らんだむ書籍館


表 紙



目 次


自然と人生

美の類聚 

回想の記 




アテネ文庫  (古典解説シリーズ)
池田亀鑑 「枕草子」


 昭和30 (1955) 年 7月 発行、 弘文堂。 本文 77頁。


 「アテネ文庫」 は、昭和23 (1948) 年に創刊された 文庫版叢書である。
 当時の状況をふまえた 「最も簡素なる小冊の中に最も豊かなる生命を充実せしめん」 (刊行のことば) との方針を、「豊富な内容を 八〇頁以内に圧縮し、しかも 三〇円均一であること」 (帯書き) という形で具体化したことが成功し、たちまち出版点数を増大させ、やがて 日本歴史シリーズ、世界歴史シリーズ、古典解説シリーズなど「シリーズもの」による 一層の展開が図られた。

 本書 「枕草子」は、その 古典解説シリーズ の一つである。

 著者・池田亀鑑(明治29(1896)年~昭和31(1956)年) は、国文学者、東大教授。 平安朝文学を主体に業績を残し、著書に、「宮廷女流日記文学」(1927年)、「古典の批判的処置に関する研究」(1941年)、「校異源氏物語」(1942年)、「古典文学論」(1943年)、「新講源氏物語」(1951年) などがある。

 本書は、右の目次に示される 三部分のみの、きわめてすっきりした構成で、読者を直ちに「枕草子」の各場面に導いてくれる。
 これは、アテネ文庫が、標榜するとおりの「最も簡素なる小冊」であるがゆえに、簡明・直截な記述を必要としたためであろう。 ただし、その記述は、穏健な解説ではなくして、著者の独創的な見解を明確に打ち出している。

 著者によれば、「枕草子」は、清少納言の生涯における、次の三つの時期に執筆された。
 (一) 宮仕え中。
 (二) 皇后定子の崩御後。
 (三) 父・兄・夫の死後、すなわち老後。
 目次における「自然と人生」・「美の類聚」・「回想の記」という三区分は、これら三つの執筆時期に対応させて本文の内容を分類したものなのである。





 最初の部分「自然と人生」は、次のように書き出されている。
 老後の清少納言の生活は、さびしいものであった。 彼女には、今は、すべてを捧げた美貌の皇后はない。 彼女を励ましてくれた父元輔もいない。 夫であり愛人であった實方(さねかた)もいない。 また棟世(むねよ)もいない。 二人の兄、戒秀(かいしゅう)と致信(むねのぶ)もいない。 文字通り孤愁の身である。 彼女は、花やかであった過去を静かに回想し、これまで気付かなかった自然の美しさ、人生のおもしろさ、そして哀しさ、そんなものを心静かに眺めることができた。 一切の恩讐を超えて、自然と人生が彼女の祈りに似た気持の前にあった。 人間愛と宇宙愛の交錯する世界である。 年老いた尼は、今最後の筆を執って、枕草子の第三部を綴ろうとする。 坦々として彼女の前に展開する体験のあわれさ、知性から人間性へ、おかしみからもののあわれの世界へと、この才女の関心は深まってゆく。
 ここではまだ、「枕草子」の執筆時期についての全般的説明はなされず、この「自然と人生」の部分が清少納言の生涯の最後、すなわち老後に書かれたものであることだけが言明されている。
 文中の元輔・實方・棟世などの人物については、この後も説明されることはないのだが、文全体は彼女の孤独な晩年の状況をやや具体的に述べたものとして、理解することができる。
 著者は、このような状況で、思想的には最も深みのある、観照的部分が書かれた、と主張するのである。
 そして、この部分を、後文では「随筆(部分)」とか「随筆的部分」と称している。 「枕草子」全体が随筆であると理解している我々には、はなはだ紛らわしいことであるが、著者は、自然と人生を調和させた記述が随筆の典型であると考えていたようである。

