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表 紙 |
目 次 自然と人生 美の類聚 回想の記 |
老後の清少納言の生活は、さびしいものであった。 彼女には、今は、すべてを捧げた美貌の皇后はない。 彼女を励ましてくれた父元輔もいない。 夫であり愛人であった實方(さねかた)もいない。 また棟世(むねよ)もいない。 二人の兄、戒秀(かいしゅう)と致信(むねのぶ)もいない。 文字通り孤愁の身である。 彼女は、花やかであった過去を静かに回想し、これまで気付かなかった自然の美しさ、人生のおもしろさ、そして哀しさ、そんなものを心静かに眺めることができた。 一切の恩讐を超えて、自然と人生が彼女の祈りに似た気持の前にあった。 人間愛と宇宙愛の交錯する世界である。 年老いた尼は、今最後の筆を執って、枕草子の第三部を綴ろうとする。 坦々として彼女の前に展開する体験のあわれさ、知性から人間性へ、おかしみからもののあわれの世界へと、この才女の関心は深まってゆく。ここではまだ、「枕草子」の執筆時期についての全般的説明はなされず、この「自然と人生」の部分が清少納言の生涯の最後、すなわち老後に書かれたものであることだけが言明されている。
四季の趣きこれらは、老後の作なのか。
春はあけぼの。 やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。 夏はよる。 月のころはさらなり。 闇もなほほたるのおほく飛びちがひたる。 また、一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。 雨など降るもをかし。 …
三月三日
三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。 桃の花のいま咲きはじむる。 柳などをかしきこそさらなれ。 それもまだまゆにこもりたるはをかし。 ひろごりたるはにくし。 花も散りたるのちは、うたてぞ見ゆる。
おもしろく咲きたる桜を長く折りて、大きなる瓶にさしたるこそをかしけれ。 桜の直衣に出袿(いだしうちぎ)して、まらうどにもあれ、御せうとの公達にても、そこ近くゐてものなどうちいひたる、いとをかし。
家あるじただし、この部分の最後に引用されている 「荒れたる家のよもぎ深く、むぐらはひたる庭に、月のくまなくあかく、澄みのぼりて見ゆる。… 」 という「荒廃の美と月光」と題された段は、内容的にはいかにも清少納言自身の生活ぶりを写しているかにみえるが、客観的で丁寧すぎる説明が不自然に感じられる。 むしろ、若い時に訪れた、知り合いの家の印象を述べたものではなかろうか。
宮仕へする人々のいで集りて、おのが君々の御ことめできこえ、宮のうち、殿ばらのことども、かたみにかたりあはせたるを、その家あるじにて 聞くこそをかしけれ。 家広く、きよげにて、わが親族( はさらなり。 うち語らひなどする人も、宮仕へ人をかたがたに据ゑてこそ、あらせまほしけれ。 さべき折は、ひとところに集りゐて、物語し、人のよみたりし歌、なにくれと語りあはせて、人のふみなど持て来るも、もろともに見、返りごと書き、また むつまじう来る人もあるは、きよげにうちしつらひて、雨など降りてえ帰らぬも、おかしうもてなし、まゐらむをりは、そのこと見入れ、思はむさまにして、いだしいでなどせばや。)
類聚的部分を貫くものは、支那的知性即ち当時の分類学の原則である。 ここでは、和名抄や白氏六帖などに見られる森羅万象が挙げられ、それらについて解説が加えられる。 例えば「天地玄黄」とか「あめ・つち・ほし・そら」とかの分類意識で、対象が孤立的に扱われ、随筆のように人生の場として総合的に扱われないことが、その特色である。 この部分は、「山は」「川は」「日は」「月は」のように「……は」ではじまるものと、「うつきしきもの」「あはれなるもの」のように「……もの」で始まるものとの二種があり、殊に後者は、作者の主観によって選択されるので、随筆に類似する傾向がつよい。 したがって、随筆の諸段と混同し易いのだが、すこし注意して読むならば、その区別は明らかにされる筈である。 総じて類聚の部分には、作者の若々しい才智が認められ、「をかし」の形容詞が使用されることが多い。 随筆の部分には、人生の長い駅路を旅した者の寛容と、祈りにも似た敬虔な肯定が感じられ、「あはれ」の語が比較的多くなっている。 執筆時期も類聚の部分は、明らかに跋文に示されている如く、若き日の遊びであり、随筆の部分は、前にもくり返し述べたように、老後の独語である。続いて、「……は」で始まるものの例が示される。
日は著者は、(これらの諸段は) 「随筆の部分の「四季の趣き」と比較すると、同じく日や月や雲などを語っていても、ここには人間生活との密接な関係は見られない。 」 という。
日は 入り日。 入りはてぬる山のはに、光なほとまりて赤う見ゆるに、薄黄ばみたる雲のたなびきわたりたる、いとあはれなり。
月は
月は ありあけの、ひむがしの山ぎはにほそくて出づるほど、いとあはれなり。
星は
星は すばる。 ひこぼし。 ゆふづつ。 よばひ星すこしをかし。 尾だになからましかば、まいて。
雲は
