釜)、乙御前の釜などいへる名物の器を、唐織の肩衣に包み、天守より投げおろし、其の後 女童を刺し殺し、火をかけて自害せり。
 二の谷の冑に、羽織と黄金百両添へて、坂本の西教寺に送りけり。 後に 山中山城守長俊が孫、作右衛門友俊 冑をのぞみ 乞ひて得たりしが、程経て 紀伊の士、宇佐美造酒孝定が許に伝はりぬ。 羽織は 行方を知らず。 馬は 無双の駿足にて、秀吉 志津嶽の軍に 此の馬に乗られしなり。







二九 関ヶ原合戦 島左近討死の事


 黒田長政は もとより石田と不和なりしかば、関ヶ原合戦の前 すぐり立てたる士 十五騎 「明日の軍(いくさ)にぬけ懸けすべからず。 吾が馬の廻りに引きそひて軍せよ。 石田と手を取り組みて討ちとらん 」 と 用意せられけり。 石田が陣の前に柵あり。  島左近昌伸 左の手に槍をとり、右の手に麾(さしずばた)をとり、百人計(ばかり)引具し 柵より出で 過半 柵際に残し、静に進み懸りけり。 長政 馬より下り立ち、槍を提げてにらみ合ひたる処に、管六之介政利 少し高き処に上り、五十挺の鉄砲を 透間なく横合にうたせけるに、真先に進んだる敵 手敗ひて、左近も 死生は知らず 倒れしかば、ひるむ所を長政どっとおしかゝり、切りくづしけり。 左近は 肩にかけられて そこを退きぬ。 管 後に六千石の禄 賜はり、和泉と称す。
 長政 筑前の国領せられて後、関ヶ原にて選にあひ、長政の傍に在りて軍しける人々集まって閑話しけるが、「 石田が士 大将鬼神をも欺くといひける島左近が其の日の有様、今も猶 目の前に在るが如し 」 と云ひけるに、其の物具の事をいひ出して、更に定かならず。 人々口々に云ひしかば、其の軍の頃、石田が方に在りける士の筑前に仕へけるを、三人呼び寄せて 問ひければ 「左近 冑の立物 朱の天衝、溜塗桶がは胴の甲に 木綿浅黄の羽織を着たりし 」 と語る。 人々驚きて 「 近々とつめ寄せたるに、見覚えざる事 能くうろたへたるよ。 口をしき事なり 」 と云ひしに、其の中に取りわき剛の者の云ひけるは 「 見違へたるは 我ながらも理(ことわり。当然)かな。 左近が引具したるは 皆勝れたる者にして、七十計は柵際に残し、三十計左右に立てて、麾を取り下知したる有様、つくづくと案ずるに、三十人計の兵ども、槍の合ふべき際にさっと引取り、味方はらはらと追ひかけんを近く引寄せ、七十余人の人ども、えいえい声を揚げて突き懸り、手の下に追ひ崩して、残りなく討ちとらんとの手だてなりき。 今 思い出づれば 誠に身の毛も立って 汗の出づるなり。 かく酒汲みかはして 心安き朋友と物語するとは 大に異ならずや。 人々大かた目のたましひは失ひたるにぞ。 若し其の時 横合より鉄砲にて打すくめずば、われらが首は左近が槍にさし貫かれなん。 見たがへたりとて 必ずしも恥にあらず 」 とぞいひける。