 説明に続けて、この「自然と人生」の部に分類された原文が、具体的に示される。
 最初は「四季の趣き」の段、次に「三月三日」の段。
    四季の趣き
 春はあけぼの。 やうやうしろくなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。 夏はよる。 月のころはさらなり。 闇もなほほたるのおほく飛びちがひたる。 また、一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。 雨など降るもをかし。 …
    三月三日
 三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。 桃の花のいま咲きはじむる。 柳などをかしきこそさらなれ。 それもまだまゆにこもりたるはをかし。 ひろごりたるはにくし。 花も散りたるのちは、うたてぞ見ゆる。
 おもしろく咲きたる桜を長く折りて、大きなる瓶にさしたるこそをかしけれ。 桜の直衣に出袿(いだしうちぎ)して、まらうどにもあれ、御せうとの公達にても、そこ近くゐてものなどうちいひたる、いとをかし。
 これらは、老後の作なのか。
 続けて、個々の季節の情趣を述べた「四月祭のころ」、「五月の山里」、「田椊」、「稲刈」、「真夏の美感」、「初秋」、「野分のまたの日」… などの諸段が引用され、それぞれに加えられた解説では人生経験の深まりとの関係が述べられている。
 これらの段はいずれも、みずみずしい感覚と はつらつとした文体とから、若い時期、つまり宮仕えのころの執筆とみてもよいように思われるのだが。

 これらの後に置かれた「家あるじ」の段は、内容からみて 老後の執筆であるかもしれない。
    家あるじ
 宮仕へする人々のいで集りて、おのがきみ々の御ことめできこえ、宮のうち、殿ばらのことども、かたみにかたりあはせたるを、その家あるじにて 聞くこそをかしけれ。 家広く、きよげにて、わが親族しそくはさらなり。 うち語らひなどする人も、宮仕へ人をかたがたに据ゑてこそ、あらせまほしけれ。 さべき折は、ひとところに集りゐて、物語し、人のよみたりし歌、なにくれと語りあはせて、人のふみなど持て来るも、もろともに見、返りごと書き、また むつまじう来る人もあるは、きよげにうちしつらひて、雨など降りてえ帰らぬも、おかしうもてなし、まゐらむをりは、そのこと見入れ、思はむさまにして、いだしいでなどせばや。
 ただし、この部分の最後に引用されている 「荒れたる家のよもぎ深く、むぐらはひたる庭に、月のくまなくあかく、澄みのぼりて見ゆる。… 」 という「荒廃の美と月光」と題された段は、内容的にはいかにも清少納言自身の生活ぶりを写しているかにみえるが、客観的で丁寧すぎる説明が不自然に感じられる。 むしろ、若い時に訪れた、知り合いの家の印象を述べたものではなかろうか。
 その直前に置かれた 「女のひとり住むところは、いたくあばれて、築土なども全からず、… 」 という「女のひとり住む家」と題された段は、なおさら、そうであるように思われる。





 次の「美の類聚」の部分は、著者の執筆時期区分では(一)の「宮仕え中」の執筆になるものである。
 この部分に対する解説は、「枕草子」の全体構成(上記の三区分構成)についての著者の見解が部分的に表明され、それぞれの部分の特色などが述べられているので、やや複雑かつ長文になっている。
 そのうち、「美の類聚」の内容・特色については、次のように説明されている。
 類聚的部分を貫くものは、支那的知性即ち当時の分類学の原則である。 ここでは、和名抄や白氏六帖などに見られる森羅万象が挙げられ、それらについて解説が加えられる。 例えば「天地玄黄」とか「あめ・つち・ほし・そら」とかの分類意識で、対象が孤立的に扱われ、随筆のように人生の場として総合的に扱われないことが、その特色である。 この部分は、「山は」「川は」「日は」「月は」のように「……は」ではじまるものと、「うつきしきもの」「あはれなるもの」のように「……もの」で始まるものとの二種があり、殊に後者は、作者の主観によって選択されるので、随筆に類似する傾向がつよい。 したがって、随筆の諸段と混同し易いのだが、すこし注意して読むならば、その区別は明らかにされる筈である。 総じて類聚の部分には、作者の若々しい才智が認められ、「をかし」の形容詞が使用されることが多い。 随筆の部分には、人生の長い駅路を旅した者の寛容と、祈りにも似た敬虔な肯定が感じられ、「あはれ」の語が比較的多くなっている。 執筆時期も類聚の部分は、明らかに跋文に示されている如く、若き日の遊びであり、随筆の部分は、前にもくり返し述べたように、老後の独語である。
 続いて、「……は」で始まるものの例が示される。
    日は
 日は 入り日。 入りはてぬる山のはに、光なほとまりて赤う見ゆるに、薄黄ばみたる雲のたなびきわたりたる、いとあはれなり。
    月は
 月は ありあけの、ひむがしの山ぎはにほそくて出づるほど、いとあはれなり。
    星は
 星は すばる。 ひこぼし。 ゆふづつ。 よばひ星すこしをかし。 尾だになからましかば、まいて。
    雲は
 雲は 白き。 むらさき。 黒きもをかし。 風吹くをりの雨雲。 明けはなるるほどの黒き雲の、やうやう消えて、白うなりゆくもいとをかし。 「朝にさる色」とかや詩にも作りたなる。
 月のいとあかきおもてに、うすき雲、あはれなり。
 著者は、(これらの諸段は) 「随筆の部分の「四季の趣き」と比較すると、同じく日や月や雲などを語っていても、ここには人間生活との密接な関係は見られない。 」 という。
 「……は」で始まる段については、「山は」 「川は」 「関は」 など、さらに多くの例が示されるが、著者の説明の趣旨は同様である。 さらに、 「「山は……」 と書いて、しばらく随筆や回想の記事を挿み、また思い出したように、「鳥は……」 などと書けるものではない 」 とも述べている。 決してそんなことはないと思うが、著者は内容的な分類と執筆時期をあくまでも対応させようとして、強弁しているようである。