雲は 白き。 むらさき。 黒きもをかし。 風吹くをりの雨雲。 明けはなるるほどの黒き雲の、やうやう消えて、白うなりゆくもいとをかし。 「朝にさる色」とかや詩にも作りたなる。
月のいとあかきおもてに、うすき雲、あはれなり。
うつくしきものこれらの後には、「人にあなづらるるもの」 「おそろしげなるもの」 「せめておそろしきもの」 「はしたなきもの」 「むつかしげなるもの」 「ありがたきもの」 「あはれなるもの」 などの諸段の引用が続いている。
うつくしきもの 瓜にかきたるちごの顔。 雀の子の鼠鳴きするにをどり来る。 二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひ来る道に、いとちひさき塵のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。 かしらはあまそぎなるちごの、目に髪のおほへるをかきは遣らで、うちかたぶきてものなど見たるも、うつくし。
…
あてなるもの
あてなるもの 薄色に白がさねの汗衫。 かりのこ。 削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺に入れたる。 水晶の数珠。 藤の花。 梅の花に雪の降りかかりたる。 いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる。
跋 文この跋文は、執筆の動機や書名の由来など、「枕草子」成立に関する重要な情報を含んでいて興味深いが、ここでは類聚部分の執筆時期に関する、上掲引用の最後の段落の内容だけを見ることにする。
この草子、目に見え、心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のためにびんなきいひすぐしもしつべきところどころもあれば、ようかくし置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。
宮の御前(定子皇后)に内の大臣(内大臣・藤原伊周、定子皇后の兄)のたてまつりたまへりけるを、「これになにを書かまし。 うへの御前(一條天皇)には、史記といふ書をなむ書かせたまへる」 などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」 と申ししかば、「さば、得てよ」 とて賜はせたりしを、あやしきを、こよやなにやと尽きせずおほかる紙を、書き尽くさむとせしに、いとものおぼえぬことぞおほかるや。
…
左中将(源経房)まだ伊勢の守ときこえし時 里におはしたりしに、端のかたなりし畳をさしいでしものは、この草子載りて出でにけり。 まどひとり入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。 それよりありきそめたるなめり。
… 経房は長徳元年(九九五)十二月から同二年十二月まで伊勢守であった。 また作者は長徳二年六月から七月にかけて約一ヶ月里にこもっていた。 七月十一日朝廷のお使が小二條宮に用度雑品を進めるために参向した記録があるが、経房もその事に奉仕し、帰途清少納言をこの里宅に訪問したと解される。これは、史実をふまえた的確な考証であり、「枕草子」のかなりの部分が長徳2年(996年)に成立し、その直後から流布するにも至ったことは、疑いないようである。 そして、いったん流布したものの 原本が返却されたことにより、記事が書き継がれたことも確かである。 著者の執筆時期三区分説は ここから生れているわけであるが、内容の三区分をそのまま執筆時期に対応させ、著者の生涯の上に位置づけるのは、どんなものであろうか。 全体として、確度の低い推定にとどまらざるをえなくなるように思われるが …。
右(上)の諸事実より、この草子は長徳二年六月下旬頃から七月中旬まで約一ヶ月の間に、清少納言が自宅に退下していて執筆したものであり、しかもそれは一帖の草子に書かれたとみなければならないし、その内容も類聚の部分と解される。 ただ文中に「あいなう人のためにびんなき言いすぐしもしつべきところどころもあれば」とあることにより、日記的諸段を意味するのではないかとの説もあるが、日記的諸段は他人の誹謗を目的とするものではなく、むしろ善意と諧謔による観察とみるべきものが多いので、「びんなきいひすぐし」の自己反省は、単に謙遜とみるのが妥当であろう。 また類聚段、例えば、「にくきもの」の中に、酔漢の醜態を写して、「それはしもまことによき人のしたまひしを見しかば、心づきなしと思ふなり」などと言っているように、あらわな人名を示さずとも、表現めいたものを加えているので、そうした事実を指すものとみてさしつかえない。