三九 大久保忠隣 忠直の事


 大久保相模守忠隣は 忠貞の人なり。  関ヶ原役の時、台徳院殿(徳川秀忠。家康の三男であるが、長兄は早逝、次兄は他家を継いだため、家康の後継者と目されていた。) 木曽路より攻めのぼらせ給ひしに、石田敗北の後 御着陣ありしかば、東照宮(家康) 御対面ましまさず。 忠隣 近習の士を以て 「 申したき事の候 」 と申す。 「 中々 口にもいひ出されず 」 といふを聞きて 「 さらば 直に申さん 」 とて 座を立ちけるを 「さらば 先申して見ん 」 とて かくと申せば、色を変じて 内に入らせ給ひしが、やゝありて 「 相模は帰りたるか 」 と 仰あり。 「 猶 待ち居て退かんけしきは候はず 」 と 申せば 「 あくまで剛直の者なり。 よも 空しくは帰らじ 」 とて 召されけり。 忠隣 御前に参りて、先 何とも言ひ出さで 涙を流しければ 「 そはいかに 」 と 仰あり。 忠隣 「 此度 上田を攻め候うて 道に遅留の候ひき。 上田を攻め候は 忠隣と正信(本多正信)がしわざに候。 二人の中 一人は召し出され、罪を糺させ給ふべきにて候。 さはなくて 不和に及ばせ給ふ事、ひが事にてこそ候へ。 過ぎし年 大軍にて攻めたりし時も、真田が知勇にトリヒシがれ候ひき。 上田 固くとも遂に攻め落とすべきを、すてゝのぼらせ候ひしに、関ヶ原にて石田今しばし支へなば、など戦功のなかるべきに、石田もろく敗れて 手を空しくなし給ひぬ。 君 万歳の後に 日本を治め給ふべき御嗣に、人の侮り奉るべき事をなし給ふは、怒にひかれて忘れさせ給ふにや。 とく嗣君に自害をすゝめ奉るべし 」 と申されしに 「 汝が言 無礼なり 」 とて 立たせ給ふ所をおしとどめ 「忠隣が申す処 理(ことわり)ならば 聞し召し入れられよ。 正しからずば、首を刎ねられ候へ 」 と 憚る気色なく申ししかば、聞し召し入れられ 「汝がいふ所 尤なり 」 とて、やがて御対面おはしましぬ。
 忠隣は 相州小田原の城を賜はりたりしが、慶長十八年 切支丹を改むる仰を蒙りて 京都に赴きたりしに、謀反の志あるよし 訴へし者あり。 本多正信 忠隣が悪逆の志あるよし申しけりと 世に申ししが、忠隣をば 井伊直孝の領国佐和山にとぢめ置かれけり。 板倉勝重 仰を承けて、忠隣が旅宿に行く。 折節 忠隣 碁を囲み居たるに、かたへの人、殿を流罪の為に板倉来れる由云ひけれども、驚く体もなく、勝重に逢ひて 仰を承り、更に恨の色もなし。 従者 大に怒り 「 讒言により流罪にせられ候事 口惜しき事なり。 切死せん 」 といひしかば、京都のさわぎ大かたならず。 二條の城にて 門々を守りけり。 忠隣 武具を縄にてからげ、勝重にさづけしかば、京都のさわぎしづまりぬ。 夫(それ)より佐和山に行かれしかば、直孝よくいたはり申されしが、ある時 「 申し開くべき旨候べし。 直孝承りて達し申さばや 」 と語られしに、忠隣 「 理を正して申さんには、聞し召し明らめられん事 必定なり。 さらば 讒言を聞し召し、無罪の者を流されし過(あやまち)を人知らば、君の非をあぐる也。 これ 忠隣が志にあらず、われかく朽ち果つとも つゆちりばかりも惜しからず 」 といはれしかば、直孝 感服せられけり。 忠隣 つれづれのあまりに、忠臣記二巻を作られけりとぞ。