 次は、「……もの」で始まる段の例。
    うつくしきもの
 うつくしきもの 瓜にかきたるちごの顔。 雀の子の鼠鳴きするにをどり来る。  二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひ来る道に、いとちひさき塵のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。 かしらはあまそぎなるちごの、目に髪のおほへるをかきは遣らで、うちかたぶきてものなど見たるも、うつくし。
    …
    あてなるもの
 あてなるもの 薄色に白がさねの汗衫。 かりのこ。 削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺に入れたる。 水晶の数珠。 藤の花。 梅の花に雪の降りかかりたる。 いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる。
 これらの後には、「人にあなづらるるもの」 「おそろしげなるもの」 「せめておそろしきもの」 「はしたなきもの」 「むつかしげなるもの」 「ありがたきもの」 「あはれなるもの」 などの諸段の引用が続いている。
 とにかく本書は、このように豊富な引用で満たされているので、著者の解説を参考にしながら、「枕草子」本文のエッセンスを味わうことができるのは、好都合である。

 この類聚部分を総括して、著者は、「最も初期に書かれた」 ものであることを改めて強調する。 その理由は、この部分の特色が「単語または短文の集積であること」 であり、そうでない個所、例えば「すさまじきもの」 の段の中の「除目につかさ得ぬ人の家」 の長文の記述の場合は、作者の家庭の実情を反映したものであるから。

 続く説明では、この紹介で最初に取り上げた、著者の「枕草子」執筆時期三区分説が、始めて明確に提示され、その根拠が述べられている。
 そして、この類聚部分の執筆時期(→「宮仕え中」)については、それが長徳2年(996年)に成ったとして、その証拠となる「跋文」の段が引用され、その年次に関する考証が示されている。
    跋 文
 この草子、目に見え、心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のためにびんなきいひすぐしもしつべきところどころもあれば、ようかくし置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏り出でにけれ。
 宮の御前(定子皇后)に内の大臣(内大臣・藤原伊周、定子皇后の兄)のたてまつりたまへりけるを、「これになにを書かまし。 うへの御前(一條天皇)には、史記といふ書をなむ書かせたまへる」 などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」 と申ししかば、「さば、得てよ」 とて賜はせたりしを、あやしきを、こよやなにやと尽きせずおほかる紙を、書き尽くさむとせしに、いとものおぼえぬことぞおほかるや。
    …
 左中将(源経房)まだ伊勢の守ときこえし時 里におはしたりしに、端のかたなりし畳をさしいでしものは、この草子載りて出でにけり。 まどひとり入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ返りたりし。 それよりありきそめたるなめり。
 この跋文は、執筆の動機や書名の由来など、「枕草子」成立に関する重要な情報を含んでいて興味深いが、ここでは類聚部分の執筆時期に関する、上掲引用の最後の段落の内容だけを見ることにする。
 著者のこの部分に対する考証は、次のとおりである。
 … 経房は長徳元年(九九五)十二月から同二年十二月まで伊勢守であった。 また作者は長徳二年六月から七月にかけて約一ヶ月里にこもっていた。 七月十一日朝廷のお使が小二條宮に用度雑品を進めるために参向した記録があるが、経房もその事に奉仕し、帰途清少納言をこの里宅に訪問したと解される。
 右(上)の諸事実より、この草子は長徳二年六月下旬頃から七月中旬まで約一ヶ月の間に、清少納言が自宅に退下していて執筆したものであり、しかもそれは一帖の草子に書かれたとみなければならないし、その内容も類聚の部分と解される。 ただ文中に「あいなう人のためにびんなき言いすぐしもしつべきところどころもあれば」とあることにより、日記的諸段を意味するのではないかとの説もあるが、日記的諸段は他人の誹謗を目的とするものではなく、むしろ善意と諧謔による観察とみるべきものが多いので、「びんなきいひすぐし」の自己反省は、単に謙遜とみるのが妥当であろう。 また類聚段、例えば、「にくきもの」の中に、酔漢の醜態を写して、「それはしもまことによき人のしたまひしを見しかば、心づきなしと思ふなり」などと言っているように、あらわな人名を示さずとも、表現めいたものを加えているので、そうした事実を指すものとみてさしつかえない。
 これは、史実をふまえた的確な考証であり、「枕草子」のかなりの部分が長徳2年(996年)に成立し、その直後から流布するにも至ったことは、疑いないようである。 そして、いったん流布したものの 原本が返却されたことにより、記事が書き継がれたことも確かである。 著者の執筆時期三区分説は ここから生れているわけであるが、内容の三区分をそのまま執筆時期に対応させ、著者の生涯の上に位置づけるのは、どんなものであろうか。 全体として、確度の低い推定にとどまらざるをえなくなるように思われるが …。