… 定子と清少納言は相互に憧憬と親愛のまごころによって結ばれた。 その間の事情は、回想の記の中にある「宮にはじめてまゐりたる頃云々」の章に詳しく述べられている。 後世のすぐれた芸術家の言葉に、「初心忘るべからず」とあるが、初めて奉仕した時の感動は、なんら反省の圧力もなく、終生忘れ得ない初心として、清少納言の肉体に生きた。 皇后のお立場がどのようであろうとも、清少納言の敬慕の至情は変らなかった。 積善寺供養、清涼殿の春、登華殿の団欒等の諸段に描かれた中の関白家の隆昌期、牡丹の叢、山吹の花びら等の諸段に示されたその崩壊期、さらに職の御曹司・三條の宮などの出来事に描かれたさびしい御晩年、そのすべてを通して、清少納言を動かしたものは、その最初の感動であったのだ。 ついに皇后が二十四歳の生涯を閉じられ、後宮が見るかげもなく壊滅するに至つても、清少納言の皇后讃仰の心は消えないばかりか、いよいよその光を加えた。 それはちょうど黄昏の色が深まるにつれて、明星の光が一層美しく輝くように ―― 。 …原文が引用されているのは、「清涼殿の春」 「九品蓮台の間には」 「梅壺の花」 「牡丹の叢」 「山吹の花」 「香炉峰の雪」 「わが心をば」 の各段である。 これらは時系列的に配置されているので、上掲の著者の文における、隆昌から崩壊への過程を具体的に理解することはできる。
ここでの、一重の山吹の花の意味を、拾遺集および和漢朗詠集に掲載された歌「わがやどの…」 に関連づけたのは著者の創見であったが、現在ではこれがほぼ通説となっているようである。山吹の花人目を憚るようにして、お使が持参した皇后のお手紙にはに、文字は書かれず、山吹の花びらがただ一重包まれていた。 清少納言はさびしさも何も忘れて、お返事をさしあげるとすぐ、間もなく御前にあがった。 いったい何がそれほどに清少納言を感動させたのであろうか。 山吹の花が包まれていたことについて、通説ではこれをくちなしの意と解するが、それでは花びらに書かれた「いはで思ふぞ」の歌の句と重複し、常識的で何ら感激に値する新鮮味がない。 清少納言がそれ程感激したとあるからには、他に特殊の意味があるとみなければならないであろう。 私見では、この一重の山吹は、拾遺集一春、読人しらずの歌「わがやどの八重山吹は一重だに散り残らなむ春のかたみに」によっているものと考える。 これは和漢朗詠集上春にもとられていて当時人口に膾炙された歌である。 即ち皇后は、秋にただ一重咲き残った山吹の花に、清少納言の変らぬ誠実と友情を期待されたのである。
例ならず、おほせ言もなくて日ごろになれば、心ぼそくてうちながむるほどに、長女(をさめ)ふみを持て来たり。 「御前より宰相の君してしのびてたまはせつる」 といひて、ここにてさへひきしのぶるも、あまりなり。 人づてのおほせ書きにはあらぬなめりと胸つぶれて、とくあけたれば、紙にはものも書かせたまはず、山吹の花びらただ一重をつつませたまへり。 それに、「いはで思ふぞ」 と書かせたまへる、いみじう日ごろの絶え間歎かれつる、みな慰めてうれしきに、長女もうちまもりて、「御前には、いかがもののをりごとに、おぼし出できこえさせたまふなるものを。 たれもあやしき御長居とこそ侍るめれ。 などかはまゐらせたまはぬ」 といひて、「ここなるところに、あからさまにまかりて、まゐらむ」 といひて往ぬ。
御返りまゐらせて、すこしほど経てまゐりたる、いかがと例よりはつつましくくて、御几帳にはた隠れてさぶらふを、「あれは新参りか」 など笑はせたまひて、「にくき歌なれど、このをりはいひつべかりけりとなむ思ふを。 おほかた見つけでは、しばしもえこそ慰むまじけれ」 などのたまはせて、かはりたる御けしきもなし。
清少納言が男まさりの軽薄な女であったという、全くでたらめにも等しい批評が、長い間行われてきた。その根拠は多く回想の記にみられるいわゆる自讃談にあったようだ。 彼女はなまかじりの外国文学を振りかざして、大の男をからかっている、というのである。 しかし、そうした見解の浅薄さに対しては、われわれはきびしく反省を求めたい。 清少納言の外国文学に対する造詣は実にたいしたものである。 白氏文集を中心とする大陸文学の闊達自由な転用は、枕草子の全巻に溢れている。 約十世紀にわたって多くの学者達が考証研究を重ね重ねても、まだ分からない箇所が少なくない。 われわれは彼女にからかわれているのだろうか。 まずわれわれは彼女の知識の広大さと、想像力の逞しさに頭をさげなければならない。上掲の文の後段に「例えば大進生昌を揶揄したかに見えるあの記事も…」とあるが、本書中ではこの大進生昌の記事は全く取り上げられていない。 著者は、既によく知られた記事として、あるいは読者が進んでこの記事に当たることを期待して、このような書き方をしたのであろう。 そこで、この記事(「大進生昌が家に」の段)の本文を確かめてみると、まさに著者のいうとおりであって、巧まざる諧謔の中に、生昌の善意とそれに対する感謝、皇后への尊敬の念などがこめられている。 これらは、清少納言その人の、円満で誠実な人格から自然に表出されたものであろう。
次に、われわれが深く心を打たれるのは、一筋に生きたその生活の信条である。 皇后と共に生き、皇后と共に生涯を終ったその生き方である。 自讃談はその見地から見直さなければならない。 例えば大進生昌を揶揄したかに見えるあの記事も、実は不遇の皇后のために孤忠を尽くした生昌に親愛と感謝を抱きながら、しかもあのような書きかたをすることによって、皇后の御人格を引き立たせたのである。 その他一見わるく記されているような人々も、実は善意と親愛で守られ、必ず何かの形で相手を称揚するように扱っている。 そこには手のこんだ中傷や陰険な策謀などさらさらない。 その点に注意して、わたくしは枕草子を読んできたし、また将来もよみたいと思っている。
終