四〇 天野康景 廉潔 高国寺の城を去られし事


 天野三郎兵衛康景は、天野遠景が苗裔にて、百貫の地を領し来りしを、東照宮(家康) 滝坂におかせ給ひ、遠江榛原郡を切取に仰せ出されし 大剛の人なり。 後 駿河の高国寺三万石の地を賜はる。 駿府の城 経営の時、竹をからせ 積み置き 足軽に守らせしに、御領地(家康の直轄地)の百姓 竹を盗みしを見咎めて斬り殺す。 残る者ども逃げちりて、代官井戸某に訴へしかば、井戸 「百姓を殺したる下手人を出せ」 と 天野にいふ。 天野 「盗を殺す事 罪に非ず。 守る者 罪あらば、先(まず) 天野 罪に行はるべし」 と云ひければ、井戸 訴へけり。 東照宮 「足軽を誅せよ」 と仰せ出されしに、天野 始の如く申しゝを聞し召し 「天野は不道のしわざする者にあらず。 子細あらん 」 と 仰せられけるに、本多上野介正純 天野に逢ひて 「 仰せをいなむは 臣たる者の道にあらず。 臣として君命を承らざる事やはある 」 と云ひけるに、天野 「 さては 臣たらずば苦しうも候はじ 」 といふまゝに、三万石の禄を辞して、慶長十二年三月廿九日 高国寺を去って 行方しらずなりにけり。 程経て 大久保忠隣 尋ね出し、年ごろ親しかりしかば、小田原の入か といふ所に隠し置かれけり。 罪なき人を殺すに忍びず、三万石の禄をすてゝ隠れし志を、人々称しあへり。






五三 直江山城守 閻魔王に書を贈りて 訴訟人を斬る事


 上杉家に三宝寺何某といふ者、下部(僕) の罪有りて誅せしを、其の(僕の)一族 大に怒りて 「 死したる人を帰し給はれ 」 と 直江山城守に訴へけり。 其の下部の罪 死に及ばざる事にや有りけん、直江 白銀二十枚あたへて 「 跡をとへ 」 となだめけれども 愈 用ひず。 是非に帰し給はれと 直江を催促しけり。 直江 さまざまにいへども、とかく 聞き入れず。 其の時 直江 「しからば 訴の如くせん」 とて、一族三人捕へさせ 「 地獄に行きて迎へ来れ 」 とて、書簡一通封じて、使に往けと 首を刎ねさせたり。 其の書簡に 「 しかじかの子細候て、三人迎ひに参らせ候。 とく帰したまはり候へ。 慶長二年二月七日、閻魔王冥官披露、直江山城守兼続 」 とぞ書きたりける。






六一 稲葉一徹 文学に依つて死を免れし事


 稲葉伊予守一徹、織田信長に従ひけれども、信長 心解けず。 数寄屋(茶の湯を行なう座敷を主にした、小さな建物)にて茶を賜はり、其の席にて刺し殺すべし との巧(たくらみ)なり。 一徹 数寄屋に入る時、相伴の三人 挨拶に 「 掛物の絵の讃を読み給へ 」 といふ。 是は 韓退之(中唐の詩人・韓愈)の詩(七言律詩「左遷されて藍関に至り 姪孫湘に示す」)にて、
    雲横秦嶺家何在(雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある)    雪擁藍関馬不前(雪は藍関を擁して馬すすまず)
といふ句なり。 一徹 少し学問ありて 読みけるに、相伴 その故(意味)を問ふ。 一徹 あらあら子細を咄(はな)しければ、信長 壁越に是を聞き、つと走り出でて 「 一徹には 荒勝負ばかりする勇士と思ひしに、今聞く処 文学にも達せり。 奇特の事、感ずる余りに 実を語るべし。 今日のもてなしは、茶の湯にあらず。 其方を刺し殺さんとせし巧なり。 相伴の三人 皆懐剣を差したり。 今日より永く我に従ひて、謀を致されよ。 ゆめゆめ害心を止めたり 」 と云はれければ、三人の相伴、懐より小脇差を取り出す。 一徹 平伏して 「 死罪を御免下され候事、忝く候。 私も内々 今日殺されるべきにて候らんと察し申し候へば、詮方なく、是非一人相手を取り申すべしと存じ、用意仕り候 」 とて、是も懐剣を取り出して、信長に見せ申しければ、信長 いよいよ其の心がけを誉められけり。




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