 「回想の記」の部分は、著者の執筆時期区分では(二)の「皇后定子の崩御後」の執筆とされているのであるが、この部分に対する解説中にはその根拠を示すような記述はない。
 ここにはただ、「回想の記」に属する諸段についての、次のような一般的印象だけが述べられている。
 … 定子と清少納言は相互に憧憬と親愛のまごころによって結ばれた。 その間の事情は、回想の記の中にある「宮にはじめてまゐりたる頃云々」の章に詳しく述べられている。 後世のすぐれた芸術家の言葉に、「初心忘るべからず」とあるが、初めて奉仕した時の感動は、なんら反省の圧力もなく、終生忘れ得ない初心として、清少納言の肉体に生きた。 皇后のお立場がどのようであろうとも、清少納言の敬慕の至情は変らなかった。 積善寺供養、清涼殿の春、登華殿の団欒等の諸段に描かれた中の関白家の隆昌期、牡丹の叢、山吹の花びら等の諸段に示されたその崩壊期、さらに職の御曹司・三條の宮などの出来事に描かれたさびしい御晩年、そのすべてを通して、清少納言を動かしたものは、その最初の感動であったのだ。 ついに皇后が二十四歳の生涯を閉じられ、後宮が見るかげもなく壊滅するに至つても、清少納言の皇后讃仰の心は消えないばかりか、いよいよその光を加えた。 それはちょうど黄昏の色が深まるにつれて、明星の光が一層美しく輝くように ―― 。 …
 原文が引用されているのは、「清涼殿の春」 「九品蓮台の間には」 「梅壺の花」 「牡丹の叢」 「山吹の花」 「香炉峰の雪」 「わが心をば」 の各段である。 これらは時系列的に配置されているので、上掲の著者の文における、隆昌から崩壊への過程を具体的に理解することはできる。
 この中から、「山吹の花」の段について、原文と著者の解説とを掲げてみよう。 この解説にも、先の文にいう崩壊期の事情をふまえた、的確な考証が示されている。
 清少納言が皇后の許を一時辞去して自宅にいたとき、皇后の使いが手紙を届けてきた。 その手紙の内容はどんなものだったのか。
    山吹の花
 例ならず、おほせ言もなくて日ごろになれば、心ぼそくてうちながむるほどに、長女(をさめ)ふみを持て来たり。 「御前より宰相の君してしのびてたまはせつる」 といひて、ここにてさへひきしのぶるも、あまりなり。 人づてのおほせ書きにはあらぬなめりと胸つぶれて、とくあけたれば、紙にはものも書かせたまはず、山吹の花びらただ一重をつつませたまへり。 それに、「いはで思ふぞ」 と書かせたまへる、いみじう日ごろの絶え間歎かれつる、みな慰めてうれしきに、長女もうちまもりて、「御前には、いかがもののをりごとに、おぼし出できこえさせたまふなるものを。 たれもあやしき御長居とこそ侍るめれ。 などかはまゐらせたまはぬ」 といひて、「ここなるところに、あからさまにまかりて、まゐらむ」 といひて往ぬ。
 御返りまゐらせて、すこしほど経てまゐりたる、いかがと例よりはつつましくくて、御几帳にはた隠れてさぶらふを、「あれは新参りか」 など笑はせたまひて、「にくき歌なれど、このをりはいひつべかりけりとなむ思ふを。 おほかた見つけでは、しばしもえこそ慰むまじけれ」 などのたまはせて、かはりたる御けしきもなし。
 人目を憚るようにして、お使が持参した皇后のお手紙にはに、文字は書かれず、山吹の花びらがただ一重包まれていた。 清少納言はさびしさも何も忘れて、お返事をさしあげるとすぐ、間もなく御前にあがった。 いったい何がそれほどに清少納言を感動させたのであろうか。 山吹の花が包まれていたことについて、通説ではこれをくちなしの意と解するが、それでは花びらに書かれた「いはで思ふぞ」の歌の句と重複し、常識的で何ら感激に値する新鮮味がない。 清少納言がそれ程感激したとあるからには、他に特殊の意味があるとみなければならないであろう。 私見では、この一重の山吹は、拾遺集一春、読人しらずの歌「わがやどの八重山吹は一重だに散り残らなむ春のかたみに」によっているものと考える。 これは和漢朗詠集上春にもとられていて当時人口に膾炙された歌である。 即ち皇后は、秋にただ一重咲き残った山吹の花に、清少納言の変らぬ誠実と友情を期待されたのである。
 ここでの、一重の山吹の花の意味を、拾遺集および和漢朗詠集に掲載された歌「わがやどの…」 に関連づけたのは著者の創見であったが、現在ではこれがほぼ通説となっているようである。


 著者の最後のしめくくりの文章も、掲げておこう。
 清少納言が男まさりの軽薄な女であったという、全くでたらめにも等しい批評が、長い間行われてきた。その根拠は多く回想の記にみられるいわゆる自讃談にあったようだ。 彼女はなまかじりの外国文学を振りかざして、大の男をからかっている、というのである。 しかし、そうした見解の浅薄さに対しては、われわれはきびしく反省を求めたい。 清少納言の外国文学に対する造詣は実にたいしたものである。 白氏文集を中心とする大陸文学の闊達自由な転用は、枕草子の全巻に溢れている。 約十世紀にわたって多くの学者達が考証研究を重ね重ねても、まだ分からない箇所が少なくない。 われわれは彼女にからかわれているのだろうか。 まずわれわれは彼女の知識の広大さと、想像力の逞しさに頭をさげなければならない。

 次に、われわれが深く心を打たれるのは、一筋に生きたその生活の信条である。 皇后と共に生き、皇后と共に生涯を終ったその生き方である。 自讃談はその見地から見直さなければならない。 例えば大進生昌を揶揄したかに見えるあの記事も、実は不遇の皇后のために孤忠を尽くした生昌に親愛と感謝を抱きながら、しかもあのような書きかたをすることによって、皇后の御人格を引き立たせたのである。 その他一見わるく記されているような人々も、実は善意と親愛で守られ、必ず何かの形で相手を称揚するように扱っている。 そこには手のこんだ中傷や陰険な策謀などさらさらない。 その点に注意して、わたくしは枕草子を読んできたし、また将来もよみたいと思っている。
 上掲の文の後段に「例えば大進生昌を揶揄したかに見えるあの記事も…」とあるが、本書中ではこの大進生昌の記事は全く取り上げられていない。 著者は、既によく知られた記事として、あるいは読者が進んでこの記事に当たることを期待して、このような書き方をしたのであろう。 そこで、この記事(「大進生昌が家に」の段)の本文を確かめてみると、まさに著者のいうとおりであって、巧まざる諧謔の中に、生昌の善意とそれに対する感謝、皇后への尊敬の念などがこめられている。 これらは、清少納言その人の、円満で誠実な人格から自然に表出されたものであろう。
 こうして具体例でみると、この文章全体における著者の気負いこんだ清少納言に対する評価も、適切・妥当なものと感じられてくる。



「らんだむ書籍館 ホーム」 に戻る。